本日のサービスは曜日です
部屋の空気は妙にねっとりしていて、カウンターの上に置いた角砂糖が、お湯のないカップの中で勝手に溶けていきそうな、砂糖を入れても溶けきらないような、そんな朝だった。今日も世界は、少しずつ静かに壊れている。喫茶店『珈琲とさよなら』は、五分早く開けた。そうすることで、時間の崩れに少しだけ抗える気がする。いや、別に意味はない。時計が信用ならないだけだ。
ドアがバタンと跳ねた。
「あいっっ、失礼しまーす! 本日分の月曜日、お届けに上がりましたァ!」
誰にも頼まれていないのに、ヨシミちゃんはいつも全力で店に入ってくる。配達員なのに、いつも店内に入ってくる。そして、なぜか制服が虹色。靴下の片方には“火曜日”って書いてある。なぜかは知らない。
僕は新聞を読むふりをやめて顔を上げた。読み始めてからずっと、天気予報の“天”の字をにらみ続けていた。今週の天気は「変数未定」らしい。
「月曜日、玄関口に置いといてもらって大丈夫だよ」
「いやいやいや、それがですね〜、昨日の分の“日曜日”、どっか行っちゃいまして!」
「日曜日、消えた?」
「たぶん盗まれました! ぜんっぜん見当たらなくて! “日付泥棒”って最近出没してるらしいですよ!」
日付泥棒。
それは今朝のニュースのトップ記事だった気がする。
“被害者の証言:「気づいたら今日がなかった」”
「……じゃあ今日は、ちゃんと月曜日になるんだよね?」
「ハイッ、こちら月曜日です!ご確認くださーい!」
ヨシミちゃんはカバンの中から、クリアファイルに入った封筒を取り出す。手書きで「本日分:月曜日(湿式)」と書かれていた。たしかに湿式らしい。指先にぬるっとした感触が移った。生き物ほどではないが、紙ではない何かだった。
「今日は月曜日、ちょっと粘度高めでーす! 皮膚呼吸、がんばってくださいね!」
「そうか、頑張るよ」
僕は封筒を受け取り、カウンターの裏にある冷蔵庫へと歩いた。透明なガラス扉を開けると、すでに先週の“金曜日”が斜めに寄りかかっていた。ラベルには「まだ使えます」と殴り書きがある。
「月曜日は“開封後、お早めに”ですからねー!」
ヨシミちゃんの声が遠くで弾ける。
「過ぎると“日記”になりますからね〜! 酸っぱくなっちゃうので!」
僕は黙って封筒を冷蔵庫に収める。指に残った粘り気を、布巾でそっと拭った。
「日記は……苦いよね」
思わずつぶやいた。特に誰かに向けた言葉でもなかった。
ヨシミちゃんは、最後に元気な敬礼をしてドアを出ていった。
ドアのチャイムが鳴ったあと、店内の音がぴたりと止まる。僕はいつものように、椅子に腰を戻し、いつものように、少しだけ斜めになったカップを見つめた。
冷蔵庫の中で、月曜日が音もなく揺れていた。
ドアの軋む音がした。
「うす……空いてる?」
「僕が居るってことは、入ってるよ」
ドアは一向に開かない。そういう時もある。
ナナシさんが、いつのまにかカウンターの端に座っていた。彼の服はいつも同じくたびれたグレーのパーカーで、毎週必ず“月曜日”の空気を背負って現れる。その空気が、湿式になってからは、特に濃い。
「やっぱり……今日も月曜日かぁ」
ナナシさんはそう言って、天井を見た。
「月曜日って、俺の名前を持ってったからなぁ」
「そう」
「寝て起きたら、俺の名前がなくなっててさ」
彼はカウンターに肘をついて、顔を斜めにした。
「枕元にメモだけ残ってて、“ご自由にお使いください”って」
「それ、名前じゃなくてシーツの話だったんじゃない?」
「いや、名前だと思うよ。だって朝起きて、母ちゃんに“おはよう”って言ったら、“誰?”って言われたもん」
僕はお湯を沸かし始めた。やかんの底が小さく鳴る。このくらいの話で驚くのは、まだこの世界に来て日が浅い人だけだ。
「でさ、役所に行ったんよ。名前なくなったって言いに。ほんで“名前、なくしたんですけど”って窓口の人に言ったら、“お名前は?”って言われて」
「ああ、詰んでるね」
「そう、詰み」
ナナシさんは苦笑して、椅子の背にもたれた。
「それ以来、俺は“名無し”よ。名札もグーグルも反応しない」
やかんがぐらっと揺れて、湯気が“月曜日”のにおいと混ざる。少し、鉄っぽい香り。僕はそのにおいを少し吸い込んでから、コーヒー豆を挽き始めた。
「今日は、“名前の味”が出てるやつ、あるよ」
「マジで? そんなのあんの?」
「ある。偶然、今朝の豆がそうだった」
僕は適当なことを言いながら、サーバーにお湯を注ぐ。細く、細く、時間を引き伸ばすように。
「まじかよ……じゃあそれ、飲ませてよ。“俺の名前の味”、わかるかも」
「まあ、当たる保証はないけど」
「いいよ、当たらなくても。“味の方向性”だけ掴めれば」
ナナシさんは真顔でそう言った。それがどういう意味かは分からなかったが、おそらく彼にも分かっていないのだと思う。
コーヒーを注ぐと、少し濁ったような香りが立ちのぼった。酸味は控えめで、香りにやや湿り気。湿式月曜日の影響かもしれない。
「はい、こちら。“今朝の名前ブレンド”」
僕はカウンター越しにカップを差し出した。ナナシさんは、手を合わせてから真剣な顔で口に運んだ。まるで昔の自分と向き合うように、ゆっくりと。
「……あー、これはね、“しげと”だね」
即答だった。
「“しげと”?」
「うん、間違いない。“しげと”って舌の右側にくるんだよ。こう、ぐっ……て」
彼は舌の右側を指で押さえて、得意げにうなずいた。
僕はその動きに見覚えがあった。去年の“たけし味ブレンド”のときと同じ仕草だった。
「次は、ちょっと濃いやつ、ない?」
「あるよ。“中濃しょうゆ味・けんじ”なら」
適当に言ったのに、ナナシさんの目がキラッと光った。
「けんじ……!来い、けんじ!」
一口飲んだあと、彼は椅子の背にもたれ、目を閉じた。
少し時間をおいてから、ゆっくりと首をふった。
「違うな、これは“健司”だ。伸ばすと味が変わる」
「“ケンジ”と“ケーンジ”で違うの?」
「違う。前者はこめかみにくる。後者は喉奥の“過去”にくる」
彼はすでに何かを超えていた。僕はそれ以上問いただす気もなく、次のカップを用意した。
「これは?」
「……“ともゆき”っぽいけど……なんか未完成だな」
「途中で生まれたみたいな?」
「そうそう、“とも”で終わる気もするし、“ともひこ”に伸びる気もする」
「“ともとも”とか?」
「うわ、それは気持ち悪い。“ともとも”は味が残る」
僕は棚の裏から、半年前に焙煎した“エイドリアン”を引っ張り出して、こっそり差し出してみた。
「これ、ちょっと古いけど」
「いただきまーす」
ナナシさんは、今度は口に含んだまま沈黙した。カップを置くと、唇が少し震えていた。
「……これ、“俺”かもしれない」
「“エイドリアン”が?」
「うん。っていうか、“エイドリアン”って名前……なんか響いた」
彼は目を伏せたまま、湯気に指を伸ばす。
「もしかして、俺、“エイドリアン”だったんじゃ……?」
「じゃあ、今日から“エイドリアンさん”って呼ぶ?」
「いや、それも違う気がする。“さん”をつけると、味が“上司”になる」
「味が上司ってなんだよ」
「なんかピリッとして、ちょっと管理される」
しばらくして、彼は“ともはるくん2号”を頼んだ。
“ふみと”は酸っぱすぎて不合格。
“じょういち”は飲んだ瞬間に「うわ、これ中学の頃の友達だ」と謎の感傷に沈んだ。
最終的に、カップが8つ並んだカウンターの上で、彼は静かに言った。
「“名前”って、味で覚えてんのかもな」
「だったら僕の名前、苦そうだな」
「ううん、マスターの味は……たぶん“すごくちょうどいい”。なんか、お湯のふりして、実は出汁みたいな」
「それ、褒めてるの?」
「うん。たぶん俺、今、“マスター味”飲んでるから。ありがとう」
そう言って、彼はひとつの空のカップを撫でた。どのカップが“マスター味”だったのかは、あえて聞かなかった。
「……なあ、マスター」
「うん?」
「これ、見えるんだけど」
「何が?」
「コーヒーの中に、“ナ”って書いてある」
僕はカップの中を覗いた。見えない。少なくとも、目には見えなかった。
「泡じゃないんだ。こう、液体の奥の奥に、“ナ”が沈んでる感じ」
「……たぶんそれ、あなたの脳内コーヒーフィルターの問題じゃないかな」
「いやいやいや、違う違う。“ナ”がいる。たぶん“ナ”は俺の名前の最初の一文字だよ」
「じゃあ次、“ナツオ”って読んでみようか」
「違うな。“ナツオ”って名前は、もう少し涼しい味がする。この“ナ”は……“ナガレヤマ”って感じがする」
「地名になってない?」
「いや、人名だよ。“流山くん”。いたもん、昔」
カウンターに並べられたカップを指差しながら、ナナシさんは名前を叫び出した。
「これ、“しげと”。これ、“じょういち”。これ、“流山”。これ……うわ、“たかゆきくん2号”だ!」
「“2号”ってなに。量産型か」
「違う、“2号”ってのは、“初代”が忘れられた後に生まれた名前だよ。“たかゆきくん”が二人いたとき、どっちかが“2号”にされる。人類の悲しみだよ!」
「うちは喫茶店なんだけどな……」
そのとき、カウンターの隙間から、淡い光が差し込んだ。外の空が、さっきまでの曇りから、エクセルのグラデーションに変わっていた。パステルブルーからオレンジ、黄緑、そしてなぜか水色へ。見覚えのある色だ。オフィスで眠っていた色味。世界が書類になったような、あの寂しさが空に滲んでいた。でも、ナナシさんは気づかない。彼は今、目の前のカップと格闘していた。
「これは……“名前未定”…!」
「またか。“未定”多すぎない?」
「いや違う! 今度はカップの底に“。”が見える。“ナ”と“。”。つまり“ナ。”が名前だ!」
「文章で言うと、すごい言い切って終わるタイプの名前!てか小説だからこそできるボケだね」
「“ナ。”っていう短歌作れそうじゃない?“ナ。ーナ球の運動について”
雨の日に ぬれた犬でも 俺の名を呼ぶ」
「それ、もはや犬の名前では。てか思いついたことなんでも言っていいわけじゃないんだよ」
僕は一応、カップの中をもう一度覗き込んでみた。
なにも見えない。でも、彼の目には確かに、何かが浮かんでいるらしい。
「泡が“ひらがな”になる瞬間がある」と言い張っていたのも、あながち嘘ではないのかもしれない。
「マスター、“ナ”って味、あるよな」
「ある。たぶん、渋くて、最後にちょっと痺れるやつ」
「だよなー。……俺、“ナ”なのかもな。名前の一文字だけ、ずっと残ってる感じ」
その瞬間、外の空に“罫線”が走った。方眼紙のようなラインが空を区切っていく。グラデーションの下に、四角い区画がゆっくり並んでいく。
「……今日、風がないね」
僕はそう言った。
「“ナ”って、風が止まる音だよな」
ナナシさんは窓のほうを向かず、カップの中を見つめ続けた。そして、もう一度、静かに言った。
「“ナ。”で、いいかもしれない」
彼の目は、たぶん今までで一番真剣だった。
カップの中で、“ナ”は静かに沈んでいった(多分)。液面はゆるやかに波打ち、反射がカウンターの下の床をわずかに揺らす。ナナシさんは、まだそれを見ていた。
「……今日は、味が全部やさしいな」
「月曜日、しっとり仕様だからね」
「いや、味が“説明しない感じ”で優しいっていうかさ。“俺のこと、知ってるけど聞かないよ”って味」
「それ、ただのうすいコーヒーだよ」
「うすいっていうなよ。“詩的”って言って」
僕たちは、そこからしばらく何も言わなかった。その沈黙の中で、外の空に、文字が浮かんだ。
《上書き保存中……》
ゆっくりと点滅する、水色のフォント。まるで空自体が、どこかのパソコンに繋がれていて、今日という日を保存しているようだった。雲は、ファイルバーのように整列し、太陽は「閉じる」ボタンの色に近づいていた。ナナシさんは、ようやく目を上げた。
「あー……月曜日って、こういう日だよね」
僕はその言葉に対して、頷く以外の選択肢を持たなかった。
「ええ、いつも通りですね」
カップの中で、冷めきったコーヒーの上に、光が一度だけ反射して、“小さな点”のようにきらめいた。ナナシさんが立ち上がった。手をポケットに突っ込んだまま、入り口のドアの方へ歩きながら言った。
「……もしかして、俺の名前、“上書き”だったのかもな」
「あるいは“未保存”だったのかも」
「そっちのほうが、ちょっとかっこいいな」
彼はふっと笑った。ドアを開ける音がしたとき、空の文字が一瞬だけ“フリーズ”した。
でも、誰もそれには触れなかった。