火曜日には左目だけ開く
店の鏡は、火曜日になると左半分だけ曇る。原因は気温でも湿度でもない。なぜか火曜日だけそうなる。曇った面に映る僕の顔は、どこか昔の知り合いに似ていた。その曇りを、ガーゼでそっと拭いていると、ドアが開いた。
「うぃーっす、真理の者、来店でーす」
まるでフードコートにでも来たようなテンションで、ホリイさんが入ってきた。白いシャツにネクタイ、スラックス、そして左目に不自然な眼帯。今日は“逆読み可”と書かれたワッペンがついていた。
「“逆読み可”って、何が?」
「真理だよ」
ホリイさんは堂々と言った。
「真理ってさ、文字じゃないんだよね。配置なんだよ。たとえば“世界”って、逆にすると“界世”じゃん?」
「うん、そうなるね」
「“界世”って言葉、意味わかんないけど、ちょっと強そうじゃない?」
「たしかに、“界世の王”とか言われたら、たぶん跪く」
「でしょ?」
彼は満足げに椅子に座った。いつも通り、注文を聞かずに話し始める。
「マスター、俺、今日見えたわ。左目で、チラッと」
「何が?」
「終わりだね。たぶん今週でこの世界、終わるよ」
「急に結論だけ来たね」
「いやいや、ちゃんと流れがあったの。今朝、階段降りてたらね、床の木目が“さよなら”って読めたんだよ」
「木目で?」
「木目で。“さよなら”って横書きで。で、左目で見たら“らなよさ”って見えて、あ、これ逆読みしてるなって。“真理”だなって思ったわけ」
「“らなよさ”はどういう意味なの?」
「わかんない。でも心に刺さった。“真理”ってそういうもんだから」
「銀シャリかよ」
僕はまともな返事をしないで、厨房の奥に下がった。今日のプリンはすこし固めに仕込む予定だった。ホリイさんの話をBGMに、卵を割る。
「でさ、左目って、見えすぎちゃうから眼帯してるのよ。だから逆に、火曜日だけは“隠しながら視る”っていう技術が必要なんだよね」
「見てんのか、見てないのかどっちなの?」
「その境界が一番危ない。だからそこに“真理”が落ちてる。わかる? わからないよね」
「うん。わかんない」
卵の黄身が、スルンと抜けた。きれいに分離できた日は、大体世界がちょっとだけズレてる。
「てか、今日の空さ……あれ、だいぶヤバくない?」
僕はちらりと窓を見た。空はまだ普通だった。ただ、雲が“箇条書き”になっていた。見出し番号もついている。
1.雲
2.空
3.飛ばないもの
「火曜日って、“予告編”が多いんだよね。空に。終わりの」
「じゃあ、上映は何曜日?」
「たぶん水曜日。水曜日ってそういうとこあるじゃん」
「あるか?」
彼は自信満々にうなずいた。僕はその顔を見るとき、正面からは見ないようにしている。火曜日は、世界が終わる予定の日じゃなく、世界が“終わるかもしれない”という気分になる曜日だ。そして、そういう気分のときはたいてい、プリンがきれいに焼けない。
「よし……今日もやるか、真理タイム」
ホリイさんは自分のカップをそっと両手で持ち、わざわざカウンターの中心に据え直した。
「やっぱりね、運命って、カップの底に現れるからさ」
「抽出された真理ってやつ?」
「そうそう、ドリップで滲んでくる人生の跡。で、俺、これ“見える人”だから。しかも火曜日だけ」
「便利だね」
「火曜日以外は見えないけどね」
「不便だね」
ホリイさんは、そっとカップを傾けて、底を覗き込んだ。目が鋭くなる。左目は眼帯で隠れたまま。その姿は占い師というより、コーヒーの表面を捜査する刑事だった。
「……ああー、出たなコレ。“二重顎のカマキリ”。」
「聞いたことないな、そのシンボル」
「不吉の中でも、かなりランク高いよ。“未来を二枚舌で挟む”って意味」
「なるほど。どう対処すれば?」
「プリンの上に、紫のミントを置く」
「マジで?」
「知らん。今、降りてきた」
僕は湯せんの温度を確認しながら、彼のコーヒーにわざと微妙な揺れを加えた。すると彼は、またカップを持ち上げる。
「……お、変わった。“背中が迷路のネコ”になった」
「かわいいなそれ」
「いや、逆に怖いよ。ネコが“抜け出せない背中”背負ってんだよ。それって、俺たちの人生そのものじゃん?」
「うちはそういう重たいの出してない店なんだけどね」
別のテーブルでスマホをいじってた若い客が、こっちの会話にうっすら食いつき始めた。
「マジでヤバいやつ出たじゃん、それ。ネコ迷路って」
「でしょ? 火曜日、ほんと来てよかったわ」
「でもあれじゃね? 二重顎のあとにネコって、なんか順番おかしくね?」
「いや、ちゃんと意味ある。多層構造なんだよ、真理ってのは。“ネコが迷ってる背中”の中に、“二重顎のカマキリ”が潜んでるの」
「ややこしいな……」
僕がぼそっとつぶやいたのを、誰も聞き取れなかったらしい。プリンの生地はいい感じに仕上がり始めていた。泡を落とさないように流し込みながら、僕は自分の手元の動きに集中する。ホリイさんは、また別のカップを手にした。これは今朝、試作で淹れた“深煎りメモリーオーバー”というブレンド。
「うわ……これはもう“逆さに吊るされたサラリーマン”だわ」
「やめてくれ、それは僕にも見えた」
「ほら、だから言ったじゃん、マスター。今日はヤバいって。もう世界、バグってきてるよ。カップの中に社畜が逆さにいるんだよ?」
僕はプリンをオーブンに入れながら、ただ答えた。
「大丈夫。まだキャラメルが焦げてないから、世界は終わらない」
「逆に、焦げたら終わるの?」
「うん。そのときは、プリンの下から“神”が出てくる」
「マジか……」
ホリイさんは、カップを見つめたまま真剣にうなずいた。そのまま、何の根拠もなく、店内の空気は“終末ごっこ”に傾いていく。
僕は卵をもうひとつ割った。
オーブンのタイマーが「ピピ」と鳴った。これもまた、火曜日の合図。プリンの表面は、少しふるえていた。まるで何かを堪えているみたいに。ホリイさんは、そのふるえを凝視したまま、低くつぶやいた。
「……あれが、今週の運命か」
「プリンのこと?」
「そう。“構造体”だよ、あれは。火曜日が固めてる世界の“構造体”。だって考えてみて? あれが崩れたら、上にあった空気、全部落ちるじゃん」
「もしかしてカスタード理論?」
「そう。つまり空も落ちる。上にあったものが、下に吸い込まれる構造。それを人は“終わり”って呼ぶわけ」
「そうなんだ」
「マスター、このプリン崩れたら、どうなると思う?」
「重力がバニラの方向に集中して、皿が逆に反り返る」
「それそれ、それが“火曜日の反応”なんだよ!」
若い客が、さっきからこっそり録音しているような動きをしていた。だがホリイさんは気づいていない。彼は今、火曜日にしか開かない宇宙を見ている。
「このプリンは、“崩れたら終わる”っていう前提で構成されてる。だから逆に言うと、“崩さなければ世界は守られる”ってことじゃん?」
「じゃあ、出さなきゃよくない?」
「でもプリンは出したい! 俺、プリン食いたいもん!」
「欲望に負ける真理の話、初めて聞いたよ」
僕は仕上げたプリンのひとつを、スプーンの背で軽く叩いた。振動が走る。そこに、火曜日の気配が乗る。
「じゃあ今日は、逆さプリンで出すよ」
「逆さ?」
「構造を最初から“崩れた前提”にする。最初から終わってるものは、もう崩れない」
「天才か?」
「厨房哲学者って呼ばれてるからね」
「初耳だわ」
僕は冷蔵庫から器を取り出し、プリンを“ひっくり返したまま”の状態でサーブした。本来ならきれいに上に乗るはずのキャラメルが、皿の下に染みていく。
「逆さ……なるほど。これは……“運命の事後報告”って感じだな」
「“もう終わったけど食べてね”ってメッセージ」
「うわ、深ぇ……甘いけど深ぇ……」
ホリイさんはひとくち食べたあと、静かに言った。
「空、落ちてきたら、プリンの上に置こうな」
「そのために冷やしてあるからね」
ホリイさんがスプーンの裏を見つめていた。真剣そのものの顔だった。
「……見えるな。スプーンに……“顔”がいる」
「火曜日の神?」
「うん。スプーンの裏に“逆相の存在”が映るの。世界の反転面。これを見た人間は、“曜日の外側”に出られるって言われてる」
「どうやって戻ってくるの?」
「スプーンを舐めながら」
「おかえり口じゃん」
ホリイさんは、そっとスプーンを傾けながら、解説を始めた。
「見える……輪郭が、ちょっとマヨネーズみたい。なめらかなんだけど、不安定。で、光の反射が“棚”になってる」
「棚?」
「うん。“神棚”みたいな光。あと、目が“調味料ラック”なんだよね。完全に火曜日っぽい顔だわ」
「火曜日っぽい顔って、どういう顔?」
「“木曜感”がある顔」
「それ火曜日か?」
「いや、そこがポイントなの。“火曜日の神”は、常に“木曜感”を持ってることで、“火曜であること”をギリギリ維持してるのよ。わかる?」
「……わからないけど、たぶん理解したふりで会話が続くタイプの話だね」
ホリイさんはスプーンをくるくる回しながら、その裏に見える顔の描写を延々と続けた。
「今、まばたきしたわ。ただ、まばたきが“音”なんだよ。“シャキン”って聞こえた。多分、まばたきに刃がある。目が武装してる」
「防衛型神?」
「そう、“曜日間紛争”に備えてる。あの目、絶対“水曜”と戦ったことあるもん」
「何曜日同士で戦ってんだよ……」
「今、こっち見てる。“お前のプリン、ちょっと固いね”って言ってる顔してる。失礼だなこの神……!」
僕はカラメルの染み出しを見ていた。ほんのり、外の空気が甘くなっていた。
「……ねえ、マスター。空、今なんか匂わなかった?」
「うん、バニラ系の匂い。火曜日特有のやつだよ。このあと少し焦げた砂糖の風がくると思う」
「空が……デザートになってきてるんだよなあ」
「多分、今日の天気予報、“くもり一時アフォガート”とかだったはず」
「神がスプーンからこっち見てるし、空からカスタード降ってくるし……
終わりの気配、どんどん甘くなってない?」
「うちの店が原因じゃないといいんだけどね」
若い客が、スプーンの裏を真似して見始めた。でも彼には、何も見えていないようだった。
「俺さ……火曜日の神、嫌いじゃないんだよね」
ホリイさんが、プリンの最後の一口を口に運びながら言った。
「どこかこう、“あきらめ方がうまい顔”してるからさ」
スプーンが、カラン、と皿に落ちた。
風が止んでいた。止んでいたというより、“止められていた”ような静けさだった。外の空に、白い文字が浮かんだ。
《有効期限:火曜日(再発行不可)》
フォントはMSゴシックだった。それが逆に、生々しかった。
「……出たな」
ホリイさんがスプーンを指差しながら、低く言った。
「終わったわ、これ。世界、今週で終了確定だわ。“再発行不可”ってことは、つまり“火曜日はもう返ってこない”ってこと」
「それだと、今日来た君はどうなるの?」
「火曜日に属した最後の人間、ってことになるな」
「肩書きにしては寂しいなそれ」
ホリイさんは立ち上がって、背筋をしゃんと伸ばした。
「マスター……じゃあ、また……来週……」
「ええ、来週も火曜日にどうぞ」
「……でも、“再発行不可”って書いてあるよ?」
「うちは独自カレンダー採用してるので」
「マジで?」
「嘘です」
ホリイさんは笑った。真理を見た目で語る男が、久しぶりに、普通の笑い方をした気がした。若い客は、まだスプーンの裏を見ていた。
「なにも映んねぇなあ……」とつぶやいている。
僕は片付けの手を止めて、テーブルのひとつをふいた。ホリイさんのいた席の上、プリンの皿のふちに、
一文字だけ、カラメルで描かれていた。
《おかわり》
でも、誰もそれには触れなかった。それが火曜日の終わり方だった。
ドアが開き、閉じる音。風が戻ってきた。甘くて、どこか焦げた香り。
僕は棚から新しい卵を出し、静かに割った。