表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
9/10

また、明日。

目が覚めた。

いつもと同じ時間。

いつもと同じ光の入り方。

いつもと同じ、布団の重み。

だけど。

“湯気がない”ことに気づいた瞬間、僕は、自分がもう“今日”ではないと理解した。

店内は静かだった。

いや、正確には“昨日の静けさ”が残っていた。

棚のカップも、落としっぱなしのクロスも、全部が“閉店後のまま”、止まっていた。

カウンターに行くと、そこには一杯の、飲みかけのカップが置かれていた。

“昨日の珈琲”だった。

香りはまだ残っていた。でも、それが自分の香りではないことにも、すぐに気づいた。

僕は、椅子に腰を下ろした。カップを持たず、ただその場にいた。

そして、上を見る。

空には、もう曜日の表示はなかった。代わりに、たった一行だけ、淡いフォントで浮かんでいた。

《現在:日付不明/曜日再起動中》

読み上げられることもなく、点滅もせず、ただそのまま、空に漂っていた。

僕は、そこで初めて小さく笑った。

それは、ほんの少しだけ自嘲のようでもあった。

「……ようこそ、“昨日”さん」

声は、空気に溶けて消えていった。でも、その場には確かに、“昨日という人格”が、ゆっくりと染み込んでいった。

もう、僕は“今日”ではない。

でも、“まだここにいる”。

その感覚だけが、「珈琲とさよなら」の店内を、淡く、温かく、満たしていた。



カラン、という音は――なかった。

それでも、ドアが開いたことはわかった。

光が一瞬だけ差し込んで、それが、今の“外”が朝であることを告げた。

入ってきたのは、誰か。見たことのない顔だった。

けれど、動きだけでわかった。

“今日”が来た。

その人物は、何も言わなかった。でも、呼吸の速度、歩き方、目線の高さ。すべてが、“今日”という人格そのものだった。

昨日となった僕は、席を立った。椅子の脚は音を立てなかった。

それは“さよなら”という意味ではない。“おつかれさまでした”という重さのない交代だった。

“今日”のマスターは、無言でカウンターに立った。

何も尋ねず、何も引き継がず、ただ空間の重さを測るように、棚のクロスを一度、整えた。

その所作に、何かが混じっていた。

“今ここにあるもの”をきちんと迎える気配。

“昨日”の僕は、カウンターの奥へと静かに下がった。

何かを残すでも、名乗るでもなく。ただ、そこにいたことだけを、そのまま“湯気のない空気”に馴染ませていった。

外の風が、店の前を通り過ぎる。

どこかで鳥が鳴いたような気がした。でもその音は、保存されなかった。ただ、“今は始まった”ということだけが、静かに香っていた。


僕は、厨房に入った。誰も見ていない。でも、“誰かのために淹れる”という重さが手元にある。

珈琲豆をすくう。

選ぶのではなく、“昨日を思い出す音”としての分量で測る。

お湯を注ぐ。音はしない。

でも、“注ぐ”という行為そのものが空気に香っていた。

その一杯には、何も書かれていない。

ラベルも、名も、日付も、味の説明すらない。

でも、カウンターに置いた瞬間、湯気が“過去の空気”として立ち上った。

“今日”は、無言のままそれを受け取った。持ち方も、手の角度も、温度の受け止め方も、すべてが“今から始まる人間”だった。

一口、飲む。目を閉じる。頷く。

それだけだった。

でもそれだけで、十分だった。

空が、静かに明るくなる。

それは日の出ではなく、“記録開始の明るさ”だった。

頭上に、ゆっくりと文字が浮かぶ。

《引き継ぎ:完了》

それは誰にも向けられたものではなかった。

でも、すべての“今日たち”に確かに届いていた。

僕は、もうカップに触れていない。

けれど、その一杯は、まるで“昨日そのものの味”として、カウンターに香りだけを残していた。



風が、ゆるやかに通りを撫でていった。

午前の街は、まだ色が薄く、人通りも少ない。

車の音も遠くでくぐもっていて、空気全体が“始まる前の支度中”みたいだった。

その中に、一軒の店がある。

《看板》は出ている。でも、何も書かれていない。

木の板。四角いだけの枠。飾り気のない鉄の棒に吊られて、静かに風に揺れている。

そこを、ひとりの人物が通りかかる。

名前もない。年齢も、目的も、ここでは語られない。

ただ、その人は、店の前でふと、足を止めた。

看板を見上げる。

そこには、本当に何も書かれていない。でも、なぜか目が離せなかった。

何かを“知っている気がする”。

何かを“忘れていた気がする”。

そんな感覚が、胸の奥で曖昧に立ち上がる。

風がもう一度吹く。

看板が、ほんのわずかにきしんだ。それは、言葉ではなかった。

でも──

「また来てくれて、ありがとう」

そんな気配を纏った、無音の揺れだった。

その人は、それ以上何も考えず、ほんのすこし、目を細めて微笑み、歩き出した。

その背中には、何も起きていない。

けれど、“今日に入った人間”の空気が、たしかにそこに生まれていた。



カウンターの上には、誰もいないカップが三つ並んでいた。

それぞれ、ほんのわずかに形が違う。でも、どれもきれいに磨かれていた。

新しいマスターは、手を止めない。水の温度を確かめる。豆をひと粒ずつ、静かに指先で転がす。

ラベルはない。でも、指の感覚と香りでわかる。

それが、“今日のための豆”であることを。

ひとつのカップを選ぶ。お湯をゆっくり注ぐ。

音はしない。でも、空気がわずかに重たくなる。

まるで、ここに“誰かがやってくる”と、店全体が先に察しているようだった。

そして、カウンターにそのカップを置いた。

椅子はまだ空席だった。でも、そこには確かに、“誰かが今日になる準備”があった。

マスターは、カップの湯気を見つめた。

そこに、何も言わず、ただ静かにひとことだけ、落とした。

「おかえりなさい、“今日”さん」

湯気が、ゆっくりと宙に上がっていく。

外では、風が止んだ。

空は、何の色も浮かべていなかった。

けれど、その中央に、たった一行だけが浮かんだ。

《記録開始:また、明日。》

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ