消えた日曜日
コーヒー豆を挽く音が、やけに大きく聞こえた。天井のファンも回ってるし、客も数人いるのに、何かが“ひとつ”足りなかった。
その正体が、空に表示された。
《本日のお届け:なし》
「なし?」
僕はつぶやきながら、ドアに目をやった。
ヨシミちゃんは来ていない。紙袋も、スカーフも、あの軽口も──今日は来ないらしい。僕はちょっとばかり、寂しさを覚えた。
カウンターの向こう、常連の青年が首をかしげた。
「……ねえマスター、昨日の話していい?」
「どうぞ」
「……って思ったんだけど、思い出せなくてさ。俺、昨日、なにしてた?」
「それは僕より、あなたの方が知ってる気がしますけど」
「うん。でも……なんか変な感じなんだよね。“記録”が抜けてる感じ?」
その言葉に、別の席の女性客が反応した。
「え、それ……私も。ていうか昨日って……日曜だった?」
「日曜……?いや、うん……そうだった……かも……?」
店内の空気が、ゆるくざわめきはじめる。皆、昨日という一日が“抜けてる”のを感じている。それは“忘れた”ではなく、“最初から存在してなかった”ような欠損感。
その時、静かにドアが開いた。
「……おう、久しぶり」
ナナシさんだった。相変わらずの無表情で、でも妙に“音の立たない”歩き方で入ってくる。
「空いてる?」
「どうぞ」
「じゃあ、座る」
彼はいつもの席に腰を下ろしながら、ぼそっと言った。
「俺ってさ……何曜日生まれだったっけ?」
誰も答えられなかった。彼自身も。
「……俺さ、前からずっと“自分の始まり”が曖昧で……
なんか最近、“曖昧さが増してる”気がすんだよな」
僕はカップを置きながら、一言だけ、静かに言った。
「……日曜日がなくなると、人の境界も曖昧になります」
ナナシさんが、顔を上げる。
「……マスター、今、“日曜日”って言った?」
「ええ」
「俺……今、それ聞くまで、“日曜日”って言葉、思い出せなかった」
僕はカップを差し出す。その湯気が、どこか“昨日の空白”をなぞるように、ふらふらと立ち上がっていく。ナナシさんはしばらくそれを見つめていた。
「……マスター、俺、なんか忘れてきてない?」
「たぶんそれは、“あなた”じゃなくて、“曜日”のほうが置いてきたんですよ」
店の外、風が少しだけ吹いた。
でも、カレンダーはめくれなかった。
風が、もう一度吹いた。
今度は、空から白い線だけのフォントが浮かんだ。
《日曜日:記録が存在しません》
それは、あくまで事務的な表示だった。誰にも謝らず、誰も驚かせず、ただ“記録がない”とだけ伝えてきた。
「……出たね」
誰ともなく、呟きが漏れる。
「本当に“ない”んだ……日、曜……」
その女性は“日曜日”と言おうとしたが、“にち”のあたりで、喉が引っかかった。まるで、その言葉の“読み方”を忘れてしまったかのように。隣の客が、少し戸惑いながら言った。
「え、でも俺……たしか“○曜生まれ”だったはずなんだよね。ほら、占いとかで……でも、“どの曜日か”が思い出せない」
「私……弟と、◯曜に喧嘩したままなんだけど、それがいつだったか、まったく出てこない」
ナナシさんが、コーヒーを飲みながら言う。
「記憶がない、ってより、記録されてた形ごと“失くなった”んだよな。“思い出せない”じゃなくて、“書かれてない”感覚」
誰も否定しなかった。否定できる情報が、もはや無かった。店の空気が、じわじわと静かになる。
音はあるのに、なにかが反響しない。空間の“背面”が、吸音材みたいに沈黙していた。
僕は、ふと天井を見上げた。その視線の先に、誰も気づかなかった。
そこには、天井板の継ぎ目が、わずかに浮いている場所があった。隙間から何かが“沈んでいる”気配。
それは音でも匂いでもなく、ただ、“記録されなかった何か”が静かにそこにある感じだった。
ナナシさんが、不意に言った。
「なあ……“あの日”って、なんで抜けたんだと思う?」
僕は、目を戻して、軽くカウンターを拭いた。
「保存されなかっただけですよ。この世界のルールは、“保存されたものが残る”ですから」
「じゃあ……保存されなかった“日”は?」
僕は手を止めずに答える。
「“無かったこと”です。……でも、“なかったことにされた”とは限りません」
ナナシさんが眉をひそめる。
「それ、どういう……」
僕の視線は、また一枚上の空間を見ていた。まるで、“そこ”に、日曜という文字が埋まってるかのように。
ナナシさんは、コーヒーをすすったあと、ずっとカップの底を見ていた。
「マスター……俺って、何回ここに来たっけ?」
「記録上は……3回です」
「でも、俺の中では4回目な気がすんだよな」
「その“1回”は、おそらく“記録されてない日”でしょうね」
「……“あの日”?」
「ええ、“日曜日”だったと思います」
ナナシさんの手がピクリと止まった。
「……なにそれ。俺、“日曜に来てた”の?」
「はい」
「じゃあ、俺……その日だけ、“記録にいない”の?」
僕は静かに、スプーンを棚に戻した。
「あなたの名前がなかったのは、“あの日”が、保存されなかったからです。曜日にあなたの来訪データがなければ、名前も、発言も、残りません」
ナナシさんは、その言葉をしばらく飲み込めずにいた。目だけが、じわじわと動いていた。
「俺、じゃあ……その日、存在してたのに……消されたの?」
「“消された”というより、“一緒に落ちた”んでしょう。日曜の保存が失敗したとき、その日来ていたあなたも、“未記録対象”として処理された。」
「……じゃあ俺の名前って、もともとあった?」
僕は、目を伏せたまま一度うなずいた。
「ありました。短くて、明るい響きでした。でも今、それはどこにも残っていません」
ナナシさんの呼吸が、少しだけ荒くなった。
「マスター、それって……俺、“日曜にしか存在できなかった人間”だったってこと?」
「日曜日があった頃、あなたはここにいました。でも日曜が消えた瞬間、世界は“あなたを保存できなかった”。……それが、“ナナシ”という名前の由来です」
その言葉を聞いた瞬間、
ナナシさんはテーブルを両手で握りしめた。
「……マスター。俺……“戻ってこれる”?」
「“日曜が戻れば”ですね」
「じゃあ……今、日曜はどこにある?」
僕は、しばらく黙って、ふっと天井を見上げた。
「──この店の、“奥”です」
空気が、一瞬だけ止まった。
ナナシさんが目を細めたまま、立ち上がった。
「……マスター、あの壁……」
僕も見ていた。いつもは棚が置かれているはずの壁面──その“裏に”、ドアが浮かんでいた。
輪郭だけ。そこにあるはずの木目も、取っ手も曖昧。
でも、明らかにそれは“何かが開いた跡”だった。
「それ……“入口”じゃなくて、“出入口”の痕ですね」
ナナシさんが歩み寄っていく。誰もそのドアに触れたことはない。でも彼の手が、それをなぞったとき、わずかに“音のない開閉音”が響いた。
「……ここ、俺、通ったことある」
その言葉に、店内の空気が静かに沈んだ。客たちは誰も言葉を発しなかった。ただ、何かが“戻ってきた”ことだけは、言葉なしで感じていた。
ナナシさんは、手のひらをそっと引きながら言った。
「でも、俺の“通った痕”が……残ってないんだよな。
名前も、足音も、カップの音も……俺、“ここにいたのに、全部残ってない”」
「……じゃあ、淹れますか」
僕は厨房に向かった。
でも、いつものようには手が動かなかった。
豆を選ぼうとしたとき、
すべてのラベルが《不明》になっていた。
お湯の温度も、器具の形も、触れるたびに変わるような感触だった。
「……マスター?」
「少し待ってください。これは……初めての淹れ方です」
一滴ずつ、音がしなかった。
注いでいるのに、“注いだ”という実感が遅れてくる。
それは、ナナシという名前がずっとそうだったように、“遅れて、じわりと現れる存在”だった。
できあがったカップを、ドアの前の小さな台に置いた。
その一杯には、湯気がなかった。でも、香りだけがじんわりと、空間に染み込んでいった。
「……この一杯は、“保存されなかった日”のものです」
ナナシさんが、そのカップをじっと見つめた。
「……名前、まだ書かれてないね」
「ええ。でも、“ここにある”という記録にはなりました」
ナナシの指先が、そっとカップの縁に触れた。
「じゃあ、俺……ここに“居た”ってことで、今日だけは、ちゃんと記録してもらっていい?」
「もちろん。“今日”は、記録されますから」
外の空に、わずかな色変化があった。
《日曜:一時的に表示中》
でも、その文字はすぐにまた、白いノイズのなかに沈んでいった。
空に、また文字が静かに滲み出ていた。
《NAME:ナナシ(※日曜分)》
《曜日:削除対象》
《保存状態:喪失 → 一時復元中》
誰も声を上げなかった。誰もスマホで撮影しようとしなかった。ただ、“それが今だけ存在している”ことを、店の誰もが、理解していた。
ナナシさんは、まだカップの湯気のないコーヒーを見つめていた。
「なあマスター……」
「はい」
「俺……昔、ここで何度か名前呼ばれてた気がするんだよな。でもそれ、自分の口からは言ってなかった。
“誰かに呼ばれて、初めて自分だった”感じでさ」
僕は頷かずに、静かに聞いていた。
「で、今思った。俺……“日曜日”って名前だったんじゃないかって。響きも、空気も、間の取り方も、なんか全部しっくりくる」
沈黙。
その言葉が、やけに自然に店に馴染んだ。誰かが頷く音がした気がした。本当は誰も動いていないのに。
僕は、ほんのわずかに目を細めた。
「……じゃあ、日曜さん。お疲れさまでした」
ナナシさん──いや、“日曜さん”は、笑った。
「……今日、ちゃんと“俺だった”気がするよ。ありがとな、“今日”さん」
彼はカップに指を沿わせて、そっと席を立った。
何も言わず、ドアの向こう、光の中に消えていった。
空の表示はゆっくりと滲み、そして、
《日曜:消去処理に戻ります》
《保存:一杯/“今日の記録”として保持中》
店の奥、カウンターの棚に置かれたその一杯だけが、
誰にも飲まれないまま、静かにそこにあった。
その上を、午後の光がひとすじ、滑っていった。




