また、明日。
目が覚めた。
いつもと同じ時間。
いつもと同じ光の入り方。
いつもと同じ、布団の重み。
だけど。
“湯気がない”ことに気づいた瞬間、僕は、自分がもう“今日”ではないと理解した。
店内は静かだった。
いや、正確には“昨日の静けさ”が残っていた。
棚のカップも、落としっぱなしのクロスも、全部が“閉店後のまま”、止まっていた。
カウンターに行くと、そこには一杯の、飲みかけのカップが置かれていた。
“昨日の珈琲”だった。
香りはまだ残っていた。でも、それが自分の香りではないことにも、すぐに気づいた。
僕は、椅子に腰を下ろした。カップを持たず、ただその場にいた。
そして、上を見る。
空には、もう曜日の表示はなかった。代わりに、たった一行だけ、淡いフォントで浮かんでいた。
《現在:日付不明/曜日再起動中》
読み上げられることもなく、点滅もせず、ただそのまま、空に漂っていた。
僕は、そこで初めて小さく笑った。
それは、ほんの少しだけ自嘲のようでもあった。
「……ようこそ、“昨日”さん」
声は、空気に溶けて消えていった。でも、その場には確かに、“昨日という人格”が、ゆっくりと染み込んでいった。
もう、僕は“今日”ではない。
でも、“まだここにいる”。
その感覚だけが、「珈琲とさよなら」の店内を、淡く、温かく、満たしていた。
カラン、という音は――なかった。
それでも、ドアが開いたことはわかった。
光が一瞬だけ差し込んで、それが、今の“外”が朝であることを告げた。
入ってきたのは、誰か。見たことのない顔だった。
けれど、動きだけでわかった。
“今日”が来た。
その人物は、何も言わなかった。でも、呼吸の速度、歩き方、目線の高さ。すべてが、“今日”という人格そのものだった。
昨日となった僕は、席を立った。椅子の脚は音を立てなかった。
それは“さよなら”という意味ではない。“おつかれさまでした”という重さのない交代だった。
“今日”のマスターは、無言でカウンターに立った。
何も尋ねず、何も引き継がず、ただ空間の重さを測るように、棚のクロスを一度、整えた。
その所作に、何かが混じっていた。
“今ここにあるもの”をきちんと迎える気配。
“昨日”の僕は、カウンターの奥へと静かに下がった。
何かを残すでも、名乗るでもなく。ただ、そこにいたことだけを、そのまま“湯気のない空気”に馴染ませていった。
外の風が、店の前を通り過ぎる。
どこかで鳥が鳴いたような気がした。でもその音は、保存されなかった。ただ、“今は始まった”ということだけが、静かに香っていた。
僕は、厨房に入った。誰も見ていない。でも、“誰かのために淹れる”という重さが手元にある。
珈琲豆をすくう。
選ぶのではなく、“昨日を思い出す音”としての分量で測る。
お湯を注ぐ。音はしない。
でも、“注ぐ”という行為そのものが空気に香っていた。
その一杯には、何も書かれていない。
ラベルも、名も、日付も、味の説明すらない。
でも、カウンターに置いた瞬間、湯気が“過去の空気”として立ち上った。
“今日”は、無言のままそれを受け取った。持ち方も、手の角度も、温度の受け止め方も、すべてが“今から始まる人間”だった。
一口、飲む。目を閉じる。頷く。
それだけだった。
でもそれだけで、十分だった。
空が、静かに明るくなる。
それは日の出ではなく、“記録開始の明るさ”だった。
頭上に、ゆっくりと文字が浮かぶ。
《引き継ぎ:完了》
それは誰にも向けられたものではなかった。
でも、すべての“今日たち”に確かに届いていた。
僕は、もうカップに触れていない。
けれど、その一杯は、まるで“昨日そのものの味”として、カウンターに香りだけを残していた。
風が、ゆるやかに通りを撫でていった。
午前の街は、まだ色が薄く、人通りも少ない。
車の音も遠くでくぐもっていて、空気全体が“始まる前の支度中”みたいだった。
その中に、一軒の店がある。
《看板》は出ている。でも、何も書かれていない。
木の板。四角いだけの枠。飾り気のない鉄の棒に吊られて、静かに風に揺れている。
そこを、ひとりの人物が通りかかる。
名前もない。年齢も、目的も、ここでは語られない。
ただ、その人は、店の前でふと、足を止めた。
看板を見上げる。
そこには、本当に何も書かれていない。でも、なぜか目が離せなかった。
何かを“知っている気がする”。
何かを“忘れていた気がする”。
そんな感覚が、胸の奥で曖昧に立ち上がる。
風がもう一度吹く。
看板が、ほんのわずかにきしんだ。それは、言葉ではなかった。
でも──
「また来てくれて、ありがとう」
そんな気配を纏った、無音の揺れだった。
その人は、それ以上何も考えず、ほんのすこし、目を細めて微笑み、歩き出した。
その背中には、何も起きていない。
けれど、“今日に入った人間”の空気が、たしかにそこに生まれていた。
カウンターの上には、誰もいないカップが三つ並んでいた。
それぞれ、ほんのわずかに形が違う。でも、どれもきれいに磨かれていた。
新しいマスターは、手を止めない。水の温度を確かめる。豆をひと粒ずつ、静かに指先で転がす。
ラベルはない。でも、指の感覚と香りでわかる。
それが、“今日のための豆”であることを。
ひとつのカップを選ぶ。お湯をゆっくり注ぐ。
音はしない。でも、空気がわずかに重たくなる。
まるで、ここに“誰かがやってくる”と、店全体が先に察しているようだった。
そして、カウンターにそのカップを置いた。
椅子はまだ空席だった。でも、そこには確かに、“誰かが今日になる準備”があった。
マスターは、カップの湯気を見つめた。
そこに、何も言わず、ただ静かにひとことだけ、落とした。
「おかえりなさい、“今日”さん」
湯気が、ゆっくりと宙に上がっていく。
外では、風が止んだ。
空は、何の色も浮かべていなかった。
けれど、その中央に、たった一行だけが浮かんだ。
《記録開始:また、明日。》