木曜日は死ぬほど自由に
朝の音が、いつもより派手に割れた。
僕の手が滑って、“木曜日用の豆”が床に散らばったからだ。木曜ブレンドは、ほかの豆より跳ねる。豆自体が、自分の居場所を選びたがる性質を持っている。
「自由な奴らだな……」とぼそっとつぶやいたところで、ドアが開いた。
「ういーっす、マスター。会社、辞めてきたわー」
いつも通りのテンションと、いつも通りのセリフで、ボンさんが入ってくる。スーツにネクタイ。革靴はやや泥まみれ。一見すると営業途中の中年男性だが、彼は毎週木曜日に“辞職”を告げてくる。
「お疲れ様です」
「いや〜、ほんと限界だった。俺、もう“枠”に収まれない人間なんだわ」
「収まってた期間があるんですね」
「昨日まではな。でも今日、朝起きたらさ、なんか“未来”の味が酸っぱかったんよ。あ、もうダメだなって」
「酸っぱい未来」
「そう。“賞味期限ギリの人生”だったわ、昨日までの俺」
僕はしゃがみ込んで、床に散らばった豆を一粒ずつ拾っていた。木曜日はこういう日だ。ボンさんはいつもの席に座り、ネクタイを緩めながら口を開いた。
「てか今日、何曜日だっけ? 火曜?」
「木曜です」
「木曜か〜。でもなんか、今週“木曜二回目”な気がするわ。ていうかさ、曜日って一方向に進む必要ある? “行ったり来たり”じゃダメ?」
「その発想、月曜日に話してほしかったですね」
「いや〜、木曜日の“引き返し力”ってあるじゃん。俺、今日それ使って会社から引き返してきたから」
「電車使ったんじゃなくて?」
「違う。“自由”で引き返したの。このネクタイも、今日は“自由で締めた”からね」
「語感はいいけど意味はないな」
僕は豆を拾いながら、彼の“自由で締めたネクタイ”がいつもよりきつそうなことに気づいた。
「でね、マスター」
「はい」
「今日、俺は自由を淹れてほしい。“会社やめた後の俺”にふさわしい、“社会未所属ブレンド”みたいなやつ」
「じゃあ、“木曜だけ無所属”ってラベルのやつでいいですか」
「それだ! それそれ!」
ボンさんは右手で机を、左手で自分の腿をバンッと叩いた。机の上に残っていた昨日の水曜日の音と残り香が、少しだけ跳ねた気がした。
コーヒーを淹れる間、店内に無音が流れた。
でも、それは長く続かない。
「……マスター、聞いてくれ。俺、気づいたんだよ。
“人生とは”だよ、“人生とは”。」
「あぁ、そういう日だ」
「そういう日なんよ!」
ボンさんは突然立ち上がり、スーツを脱いで椅子の背にかけた。“俺語り”のスタンバイである。
「人生とはな、“カップの底に残ったぬるさ”なんだよ。熱くもない、冷たくもない、でも“残ってる”。そこに気づけるかどうか。これが大事なわけ!」
若いカップル客が、スマホを伏せて顔を上げた。
「でな、俺、思った。成功ってなんだろうって。答え出たわ。“プリン”よ、プリン。成功とはプリンである!」
「ははっ。ホリイさんってお客さんと気が合いそうですね」
「え? その人、何プリンなの?」
「“逆さプリン派”です」
「うわ〜、絶対意識高い。てか俺、その人と“人生食べ比べ”したい」
ボンさんは前のテーブルを指差して叫ぶ。
「プリンってな、バランスの塊なんよ。上に甘み、下に苦み。その間を揺れる、卵感。これ、“自己肯定感”の構造とまったく同じ!」
「プリンと自己肯定感が?」
「そう。“自分甘やかしゾーン”と、“人生苦かったなゾーン”のあいだに、“でも生きてる”っていう卵の層があるんよ! わかる!?」
「ギリわかりません」
客の一人が「確かに……プリンって、実家の味するもんな」と小声でつぶやいた。
空気が少し傾いた。
「ほら! 今、誰か反応したよね? そう、これは“気づき”なんだよ!この店はもう“場”になってる。これ、“気づきの場”だよ!」
僕は床に残った豆を、箒で集めながらつぶやいた。
「場にするつもりはなかったんですけどね……」
「でも、場って“勝手になる”もんなんよ! 意図しなくても、空気が構造作る!この空間、今、“人生”してるよ!」
僕は最後の一粒を拾い、ふうと息を吐いた。
「じゃあ、今日の“人生プリン”……固めで出しますね」
「それ! 人生は固めがち!」
周囲の客が、なんとなくうなずき始めた。誰も強制されていないのに、誰かの言葉に引っ張られて頷く。──それが木曜日。
ボンさんが、テーブルを背に腕を組んだ。急に真顔になって、スーツを着直す。
「あのさ……マスター。自由って、なんだと思う?」
「急に静かですね」
「“自由とは何か”。この問いに、俺は木曜ごとにぶつかってきた。つまり、週一で人生をやり直してるんよ」
「履歴書、木曜だけ厚そうですね」
「だよね? 俺、木曜日だけ人生3ターン目くらい行ってる。でさ、結論から言うと、“自由は選べること”だと思うんよ。選択肢があるってこと」
「なるほど」
「でもさ、選択肢が“用意されてる”って、それもう“誰かの枠”じゃない? “自由の形”が既製品だったら、それ自由か?」
「深まってきた」
「ていうか、“選ぶ”って行為自体が、誰かに“選べ”って言われた気がしてきたの。それって……それってさ、“自由やらされてない?”って……」
彼の声が、少しだけ小さくなった。自分で出した言葉に、追いつけていない。
「“自由やらされてる”って、なにそれ……? こわ……俺、自由なの……?それとも、自由っていう枠の中で、ちゃんと枠してるだけなの……?」
さっきまでのめり込むように目を輝かせていた若い客の目線が、スッとスマホに戻った。ボンさんは前を見つめたまま、軽く息を吸い、
「じゃあ、どうしたら自由なの……?」
と、自分に問うように呟いた。僕はそのとき、拾った豆の山を袋に入れ終わったところだった。背筋を伸ばして、まっすぐ彼に答えた。
「……選ばなきゃいいんじゃないですか」
空気が、止まった。客も、ボンさんも、一瞬だけ“ノイズを飲んだ”ような顔になる。
「え……?」
「選ばない。何も。今日は、プリンすら。それが“木曜の自由”なんじゃないですかね」
その言葉は、たぶん何も意味していなかった。でも、意味しなさすぎて、誰も反論できなかった。
ボンさんは目を閉じて、ふーっと息を吐いた。
「……やっぱこの店、やばいわ」
「よく言われます」
数秒の静寂を経て、ボンさんは急に立ち上がった。
「よし、やるか。木曜限定セミナー、開幕ッ!」
客たちが、スプーンを持つ手を止めた。僕は豆袋の口を縛りながら「始まったな」と思った。
「皆さん、こんにちは〜! 木曜日の可能性、感じてますかぁー!?感じてない! そりゃそうだ、感じ方がわかんないもんね!だから今から、それを“感じさせる”セミナー、始めます!」
若いカップルの彼女のほうが「えっ、なにこれ……」と笑いながらスマホを逆に持ち始めた。録画モードである。
「まずですね、“自由”っていうのは“うまみ”なんです。人間って“自由”を味で判断してるんです!」
「今それ言いました?」
「言ったし、感じてる!皆さん、プリンを思い出してください。下に苦み、上に甘み。でも、それを“選ばずに”一緒に食べる。これが“自由の実行”なんですよ!」
「やっぱりホリイさんに紹介したい」
「でしょ!? その人絶対わかってくれるって思ってる!」
「逆さプリンを人生に見立ててましたからね」
「出た、それそれ。“逆さ”って時点で自由なんですよ!」
僕は無言で、カウンターにコーヒーを一杯置いた。カップには、今日だけの特別ラベルが貼ってあった。
《木曜ブレンド・自由》
ボンさんは一瞬だけ黙った。そのラベルを見つめ、唇をきゅっと結び、「うわっ……これ……」と小声で漏らした。
「マスター、俺、今日、“自由を出された”わ……」
「注文されたんですけどね」
「いや、これは違う。“提供”されたんじゃない、“渡された”んだよ……今日の俺に、ちゃんと“自由を与えられた”んだよ……!」
コーヒーの香りが、湿った空気を少しだけ持ち上げた。
「これ、今まで飲んだ中でいちばん“自由な温度”してるわ……」
ボンさんの目が少し赤くなっていた。
「……自由ってさ、結局、“誰かが渡してくれてる”のかもな……」
「じゃあ、その“誰か”に感謝しながら飲んでください」
「うん……ありがとう、自由。ありがとう、マスター」
彼は静かにコーヒーを飲んだ。周囲の客たちは、誰一人としてセミナーの内容を覚えていないようだった。
でも、誰も立ち去らなかった。
午後の光が、窓から斜めに入ってきた。木曜日の光は、曜日の中でいちばん無責任だ。“やること”も“やらなさ”も照らす。その光の中に、白い文字が浮かんだ。
《本日の自由度:78%》
風もなく、雲もなく、その表示だけが、やけに明るく揺れていた。
「……見てみろよ、あれ」
ボンさんが、コーヒーを手にしたまま窓の外を指差す。
「自由度、78パーだって」
「まあまあ高いですね」
「でも、なんか……あの“数字で測られてる感”が、逆に不自由じゃね?」
「自由の目盛りがある時点で、もう枠ですね」
「いや、マスター、それ、詩人じゃん」
「水曜日に来る女子大生に影響されたてホヤホヤで」
店の外を、人々が歩いていた。スーツ姿、コンビニの袋、ベビーカー。だけど、顔が、全部同じだった。無表情。性別も年齢もない。全員が、まるで同じ型から出てきたような、“通行人”だった。歩き方も、タイミングも、ほぼ一致していた。誰も喋らず、誰も止まらず、ただ前を向いていた。
「なあ……あれ、気にならない?」
「たまにあるんですよ。木曜日は、外が“整う”ことがある」
「整ってるっていうか、あれもう“テンプレ”じゃん……自由って、“揃えること”だったっけ?」
ボンさんの声が、少しだけ静かになった。
「なんか……今日、“自由やらされてる感”があるんだよなあ……俺たち、“自由っぽくする”ことに慣れすぎたのかもな……」
「それでも、自由は飲めるものですよ」
「うん。自由って、“飲んだふり”するだけでも、ちょっと効くもんね」
店内は静かだった。でも、その静けさは、どこか“自発的”だった。
僕はグラスをひとつ拭きながら、ふっと息を吐いた。
「今日は、静かな日でしたね」
「うん……また来週、辞めてから来るわ」
「お待ちしてます」
ボンさんは、自由を飲み干して店を出た。誰にも気づかれないように、顔だけ違うまま歩いていった。