土曜日は仮のまま
ドアが開く音がした。でも、それはいつもよりワンテンポ遅かった。開いたあと、一度閉まりかけて、また開いた。
入ってきたのは、“誰か”だった。
肩幅、平均。
身長、平均。
服装、無地のシャツと、よく見かけるようなパンツ。
すべてが、“とりあえず”という印象だった。胸元の名札には、こう書かれていた。
《NAME:___(仮)》
彼はぎこちなく一礼した。
「……よろしくお願いします(表情:柔らかめ)」
言いながら、目元の筋肉がほんの少し遅れて動いた。
笑顔の“レンダリング”が間に合ってない。
「いらっしゃいませ、席はお好きなところへ」
「了解しました(声量:中)」
声も、ちょっと“読み上げ音声”っぽかった。彼は席に着く前に一拍置いて、メニューを手に取った。
その動きも、どこか“再現”のようだった。
「……えっと、こちらの、“PRIN(仮)”、お願いします」
「かしこまりました。“PRIN(仮)”ですね」
僕は厨房に向かいながら、その言葉を心の中で繰り返した。“プリン”じゃない。“PRIN(仮)”。注文そのものが、まだ“成立”していない。棚から卵を取り出すと、殻に小さく印字されていた。
《TAMAGO(仮)》
「……今日は、全部そういう日か」
卵を割って、牛乳を加え、静かに混ぜる。その動きは、いつもの通り“今日”の動きだった。
カウンターに戻ると、“仮”の人は、メニューを閉じる動作を2回していた。最初の一回目は、やや失敗した感じの閉じ方だった。
「飲み物は、何が……おすすめですか(語尾:上げ気味)」
「“今日”に合うものなら、おまかせください」
「ありがとうございます(感謝:0.8)」
僕はカップを準備しながら、その“感謝:0.8”という言い方に、少しだけ笑いそうになった。“仮”のままでも、ちゃんと礼儀正しいのだ。
その人は、しばらく何かを考えるように視線を落として、ふと、ぼそっと言った。
「……ここ、雰囲気……いいですね(空気評価:仮)」
「ありがとうございます。空気も、なるべく淹れるようにしていますので」
“仮”は、そこでまたレンダリングが遅れた笑顔を浮かべた。でも、確かにそこに“微笑”があった。それを見て、僕はなんとなく、彼を“ハカリ“と呼ぶことにした。
ハカリさんは、PRIN(仮)にスプーンを入れる前に、一度フォークを持った。それが間違いだと気づいて、そっと戻した。
「すみません……まだ、“使用ツール”の設定が甘くて……」
「いえ、よくあることです。昔、“コーヒーをプリンで混ぜる人”いましたから」
「それ、やばい人ですね(感情:笑い)」
その“笑い”が、言葉のあと2秒くらいでやってきた。
目が先に笑って、口がちょっと遅れて追いかけてきた。
「……たぶん僕、“感情”がまだ未実装なんです」
ハカリさんは、そう言って、自分の胸元をぽんと叩いた。
「“感じること”はあるんですけど、それを“表す”のに時間がかかる。たとえば今も、PRIN(仮)を食べて“おいしい”と判断してるんですけど……」
少し間を置いて、ようやく、口元がうっすら緩んだ。
「今、それがやっと出ました(表情反映:0.6)」
「“今日の味覚”としては、しっかり届いてますよ」
「それは……ありがたいです(感謝:タイムラグ中)」
また少し遅れて、手が胸元に触れた。“感謝ジェスチャー”を自分で再生したような動きだった。
「子供のころからなんです。うれしい時も、悲しい時も、“周囲よりちょっと遅れてる”んです。でもそのせいで……自分が“感情を持ってない”と思われがちで」
彼の言葉は、どれも“届くまでの時間”が必要だった。
「正直に言うと、たまに“自分が演じてるんじゃないか”って不安になるんです。“自分の反応”が、全部どこかの雛形っぽくて……」
「でも演じてても、ちゃんと味わってるじゃないですか」
「……はい。“食べる”のだけは、演技じゃないです(確信:80%)」
その言い回しが、なぜかとても正直に聞こえた。そのとき、向こうの席の客がメニューを閉じて言った。
「……すみません、僕って……毎週何頼んでたんでしたっけ?」
僕が「ホワイト・カフェ・ノーンです」と答えると、
客は「あ、それか」と言って苦笑した。
「最近、自分の好みが曖昧で……いや、自分の“自分”が曖昧というか……」
それにハカリさんが反応した。
「わかります、それ。僕も今、“自分”が“仮”のまま止まってる気がしてて」
マスターは、厨房から静かに言った。
「それでも、“今日”の味は、あなたにだけ合うようにできてますよ」
ハカリさんはうなずこうとして、一瞬、動きが止まった。
「……いま、“頷き”が、間に合ってません」
「それで大丈夫ですよ。今日の中では、それが一番自然なタイミングです」
ハカリさんの肩が、少しだけ緩んだ気がした。
帰る客を見送るため、ドアの方に目を向けると、入り口横にある「本日のおすすめ」の黒板に、白いチョークで書かれた文字が心に引っかかった。
《未確定です》
僕が書いた覚えはない。けれど、それはまるで最初からそこにあったかのように馴染んでいた。
メニューの表紙は《MENU(仮)》に変わり、中の料理名は全てこうなっていた。
•カレー(検討中)
•サンドイッチ(後ほど)
•PRIN(仮)
ハカリさんが指差して言った。
「この……“後ほど”って、いつ決まるんですかね(問:仮)」
「たぶん、今日のままだとずっと未決定ですね」
カウンターの奥にあったカレンダーも、曜日欄が全て空白になっていた。白紙のまま、まるで“あとで塗るつもり”で印刷されたような見た目だった。
その時だった。
「……終末って、プリンみたいですよね」
どこからともなく聞こえた声。
明らかにホリイさんの言葉だった。でも、ホリイ本人の声ではない。“ホリイのセリフ”というテンプレートが再生されていた。
すぐに、別の声が続いた。
「このお店、音してますね。水曜日って感じの空気してる……」
ミチルちゃんの声だった。けれど、やけに抑揚が少なく、機械が読み上げたようなイントネーションだった。店内の空気が、まるで“リハーサルの音”になっていた。
「……これ、誰かが“ここ”を再現してる?」
ヨシミちゃんの声が、店の隅でぽつりと漏れた。
「“現実そのもの”がテンプレになってきてる。なんかこう、“この店はこうだったはず”で再生されてる……」
ハカリさんが苦笑しながら言った。
「僕みたいですね……“存在の仮説”だけで構成されてるというか」
僕は厨房から、カップにコーヒーを注ぎながら言った。
「でも、“今日の味”は、誰にも再現されませんよ」
静かだった。テンプレ会話の再生が止まる。
僕は、そのまま一言添えた。
「この店にあるもの、全部“仮”になっても……
“今日”だけは、確定してます。」
空調の音が、それを肯定するように静かに鳴った。
ハカリさんはカップを受け取りながら、口を開いた。
「……じゃあ、今日くらいは、“僕のまま”でもいいですか」
「ええ、もちろん。むしろ、今日以外だとあなたは誰にもなれませんから」
PRIN(仮)の皿が、きれいに空になった。スプーンの音が一度だけ静かに鳴ったあと、ハカリさんはその柄を握ったまま、しばらく動かなかった。
「……マスター」
「はい」
「僕、“仮”って呼ばれるたびに、“誰でもないって意味だな”って思ってしまうんです」
声は、意識して抑えているようだった。でも、芯の部分だけが微妙に震えていた。
「人に名前があるのって、“識別のため”じゃなくて、
“世界に一回だけ呼ばれるため”なんじゃないかって、最近思ってて……」
僕は黙ったまま、2杯目のコーヒーを用意していた。
音を立てず、湯気だけで会話しているような動きだった。
「もちろんわかってるんです。名前が未設定なだけで、存在がないわけじゃないって。でも、“仮”って、“今じゃない”って意味じゃないですか。……そのままずっと“今じゃない人”として過ごすのって、きついなって」
ハカリさんは、手元の名札をそっと外して、テーブルに裏返した。裏には、かすれかけた文字が残っていた。
《NAME:___(仮)》
「毎回、“この人はまだ誰でもないですよ”って言われるみたいで……どこに行っても、“仮のまま”」
僕は、できあがったコーヒーをテーブルに置いた。一切何も言わずに、湯気だけが“その人の方”に伸びていった。
ハカリさんはその香りをかすかに吸い込んで、目を丸くした。
「……これ、すごく……僕に合ってますね……?なんだろう、熱すぎないし、でも温度が甘くて……」
僕はにこりともせず、ただ静かに答えた。
「名前が分からなくても、味は仮じゃなかったですよ」
その言葉は、まるで空間にすっと溶けるみたいに流れていった。ハカリさんは、もう一口飲んで、ぽつりと呟いた。
「……じゃあ今日は、“この味が出た人”ってことで、記録してもらっていいですか」
僕は少し首を傾けて、それから頷いた。
「ええ、それがいちばん正確ですね。“今日、こういう味だった人”って」
午後の光が、斜めに店に差し込んでいた。
その光のなか、空には一行だけ表示が浮かんでいた。
《NAME:_______》
フォントは薄く、何も入力されていないまま。
でも、その“空白”がやけに強く見えた。
店内でも、名前を呼ぶ声が消えつつあった。
「すみません、あの人の名前って……?」
「……えっと、あの……いや、ちょっと出てこないですね」
記憶が曖昧なのではない。“情報そのもの”が抜け落ちている。ハカリさんはカップを両手で包みながら、ぽつりと漏らした。
「……このまま、どこにも記録されなかったらどうしようって、時々怖くなります」
「記録されない日も、残ることはできますよ」
「どうやって?」
僕は、彼のカップの湯気に指を近づけた。そして、湯気の中にそっと一本の線を描いた。それは名前とは呼べない、でも“記号でも記憶でもない”、一筆。
まるで、“今日の空気にだけ見える仮名”だった。
一瞬で湯気に消えたその文字を、ハカリさんは目で追い、少し息を呑んだ。
「今の……なんでした?」
「あなたにだけ、合ってた名前です。味と香りと、呼び方が全部合ってた瞬間です」
「……それ、記録には残らないですよね」
「ええ、だからこそ、“今日”だけの名なんです」
ハカリさんは少し考えて、うなずいた。
「たった一日でも、名前があると……今日を、もらった感じがします」
カップの底を見つめるように言ったそのひとことが、
空に浮かぶ空欄のフォントを、少しだけ揺らした。
《NAME:_______》 → 《NAME: “今日”の人》
僕は微笑まずに、ただ一言。
「おつかれさまでした、“今日”さん」
ハカリさん……いや、今日さんは静かに立ち上がって、ドアを開けたあと、ふと振り返った。
「また来ても、また仮のままかもしれませんけど……」
「それでも、“今日の味”は、きっと違うものになりますよ」
外の光が、彼の影をまっすぐ伸ばしていった。
“名前がない”という仮設定のまま、彼は、確かに今日を出て行った。