んわの空
んわ‐の‐そら〔んは‐〕【■の空】
1.空想時における現象のひとつ。特定の■■に心を奪われて、■■を見失う状態。
「稲生、んわの空になってるぞ」
「え。なにそれ」
佐野君に言われた単語が理解できなくて、思わず聞き返した。
彼は少し色素の薄い目を軽く見開いた。その拍子に、眼鏡に夕陽が反射する。
「えっ。小学校で習うだろ?」
「いや。知らない。うわの空じゃなくて?」
「いや、違う」
彼はふるふると首を横に振る。
「うわの空とはよく似てるけど、意味は全然違うから気をつけろって習っただろ?」
「ええ……」
小学校の頃からできのいい佐野君だから覚えてるんだよ、という文句を飲み込む。
それにしても一体どんな単語だろう。
スマホに入力して確定をタップした瞬間、電波が途切れた。ドット絵のティラノさんが居る。数秒待つと、元の検索画面に戻ってきた。
右上のアンテナを見る。電波はバッチリ掴んでる。
なのに、何度かティラノさんとご対面を繰り返して、やっと検索結果に辿り着いた。
よく見る辞書サイトの見出しには「んわの空」とある。
リンクを開くと、普通の解説ページのように見えた。
けど、読めない。確かに日本語で書かれているのに、所々こう、頭が理解を拒む。
「……わの空、とは? 空想時における現象のひとつ。心を奪われた*.}<\に依存して世界の境界を:9(?,することを指し。ソレヲ知る、と……? うん、分かんないな?」
これなら成績優秀な佐野君に聞いた方が早い。画面から目を離して顔を上げると。
佐野君がじっとこっちを見ていた。なんか真っ暗で、吸い込まれそうな目だ。
「佐野君……?」
「ん、何?」
彼が瞬きをすると暗闇が消えて光が戻ってきた。何もなかったかのような顔で首を傾ける。
ちょっと気になったけど、それよりも、とスマホを揺らす。
「あの。これ。これ意味分かんないんだけど」
「書いてあるだろう?」
「分かんないから聞いてんの」
佐野君はよく分からないという顔をして、画面を覗き込んだ。
ちょっと距離が近付いて、前髪が触れた。眼鏡がなければ額が触れただろうか……いやいや、さすがに幼馴染みだからってそれはないよ。期待してはいけない。
「ああ、これじゃあ稲生は読めないな」
「どういうことよ」
「言葉通りの意味。んわの空ってのは――要は〝この状況〟だ」
「うん?」
「ん、は最後。わ、はループ。つまり繰り返し。空は現実に存在しない空間。つまり、存在しないし終わらない、空想の世界。……ほら」
そう言って佐野君の指が私のスマホに触れ、すっと画面をスクロールする。
「ここが分かりやすい」
そこに表示されていたのは、とある文章だった。
「稲生美汐は、空想に心を奪われて、んわの空に居る」
「……私が、なんて?」
佐野君の方を見る。彼はふわっと笑った。
「ここはお前が作った世界だよ。終わらない放課後」
優しくて儚い――そう、今にも消えそうな笑顔で、小さく溜め息をついた。
佐野君の手がこっちに伸びてくる。
冷たい指先が額に触れる。少し身を引く。すぐに追い付かれ、そっと目を塞がれた。
「稲生は想像力が強いからな。うっかりするとすぐこうなる。いつも巻き込まれて起こす身になってみろ」
「佐野、く――」
「もう呼ぶな。俺も帰れなくなる」
少し強い声に、声が詰まった。
目を塞ぐ手の冷たさが、少しずつ温かくなってきて。意識がふわふわとしてきて――。
□ ■ □
「――は」
気が付くと、教室だった。
意識がふわふわする。寝てたんだろうか。
何か夢を見ていた気がする。ずっと外を見てた気もする。あれ。誰かと話してなかったっけ? と考えていると。
「お。戻ってきたな?」
隣から声がした。
机に腰掛けて私を見下ろす、色素の薄い瞳は――。
「佐野君……」
「ん。お前はいつもぼーっとしてるな。声かけたのに上の空でさ」
「うわのそら……んわの空じゃなくて?」
佐野君はぱちりと瞬きをして、軽く噴き出すように笑った。
「なんだそれ。稲生の空想の世界かなんか?」
「む。笑わなくても良いじゃない」
佐野君は笑ってずれた眼鏡を直しながら、「ごめんごめん」と謝る。
「笑ったお詫びに売店でジュースおごってやるから。ほら、帰るぞ」
「あっ、待って!」
そう言って鞄を持つ彼に慌てて付いていく。
一瞬目を向けた廊下の外の夕暮れは、端に夜が滲んで見えた。
「――まったく、いつも起こすのも大変なんだからな」
「え、今なんて?」
「なんでもない」
んわの空の世界には、多分稲生と佐野しか入れない。