紅茶とこんにちは(後書き)
珈琲とさよなら
──これは“記録されなかったものたち”のための物語です。
まず、ここまで読んでくれたあなたに、静かに「ありがとう」を伝えたい。この物語が“あなたの時間”に記録されたこと自体が、もう十分に奇跡だから。
そして、今から始まるこの後書きは、読み終えたあなたの胸に残った“正体不明の感情”を、少しでも言語化する手助けになればと思っています。
なにせこの物語は、カオスで、ナンセンスで、メタフィクションで、詩的で、哲学的で、ギャグで、優しくて、残酷で、優しくて、でもたぶん、何よりも“今日”だったから。
■なぜ「珈琲とさよなら」だったのか?
この物語には、「死」も「別れ」も「記憶」も「存在の不安」も「夢」も、はっきりとは描かれていません。でもそのすべてが、“保存されなかった”というただ一つの概念に集約されています。
誰にも思い出されなかった人。
カレンダーに名前のない日。
発言が記録されずに流れていった一言。
“自分が何者なのか”を持たないまま、それでも“ここにいた”という人。
この作品は、そういう“保存されなかったもの”に、せめて一杯の珈琲を出して見送るための場所として生まれた物語です。
“さよなら”を言われなかった人に、“さよなら”を。
“記録されなかった言葉”に、“味”という記憶を。
だから店の名前は《珈琲とさよなら》なんです。
■構造的に壊れていく世界、でもマスターだけは“今日”を続ける。
この世界は「保存」という概念で管理されている。
“金曜”は保存できる。
“水曜”も記録に残る。
だけど、“日曜”は消えた。
そして“言葉”が記録されなくなり、
最後には“曜日”という単位すら解体されていく。
でも、そんな世界の中で、主人公のマスターだけが、ずっと“今日”を提供し続ける。
それがたとえ金曜でも、仮の土曜でも、誰にも記録されない日曜日でも。
なぜならマスターは、“記録されなかった者の味方”だから。記憶じゃない。“味”で覚えている。
存在じゃない。“今日”で迎えている。
これは、“今日”だけが残る世界の物語。
明日が消えるなら、“今日だけでも、ちゃんと出す”。
■ギャグとメタとポエジー、その融合。
この作品は最初から最後まで、ギャグで始まり、詩で終わる。それは決してバランスの悪さではなくて、“意味”の不確かさを描くための技法だった。
キャラの名前、曜日の性格、天気のバグ、メニューの崩壊。すべてが意味不明で、すべてに意味がある。
たとえば「PRIN(仮)」というプリン。
たとえば“感情:0.8”とタグ付けされたリアクション。
それらを(少なくとも僕が)おもしろいと思えるのは、“わからなさ”を恐れていないから。
そしてそれらが切ないのは、“わからないまま進もうとする誠実さ”があるから。
ナナシが言った「俺、“日曜日”って名前だったかもしれない」
あの一言に、どれだけの人間が心の奥に持っていた“記録されなかった名前”を思い出したか。
だからギャグでよかった。カオスでよかった。
“わからないままでも、コーヒーを出す”というスタンスだったからこそ、この物語は最後まで真っ直ぐだったと、そう思います。
■「読者」という客へ、一杯の珈琲を。
この物語の読者もまた、ある意味ではこの店の客です。
あなたがこれを読み終えるまでに、きっと色んなものがあなたの中で曖昧になったはず。
「これはどういう意味?」とか
「なんでこのキャラ出てきた?」とか
「何が現実で、何が比喩なの?」とか。
でも、それでも読み進めてくれたあなたに、マスターとして出す最後の一杯が、この“後書き”です。
あなたがもし、“何者でもなかった”ように感じた日があったとしても。
誰にも名前を呼ばれなかったとしても。
書き残すものが何もなかった夜があったとしても。
この物語の中では、あなたの“今日”も、
ちゃんと湯気になって立ち上がっていました。
■そして、また、明日。
ラストシーン。
マスターが言う。
「おかえりなさい、“今日”さん」
このセリフに全てを込めました。
人は何度でも、“今日”を迎え直すことができる。
昨日が保存されていなくても、言葉が記録されていなくても、この店は、あなたに一杯の“今日”を出すために開いている。
それが、“また、明日。”という言葉の意味です。
ありがとう、“今日”に来てくれて。またいつか、名前のないカップを置きに来てください。
そしてそのときは──
おかえりなさい、“今日”さん。
てことで真面目モードでした〜。こっからは殴り書き。なので読まなくても問題ないです。ストーリーについては真面目モードである程度語ったのと、皆さんの解釈にお任せしたいと思ったので、ここでは小ネタの解説でも。お供に紅茶はいかがでしょう。
まずは、ナナシさん回(1話)。ここでは名前でボケてます。「しげと」は、真空ジェシカの川北茂人さんから、「エイドリアン」は僕の連載中作品「視差」の主人公から、「ふみと」は「都落ち」から、「じょういち」は「ショートゴロ」から、それぞれ引用してます。
ホリイさん回の1番大きなボケは「銀シャリかよ」だと思いますが、これは雑学のネタの「語源ってそういうもんやから」から来てます。バリバリバロリバロリーブロッコリー!のやつです。
ミチルちゃん回は、ボケ控えめで。僕の推しがミチルちゃんなので、ガチでポエムを書きました。
ボンさん回も同様にボケはほぼなく、自由についての僕の考えを代弁してもらいました。
ヨシミちゃん回は僕が書きたいヨシミちゃんを書いただけ、土日は物語の核なので、完全に小説モード、あとはそこら中に散らばってるわかりやすいボケだと思います。
この小説を完璧に理解した人がいれば、当分の間は僕の小説で理解に苦しむことはないと思います。そうなる作品があるとすれば、「視差」でしょうか。
あとは「都落ち」「ショートゴロ」あたりも是非見てってください。あれは今作の数百倍文学なので。
対して、「レーシング・ドリーム」の圧倒的幼稚さに、さぞ驚く方もいらっしゃると思います。
でも、「レーシング・ドリーム」の主人公は、あくまで自転車に人生を捧げた男です。
それなら、主人公視点で書いているのに、文学的表現をポンポン出したら、それはそれでおかしいですよね。
だから……というのは甘えですが、文章力が伸びてきた今、書き進めるのが難しくなっているんです。
あと「田不酷腐 駄煮」という名義で投稿している小説は、僕ではなく、友人から投稿を依頼されたものなので、「作風違うな〜」と思うのは、当然です。
そんな細かな工夫を、今作で伝えたかったです。
また、ある方が感想で、読みづらさについて指摘してくださいました。
この後書きが投稿された4月22日14時より、僕の全作品を大幅に改稿させていただきます。
それでは改めて、今作「世界の終わりには喫茶店を」を読んで頂き、ありがとうございました!!!