追放聖女は元勇者と森で穏やかに暮らしたい
肉は正義。
第一章:追放された聖女と森の隠遁者 ~ある日、聖女様はゴミと化した~
その朝、リリアが口にしたパンは、普段と変わらぬ高級小麦の香りがした。なのに、なぜだろう。まるで泥でも噛んでいるかのように、胃の腑に落ちていかない。聖女の館の白い食堂には、いつものようにまぶしい光が差し込み、銀食器が「私たち、高貴でしょ?」と言いたげに輝いている。しかし、リリアの心には、昨日告げられた「最終宣告」の重みが、ずっしりと乗っかっていた。
「聖女リリア・エクレール、あんた、今日からクビ!」
枢機卿様の声は、まるでどこかのリストラ現場の社長。あまりにも直接的で、リリアは思わず「はい?」と聞き返してしまった。彼女の魔力は、確かに人並外れて強大だった。癒し、成長促進、果ては枯れた花壇に触れたら、次の瞬間にはジャングル化するレベル。病人を治せば、なぜか隣の健康なモブが筋肉ムキムキになって「うおおお!」と叫びだすこともあった。「奇跡」と呼ぶにはあまりにも予想外で、たびたび周囲をパニックに陥れてきたのだ。人々はそれを「聖なる奇跡」と崇めながらも、その裏で「あいつ、ヤバくね?」「うちの花壇も筋肉ムキムキになるの?」とヒソヒソ噂していたらしい。
「異質な力を持つ者は、いずれ世界をカオスにする!」――そんな噂が、まるで「今日の晩御飯はカレーらしい」くらいの気軽さで広まり、ついに彼女は「平和を乱す者」としてお払い箱になった。まさか、聖女がリストラされるとは。パンを喉に無理やり押し込みながら、リリアは昨夜の出来事を反芻する。枢機卿たちの「あーあ、ようやく厄介払いできるわ」といった眼差し、王子の「え、僕の婚約者じゃないですよね?」とでも言いたげな困惑顔。彼女の弁明は、空中分解して誰にも届かなかった。彼らにとって、リリアはもはや聖女ではなく、排除すべき「予測不能な爆弾」でしかなかったのだ。
追放は、まるで呼吸をするように当たり前のこととして告げられた。持ち物は、最低限の着替えと、なぜか魔力が込められすぎてプルプル震えている薬草ポーチ、そして「これでおいしいものでも食え」と渡された、どう見ても偽札な金貨一枚。馬車に揺られ、都市の門をくぐったとき、彼女は振り返らなかった。振り返る意味がなかった。もし振り返ったら、きっと枢機卿たちがシャンパンを開けて祝杯を挙げているのが見えるだろうから。
馬車は舗装された道を外れ、荒れた砂利道へと進んだ。目的などない。ただ、誰もいない場所へ。自分を恐れない場所へ。いや、むしろ、自分を恐れるなら、せめて遠くにいてほしい。日が傾き、あたりが薄暗くなってきた頃、御者は無言で馬車を止め、彼女に降りるよう促した。広がるのは、鬱蒼とした森の入り口。
「これより先は、獣道しかございません。お気をつけて」
冷たい声と共に馬車は引き返し、あっという間に闇に消えた。「お気をつけて」って、こんな森に一人放り出してどの口が言う!リリアは一人、深い森の前に立ち尽くした。
疲労と絶望が、全身を蝕む。だが、その森の奥から、微かに温かい、しかし確かな「何か」がリリアを呼んでいるような気がした。それは、都市の淀んだ魔力とは全く異なる、澄んだ、生命力に満ちた波動。引き寄せられるように、リリアは足を踏み入れた。もしかして、この森に秘宝でも隠されてる?いや、それならきっと勇者様がとっくに回収してるか…。
一歩足を踏み入れると、ひんやりとした空気が肌を包んだ。鬱蒼と生い茂る木々が、昼間でも薄暗い道を作り出している。足元には、朽ちた落ち葉や枝が積もり、歩くたびにカサカサと乾いた音がした。都市の騒音は消え失せ、聞こえるのは風が葉を揺らす音、遠くで鳥が鳴く「おーい、人間がいるぞー」という声、そして自分の足音だけ。リリアの五感が、研ぎ澄まされていくのを感じた。土の匂い、湿った苔の香り、微かに混じる花の甘い香り。そして、なぜか漂う焼肉の匂い。
彼女の魔力は、森の中で脈打つ生命の源と呼応するように、微かに震えた。まるで、森そのものが彼女を「ヤバイ奴が来たぞ」と警戒しているかのようだ。聖女としてではなく、一人の魔力を持つ存在として、森は彼女を受け入れてくれる…どころか、戦々恐々としている。そんな錯覚さえ覚えた。
何時間歩いただろうか、もう分からない。足は棒のようになり、偽札一枚じゃどうにもならない現実を突きつけられる。それでも、あの温かい「何か」の波動は、途切れることなくリリアを導き続けた。そして、日が完全に沈み、月明かりが木々の間から差し込み始めた頃、彼女の目に、微かな光と、そして肉の焼ける匂いと共に、湯気がもくもくと立ち上る光景が飛び込んできた。
それは、焚き火の光だった。そして、その煙の向こうに、小屋が見える。
警戒しながら近づくと、そこには簡素ながら手入れの行き届いた木造の小屋と、その前で黙々と肉を焼く男の姿があった。鍛え上げられた背中、しなやかな筋肉。「筋肉は裏切らない」とでも言いたげな頑丈さ。顔は見えないが、その動きには一切の無駄がない。男は静かに、黙々と作業を続けている。
リリアは息を潜めた。人間に裏切られたばかりの彼女にとって、他者の存在は恐怖でしかなかった。しかし、森の奥で出会ったこの男からは、都市の人間特有の嫌悪感や警戒心が一切感じられなかった。むしろ、森の自然の一部であるかのような、静かで力強い存在感があった。…いや、それよりも、肉の匂いが強烈すぎて、警戒心より食欲が勝ってしまったのかもしれない。
肉を焼き終えた男が、ふと顔を上げた。整った顔立ちには、幾筋もの傷跡が刻まれている。しかし、その瞳は、驚くほど穏やかだった。リリアの姿を認めると、男は肉を皿に乗せ、ゆっくりと彼女の方へ歩み寄ってきた。
「…どうした」
低く、しかし肉汁が滴るような声だった。リリアは、喉がカラカラで声が出なかった。ただ、震える体でポーチを握りしめることしかできない。そして、お腹が盛大に鳴った。
男はそれ以上、何も言わなかった。ただ、じっとリリアのお腹を見つめている。その視線に、恐怖はなかった。ただ、肉を焼く煙で目がショボショボしているだけのような気がした。
しばらくの沈黙の後、男は再び口を開いた。
「…旅の者か。腹が減っているだろう。中へ入れ。肉がある」
有無を言わせぬ、しかし肉の誘惑に満ちた言葉だった。リリアは、その言葉に、拒絶する理由を見つけられなかった。体が限界だったのだ。何より、肉が食べたかった。
小屋の中は、シンプルながら清潔で、整然としていた。中央には石造りの暖炉があり、火が温かく燃えている。壁には様々な動物の毛皮や乾燥させた薬草が吊るされ、棚には手作りの木工品が並んでいた。男はリリアに、湯気の立つカップと、焼きたての肉を差し出した。肉は、見るからにジューシーで香ばしい。
「…ありがとう、ございます」
震える声で礼を言うと、男は無言で頷いた。
ハーブティーの温かさと、肉の旨味が、冷え切った体にじんわりと染み渡る。リリアは少しだけ落ち着き、ようやく男と向き合った。
「あの、あなたは…?」
「アレンだ。森の木こりだ」
簡潔な返答だった。…木こり?肉を焼いてくれる木こり?そして、アレンはリリアに問うた。
「お前は、何者だ」
リリアはためらいながら、自身の身の上を語った。聖女として生まれたこと、強すぎる魔力ゆえに恐れられたこと、そして昨日、リストラされたこと。言葉にするたびに、胸の奥がチクリと痛む。
リリアの話を聞き終えたアレンは、しばらく沈黙した後、ゆっくりと口を開いた。
「…そうか。俺も、かつては『世界の救世主』と呼ばれた。だが、世界を救った後、俺は人間に裏切られ、この森で木こりになった」
その言葉に、リリアは息を呑んだ。目の前の男は、紛れもなく伝説の勇者だったのだ!…が、なぜ木こり!?しかし、彼の瞳には、恨みや怒りの色はなく、ただ深い諦念と、肉汁の光が宿っていた。
「…あなたは、なぜ、木こりに?」
「人間に辟易した。もう、誰かのために戦う気はない。木を割る方がよっぽどシンプルだ」
アレンの言葉は、リリアの心に深く響いた。彼女もまた、人間に辟易し、誰かのために力を尽くすことに疲弊していたのだ。同じ傷、同じ痛みを持つ者同士。言葉は少なくても、二人の間に確かな「もう疲れた」という共感が生まれた。
アレンはリリアに、小屋の隅にある簡素なベッドを指し示した。
「ここにいればいい。ただし、いくつか約束がある」
彼は、共同生活のルールを簡潔に告げた。
「森の恵みは大切にする。無駄な殺生はしない。そして、俺の肉に文句は言わないことだ」
リリアは、静かに頷いた。それらは、彼女が求める生活の全てだった。肉の文句など、とんでもない。
「わかります。私は、もう、誰も恐れず、誰にも恐れられずに、静かに暮らしたいのです。あと、お肉最高です」
アレンは、リリアの言葉に小さく頷いた。
その夜、二人は焚き火を囲んで、ジビエと森のキノコを使った夕食を共にした。素朴な味だったが、都会の豪華な食事よりもずっと温かく、心に染み渡るものがあった。パチパチと燃える薪の音、虫の鳴き声。そして、アレンの「肉は美味い」という無言のプレッシャー。外界の喧騒とは隔絶された、静かで穏やかな時間。
リリアは、生まれて初めて、誰にも気を遣わず、誰にも怯えることなく、心から安堵した。
温かいスープが、冷え切った体を内側から温めてくれる。
「…美味しい」
自然と漏れた言葉に、アレンが少しだけ口元を緩めたように見えた。もしかしたら、肉汁が垂れてきただけかもしれないが。
その夜、リリアは深い眠りについた。悪夢を見ることなく、ただひたすらに、森の静けさとアレンの肉に包まれて。
彼女の新たな生活は、こうして静かに始まったのだ。
第二章:森の恵みと小さな幸せ ~聖女の魔力、畑で爆発!~
朝、目覚めたリリアの目に飛び込んできたのは、木漏れ日が降り注ぐ小屋の窓だった。鳥のさえずりが心地よく、土と木の香りが部屋を満たしている。都市で過ごした日々には決してなかった、清々しい目覚めだった。体を起こすと、既にアレンは外で薪を割る音を響かせている。その規則的な音が、まるで「今日も肉を焼くぞ」というアレンの誓いに聞こえ、リリアの心に不思議な安らぎを与えた。
共同生活が始まって一週間。リリアは少しずつ森の暮らしに慣れていった。最初のうちは、火の起こし方一つにも手間取り、アレンに「燃えすぎだ」と真顔で言われることもあった。それでもアレンの不器用だが丁寧な指導(ほとんど身振り手振り)のもと、今では焚き火の番も任されるようになった。畑仕事では、前聖女としての魔力が思わぬ形で役立った。魔力を込めることで、土は驚くほど肥沃になり、種は「待ってました!」と言わんばかりの速さで芽吹き、数時間で収穫可能になったのだ。
アレンは最初こそ目を丸くして「…早すぎる」と呟いたが、すぐにその力を生活に役立てる方法を見つけた。
「リリアの魔力があれば、冬の保存食も、夏に収穫できそうだな」
彼の言葉に、リリアは初めて自分の力が誰かの役に立っていることを心から実感し、胸が温かくなった。ただし、魔力の調整を間違えて、ジャガイモがラグビーボール大になったり、ナスがバナナの形になったりすることもあるが、それもご愛嬌である。
アレンは、森の生活のプロフェッショナルだった。彼の狩りの腕前は、まさに元勇者と呼ぶにふさわしく、ほとんどの日は獲物を持ち帰った。解体も手際よく、肉は丁寧に保存食へと加工される。木工の腕も確かで、古くなった棚を直したり、新しく椅子を作ったり、小屋の快適さを向上させるための道具を次々と生み出した。リリアは、そんなアレンの働く姿を眺めているのが好きだった。無駄のない動き、集中した眼差し。そして、時折ふと見せる優しい表情。…いや、あの表情は単に獲物を見つけた時の笑顔かもしれないが。
二人の食卓は、毎日が新しい発見の連続だった。アレンが獲ってきたジビエ、リリアが森で摘んだ野草やキノコ、そして小さな畑で育つ、形は奇妙だが味は絶品の野菜。それらを組み合わせ、日替わりで様々な料理が食卓に並んだ。リリアは、聖女時代には口にすることのなかった素朴な食材の味に感動した。
「このキノコ、こんなに香りがいいんですね!」
「ああ、森の奥でしか採れない種類だ。…だが、魔力で巨大化したトマトは、もはやトマトではないな」
「トマトです!ちょっと大きくて、色が派手なだけです!」
そんな言葉を交わすたびに、二人の間には温かい空気が流れた。焚き火のパチパチという音、風が木々を揺らす音、そして時折聞こえる夜の森の遠吠え。外界の喧騒とは隔絶された、静かで満たされた時間だった。そして、なぜかアレンがリリアの魔力で巨大化した野菜を食べるのをいつも少し渋る、という恒例行事が追加された。
リリアの心は、着実に癒されていった。都市のストレスから解放され、彼女の顔には血色が戻り、目の下のクマも消えた。聖女の館での日々、常に誰かの目を気にし、完璧を演じなければならなかった重圧から解き放たれ、本来の彼女を取り戻していく。夜、悪夢を見る頻度も減り、深い眠りにつけるようになった。目覚めるたびに、新鮮な空気を胸いっぱいに吸い込み、生まれ変わったような気持ちになる。
アレンもまた、変化していた。彼の寡黙さは変わらないが、その表情には以前よりも温かみが増した。時折、ふと遠い目をすることがあった。それは、彼がかつて背負った「勇者」としての重責、そして人々に裏切られた過去を思い出している瞬間だった。リリアは、そんな時、何も言わずアレンの隣に寄り添った。言葉はなくとも、その存在がアレンの心を支えていることを、彼は感じていた。「アレン、今日のお肉は最高ですね!」と言葉で伝えることもあった。
ある晩、リリアが暖炉の火を見つめていると、アレンがぽつりと呟いた。
「…森は、嘘をつかない。…変な野菜も作らない」
その言葉に、リリアは深く頷いた。森は、彼女の魔力を恐れることなく、ただただ受け入れてくれた。裏切られたり、利用したりすることもなかった。森の生命たちは、ただ純粋に、リリアの魔力に惹かれ、恩恵を受けていた。変な野菜は作るけど。
二人の小屋の周りには、森の小さな住人たちが集まるようになった。リリアが魔力で育てた花畑には、カラフルな蝶が舞い、蜜蜂が「こんなに蜜があるなんて天国!」と飛び交う。朝、目覚めると窓の外にリスがちょこんと座ってこちらを覗き、小鳥たちが「人間がいるぞー、餌くれー!」と歌声を響かせる。リリアは彼らに名前をつけ、収穫した木の実を分けてやった。リスたちはアレンが作った木製の小箱に貯蓄を始め、冬に備えるという、人間顔負けの計画性を見せていた。
ある日、傷ついた仔鹿が小屋の前に倒れているのを見つけた。リリアは躊躇なく魔力を使い、その命を癒した。アレンは黙ってその様子を見守っていたが、仔鹿が元気を取り戻し、ぴょんぴょんと跳ねて森へ帰っていくのを見届けると、少しだけ口角を上げた。「…美味そうだな」というアレンの独り言に、リリアは慌てて仔鹿を森の奥に逃がした。
森の精霊たちとも、リリアは心を通わせるようになった。聖女としての特別な感受性を持つ彼女は、木々の囁きや、川のせせらぎの中に、精霊たちの声を聞くことができた。彼らはリリアに、森の深い知識や、遠い場所で起こる微かな異変の兆候を伝えてくれることもあった。
「聖女様、西の方でなんかゴタゴタしてますよ」
「ああ、そうですか。私は今、新しいハーブの品種改良中で忙しいので」
リリアは、その力を外界の状況を探るためではなく、ただ森の生命の脈動を感じ、共鳴するために使った。だって、外界はもう疲れたし。
季節はゆっくりと移ろいでいく。春には新緑が芽吹き、小屋の周りの花々が咲き乱れた。リリアは花冠を作り、アレンの頭にそっと乗せた。アレンは困ったような顔をしながらも、それを外さなかった。…どうやら気に入ったらしい。夏には、森の奥の泉が彼らの秘密の場所となった。澄んだ水は冷たく、火照った体を癒してくれた。アレンはそこで、時折森の動物たちを洗うという、意外な一面を見せた。秋には、森は豊かな色彩を纏い、キノコや木の実が abundant に実った。二人は保存食をたくさん作り、来る冬に備えた。特に、リリアの魔力で巨大化したカボチャは、小屋のドアを通らないほどの大きさになり、アレンが斧で半分に割る羽目になった。そして冬、森は一面の銀世界となる。小屋の中は暖炉の火で温かく、二人は静かに寄り添い、本を読んだり、手作業に没頭したりした。アレンは木製のチェス盤を作り、リリアと毎晩チェスをするようになった。アレンはほとんど勝てない。
それぞれの季節が、彼らの暮らしに新たな喜びと発見をもたらした。外界の時間の流れがどうであろうと、彼らの世界は、この森の中で、穏やかに、そして確実に満たされていった。
もう、誰も彼らを傷つけることはできない。…もちろん、変な野菜も作れない。
この森こそが、二人にとっての、かけがえのない楽園なのだと、リリアは確信していた。
第三章:届かない世界の声と静かな決意 ~知らぬが仏、知ってもスルー~
森の奥深くで穏やかな日々が流れる中、外界の不穏な空気が、まるで迷惑な隣人のカラオケ大会のように、少しずつ森の静寂を揺るがし始めていた。始まりは、月に一度、食料や必需品を仕入れるために森の麓の小さな村へ向かうアレンが持ち帰る、断片的な噂話だった。
「最近、魔物の出没が異常に多いんだとよ。街道沿いでも、これまで見たことのないような、やたらと筋肉質なスライムが現れてるらしい」
ある時、アレンは無表情にそう告げた。リリアは、手元で編んでいた薬草の籠を止めた。筋肉質なスライム?また私の魔力がどこかで暴走したのかしら?魔物の活動活発化。それは、かつて勇者アレンが討伐した魔王の力が、再び増していることを示唆していた。…いや、まさか魔王が筋トレに目覚めたわけでもあるまいし。
またある日には、「隣国で奇病が流行っているらしい。聖職者たちがいくら祈っても、病は広がる一方で、みんな『お祈りじゃなくて薬持ってこい!』って暴れてるって」という話も耳にした。聖女として、かつて多くの病人を癒してきたリリアの胸に、一瞬、疼くような痛みが走った。でもまあ、今や聖女の座はクビだし、薬は森にしかないし、私が行ったら「あんたまた変な薬で筋肉ムキムキにする気でしょ!」とか言われそうだし。
「王国の中央では、権力争いが激化してるって話だ。騎士団も聖堂も、派閥争いで動きが鈍くて、『今日はどっちの派閥のケーキを食うか』で揉めてるらしい」
アレンの言葉に、リリアは遠い目をした。かつて自分がいた場所が、今も醜い争いに塗れていることに、深い疲労感を覚える。…ケーキの派閥争いか。相変わらず平和だね、あの人たちは。
外界の不穏な情報は、旅人から伝えられる噂話だけではなかった。リリアの魔力は、森の生命の息吹だけでなく、遠く離れた場所で起こる魔力の異変にも敏感に反応した。夜更け、森の静寂が破られるように、遠くから微かな悲鳴や、助けを求める「ヘルプミー!」という魔力の波動がリリアの意識に届くことがあった。それは、かつて人々を救うために使った力が、今、救いを求めている…いや、単に困って私を呼んでいるだけのように響いていた。心がざわつき、眠れない夜が続いた。「うーん、どこかで私の魔力成分入り筋肉増強剤が流行ってるのかな?」などと、寝返りを打つリリア。
ある日の夕食時、リリアは意を決してアレンに問いかけた。
「アレン、外界の状況は…本当に、私たち、気にしなくていいのでしょうか?なんか、大変そうですよ?」
アレンは、無言で肉の骨をしゃぶっている。彼の顔には、微かな葛藤が浮かんでいるように見えた。彼は勇者だった。世界を救うために生まれ、その命を賭した男だ。目の前で苦しむ人々がいれば、動かずにいられないのが彼の性分だったはずだ。…いや、今は肉が目の前にあるから動かないだけかもしれない。
「…もう、俺には関係ない」
アレンの言葉は冷ややかだったが、その声の奥には、深い肉への執着が滲んでいた。
「かつて、俺は命を削って魔王を倒した。世界は平和になったと、誰もが喜んだ。だが、結局人間は、平和になれば互いに争い、異質な存在を排除しようとする。…肉の美味さを理解しない」
アレンは、リリアの目をまっすぐに見据えた。
「俺を裏切った。お前を追放した。そんな奴らのために、俺たちが再び戦う必要はない。俺は、ここで美味い肉を食っていれば満足だ」
その言葉は、リリアの心に深く響いた。彼が正しい。自分も同じ経験をしてきたのだ。尽くした献身は踏みにじられ、与えた奇跡は「予測不能な災害」と呼ばれた。
しかし、それでも、遠くで聞こえる人々の苦しみに、聖女としての本能…ではなく、単に「あの騒ぎに巻き込まれたくない」という本能が抗う。
その夜、リリアは悪夢にうなされた。かつて救ったはずの病人が、筋肉ムキムキになって「聖女様!プロテインが足りません!」と彼女を追いかける。彼女の魔力によって咲き乱れた花が、瞬く間に雑草化し、最後には巨大なブロッコリーに変わってしまう。そして、最後に、枢機卿たちの「これで経費が浮くわ!」という歓喜の声と、王子の「これで婚約者ガチャを回せる!」という喜びの言葉が、こだまするように響き渡った。
跳ね起きたリリアの隣には、静かに座って彼女を見守るアレンの姿があった。
「…大丈夫か。何か、変な肉でも食ったか?」
アレンの低い声が、悪夢の残滓を払いのけてくれる。リリアは震える声で、聖女としての過去の苦悩を吐露した。
「私は、ただ、皆を救いたかっただけなのに…力が強すぎると、恐れられた。利用された挙句、最後は、捨てられたんです!しかも偽札まで掴まされて!」
アレンは、リリアの背をゆっくりと、しかし力強く摩った。彼の体温が、彼女の震えを鎮めていく。
「俺も同じだ。世界は、俺の力を求めながら、俺自身を恐れた。そして、用済みになれば、簡単に切り捨てた。…それどころか、戦った褒美が薄切り肉だったからな。許さん」
彼の声には、過去への深い怒りと、それを乗り越えた諦念、そして薄切り肉への恨みが混じっていた。
「もう、誰かの期待に応えるのはやめよう、リリア。俺たちは、俺たちのために生きる。そして、この森で、最高の肉を食う。それが、俺たちが手に入れた、唯一の自由だ」
アレンの言葉は、リリアの心に深く染み渡った。そうだ、これこそが彼女が求めていたものだった。誰かに恐れられず、誰かのために無理をせず、ただ自分たちの意思で生きること。そして、美味しい肉。
翌朝、二人は再び、森の中の泉のほとりにいた。澄んだ水面が、外界の混乱とは無縁の平和を映し出している。
「アレン。私、決めました」リリアは、静かに言った。「もう、誰にも救いを求められても、応えません。私たちが本当に守るべきものは、この森と、あなたとの穏やかな日々、そして美味しい肉です」
アレンは、リリアの言葉に、深く頷いた。彼の瞳には、迷いは一切なかった。
「ああ。俺たちの楽園はここだ。もう、二度と外界に流されることはない。肉の供給も止まらない」
それは、悲観的な選択ではなかった。むしろ、彼らにとっては、過去の痛みから完全に解放され、自分たちの真の幸福を見出すための、強い決意だった。…特に肉に関して。
二人は、外界との隔絶をさらに強めるための行動をとった。森の入り口には、旅人が容易には近づけないよう、魔力と知恵を凝らした目立たない結界を張った。結界には「関係者以外立ち入り禁止。許可なく入ると魔力で巨大化したカボチャが降ってきます」という注意書きも添えた。外界の情報の収集も、必要最低限に留めた。ラジオや通信魔道具など、外界と繋がるものは一切置かない。時には、遠くで空が赤く染まったり、奇妙な光が瞬いたりするのを目にすることもあったが、二人はそれらを遠い世界のどうでもいい出来事として受け止めた。
彼らにとっての「世界」は、もはやこの森の中だけだった。森の木々、流れる小川、そこに暮らす動物たち、そして何よりも、隣にいるアレンの存在。それが、リリアのすべてだった。アレンにとっても、リリアがいてくれるこの小屋こそが、彼が再び居場所を見つけた場所だった。…そして、安定した肉の供給源。
それでも、時折、風に乗って運ばれてくる微かな人々の悲鳴や、苦痛の魔力の残滓が、リリアの心を完全に無感覚にさせることはなかった。しかし、そのたびに、彼女はアレンの静かな瞳を見て、この場所で得た温かさと引き換えに、外界の苦しみから目を背けることを選んだ。それは、彼らが背負った傷の深さ故の、避けられない…いや、怠惰な選択だった。
「私たちが、ここで幸せに生きることが、一番大切なことなのよ。…あと、明日は巨大ナスでグラタン作ろうか」
リリアは、そっとアレンの手に触れた。アレンは、その手を優しく握り返した。そして、ナスグラタンにわずかに顔をしかめた。
外界がどうなろうと、彼らの静かな決意は揺るがなかった。
第四章:森に築く楽園と未来 ~我ら、森のニート夫婦~
外界の混乱は、遠くで続く嵐のようだった。時に激しく、時に穏やかに、その気配は森の外から届く。しかし、リリアとアレンにとって、それはもう、自分たちの世界とは無縁の、まるで「テレビのニュース」のような出来事だった。彼らの世界は、この森の奥深くにあり、彼らの手によって築き上げられた楽園だけがすべてだった。…そして、日々の食事のメニューが最重要課題である。
小屋の周囲は、まさに生命の宝庫となっていた。リリアの魔力によって、季節を問わず豊かな実りをもたらす薬草園は、訪れる小鳥や蝶の憩いの場となっていた。なぜか、薬草はいつもより大きく育ち、まるで「どうぞ摘んでください!」とアピールしているかのようだ。色とりどりの花が咲き乱れ、甘い香りが常に辺りを満たしていた。家庭菜園では、アレンが丹精込めて耕した土から、驚くほど大きく、甘い野菜が収穫された。トマトは太陽の光をたっぷり浴びて赤々と輝き、ハーブは生命力に満ちていた。…ただし、形が芸術的すぎたり、色が奇妙だったりするのはご愛嬌だ。
アレンは、泉の水を引いて小さな水車を作り、それを動力にして穀物を挽く機械まで作り上げた。彼の作る木工品は、日を追うごとに洗練され、スプーンや皿といった日常品から、リリアの魔力研究に役立つような、使い道がよくわからない精巧な道具まで、あらゆるものが手作りで生み出された。リリアが魔力を込め、アレンが形にする。二人の個性が融合し、小屋と森は、まるで高級リゾートホテルのような快適さと、奇妙な芸術性が混在する場所へと変化していった。
日々のルーティンは、彼らにとってこの上ない喜びだった。朝は、アレンが焚き火で淹れるハーブティーの香りで目覚め、リリアが焼いた、なぜか焦げ目が全くつかない謎のパンと、アレンが用意した新鮮な森の恵みを食卓で分かち合う。昼間は、それぞれが畑を耕したり、薬草の手入れをしたり、森を散策したりする。散策と言っても、アレンは狩り、リリアは魔力で変な野菜を育成しているだけだが。夕暮れ時には、共に夕食の準備をし、暖炉の火を囲んで静かな時間を過ごす。会話は多くないが、互いの存在を感じながら過ごす時間は、何よりも雄弁だった。…特に、アレンの肉への情熱は、言葉なくして伝わる。
リリアは、もはや聖女としての重圧を全く感じなくなっていた。彼女の魔力は、世界を救うためではなく、ただ森の生命を慈しみ、アレンと共にこの穏やかな生活を豊かにするために使われる。その自由さ、満たされ方が、彼女の心を真に安らかにしていた。「あー、こんな楽な仕事ないわー」と心の中でつぶやきながら。アレンもまた、勇者としての過去の影から完全に解放されていた。彼はもう、誰かの期待に応える必要はない。ただ、リリアと共に、この森で静かに生きることだけが、彼の望みだった。…そして、飽きるまで肉を食べること。
稀に、森に迷い込んだ者が彼らの小屋に辿り着くことがあった。嵐で遭難した旅人、道に迷った薬草採り、あるいは筋肉ムキムキになりすぎて森で迷子になったスライム。二人は、彼らを小屋に入れ、温かい食事と最低限の治療を施した。リリアの癒しの魔力は、一見して奇跡のように見えるが、彼女はそれを「森の恵みと、ちょっとした魔法の力を使った、普通の治療だ」と説明した。筋肉スライムには、プロテイン入りの薬草を与えたら、さらにムキムキになった。「いや、これ以上はヤバいって!」とアレンが慌てていた。アレンは、迷い込んだ者に森の危険性(特にリリアが作った変な野菜)を伝え、安全な道を示して送り出した。彼らは決して、自分たちの素性を明かすことはなかったし、外界の事柄に深く関わることもなかった。
森を去った旅人たちは、外界に戻って「森の奥に、奇跡の薬草を使う謎の薬師と、無口な猟師がいた。あと、筋肉スライムがいた」と語った。しかし、その話は、森の伝説の一つとして、誰にも信じられることなく、やがて忘れ去られていった。二人は、外界で自分たちの話がどう扱われているかなど、知る由もなかったし、知る必要もなかった。彼らの関心は、明日、畑に何を植えようか、アレンが新しい肉を捕まえるのに手伝ってほしい、といった、ごく日常的で、そして少し食い意地が張った事柄だけだった。
外界の危機は、かすかに続くノイズのように、遠くで響いていた。時折、夜空に異様な光が見えたり、風が不吉な囁き(「助けてー!」)を運んできたりすることもあった。しかし、二人の心は微動だにしなかった。彼らは、「あれはきっと、隣の魔王城で花火大会でもやってるんじゃない?」とか、「今日の風はちょっと強いね」とか言いながら、自分たちの世界に没頭していた。一度きりの人生を、誰のためでもなく、ただ自分たちのために生きることを選んだのだ。それは、諦めからくる選択ではなく、これまでの人生で得た知恵と経験、そして何よりも互いへの深い愛と、肉への情熱から生まれた、揺るぎない決意だった。
満月の夜には、二人は小屋の前の切り株に座り、夜空を見上げた。無数の星が瞬き、銀色の月光が森を神秘的に照らし出す。リリアがそっとアレンの肩に頭を預けると、アレンは彼女の髪を優しく撫でた。
「…明日も、きっといい日になるわ。…ナスグラタン、食べられるかな」リリアが囁く。
「ああ。この森に、悪い日は来ない。…ナスグラタンは…明日考えよう」アレンが応える。
二人の間には、言葉以上の深い絆があった。それは、過去の痛み、外界への不信、そして互いを唯一無二の存在として受け入れたからこそ生まれた、絶対的な信頼と愛情だった。…そして、食事の度に繰り広げられる、メニューの攻防。
彼らは、この森で、共に老いていくのだろう。森の木々が世代交代していくように、彼らの穏やかな日々も、静かに、そして確かに続いていく。もう、誰にも邪魔されることはない。誰かに利用されることも、恐れられることもない。…ただし、リリアの魔力で変なものができて、アレンがそれを処理するという日常は、きっとこれからも続く。
夕暮れの森の中、二つの影が寄り添い、一本の木のように大地に根を下ろす。彼らの存在が、森の静けさと共に、この世界のどこかに、確かに存在する「平和」の象徴となっていた。…そして、最高の肉と、ちょっと変わった野菜の供給地として、森の動物たちに密かに崇められることになる。
外界がどうなろうと、彼らの世界は、永遠にこの場所で、穏やかに、満ち足りていく。






