表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
3/10

水曜日.wav

朝の喫茶店には、たまに音が溶けている。

金属でもなく、木でもなく、もっとやわらかい何かが、カップの縁に触れる音。チリン、とも、ピン、ともつかない。まるで、音楽の生まれる寸前の音。

水曜日の朝は、そういう音がする。

棚に並べたカップたちが、勝手に微振動しているのを知っているのは、たぶん僕だけだ。振動の理由は不明。音階も不明。でも、これが水曜日の“合図”になっているのは間違いない。

ドアが開いた。風鈴なんて提げてないのに、風鈴の音がした。

「うぃ〜っす、マスター今日、言葉が響いてるね〜」

ミチルちゃんが入ってきた。大学生。肩が出たセーターに、無駄に分厚い哲学書と、iPhone。

語尾にエコーがかかってる気がするのは、僕の耳のせいか、それともミチルちゃんの声のせいか。

「水曜日って、音がする日なんですよね〜……聞こえません?」

「どこから?」

「うーーーん、“水曜日という新世界“から、かな?“空間が音を発してる”っていうか。たとえばこのコップ、昨日は“ただのコップ”だったのに、今日は“音が入ってる容器”なんですよ」

「それは、コップじゃなくて……」

「“水曜日”なんです!」

「ああ、なるほど。飲み物じゃなくて曜日を飲むんだ」

「そうそう、それ! そういうの、エモいですよね〜」

“エモい”という言葉が、この店で最もエコーが強くなる単語だということに、僕は最近ようやく気づいた。

「てかマスター、今日ちょっと静かすぎません?音、聴いてるでしょ?」

「うん、聴いてる。けど、水曜日の音って、聴いてるうちに“考えることやめちゃう”からね」

「それ、最高じゃん。考えなくていいって、“感覚”ってことですからね」

「つまり、感覚で注文してくれると助かるんだけど」

「じゃあ、“なんか音が降ってくるようなラテ”ください」

僕はいつも通りのラテを淹れながら、ミルクを注ぐ音がいつもより“湿ってる”ことに気づいた。やはり水曜日だった。

ミチルちゃんは席に座るなり、有線のイヤホンを片方だけ耳に入れて、もう片方は空中にぶら下げた。

“ひとつのイヤホンで誰かと一緒に聴く”タイプのやつだ。孤独なくせに。

「マスターってさ……音、好きですか?」

「うん。嫌いな日、なかったからね」

「わ〜、その返し、めっちゃポエム」

「そう?」

「“嫌いな日、なかったから”ってさ。今、それ、“木琴で歩く猫”って感じの言葉ですよ。水曜日がいちばん猫っぽいと思うんだよね、個人的に」

僕はラテの表面にハートを描きかけて、やめた。代わりに、波線をひとつ入れる。水曜日に、明確な形は似合わない。


ミチルちゃんはストローをくるくる回しながら、急に思い出したように言った。

「……てかさ、マスター。概念って、スムージーじゃない?」

「唐突だね」

「だってさ、みんな何かと“混ぜてる”じゃん。言葉も、記憶も、感情も。それを“冷たくして吸う”んだよ。概念って飲み物っしょ?」

「じゃあ、熱い飲み物は?」

「それは……たぶん、怒りとか後悔とか。そういう“未消化”系。スムージーは“理解してるけど全部混ざっちゃった”やつ」

「なるほど、解釈済みの混沌」

「マジそれ! うわ〜、マスター、今日、語彙が液体!」

僕は戸棚からグラスをひとつ取り出した。

中身を決めないまま、手が動いていた。

「じゃあ、水曜日スムージー……出してみる?」

「えっ、そんなのあるの?」

「いま発明した」

「そういう飲み物、いちばん好き」

ミチルちゃんがカウンター越しに身を乗り出す。

僕はコーヒーの残りにミルクを一滴落とし、それにバナナチップを入れたあと、やめた。

「これは違うね」

次に、氷とハーブティーを混ぜてみる。最後に、角砂糖を一粒、ゆっくり落とす。そのままブレンダーにはかけない。音がうるさいから。

「はい、これ。“水曜日スムージー”。音をかきまぜずに味だけ残したやつ」

「飲むポエムじゃん……」

ミチルちゃんは、目を輝かせてストローを差し込んだ。

「……ん、これ、なに入ってんの?」

「たぶん、“曖昧”」

「“曖昧味”って、“曖昧”って言う時点で味じゃん?

でも“曖昧”って感じる舌、やばくない?」

「その舌、混乱のセンサーかもね」

「水曜日の味覚って、思考じゃなくて“ゆれ”で感じてる気がする。味じゃなくて、“余韻”だけ届くっていうか」

「そのスムージー、たぶん余韻しか入ってないからね」

「エモすぎる……」

ミチルちゃんはもう一口吸ってから、ストローを指で軽く弾いた。

「てかさ、こういうのってさ、“言ったあとで意味ついてくる”タイプだよね」

「“意味の後追い”ね」

「そうそう。“意味先行型”より、“感覚ドリブン”のほうが今日っぽい。つまり、私はいま、“水曜日の脳”してる!」

「そのうち“曜日ごとに脳が違う説”を言い出しそうだね」

「それ、明日話そうと思ってた!」

「じゃあ今日は、音に集中してね」

「はい、マスター!」

ストローの先が、グラスの底を軽く叩いた。

“コトン”という小さな音が、水曜日の中心に沈んだ。

「ねえマスター、知ってます? この世界って、“音”で記述されてるんですよ」

ミチルちゃんが言ったとき、僕はちょうど冷蔵庫のドアを閉めていた。

「言語じゃなくて?」

「違う。“音”です。たとえば“あ”が多い日は、たぶんテンション高い。“ん”が多い日は、だいたい静か。“ひ”が多いと、ちょっと神経質な日。“ぴ”はかわいい日。音の並びで、空気が変わってくるんですよ」

「じゃあ今日は?」

「今日はね〜、“ゆ”が多い。だから、“ゆれ”てる。“ゆるい”けど、“ゆれる”日って感じ」

「確かに、さっきから全部の語尾に“〜ゆ”つけたくなる気分」

「そう、それが水曜日」

ミチルちゃんは、スマホのメモを開きながら、適当なポエムを探していた。

「あと、“リズム”ってのもあって。水曜日って、なんか語尾がね、“おしりで揃う”んですよ。“のよ〜”とか“よね〜”とか、リズムで話してない?」

「……言われてみれば、そうかもね〜」

「ほら! 今の、それ!」

「え?」

「“そうかもね〜”って、ちゃんと水曜日してた。マスター、水曜日してたよ!」

「曜日、動詞になるんだ?」

「曜日ってたぶん、行動じゃなくて“状態”なんですよ。だから“月曜する”っていうより、“水曜日してる”の。わかります? わかんないでしょ?」

「その“わかります? わかんないでしょ?”って構文、水曜日っぽいよね」

「それな!」

“それな”が二人の間に落ちたあと、しばらく店の中に音が漂った。BGMはかかっていないのに、何かのテンポがある気がした。

ミチルちゃんは、ストローの中に音が詰まってるみたいに言った。

「マスター、このお店って、音楽ですよね」

「何系?」

「“定義未満”系」

「ジャンルじゃなくて?」

「違う。“定義される前の存在”って感じ。リズムがあるけど、踊れない。旋律があるけど、口ずさめない。

でも、空気が“グルーヴ”してる」

「水曜日って、グルーヴしがちだもんね」

「てか、グルーヴって“水曜日の正体”なんじゃないかな」

僕はその言葉に、ちょっと笑いそうになって、でもなぜか、飲み込んだ。

「……グルーヴの正体が、水だったらどうする?」

「エモい」

「安い」

「最高」

語尾が全部、なんとなく音符っぽくなっていた。

誰も歌っていないのに、旋律だけが店に残った。

そのとき、窓の外を風が通った。

音がなかったのに、風のあとに“余韻”だけが残った。

水曜日は、やっぱり“余韻でできた曜日”だ。


ミチルちゃんはストローを手放して、ポケットからぐしゃぐしゃになった紙を取り出した。

「ねえマスター、今日さ、ひとつだけポエム読んでいい?」

「いいけど、“読んでいい?”って聞くタイプのポエムはだいたい読まれる前提だよね」

「うん、それがポエム」

彼女は紙をひらき、声のトーンを半音だけ下げた。でも発声は変わらず軽い。気取ってるようで、どこか音読大会の小学生っぽさもある。

「タイトルは……『うたってないのに、うたみたい』です」

「タイトルがすでに水曜日」

ミチルちゃんは息を吸って、すぐに読み始めた。

雲が生まれるところに

牛乳を注いだら

スプーンが笑った

だけど私の朝は

くちびるをつける前に

カップに“おやすみ”って言ってしまう

音がないのに

音がないことが、

ちょっとリズムになってる日

読み終えたあと、彼女は紙をそっとたたんで、「……まぁ、即興なんですけどね〜」と照れくさそうに笑った。

僕はそのあいだ、何も言わなかった。ストローがグラスの中でコトンと鳴った音が、そのまま僕の中に入ってきた気がした。

気がついたら、目の奥が熱かった。

喉の裏側がしずかに締まる。

涙が、こぼれた。

「……あれ、マスター? 泣いてる?」

「……うん、なんでだろうね」

「いや、私もなんでか分かんないですけど、たぶん、“エモ”が勝っちゃったんですね」

「意味が勝ったわけじゃないよね」

「うん。“意味がないことに負ける涙”ってあるんですよ。それが今日なんですよ。水曜日ってやつで」

僕は何か言いかけたけど、それを口に出すには、言葉が固まりすぎていた。だから代わりに、カップを洗いながら、静かに笑った。


会話が途切れた。そのあとを埋めるように、音が降ってきた。

“ポタッ……ポタッ……”

天井から、何かが落ちている。

水だった。でも、濡れない。音だけが、落ちていた。

「……来ましたね」

ミチルちゃんがストローを噛みながら言った。

「いつもこのタイミング?」

「はい。言葉が尽きたら、水曜日が始まるんです」

彼女はそう言って、目を閉じた。

“ポタ……ポタ……ポン……”

音のリズムが少しだけ変わった。水ではない。たぶん、“時間”だ。この喫茶店の天井からは、たまに“時間のしずく”が落ちる。

それは、週に一回だけ起こる。

水曜日。

“話すことがなくなった瞬間”だけ。

僕はグラスの中に耳を澄ませていた。すると、中の氷が“ポク”と鳴いた。

「これですよ、マスター」

「なにが?」

「この音が……水曜日なんです」

ミチルちゃんの声は、まるで“録音”されてるみたいに、少し距離を置いて響いた。そのとき、外の空にひとつ、白い文字が浮かんだ。

《音声ファイル:水曜日.wav》

拡張子がついているせいで、世界が少しだけ“パソコンの中”みたいに見えた。けれど、誰もそのファイルをクリックしない。再生もされないまま、水曜日は、静かに保存された。

「じゃあね、マスター」

「うん。おつかれさま。大学、がんばってね」

ミチルちゃんは何も飲み干さずに席を立ち、軽く会釈をして出ていった。彼女の鳴らしたドアのチャイムの音に、“ポン”というしずくの音が重なった。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
こういう会話好き。 最近は主人公が何者かがしっかり定義されちゃってるから性に合わないんだよね。 といってもここの主人公はマスターなんだけど全員が主人公みたいな感じする。 ようやく水曜日の雰囲気をどう…
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ