珈琲とさよなら
カラン、とドアが鳴った。でも、その音はやけにすぐに消えた。
残響も、余韻も、風に流されることもなく、“鳴った”という事実だけが一瞬存在し、すぐ無音に戻った。
「……あれ?」
ホリイさんだった。久々に現れた彼は、店の中を見渡して、ゆっくり首を傾げた。
「今、“ただいま”って言ったよね、俺?」
僕は「ええ」と頷いた。
「でも……俺の耳に“ただいま”が届いてない気がして……」
その直後、別の声がした。
「やっほー、今日の天井もエモめですね〜」
ミチルちゃん。
でもその言葉も、語尾だけが消えていた。
「え?今私、“エモめ”って言った?“エモい”じゃなくて?」
「語尾が、失われつつあるみたいですね」
「語尾だけ!?」
ボンさんも、鼻をすすりながら入ってきた。
「いや〜、やっぱ金曜が2回あった後って体調崩れるんだよね……って、あれ?俺今なに言った?」
「“体調崩れる”って言いましたよ」
「うわ、それ言う予定なかったんだけど。なんか勝手に喋ったみたいな感じ……」
そのとき、空に白い表示が浮かんだ。
《音声データの保存に失敗しました》
《発話内容:一部未記録》
《現在の記録モード:空音》
誰かがつぶやいた。
「“空音”ってなに……?」
僕は、コーヒーを落としながら答えた。
「音が鳴った痕跡だけが残る状態です。……“言葉にならなかった会話”ということですね」
「それって、どうなるの?」
「たぶん……“言った”という感覚だけ残って、内容は誰にも届かなくなります」
ホリイさんが眉をしかめた。
「つまり、“何かを言いたくて言ったのに、何を言ったか伝わらない”ってこと?」
僕は、できあがったカップを差し出した。
「ええ。でも、“味”には出てますから、大丈夫です」
ホリイさんは、一瞬だけ笑って、でもやっぱり言葉に詰まってから、コーヒーを受け取った。
「……ねぇ、マスター。俺今なんて言った?」
僕は答えなかった。その代わりに、ホリイのカップから立ちのぼった湯気が、ほんの一瞬だけ、“さよなら”の形に見えた。
「マスター、私さ、あのときのこと、まだ……」
ミチルちゃんの声が、途中で止まった。言葉が途中で“破片のように”落ちた。
「え……なんか今、口が動いたのに……なんか、音が残ってなくて……」
ホリイさんが首をかしげる。
「それさ、俺もさっきから何回か……“喋った”っていう感触だけ残ってて、でも、そのあと何言ったかが全部“失踪”してんの」
ボンさんが腕を組んで、苦い顔をする。
「会話って、“言った内容”が残ってると思ってたけど、なんか今、“しゃべった実感”しか残ってねぇんだよな」
そのとき、空に新しい表示が出た。
《発話記録:失敗》
《現在、音声保存に対応していません》
《残り保存容量:3件》
3件。
それは、この世界に残せる“何か”が、もう3つ分しかないという宣言だった。
ドアが、ほとんど無音で開いた。
「おじゃまします……って、静かすぎでしょここ」
ヨシミちゃんだった。
彼女のいつもの軽口も、空気に溶けて残らない。彼女はメモを持っていたが、紙が白紙だった。
「マスター、あの……配達リスト、全部空でした。もう、曜日が在庫切れで」
「在庫?」
「はい。曜日って、元々“記録される未来”だったんですよ。“金曜”ってのは、“金曜という記録の予定”なんです。それが今、全部“予約キャンセル”状態で……」
「ということは?」
ヨシミちゃんは小さく、苦笑いのような顔をして答えた。
「もう、未来に届く日付がないんです。だから、今日を配達しに来たんです」
誰も言葉を返さなかった。言えなかったのではない。
言っても、“残らない”とわかっていたから。ヨシミちゃんは、それでも席についた。
「……コーヒー、いつもお客さんたちが飲んでるの。記録されないかもだけど、今日はちゃんと飲みたくて」
僕は頷いて、カップをひとつ置いた。そのカップの縁に、湯気で一瞬だけ浮かんだ言葉:
《保存:未定義/味覚保持中》
ミチルちゃんがポツリと呟いた。
「言葉が残らなくても、“喋りたいって気持ち”は、味に出るんだね……」
僕は、静かにカップを並べながら答えた。
「ええ、“今この瞬間の会話”は、ちゃんと今日に入ってます」
「自由って、さ──」
ボンさんが言いかけて、黙った。
黙ったのではない。声は出た。確かに、出た。
けれど、そのあと誰の耳にも届いていなかった。
「……今、なんて言った?」
「いや、なんか……“言った気はする”んだけどさ、そのあと、頭の中で自分の声が再生されないのよ。音が、こう……空中で再生キャンセルされた感じ」
ホリイさんが、微笑みながら頷く。
「俺も……ずっと誰かに言いたかったことがあったんだけど、今ここで言っても、“言った”ってことしか残らないって思ったら、逆に、やっと言えた気がしてる」
「それって……言葉ってより、気配だな」
ミチルちゃんがカップをくるくる回しながら言った。
「なんかさ……“私がここで喋ろうとした”っていう体温みたいなものが、このカップの中にしっかり出てる気がするんだよね。言葉がなくても、温度って伝わるんだなーって」
僕はカップを拭きながら、小さく答えた。
「“会話”は残りませんが、“誰かと交わした気配”は、確かに味になってます」
誰も返さなかった。その言葉自体も、きっと、数秒後には空間から消えていた。
でも、その瞬間に出された一杯のコーヒーは、ボンさんの手元で、かすかに揺れながら湯気を立てた。
彼は、それを見てぽつりと呟く。
「自由って、“記録されること”じゃなかったんだな……むしろ、“記録されなくても、喋れること”が自由かもしれない」
その言葉も、やがて空気に飲まれていった。
でも、飲みかけのカップの中にだけ、その“言葉のような味”が、少しだけ残っていた。
僕はそれを見て、ふっと目を細めた。
「……それで、十分ですよ」
その言葉も、やがて消えていった。
けれど、店の空気は少しずつ、誰かが“何かをちゃんと喋ったあとの静けさ”になっていた。
店の照明が、やけに温かく感じた。多分、さっきから光の強さは変わっていない。けれど、“そこにあるものが減っていく静けさ”が、何かを明るく見せているように感じさせた。
ホリイさんが、カップを見つめながら言った。
「マスター……この店って、ほんとはどういう場所なの?」
僕は、少しだけ間を空けて、初めて言葉にした。
「──ここは、《珈琲とさよなら》です」
誰も、言葉を挟まなかった。
「記録されなかったもの、保存されなかった感情、誰にも名前を呼ばれなかった日、そのすべてに、“今日”だけ一杯を出す場所です」
ボンさんが息を呑んだ。
「……それ、つまり……ここに来てた俺らって……」
「ええ。全部、“どこにも残らなかった人たち”だったんです。でも、“今日”だけは、ここに居ました」
ミチルちゃんが、立ち上がりかけて、でも席に手をついたまま、目を閉じて言った。
「……私、ずっと誰にも名前読まれないまま“詩”とか“水曜っぽい空気”とかでしか存在してなかったけど……
それでも、マスターに出してもらった味、たぶん……人生でいちばん、ちゃんとした“感覚”だった」
僕は、黙って頷いた。ミチルちゃんはそっと微笑んで、カップを飲み干した。
彼女の椅子が、音もなく消えた。
ボンさんもゆっくりと席を立ち、一口だけ残ったコーヒーを飲み終えた。
「“さよなら”って、ほんとは“記録しないこと”なのかもな……書かないって、認めることだから」
そう言って、彼も店を出て行った。
彼のテーブルが、きれいに消えた。
次にヨシミちゃんが立ち、カップを口元に持っていき、ほんの少し残った甘さを確かめるように言った。
「ねえマスター、なんで“さよなら”って言ったんですか?“また来てね“じゃなくて、“さよなら“って」
僕は答えた。
「“今日”という一日が、誰かを見送るためにあるからです」
ヨシミちゃんは、微笑みもせず、でも優しい顔でうなずいて、「……また来ないね」と言って、そのままドアを抜けていった。
ホリイさんは、何も言わずに席を立ち、コーヒーをグイッと飲み干して言った。
「マスター、ありがとう」
最後に残ったカップが、しずかに揺れて、ほんの一瞬、湯気の中に“今日”という字が見えた気がした。
テーブルが1つ、椅子が1つ、また消えた。
店は静かだった。
静かというより、“完了していた”。
椅子はない。テーブルもない。声も、足音も、メニューも、空の表示も、すべてが落ちていった。
ただ、カウンターだけが残っていた。その中央に、僕が立っていた。頭上に、最後のひとことが浮かんだ。
《本日:最終記録中》
それはフォントも色もない、
“表示されていない表示”だった。
でも、ちゃんとそこにあった。
僕は、何も言わずにカップをひとつ用意した。棚の奥から、豆を選ぶ。ラベルは貼られていない。でも指先は、迷いなく選び取っていた。
お湯を沸かす。温度計は消えていたが、音と香りで正確な瞬間を知っていた。
“今日”の最後の一杯。
それは、誰にも見られず、誰にも届けられない。
けれど確かに、“ここにある”という温度だけが残っていた。
湯気が立つ。そのカップの隣に、もうひとつ、空のカップを置いた。
中身はない。でも、湯気が立った。
言葉も、姿もない。でも、そこには誰かの“聞いていた気配”があった。
僕は、声に出さずに口を動かした。何を言ったのか、誰にも分からない。
でもそのあと、静かに一礼した。
二つの湯気が、まるで話しかけあうように、店の空気のなかで揺れていた。
《保存完了:本日》
《次回記録予定:なし》
《店名:珈琲とさよなら》
扉は開かなかった。誰も入ってこなかった。
それでも、今日だけは、確かに存在していた。
その証拠に、カップは、まだ温かかった。