水曜日.wav
朝の喫茶店には、たまに音が溶けている。
金属でもなく、木でもなく、もっとやわらかい何かが、カップの縁に触れる音。チリン、とも、ピン、ともつかない。まるで、音楽の生まれる寸前の音。
水曜日の朝は、そういう音がする。
棚に並べたカップたちが、勝手に微振動しているのを知っているのは、たぶん僕だけだ。振動の理由は不明。音階も不明。でも、これが水曜日の“合図”になっているのは間違いない。
ドアが開いた。風鈴なんて提げてないのに、風鈴の音がした。
「うぃ〜っす、マスター今日、言葉が響いてるね〜」
ミチルちゃんが入ってきた。大学生。肩が出たセーターに、無駄に分厚い哲学書と、iPhone。
語尾にエコーがかかってる気がするのは、僕の耳のせいか、それともミチルちゃんの声のせいか。
「水曜日って、音がする日なんですよね〜……聞こえません?」
「どこから?」
「うーーーん、“水曜日という新世界“から、かな?“空間が音を発してる”っていうか。たとえばこのコップ、昨日は“ただのコップ”だったのに、今日は“音が入ってる容器”なんですよ」
「それは、コップじゃなくて……」
「“水曜日”なんです!」
「ああ、なるほど。飲み物じゃなくて曜日を飲むんだ」
「そうそう、それ! そういうの、エモいですよね〜」
“エモい”という言葉が、この店で最もエコーが強くなる単語だということに、僕は最近ようやく気づいた。
「てかマスター、今日ちょっと静かすぎません?音、聴いてるでしょ?」
「うん、聴いてる。けど、水曜日の音って、聴いてるうちに“考えることやめちゃう”からね」
「それ、最高じゃん。考えなくていいって、“感覚”ってことですからね」
「つまり、感覚で注文してくれると助かるんだけど」
「じゃあ、“なんか音が降ってくるようなラテ”ください」
僕はいつも通りのラテを淹れながら、ミルクを注ぐ音がいつもより“湿ってる”ことに気づいた。やはり水曜日だった。
ミチルちゃんは席に座るなり、有線のイヤホンを片方だけ耳に入れて、もう片方は空中にぶら下げた。
“ひとつのイヤホンで誰かと一緒に聴く”タイプのやつだ。孤独なくせに。
「マスターってさ……音、好きですか?」
「うん。嫌いな日、なかったからね」
「わ〜、その返し、めっちゃポエム」
「そう?」
「“嫌いな日、なかったから”ってさ。今、それ、“木琴で歩く猫”って感じの言葉ですよ。水曜日がいちばん猫っぽいと思うんだよね、個人的に」
僕はラテの表面にハートを描きかけて、やめた。代わりに、波線をひとつ入れる。水曜日に、明確な形は似合わない。
ミチルちゃんはストローをくるくる回しながら、急に思い出したように言った。
「……てかさ、マスター。概念って、スムージーじゃない?」
「唐突だね」
「だってさ、みんな何かと“混ぜてる”じゃん。言葉も、記憶も、感情も。それを“冷たくして吸う”んだよ。概念って飲み物っしょ?」
「じゃあ、熱い飲み物は?」
「それは……たぶん、怒りとか後悔とか。そういう“未消化”系。スムージーは“理解してるけど全部混ざっちゃった”やつ」
「なるほど、解釈済みの混沌」
「マジそれ! うわ〜、マスター、今日、語彙が液体!」
僕は戸棚からグラスをひとつ取り出した。
中身を決めないまま、手が動いていた。
「じゃあ、水曜日スムージー……出してみる?」
「えっ、そんなのあるの?」
「いま発明した」
「そういう飲み物、いちばん好き」
ミチルちゃんがカウンター越しに身を乗り出す。
僕はコーヒーの残りにミルクを一滴落とし、それにバナナチップを入れたあと、やめた。
「これは違うね」
次に、氷とハーブティーを混ぜてみる。最後に、角砂糖を一粒、ゆっくり落とす。そのままブレンダーにはかけない。音がうるさいから。
「はい、これ。“水曜日スムージー”。音をかきまぜずに味だけ残したやつ」
「飲むポエムじゃん……」
ミチルちゃんは、目を輝かせてストローを差し込んだ。
「……ん、これ、なに入ってんの?」
「たぶん、“曖昧”」
「“曖昧味”って、“曖昧”って言う時点で味じゃん?
でも“曖昧”って感じる舌、やばくない?」
「その舌、混乱のセンサーかもね」
「水曜日の味覚って、思考じゃなくて“ゆれ”で感じてる気がする。味じゃなくて、“余韻”だけ届くっていうか」
「そのスムージー、たぶん余韻しか入ってないからね」
「エモすぎる……」
ミチルちゃんはもう一口吸ってから、ストローを指で軽く弾いた。
「てかさ、こういうのってさ、“言ったあとで意味ついてくる”タイプだよね」
「“意味の後追い”ね」
「そうそう。“意味先行型”より、“感覚ドリブン”のほうが今日っぽい。つまり、私はいま、“水曜日の脳”してる!」
「そのうち“曜日ごとに脳が違う説”を言い出しそうだね」
「それ、明日話そうと思ってた!」
「じゃあ今日は、音に集中してね」
「はい、マスター!」
ストローの先が、グラスの底を軽く叩いた。
“コトン”という小さな音が、水曜日の中心に沈んだ。
「ねえマスター、知ってます? この世界って、“音”で記述されてるんですよ」
ミチルちゃんが言ったとき、僕はちょうど冷蔵庫のドアを閉めていた。
「言語じゃなくて?」
「違う。“音”です。たとえば“あ”が多い日は、たぶんテンション高い。“ん”が多い日は、だいたい静か。“ひ”が多いと、ちょっと神経質な日。“ぴ”はかわいい日。音の並びで、空気が変わってくるんですよ」
「じゃあ今日は?」
「今日はね〜、“ゆ”が多い。だから、“ゆれ”てる。“ゆるい”けど、“ゆれる”日って感じ」
「確かに、さっきから全部の語尾に“〜ゆ”つけたくなる気分」
「そう、それが水曜日」
ミチルちゃんは、スマホのメモを開きながら、適当なポエムを探していた。
「あと、“リズム”ってのもあって。水曜日って、なんか語尾がね、“おしりで揃う”んですよ。“のよ〜”とか“よね〜”とか、リズムで話してない?」
「……言われてみれば、そうかもね〜」
「ほら! 今の、それ!」
「え?」
「“そうかもね〜”って、ちゃんと水曜日してた。マスター、水曜日してたよ!」
「曜日、動詞になるんだ?」
「曜日ってたぶん、行動じゃなくて“状態”なんですよ。だから“月曜する”っていうより、“水曜日してる”の。わかります? わかんないでしょ?」
「その“わかります? わかんないでしょ?”って構文、水曜日っぽいよね」
「それな!」
“それな”が二人の間に落ちたあと、しばらく店の中に音が漂った。BGMはかかっていないのに、何かのテンポがある気がした。
ミチルちゃんは、ストローの中に音が詰まってるみたいに言った。
「マスター、このお店って、音楽ですよね」
「何系?」
「“定義未満”系」
「ジャンルじゃなくて?」
「違う。“定義される前の存在”って感じ。リズムがあるけど、踊れない。旋律があるけど、口ずさめない。
でも、空気が“グルーヴ”してる」
「水曜日って、グルーヴしがちだもんね」
「てか、グルーヴって“水曜日の正体”なんじゃないかな」
僕はその言葉に、ちょっと笑いそうになって、でもなぜか、飲み込んだ。
「……グルーヴの正体が、水だったらどうする?」
「エモい」
「安い」
「最高」
語尾が全部、なんとなく音符っぽくなっていた。
誰も歌っていないのに、旋律だけが店に残った。
そのとき、窓の外を風が通った。
音がなかったのに、風のあとに“余韻”だけが残った。
水曜日は、やっぱり“余韻でできた曜日”だ。
ミチルちゃんはストローを手放して、ポケットからぐしゃぐしゃになった紙を取り出した。
「ねえマスター、今日さ、ひとつだけポエム読んでいい?」
「いいけど、“読んでいい?”って聞くタイプのポエムはだいたい読まれる前提だよね」
「うん、それがポエム」
彼女は紙をひらき、声のトーンを半音だけ下げた。でも発声は変わらず軽い。気取ってるようで、どこか音読大会の小学生っぽさもある。
「タイトルは……『うたってないのに、うたみたい』です」
「タイトルがすでに水曜日」
ミチルちゃんは息を吸って、すぐに読み始めた。
⸻
雲が生まれるところに
牛乳を注いだら
スプーンが笑った
だけど私の朝は
くちびるをつける前に
カップに“おやすみ”って言ってしまう
音がないのに
音がないことが、
ちょっとリズムになってる日
⸻
読み終えたあと、彼女は紙をそっとたたんで、「……まぁ、即興なんですけどね〜」と照れくさそうに笑った。
僕はそのあいだ、何も言わなかった。ストローがグラスの中でコトンと鳴った音が、そのまま僕の中に入ってきた気がした。
気がついたら、目の奥が熱かった。
喉の裏側がしずかに締まる。
涙が、こぼれた。
「……あれ、マスター? 泣いてる?」
「……うん、なんでだろうね」
「いや、私もなんでか分かんないですけど、たぶん、“エモ”が勝っちゃったんですね」
「意味が勝ったわけじゃないよね」
「うん。“意味がないことに負ける涙”ってあるんですよ。それが今日なんですよ。水曜日ってやつで」
僕は何か言いかけたけど、それを口に出すには、言葉が固まりすぎていた。だから代わりに、カップを洗いながら、静かに笑った。
会話が途切れた。そのあとを埋めるように、音が降ってきた。
“ポタッ……ポタッ……”
天井から、何かが落ちている。
水だった。でも、濡れない。音だけが、落ちていた。
「……来ましたね」
ミチルちゃんがストローを噛みながら言った。
「いつもこのタイミング?」
「はい。言葉が尽きたら、水曜日が始まるんです」
彼女はそう言って、目を閉じた。
“ポタ……ポタ……ポン……”
音のリズムが少しだけ変わった。水ではない。たぶん、“時間”だ。この喫茶店の天井からは、たまに“時間のしずく”が落ちる。
それは、週に一回だけ起こる。
水曜日。
“話すことがなくなった瞬間”だけ。
僕はグラスの中に耳を澄ませていた。すると、中の氷が“ポク”と鳴いた。
「これですよ、マスター」
「なにが?」
「この音が……水曜日なんです」
ミチルちゃんの声は、まるで“録音”されてるみたいに、少し距離を置いて響いた。そのとき、外の空にひとつ、白い文字が浮かんだ。
《音声ファイル:水曜日.wav》
拡張子がついているせいで、世界が少しだけ“パソコンの中”みたいに見えた。けれど、誰もそのファイルをクリックしない。再生もされないまま、水曜日は、静かに保存された。
「じゃあね、マスター」
「うん。おつかれさま。大学、がんばってね」
ミチルちゃんは何も飲み干さずに席を立ち、軽く会釈をして出ていった。彼女の鳴らしたドアのチャイムの音に、“ポン”というしずくの音が重なった。