金曜日は壊れています
開店準備の最中、棚のカップがひとつ、勝手に揺れ落ちた。
「……あれ?」
僕は、そのカップを拾い直して、拭いたはずのガラス面を、もう一度こすった。
今日の光は、昨日と同じ色をしている。温度も、匂いも、入り方も。
でも、それだけじゃなかった。“おはよう”の語感すら、昨日と同じだった。
僕は厨房の奥でつぶやいた。
「……金曜、昨日もやった気がするな」
そう感じた瞬間、店のドアがバーンと開いた。
「マスター!マスター!やばいです!金曜日が!金曜日が……!」
ヨシミちゃんだった。いつもならふざけたテンションで配達してくる曜日配達員。でも今日は、紙袋もスカーフも持たず、なぜか“自分が金曜日”みたいな顔で飛び込んで来た。
「……おはよう、ヨシミちゃん」
「おはようどころじゃないですッ!今日、金曜日が二回目なんです!」
「やっぱりね」
「やっぱり!?マスター、それもう“予兆”レベルじゃないですよ!?今、空見てください、空ッ!!」
僕はガラス越しに空を見上げた。
そこには、いつものようにフォントが浮かんでいた。
ただし今回は、異常だった。
《現在の曜日:金金金金金》
「一文字ずつ“金”が増えてってるんです。朝は1個だったのに……」
「今、5金?」
「5金です。しかもこのまま行くと、“金金金金金金金”になります!通称:フルゴールド現象!!」
「そんなにキラキラされても、うちはプリンとコーヒーしか出せないんだけど」
「そうじゃなくて!!このままだと、“土曜日が入れなくなる”んです!曜日のスケジュールに“隙間”がなくなるんですよ!」
僕はカレンダーのほうを振り返った。壁にかけられた予定表が、わずかに“厚く”なっていた。同じ“金曜日”の紙が、何枚も重なってるように見えた。
「……重なってるね」
「そうなんです!!しかも、記録上は“全部初回”なんです!!」
「じゃあ今日が“本物の金曜”かどうか、分からないね」
ヨシミちゃんは一瞬絶句したあと、首を小刻みに振った。
「マスター、あなた……今日、いったい“何番目の金曜”なんですか……?」
僕はカップにコーヒーを注ぎながら答えた。
「たぶん、今日」
「全然説明になってない!!」
「でも一番正確だよ」
カウンターの上に立ったカップの表面に、蒸気でうっすら、金色の文字が浮かび上がった。
《保存中:金曜日(5)》
でも、(5)がすでに少し滲んでいた。
カラン、とドアが鳴った。
「うっす、マスター。今日も例の、あれで頼むわ」
リクだった。毎週金曜日に来る、ちょっと軽めの常連。クセのある前髪、無駄に音が出るスニーカー、そして注文は毎回“ホワイト・キューバ・ブレンドのぬるめ”。
「ぬるめでよかったですよね?」
「そうそう、あと口に“風”が残る感じで。俺の金曜、それなんで」
僕は頷いてカップに手を伸ばす。でも、手がカップに届く前に、もう一度ドアが鳴った。
「うっす、マスター。今日も例の、あれで頼むわ」
……リクだった。
完全に、さっきと同じ服、同じ髪、同じスニーカーの音。でも少しだけ、声の“タイミング”が違った。
「ぬるめでよかったですよね?」
同じ言葉を、もう一度言った。
「そうそう、あと口に“風”が残る感じで。俺の金曜、それなんで」
繰り返し。
完コピ。でも、空気に“ズレ*があった。最初のリクが、椅子から体を起こした。
「……え、ちょっと待って? おれもう来てるんだけど?」
後から入ってきたリクも、ぴくっと眉を動かす。
「は? なにそれ、コスプレ?」
「コスプレ!? おれの顔でコスプレってどういう概念!?」
「てか、“風残す”ってセリフおれの持ちネタなんですけど?」
「いやそれ、こっちのセリフな」
マスターである僕は、2人のリクを交互に見た。どちらもまったく同じ“常連感”を漂わせている。
「お二人とも、金曜日にいつも来てるんですか?」
「当たり前でしょ、金曜といえばおれっすよ」
「いやいや、それおれが言うセリフ!」
「つまり、今日どっちが本物なんですか?」
「どっちがってなに?」
「先に来たのおれだし」
「いや、おれが今“来た”のが現実だし」
「過去の記憶で来てるとか、ださくね?」
「お前、未来の幻覚で喋ってるだろ!」
カウンターでコーヒーを用意しながら、僕はプリンの表面が“二重に反射”していることに気づいた。蒸気が重なって、表面のカラメルが2層になっている。片方は甘く、片方はまだ固まっていない。僕は静かに言った。
「じゃあ……どちらにも、似てるけど違うものを出します」
2つのカップを並べた。
ひとつは“キューバ・ブレンドのぬるめ”、もうひとつは“キューバ風味のブレンド風”。
リクAが言った。
「こっち……ちょっと違う」
リクBが言った。
「でも、これも悪くないかも」
「それ、“おれのセリフ”っぽくない?」
「お前、“おれ”っぽすぎなんだよ」
カップの縁に、2人の指がかすかに触れた。でも、湯気だけが交わらなかった。
カウンターの下にある記録パネルが、“ピッ”と音を立てて、静かに点滅を始めた。
《注文履歴:ホワイト・キューバ・ブレンド(ぬるめ)》
《注文履歴:ホワイト・キューバ・ブレンド(ぬるめ)》
まったく同じ。タイムスタンプは数秒差。でも、両方に《初回》と記されていた。
「……これは、記録ミス?」
僕は思わず声に出してつぶやいた。その瞬間、空の表示が揺れた。
《データ同期失敗》
《データ同期失敗》
《データ同期失敗》
何度も、何度も、繰り返し。
「マスター!ちょっと!また増えてるよ金曜日!!」
ヨシミちゃんが再び飛び込んでくる。今回はメモ帳と赤ペンを持っていたが、なぜか文字がにじんでいた。
「空見てください空!曜日表示がもう、もはや“行書体”になってきてるから!!」
僕は見上げた。
《現在の曜日:金金金金金金金金》
8金だった。
表示が傾いていて、フォントが半透明になっていた。
「8金って……18禁みたいでおもしろいね」
「えへへ、確かに……じゃなくて!もしかして……この店の中だけ、まだまともなんじゃないかって、思ってるでしょ?」
「その可能性は高いね」
「でもそれも怪しいですよ!!だって、あなた、今日何回目の“金曜マスター”なんですか!?」
僕は手元のカップを静かに差し出した。
「この香りは……初回ですよ」
ヨシミちゃんは一瞬黙った。
「え、それって……マスター、味と香りで判断してるの?」
「それだけは、書き換えられませんからね」
会話が止まる。店内に、昨日だったか今日だったか曖昧なBGMが、かすかに揺れて流れていた。そのとき、厨房のプリンが震えた。ぷるん、と一度揺れたあと、表面に浮かんだ文字が歪む。
《記録不能》
プリンの上に文字が浮かんだのは、この店の中で、初めての現象だった。
「マスター……」
「はい」
「今日は……“どの金曜日”ですか?」
僕は答えなかった。代わりに、窓の外を見た。空は、金色の雲で埋め尽くされていた。その合間に、かすかに白い文字が流れていく。
《現在地:本日/未決定》
風が、逆から吹いた。
その瞬間、店の中に“音の重なり”が発生した。
「終わりだね」
「水曜日ってさ、音がするんだよね」
「自由って、もしかして……やらされてる?」
耳元でも、床の下でも、天井の上でもない。空気の中に、“過去のセリフ”がリピートされていた。
ヨシミちゃんが天井を見上げた。
「え、なにこれ……今、喋った?誰か?」
「たぶん……空間が“再生”してます」
「店の空間が!?」
「会話って、“残る”んですよ。“曜日ごとに録音”されてるみたいに」
「それを今、勝手に流されてる!?」
僕は厨房に入り、プリンを一つ持ってきた。表面が、かすかに“火曜日の震え”を持っていた。
「これ、昨日のプリンじゃない?」
「いえ、今日の火曜です」
「……金曜じゃなくて?」
「金曜が壊れると、他の曜日が“補填”に入るんです。
曜日は、“空いた席”に自然に流れ込むから」
「それ、まるで液体みたいな……」
「そう、“曜日は液体”なんですよ。でも、味だけは、今日だけのものです」
僕はプリンをそっと差し出した。湯気はない。けれど、香りが“今日”にしかない。そのとき、また空気がざわついた。
「“これ、ポエムですか?”って顔してますね〜」
ミチルちゃんの声だった。誰もいない椅子から、あのときの“空気ごと”再生されたみたいな声だった。
そのすぐあとに、
「逆さプリンって、終末感あるよな」
ホリイさんの声。
ボンさんの「自由……か……自由とは……」
そこだけ、完全に録音された音質で流れてきた。ヨシミちゃんが耳をふさぎながら言った。
「これ、過去が“会話してる”……!」
僕は答えず、そっと一言だけ添えた。
「……でも、生きた会話が、一番うまいです」
プリンの表面に、カラメルが音もなく崩れた。
風が止んだ。
いや、“停止処理”された音がした。
空に、新しいフォントで文字が浮かんだ。
《金曜日の保存に失敗しました》
《バックアップも存在しません》
《この曜日は現在、未定義状態です》
全体がやけに冷静な口調だった。
まるで、世界そのものが“状況説明”をしはじめたみたいに。店の中では誰も喋らなかった。ヨシミちゃんも、2人のリクも、声を発すると“正しい金曜”が崩れる気がしていたのかもしれない。
僕は、静かにカウンターの奥から、カップとソーサーをひとつ持ってきた。そして、そこにいつものコーヒーを淹れた。でも今日は、ラベルの代わりに一枚の紙片を添えた。
手書きの、たった一言。
「今日」
ヨシミちゃんが、それに気づいてそっと聞いた。
「……マスター、それ、“金曜”じゃなくていいんですか……?」
僕は、軽く首をかしげる。
「いいとか悪いとかじゃなくて、金曜がここにいないなら、代わりに“今日”を出すしかないでしょう」
「“今日”って……そんなふうに、出せるものなんですか?」
「出してるじゃないですか、毎日」
「はぁ。じゃあ、いただきます」
僕は、コーヒーの表面に浮いた湯気を指先で裂いた。
その一瞬だけ、湯気が金色に見えた気がした。
外では、カレンダーのページが風にめくられた。
木曜日 → 土曜日
金曜日だけが、紙ごと抜け落ちていた。
そのまま風に舞って、どこかへ消えていった。
でも店内は、変わらずだった。音も、温度も、言葉も。
ただ、誰かがコーヒーを飲む小さな音だけが、“今日”という名のカップに響いていた。