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眠るように息をして

作者:


【僕の日記】


病める時も健やかなる時も

これは僕の日記。


思い出したくないことも

忘れたくないことも書いていこうと思う。


僕は双極性障害という病に冒されている。躁鬱病とも呼ばれている病気だ。


精神病でも普通の人と同じように喜怒哀楽があって悩みがある。病気なのに思ったより元気だねと言われることもある。


精神病の人とそうでない人の間では、ギャップがあって無知や思い込みや勘違いがある。


これはただの日記で、病気について解説するものでも、間違いを正すものでも、接し方について指南するものでもない。


ただ知って欲しい。

精神病の人が何を考え、何を感じ、どんな行動をして毎日を生きているのか。

精神病の人がどんな環境で育ち、何がきっかけで発症し、何が生きづらいのか。


性格にもよるが、健常者が他人の病気、特に精神病の人の病気について聞くのは憚られることだ。精神病患者も親しくない人や、親しくても病気に対する理解が乏しい人には話したがらないかもしれない。


精神病はトラウマや受け入れられない辛い過去が絡んでいることが多い。病気を完治していない者にとって土足で病気に触れられること、説明を求められることは生傷に塩を塗られているような感覚だ。


この日記はほんの興味本位で読んで欲しい。恋人の日記帳が目の前に置かれていたら、思わず読んでみたくなるような、そんな気持ちで読んで欲しい。

ただこの日記はあくまで日記なので、全てがストーリー仕立てではなく、詩であったり思考であったり日記のような文章であったり様々だ。ご了承を願いたい。


病気についての理解なんていらない。

ただ知って欲しい。

こういう世界線で生きている人間がいるということを。自分とは別の尺度で生活する人間がいるということを。


水野うみねこ




うみねこという男

水野うみねこは俺の幼馴染だった。世にも奇妙なその名前はアイツの母親が、なんか響きが可愛いからというたったそれだけの理由でつけた名前らしかった。中々に迫力がある加治屋レオという俺の名前に可愛さを少し分けてもらいたいくらいだ。

俺たちは家が隣で親同士が仲が良くて、物心がついた時にはもう隣にいた。俺たちの性格は真逆で子供の時はいっぱい喧嘩したし泣き虫なアイツをつい泣かせてしまうことはよくあった。だけど俺たちはなんだかんだいつも一緒で仲が良かったんだと思う。

アイツは運動は下手だったけど、頭が良くて顔が良くて素直で気が優しくて、運動神経だけが取り柄のガサツで乱暴な俺はよく親に比べられた。でも俺は子供ながらに、違う人間なんだから比べる必要なんかないだろって思っていた。俺がそういう態度だから親は余計比べたがったのかもしれない。


アイツは小学生に上がってからも気が弱くてよく泣かされていた。アイツの姉ちゃんはさそりといって、学校じゃ知らない奴なんか居ないくらいすごく可愛くて、活発で、堂々としていた。そのあまりに目立つ姉のせいで、アイツはよく上級生にからかわれていた。「お前さそりの弟なんだろ」とか「さそりを今すぐ公園まで連れて来い」とかガキくさいことを言われてよく泣かされていた。

その当時上級生でも俺に喧嘩で勝てる奴なんて居なくて、いわゆるガキ大将だった俺は、うみねこに何かあるとすっ飛んで行ってうみねこを泣かせた奴らをかっ飛ばしてやった。

でもアイツがいじめられっ子だったかというとそれは違う。気は確かに弱いけど、他人の痛みが分かる優しい奴だった。アイツは小学生の頃から大人びていて、必ず自分より他人を優先するような奴だった。

優しいだけじゃなくて、喋らせたら本当に面白いしノリが良くて、しかも誰にでも分け隔てなく接するアイツは、みんなに好かれていた。クラスのムードメーカーというタイプではないが、みんながアイツの面白さと居心地の良さを知っていた。アイツは誰にでもピタッとはまる最強のパズルのピースだった。

席替えの時は誰もがアイツの隣や近くの席になれるのを密かに望んでいたし、班決めをする時はアイツは席にただ座っているだけでもすぐに誰かが誘って決まってしまう。

でもアイツはいつも決まって言うんだ、「レオと一緒ならいいよ」って。

普段自分の意見なんて殆ど言わない癖に、こう言う時だけ何故か俺を指名するんだ。別に俺は一緒の班になってくれる人がいなくて困っている訳じゃないし、友達も普通に居たから、気遣いとか優しさとかそんなもの抜きの本当のアイツの意思なんだろう。

家が隣なんだから班までわざわざ一緒じゃなくていいだろ、なんて言ったら泣き虫なうみねこは泣いてしまうかもしれない。だからいつも何も言わずに従った。でもうみねこと一緒の班になりたがっている子なんて他にもいっぱいいるから、俺の代わりにその子たちを誘ってやればいいのに、と内心思っていた。


「魅力的」

その言葉を初めて知ったとき、ふとアイツのことが思い浮かんだ。


多感な中学生になってもアイツの魅力は変わらず、むしろ増しているように思った。

毎日むさ苦しく汗と泥に塗れて野球に打ち込み、陽に焼けた肌に大量のニキビを育てている俺とは違って、うみねこは毎日涼しい顔をして美術部で絵を描いたり塾に行ったり、日焼けとニキビという存在を知らないようなつるっとした肌をしていた。

アイツは愛嬌のあるいかにもいい人っぽい顔立ちの癖に、どこか危うい雰囲気があった。陰と陽みたいに真逆の要素を併せ持ったような、人を惹きつける雰囲気と顔ををしていた。整った顔立ちが余計そんな雰囲気を引き立てていたのかもしれない。


アイツはクラスで大声で喋ったり授業中に積極的に発言するタイプじゃなかったし、スポーツがからっきしの美術部だったけど、存在感というか独特の雰囲気があった。確実にうみねこはクラスで発言権を持っている側の人間だった。でもアイツが好き好んで大きな声で自分の意見を発言することはなかった。


俺からしたらアイツは誰とでも仲良く出来るタイプという聞こえの良いものではなかった。なんというかアイツには自分だけの形みたいなものがなくて、水みたいに形を変えて、誰とでも馴染んで溶け込むような感じだった。

アイツは人をよく見ているし、空気や間を読むことに非常に長けていた。誰にでも優しくて、いじめを嫌い仲間はずれなんて絶対しなかった。

そして何より、アイツの魅力は人の話をよく聞くことだった。グループで話している時は話に入れない子に話を振り、小さな声を拾い、会話を満遍なく回した。誰と話していても何人と話していても、それが知らない話題でも、絶対に簡単な相槌で話を流さないし、必ずキラキラした目で興味津々と言うように質問した。だからうみねこと話している相手は得意になっていつまでも話し続けるのが常だった。

段々話が盛り上がってくると、うみねこはお役目御免といったように貝のように口を閉じて、話を振るのも質問も最低限にして簡単な相槌で返した、それは相手の話の邪魔をしない為のうみねこの配慮だった。人が話を聞くより聞いてもらうことの方が好きだとアイツはきっと知っていたんだろう。


でもそんなうみねこの中身を一体どれだけの人が詳しく知っていたんだろう。うみねこの好きな食べ物、ハマっていること、悩み、愚痴……誰か知っていただろうか。


そんな聞き上手のうみねこが再び口を開くのは、空気が悪くなった時だった。グループ内の誰かが無神経な発言をしたり、誰かの地雷を知らずに踏み抜いてしまったり、その場の空気にぴりっと亀裂が入り空気が変わる瞬間。その次の瞬間、傷ついた者は大きな声をあげ、敵意を持った言葉で言い返したり、居た堪れなくなってその場を去ろうとする。怒り、悲しみ、傷つき、泣く……そんなアクションを誰かが起こすその前にうみねこはフォローを入れ、話題をすり替え、おちゃらけてその場の空気を和ませた。うみねこはいつもどんな悪い空気も魔法みたいに一瞬で変えてしまった。

地雷処理班、俺はアイツのことを密かにそう呼んでいた。


うみねこは場を盛り上げるだけでなく相談に乗ることにも長けていた。アイツはいつでも、誰でも、穏やかで広い心でどんな悩みも愚痴も受け入れた。うみねこがそれを鬱陶しそうにしたりテキトーにあしらったりするのを俺は見たことがなかった。

相談に乗る時うみねこは、話に茶々を入れたり、自分語りなんかせず、最後まで話を聞く。そうして全て話し終わって一息つくと、うみねこは憐れんだ目をして、可哀想に、辛かったね、君は正しいよなんて、目の前の人物が欲しかったであろう言葉を的確に与えるのだ。その言葉に張り詰めた糸が切れ相手が泣き始めるとうみねこは毎回ソイツを慰めながら家まで送り届けた。親切すぎるのではないかと思うが、うみねこは無理をしているのではなくそれを本当に心から望んでやるのだ。

うみねこは口が堅くて、信頼もあって、話を聞いてもらうとスッとする。どんなに泣いていても、怒っていても、みんな必ず最後には晴れやかな笑顔になっている。話を聞いてほしい時はうみねこだ、とみな内心思っていたと思う。


ガキばかりの周りに比べ、圧倒的にうみねこは大人びていた。というより、実際かなり大人だったと思う。だからみんなを子供扱いして、正論で言い負かして、諭して導いてやることなんてうみねこに容易いことだったと思う。でもうみねこはそんな偉そうなこと一度だってしなかった。いつでもうみねこはみんなに優しかった。そんなうみねこがみんな大好きだったし、だからうみねこに依存した。

うみねこは絵がものすごく上手で、成績もずっと上位で、女子にも男子にも先輩にも後輩にも先生にも誰にでもモテた。みんながみんな、うみねこの特別になりたがった。


「相変わらず人気者で羨ましいなぁ、この人たらし。」


茶化すように俺は言った。その日俺たちはたまたま帰る時間が重なって、本当に久しぶりに一緒に帰った。中学生になってクラスも部活も違う俺たちの話す機会は自然と減っていたのだ。


「なんやねん、人たらして……レオやって1年のくせに野球部のエースやんか。レオの方がずっとずっと人気者や、みんなレオのこと噂してるで?」


「俺のことはええねん。俺は野球しか取り柄ないし、勉強もからっきしやし。お陰でいっつも母ちゃんにお前と比べられるわ……」


俺はわざとらしくため息をついて続けた。


「でもうみねこはさ、顔がええのにそれを鼻にかけんし、喋らしたら普通におもろいし、普通にええ奴やし、お前の周りは昔っからいつも楽しそうや。」


「……それは……僕が面白いんやなくて、面白がられてるだけやで。」


うみねこは聞こえないほどの小さな声でぼそっと言った。誰にも聞かせたくないうみねこの本音だったのかもしれない。


アイツは社交的で誰とでも仲がいいように見えるが、実は自分から誰にでも話しかけるタイプではなかった。

話すのが嫌いとか面倒くさいという訳ではないし、話しかけられたらとてもにこやかに話す。自分から話しかけないのは、自分が出しゃばるべきでないとか、自分が話しかけて会話のテンポが崩れるのが申し訳ないとか、空気を読むアイツなりの気遣いだったのかもしれない。



そんな俺らは高校で離れて大学でもっと離れて就職してもっともっと離れた。アイツが大学で実家を出たのに対し、俺は高卒で働き始めてそのまま実家でのほほんとしばらく暮らしていた。その頃にはアイツと連絡を取ることは殆どなくなっていたし、アイツが実家に帰ってくるところも見たことがなかった。でもアイツがどこの大学に行ったとかどこそこで住んでいるらしいとか、どこに就職したというのは、聞いてもないのに母さんが教えてくるから大体把握していた。

母さんがうみねこの最新情報に加え、いい加減いつまでも実家で寄生してないで彼女の1人でも作りなさいよ、早く孫の顔が見たいわ、隣のうみねこちゃんは昔からモテたのにあんたは全然ダメね、なんて小言をテープレコーダーのように繰り返すようになった頃やっと俺は一人暮らしを始めた。


慣れない一人暮らしも季節が一巡する頃にはすっかり馴染んでいた。でも実家の食料を奪ったり、飯をたかりに行くのはしょっちゅうだった。

その日俺はいつものように実家に飯をたかりに行って、ついでにひとっ風呂浴びて帰ってやろうと考えていた。俺が風呂に入っている間に、母さんが晩飯の残りをタッパーに詰めてくれたり、明日の弁当くらいは作ってくれるだろうという算段だ。ポケットに手を突っ込んで鍵を探しながら歩いていると、俺はふと隣の家の玄関の人影に気付いた。


「……うみねこ?おい、うみねこやんなぁ!」


「……レオ?」


俺が声をかけると、うみねこは振り返ってとても驚いた顔をした。無理もない、俺たちが会うのは数年ぶりだった。


「めっちゃ久しぶりやなぁ。帰ってたん?」


「ああ、うん、ちょっとね……」


俺がうみねこに近づいて声をかけると、うみねこは目を合わせずに歯切れが悪そうに言った。


「飯まだなん?まだやったらなんか食いに行かへん?久しぶりやしちょっと話そうや。」


「えっ……うん、ええけど……」


うみねこと呑むのは初めてだった。まともに話したのなんてまだ俺たちが10代の頃だ。


俺たちは最寄り駅の高架下のテキトーな居酒屋に入った。明るいところで見てもアイツはまるで時が止まったみたいに昔と殆ど変わらない顔立ちでびっくりした。もう俺たちは26になるのに、年相応どころか老け気味の俺と比べてアイツは20歳と言われても頷ける顔をしている。母さんが俺とうみねこを比べたがる気持ちも悔しいが理解できてしまう。


でも久しぶりに会ったからだろうか、うみねこは見た目は変わらない代わりに雰囲気がかなり違って思えた。どこかよそよそしいというか、遠く感じる。まるで、俺のことを幼なじみじゃなくてただの友達の1人としてみている感じがする。


「うみねこなんか変わったな。なんていうか見た目とかじゃなくて……っていうか見た目全く変わらんのはどうなってるんや……完全に時止まってるやん。」


「ふふっ、レオも変わったよ、特に見た目。最初レオに会った時、レオのお父さんかと思っちゃった。」


「はぁっ!?俺あんなハゲてへんし!!!あんなんと一緒にすなや!」


「あんなんって……お父さんに失礼やわ。」


くすくす笑いながらズケズケと失礼な冗談を言うあたり、やっぱりうみねこだ。久しぶりに会ったせいで俺が勝手に距離を感じていたのかもしれない。


アイツは呑んで喋っている間、ずっとケータイをチラチラ気にしていた。俺の前ではあえて触らないようにしているのだろうが、ケータイを机の上に置いてメッセージの通知でケータイの画面が光るたびに横目でそれを見るのだ。自分がトイレに行く時は必ずケータイを持って行くし、俺がトイレに行って戻ってきたら必ず熱心に触っていた。


「ケータイで何見てんの、さっきから。」


眉間に皺を寄せて熱心に画面を見ているうみねこに声をかけると、パッと僕の方を見て微笑んだ。


「メッセージをな、返してたんや。」


「誰に?」


「色々……職場の人とかさそりとか、あと大学の時の友達と……」


「ふぅん、大変やな。何喋るん?」


「他愛のない話や……あと相談乗ったりとか……みんな色々あるんよ。」


それは普段殆どケータイを触らない俺にはあまり分からない感覚だった。そんなもの会って話すか、電話でとっとと済ませればいいのにと心の中で思った。


俺は中学までのうみねこしか知らないけど、うみねこに好意を抱いている子は多くいた。それはきっと今も変わらないだろう。俺は大学のことはよく分からないけど、中学や高校と違ってサークルとかゼミとかバイトみたいな色んな所属やコミュニティがあって、人間関係が爆発的に広がっていくことは知っている。

どこに行っても人をたらし込むコイツのことだから、俺が知るよりずっと多くの人から好意を持たれていたんじゃないかと思う。

社会人になり、職場のコミュニティが増え、それに派生するコミュニティもぐんと増えたはずだ。それに比べて俺はずっと地元で生活しているし、彼女もいないし、たまに地元のツレとか先輩と付き合いでと飲みに行ったりする程度で、かなり狭いコミュニティで生活している。

だからうみねこみたいに、膨大なコミュニティを抱えているだけでなく、プライベートまでメッセージのやり取りをするなんて俺には考えられなかった。


「レオ、今一人暮らししてるんやって?彼女でもできたん?おばさん、寂しがってるんとちゃう?」


アイツは俺がモテないのなんか知ってる癖に、無邪気な顔で聞いた。


そう言えば高校時代のコイツのことはほぼ知らないけど、高校でも野球一筋で泥だらけのユニフォームの俺と比べて、うみねこは頭の良さそうな制服を着て玄関先で女の子とキスをしていたのを見たことがある。高校の3年間で何度か彼女は変わったが、その子たちの共通点は、ウミネコとは別の高校の子ということだ。

ウミネコはどうやら同じコミュニティーの人と付き合うのを避けているらしかった。「なんで同じ高校の子とは付き合わんの?可愛い子おらんの?」と俺が聞くと、人間関係が壊れるのが嫌なんだとうみねこは言った。好き同士で付き合うなら問題ないやろ、ごちゃごちゃ言うてくる奴おるんやったらしばいたろか、と俺は言ったけど、そういう問題じゃないとうみねこは笑った。それが高校時代うみねこと喋った数少ない思い出だ。


気を遣いすぎるうみねこは自分の行動や選択のせいで、他人の人生や人間関係、その場の空気が少しでも変わることが嫌だったんだろう。


「彼女ぉ?お前が1番知ってるやん、俺は誰かさんと違ってモテへんし、野球ばっかりや


ったんが仕事ばっかりに変わっただけ。仕事が恋人や。まあ楽しいからいいけど。うみねこは?まあどうせおるんやろうけど。」


「んー、どうなんやろ?」


枝豆を食べながら興味なさそうに聞く俺に、うみねこはとぼけたようにそう言って笑った。


「どうなんやろってお前……いい加減やなぁ。仕事は?」


「まあ……ぼちぼちかな。」


うみねこは心底楽しくなさそうに言った。うみねこは俺だけに気を遣わないというか、時折素直な表情を見せてくれたりする。俺だけに見せるその態度が意外と嫌いではなかった。


「……まあ色々あるよな、飲みなよ。」


「そうなんよ……おおきに。」


俺はずっと男ばっかりの縦社会で生きてきたせいで、俺はうみねこの酒の弱さも知らずについつい飲ませすぎて、遂には潰れさせてしまった。


「おい、大丈夫?気持ち悪い?ほら、水……」


身体を優しく揺らすとうみねこはか細く泣いていた。


「助けてレオ……」


「お前が酔ったらこうなるなんて知らんかったわ……もう帰ろう?実家でええの?」


「僕レオと一緒におりたい……」


「はあ?今一緒に居てるやんか。」


「お願い、レオの家に連れて帰って……実家には……帰りたくない……」


そう言って目に涙を溜めてうみねこは俺の腕をぎゅうっと握った。


「……ほんまにうち来るん?」


「うん……」



こうしてうみねこはうちに転がりこんだ。

俺はてっきり一晩寝て酔いが覚めたら自分の家に帰るだろうと思っていた。なのにうみねこはうちで飯を食べ仕事に行き、仕事が終わると当たり前のようにうちに帰って眠った。まるで最初からこの家に住んでいたのかのように居着いていた。

そういえばコイツは誰にでもどこにでも違和感なく溶け込める能力の持ち主だった。してやられたと思ったが、別にコイツが一緒に住むのはイヤではなかった。むしろ1人で暮らすよりうみねこと暮らす方がずっと快適だった。

うみねこのお陰で、汚くて男臭かった俺の部屋は、清潔に保たれいい匂いがした。うみねこの方が帰りが早い日は掃除の行き届いた部屋で、あったかい風呂を入れて、美味い飯を作って待ってくれた。うみねこは俺の好きなものばかりを作ってくれたし、俺の嫌いなものは一度も作らなかった。お陰様でコンビニ弁当ばかりだった俺は健康的に着々と太った。

飯を食ってすぐ俺が横になったらささっと後片付けをして、俺の服を洗濯した。俺はその服達に一度もアイロンなんてかけたこともないのに、うみねこは丁寧にかけてくれた。俺のヨレヨレの所々しょうゆなんかが飛んだシミが付いているシャツは、うみねこの手によって、真っ白にピシッとシワが伸びて帰ってくる。 俺が洗濯するよりうみねこが洗濯する方がシャツもずっと嬉しそうだった。


でも俺はうみねこと一緒に暮らし始めて、案外自分はうみねこのことを知らないんだなと思い知った。ずっと隣に住んでいたとか、子供の時から知っているという理由でうみねこのことを知っていた気になっていたけど、それは勘違いだ。いくら家が近くでいくらでも話す機会があろうとも、うみねこしか知り得ない心の内や家の中のことは、うみねこ自身が話してくれないと誰も知り得ることはできないのだ。

そんな当たり前のことを、俺もうみねこの恋人も、うみねこの自称親友も、数多くの友人も誰も知らないのだ。


例えばうみねこは携帯依存だった。最近は常にケータイを触っている人間も少なくないが、うみねこは少しそれとは様子が違った。


友達とメッセージのやり取りは起きている間はずっとだし、電話がしょっちゅうかかってきてひっきりなしに相談に乗っていた。非常識な時間に電話が来ることも珍しくはなかった。そんなの無視すればいいのに、うみねこは俺に申し訳無さそうに外に出て行って電話をする。

すぐ帰ってくる時もあれば数時間帰って来なかったり、そのままその子の元へ向かって1日帰ってこないこともあった。


「お前相変わらず本当ええ奴やなぁ。色んなの人に慕われて……まあ俺は真似できんけど。」


「……僕は……ええ子なんかじゃないんよ。みんな勘違いしてるけど、もう僕は誰の相談にも乗りたくないし、誰の秘密も悩みも知りたくない。僕なんかを信頼せんといて欲しいし、僕は僕の時間が欲しい……みんなの期待に応えられる人間じゃない……」


うみねこはかなり追い詰められている様子だった。

けど俺には不思議だった。だったら何故迷惑だと言わないんだろう。ケータイを触らなければいいし、返事をしなければいい。自分の時間を削っていっぱいいっぱいになるまですることだろうか。そんな気持ちで相談に乗られて誰が喜ぶのだろう。


うみねこはSNSは自ら投稿することは少ないものの、他人の投稿を1日に何度もチェックしていた。

ほんまにケータイ好きなんやなぁと、皮肉ってうみねこに言ってみたことがある。


「好きじゃないよ……やめたい。でもやめられへんねん。ほんま……こういうのが全くない時代に生まれたかったなぁ。」


うみねこのその言葉は意外だった。俺は今までうみねこはスマホ中毒で、スマホやSNSがないと気が狂ってしまうのかと思っていた。


そういえば自分では投稿せぇへんねや?と言うと、

粗を探されるのが怖くてよぉせんのや、と言った。


俺はうみねこの言動の節々にそこはかとない暗さを感じてた。そんな姿学校では一度も見たことがなかったし、俺にも見せてくれたことはなかった。うみねこはやっぱりあの頃とはだいぶ変わってしまったのかもしれない。





体調不良

うみねこが壊れたのは突然だった。


ある朝うみねこは布団の中でうずくまって出てこなくなった。雷を怖がる子供みたいに、髪の毛一本も出さずにぴっちりうずくまっていた。最初は体調が悪いのかと思って心配した。大丈夫か、仕事休むんか、とうみねこの身体を揺すると布団の中から微かに泣く声が聞こえた。


いつもにこにこしていて、体調が悪くてもどんなに嫌なことがあっても我慢して、決して周りに不機嫌な態度を見せないうみねこのそんな姿を見るのは初めてだった。でも周りの顔色ばかり伺う優しいうみねこのことだ、こんな風にキャパオーバーになってしまう日も俺が知らないだけで今までだってあったのかもしれない。俺だってたまには仕事をサボりたくなるし、布団から出られなくてズル休みして一日布団でぼーっと過ごしてしまった日もある。

俺はこの時そう軽く考えていた。だから1日寝かせておけば治るだろうと勝手に決めつけて、その日俺はそのまま仕事に行った。


仕事中俺はうみねこが気になって、体調は大丈夫かと何度かメッセージを送った。でもうみねこからの返事はなかった。うみねこは連絡に対してはとてもマメで、ちょっとした報告でも自分からきちんと連絡をくれるし、連絡が来ればすぐに返す性分の人間だ。すぐに連絡を返してくれないと相手が不安になるやろ、と昔うみねこが俺に言った。その言葉に連絡不精の俺は衝撃を受けたのを覚えている。そんなうみねこから連絡が全くないのは珍しいというか、初めてのことだった。

うみねこの身に何かあったんじゃないかと心配になった。思ったより具合が悪かったのかもしれない。うみねこはあまりの痛みに返事もできずに泣いていたのかもしれない。俺はメッセージを返さないうみねこに電話をかけた。でもうみねこは出なかった。心配になって俺は珍しく定時で帰った。その道中俺は何度もうみねこに電話をかけながら早歩きで歩いた。駅で降りてからは家まで全力で走った。でもうみねこは一度も電話に出ることはなかった。


家が近づくにつれ俺はひどく緊張した。警察や救急車を呼ぶシュミレーションを頭で何度もして、うみねこの葬式まで想像してしまって、不安でいっぱいになった。どうしてうみねこに連れ添って病院に行ってやらなかったんだろうと自分の軽率な判断を酷く後悔した。


「うみねこ!生きてるか!?」


返事はなく俺の声だけが部屋に響いた。部屋の中は朝と全く変わらなかった。いや、よく見るとティッシュのゴミがベッドの下に落ちていたり、ほんの少しだけ飲んだゼリー飲料などが放置されてあって、少しだけうみねこが行動した跡があった。

当のうみねこは相変わらず布団の中で丸まっていた。死んでいるんじゃないかと疑うところかもしれないが、俺が部屋にドカドカ入ってくる音でぴくっと布団が僅かに動くのを俺は見逃さなかった。


「電話くらい出ろや!どれだけ心配したと思っとるんや!大丈夫じゃないならちゃんとそう言えや、分からんやろ!」


布団を引っ掴んで剥ぎながら俺は怒鳴った。俺が大きな声で怒鳴ったりするのはそんなに珍しいことではないのに、うみねこは怯えた目で俺をみた。そして泣きながら、ごめんなさいと小さく繰り返して謝った。

俺の記憶にあるうみねこはこんなじゃなかった。みんなに愛されて輪の中心で笑っていて飄々といつも涼しい顔をしていた。気は弱いけど俺が大声を出すくらいでいちいち泣く奴じゃなかった。今目の前にいるのは本当にあのうみねこと同一人物かと疑った。


「……病院は……?」


少し自分を落ち着かせて俺は聞いた。いや、落ち着いたというよりはあまりの驚きで興奮が冷めたという方が正しいかもしれない。うみねこは何も言わずにただ小さく首を横に振った。


「なんで行かへんねん、会社行かれへんくらい悪いんやろ。」


俺が言うとうみねこは、いつものことやからと遮るように言った。


「いつものことって……」


うみねこは明らかに風邪とか腹痛とかそういうのじゃない感じだった。どちらかというとこう、もっと内面的なモノで、でも俺が仕事をサボるようなアレとは深みが違う。生きる気力も生気も失ったような、真っ黒な目。その目からは絶望と恐怖、それから死に対する希望さえ見える気がする。声は震え呼吸は不規則で、驚いたように見開いたり目に見えるものを拒絶するように閉じた目からは涙が流れ続ける。目の前には俺しか居ないのに、うみねこの目には地獄でも見えているのだろうか。

俺は言葉を選ぶように大きなため息をついて一度心を落ちつかせた。ちゃんとうみねこの口から直接話を聞かなければいけないと思った。


「泣いたって分からんやん、ちゃんと話してや。」


うみねこはまだベッドの上で全てを拒絶するようにうずくまって泣いていた。俺はうみねこがちゃんと喋るまでじっと黙っていた。時折俺のため息にびくっと怯えるように反応していたうみねこは、いつまでもうみねこの言葉を待ち続ける俺に降参したように小さく頷いて体を起こすとベッドの隅に体育座りをした。

うみねこは俺とは話したくはなかったのかもしれない。でも空気を読んだのかもしれない。話したくはないけど俺に心配かけたしとか、居候させてもらってるからとか、そんなことを考えて、ここで話をするのを拒否すれば、納得しない俺がさらに怒って問い詰めると思ったのかもしれない。


「なにがあったん。いつものことって何?いつからなん?」


少しザラつきのある俺の声がうみねこに苛立ちを感じ取らせたのだろう。元々萎縮していたうみねこはさらに萎縮して、自身の腕をぎゅっと握りしめ口を固く閉ざしてしまった。うみねこと再会した日になんとなく感じたよそよそしさの正体に今触れているような気がした。

でも俺は完全にお手上げだった。自惚れでなければうみねこが1番自分を見せられる人物は俺だと思う。誰に聞いたってうみねこの事情を知る者は居ないだろうし、そもそも誰もうみねこのこんな姿を見たことがないだろう。俺が今聞き出す他に、うみねこの事情を把握する手はない。けどこれ以上質問してもうみねこを萎縮させるだけだ。押してダメなここは一旦引くしかない。俺はうみねこが自分から話し始めるまで黙っていることにした。

俺が何も喋らなくても、うみねこは絶望したように激しく泣いたり悟ったようにしばらく静かになるのを繰り返した。そして30分くらい経ってようやく口を開いた。


「ごめんなさい……」


「なんで謝るん?何か悪いことをしたん?」


うみねこはまたしばらく黙ってから答えた。


「僕が……こんなで……ごめん……レオを怒らせて…もう僕のこと嫌いになったやんな……?」


「はあ?何言うてるん、俺はそんなこと聞いてるんとちゃう……!」


「ごめん……」


うみねこはますます萎縮した。

俺はどうして体調不良を教えてくれなかったのか、どうしてこんなになるまで周りに助けを求めなかったのか、どうしてこういう状況に陥っているのか、それが聞きたかった。うみねこの答えはちっとも答えになっていない。

うみねこはいつももっと歯切れが良くて、質問に対して的を得た言葉をハッキリ返してくれる。なのにどうして今日はうじうじと俺の神経を逆撫でするような態度を取ったり、的を得ない喋り方をするのだろう。いつものうみねこはどこに行ったのかと思うほど、目の前のうみねこはまるで人格が変わってしまったようだった。


「俺は……連絡せんかったことに対して怒っているんや、そんなに具合悪いなんて一言も言わんし、いつものことって言われたって知らん。ずっと一緒でもう何ヶ月か一緒に住んでんのになんで教えてくれへんの?それについて腹は立ってるけど、そんな些細なことうみねこを嫌いになる訳ないやろ!生まれた頃から一緒におるんやぞ!?」


そう言ってやりたかった、でもそれをぶつけたところでまたうみねこを萎縮させるだけだ。感情をぶつけるんじゃなくて、1つずつ状況を整理することが先決だ。


「病院行きぃや。そんなん普通ちゃうやん。」


「よくあるんや……病院に行ってもストレスやって決めつけられてほとんど話も聞いてもらえんし、薬も効かんし、何回病院変えても一緒やった……」


「それでも病院ちゃんと行かんと……治るもんも治らんて……」


「治らへんねん!!!ずっと何年もこんな感じや、僕の気持ちが分かるか!?病院に行ったってよぉならん……良くなるどころか悪くなるばっかりや!もう僕はずっとこうなんや……!」


うみねこは目に涙をいっぱい溜めて俺にぶつけるように叫んだ。俺に1番本音を見せてくれるとは言え、うみねこがこんなに感情的になるのは初めてだった。


「でも今日のうみねこは……普通とちゃう……いつもと別人や……」


さっきまで怒っていたうみねこは俺の言葉にまた絶望したように泣き始めた。そして泣きながら少しずつ話し始めた。


「僕は普通や……でもめちゃくちゃ頑張らんと普通にはなれへんのや。やから普通になろうとこんなに頑張ってるのに、頑張れば頑張るほどから回っていくんや……どうしたらええ……?」


「それはいつからなん?ちゃんと話してくれなどうしたらええんか俺にも分からん。それに……うみねこがうみねこじゃなくなっていくのは俺は怖い……うみねこも怖かったよな、ずっと1人で……力になりたいから話してくれへんか」


うみねこの話はこうだった。

うみねこの家は親が厳しいというか極端なところがあって、なんでも子供が言いなりにならないと気が済まない親だった。高3の夏、進学校に通ううみねこに、就職して家に金を入れろ、大学は遊びに行くところ、学費は絶対に出さないと言ったそうだ。それまでにも極端な両親とぶつかることが何度もあったため、もう親の言いなりになり続けるのは無理だとうみねこは逃げるように県外の大学に進学したらしい。子供を思い通りにしたい親に、親離れしたい子供、関係は最悪だったそうだ。1人暮らしをして、大学やサークルやバイトなど充実して最初はなんでも頑張ったそうだ。でもうみねこは他の大学生と違い、自分で学費も生活費も全てやりくりしなければいけなかった。うみねこの親は奨学金を借りることすら許さず、うみねこの生活は常に逼迫していたそうだ。勉強して人間関係を保ってそれ以外の時間は全てバイトに当てて、それでも毎日金が足りるか毎日不安だった。いつも明るく振る舞っていたいうみねこは頼れる人もいなくて、そんな状況がどんどん自身を疲弊させた。

そしてある時、何もかもが嫌になって初めて自殺を図ったそうだ。その時でさえ、誰にも何も相談しなかったそうだ。でも自殺は失敗して、誰にも苦悩に気づいてもらえないまま、うみねこは何事もなかったかのように自殺未遂の次の日からも頑張り続けなければいけなかった。

それからは呪いのように周期的に体調を崩す。何もかもが怖くて全てから逃げ出して死んでしまいたい気持ちになるらしい。その時は好きな事も好きな人も食事も何もかも受け付けないのだという。

流石に明るく振る舞うのにも限界が来て病院には行ったそうで、そこでうつと診断され薬を飲みながらなんとか今日まで生きているらしい。でもいくら薬を飲んでも何度病院を変えても周期的に体調を崩し、症状はどんどん悪化しているらしい。でも周期以外は普通に生活出来るため、半ば諦めているらしい。


「隣に住んでたのにそんな色々あったんて……たしかにうみねこの家から喧嘩する声は聞こえたけど、思春期特有のアレかと思ってた。自殺とかうつとか……もっとはよ相談してくれたら……」


「それができたら鬱にはなってへんよ。」


「せやけど……ごめん、あんまり鬱が分かってへんねん……たぶんすごい苦しいんやろなっていうのは分んねんけど……」


「きっと鬱じゃない人には分からん世界やわ……」


そう言ってうみねこはより詳しく説明してくれた。


周期中に現れることは、

「根拠のない恐怖心や被害妄想」

「強い疲労感や気力の低下、だるさ」

「睡眠時間の増加」

「趣味への意欲低下」

「食欲減退」


それの影響で日課や生活リズムがかなり乱れるらしい。


特に苦しいのが、「根拠のない恐怖心と被害妄想」の症状らしい。

家族や友人、恋人からの好意さえ信じられないし、いつか自分を貶め裏切るに違いないと強く確信する。

自分はみんなに嫌われていて馬鹿にされたり陰口を言われたり仲間外れにされているはず。


自分は無価値で誰からも愛されておらず死ぬべき存在だと思う。だからそういう扱いを受けるのは当然だと思う。


こういう思考で頭がいっぱいになる。

その証拠や思い当たる根拠を探すため、人の言動や会話、SNSや今までやりとりしたメッセージを隈なく探したりやりとりした言葉を1つ1つ思い出す。そうやってこじつけのような証拠集めをして、余計に恐怖心や疑心が頭を支配し心臓がドキドキして眠れなくなる。

でも自分はダメな人間だから食事を取らなかったり、リストカットをして自分に刑罰を与えたくなる。そんな自分を大事にされると落ち着かないから自らクズと思われる行動をわざととる。


普段は他の人と同じように生活が出来るが、周期が来ると何の前触れもなく糸が切れたように動けなくなりそんな思想に陥るらしい。どのタイミングで、何が原因でその周期が来るのか、そしてその周期がいつ終わるのかは全く分からないらしい。ただ周期が終わると、なぜそんな気分になっていたのか自分でも分からないそうだ。


何を言ってるんだろうと俺は思った。

うみねこは優しくて穏やかで器用で気の利いて、いつも人のことばかり考えるお人好しな人間。人をたらし込む天才でみんなにあんなに愛されていたのに何を言ってるんだろう。


俺には鬱がよく分からないけどうみねこが言っていることは間違っているというのは分かる。

うみねこは鬱のせいで変な妄想に取り憑かれてるけど、全部うみねこの勘違いだし、俺はうみねこを正気に戻してあげたかった。そしていつものうみねこに戻ってきて欲しかった。

無知な俺はこの時鬱イコールネガティブという安直な考えを持っていて、世間的にもネガティブ思考はよくないとされているし、うみねこを励まして考えを正せばきっと良くなると思った。


「俺はただうみねこが心配で急いで帰ってきたし、誰もうみねこの敵じゃないし、むしろうみねこはみんなに好かれてるやんか。」


「みんなが好きなんは今の僕やなくて頑張って普通ぶってる僕や。それにみんなが僕に優しくしてくれるんはボランティアと一緒。誰も無価値な僕を愛してるわけやない、僕が可哀想やから友達になってくれてるんや。僕を本当に好きな人なんてどこにもおらへんよ。」


俺はうみねこの言っていることが本当に分からなくて戸惑った。


「でも俺はボランティアなんかやなくてほんまにうみねこのことが好きやし友達やと思てる。うみねこの家族やって友達やって……ほら!ケータイ見てみ!こんなにお前を心配してメッセージいっぱい……」


「……ごめん、僕は本当にダメなんや。それがもしほんまに心配してくれているとしたら、余計重荷に感じるんや。だって僕は何も返されへんねんから……僕はクズで迷惑かけることしかできん……もう死んでしまいたい……!」


「はぁ?誰も信じへんし、返されへんから、貰うのも迷惑やなんて、自分が何言うてんのか分かってんのか。めちゃくちゃ失礼やぞ。誰もお返しして欲しくてお前が好きなんちゃうわ!じゃあお前の大事にしたかったらどうすればええねん。」


「分からへん……やからずっと僕は空っぽなんや。恋人作って友達作ってどれだけ周りの人間助けても……何をしてもどうやっても全然埋まらへんのよ……まあそもそも僕を本気で愛する人間なんておらんけどな。」


初めて見るそんな真っ黒なうみねこの目に声に腹が立ってザワザワした。俺は本気でうみねこのこと友達だと思ってた。うみねこのことを1番知ってるって思って。なのにこんな初耳ばっかりの胸の内明かされて、こんな俺の知らん顔されて、一緒に暮らしてんのに遠回しに俺がうみねこのことなんとも思ってないみたいに言いやがって。


これはうみねこの本音だろうか、それとも鬱という病がうみねこを変えてしまったのだろうか。鬱という病がうみねこに張り付いて訳の分からない事を喋らせているのだろうか。

いやきっと本音じゃないはずだ、うみねこは絶対そんな事を言うやつじゃなかった。もし思っていたとしても決して口に出す奴じゃない。

そう思った途端にこの病が憎らしくなった。


「分かった。じゃあまた病院変えよう。うみねこを治してくれる先生が見つかるまで何回でも。それまで仕事休め。それか辞めろ。お前は今普通じゃないから仕事に行くな。」


「はっ……!?そんな勝手な……っ無理に決まって……」


「ええから。うみねこは俺が養う。高卒で働いてずっと実家おってずっと彼女おらんのやから一応これでも貯金あんねん。」


「いや、レオにそこまでしてもらう理由ないし……」


「親友やんか、俺たち……。何年か会わんかったけど関係ないないやん、あんなに毎日遊んでたやん。俺はそう思ってたのにお前が俺の気持ち信じてくれへんのごっつ悔しいねん。それに……親友がそんなくらぁい気持ち抱えたまま生きていくのほっとかれへん、……可哀想やん……お前もお前の周りも。御先真っ暗やで?そらお前ははちゃめちゃ器用で今までもみんなのこと上手に騙してそうやってこれからも騙し騙し人間関係作って、仕事もそれなりに休み休みやったら生きていけるやろう。死ぬほどしんどくてもお前は口にも顔にも出さんから誰も気付かんやろう、俺も知らんかったくらいや。けどそれちゃんとお前の人生生きれてるんか。ほんまにそれでええんか?いや、お前が良くても俺は嫌や。それにお前がそんな事言うはずないのに、お前にそんな冷めたこと言わせるその病気がほんまに憎い……頑張って治して……俺の知ってるうみねこを壊さんといてくれ……」


「いやや……僕はもう全部疲れたんや……もう頑張りとおない。どうせ僕は治らん。迷惑なら出ていくからもう放って置いてくれんか、ごめんな、レ……」


「俺のこと頼らんかい!勝手に完結すなや!」


俺は気付いたら大声を出していた。うみねこはびっくりして何も言えなかった。


「……俺は勝手にやるから。お前は俺の言うこと聞いとけ。お前のやり方のままやったら死ぬのは確実や、でも俺は死なせたくない。ええか、分かったな。お前の意思なんて聞いてない。これは俺のエゴや。死ぬくらいなら黙って俺のいうこと聞いとけ、ええな。」


「え……うん……」


俺はガキ大将みたいに言うとうみねこはガキの頃みたいに大人しく頷いた。


「大体お前そんな感じで今までよぉやってこれたな、色々と。でもずっと周りの期待に応えようと無理して頑張ってただけなんやな。気付かんくて悪かった。親友の癖にごめん……」


そう言うとうみねこは堰を切ったように声を上げて泣いた。やっと気付いてくれた、そう言ってさっきまでの何倍も大粒の涙をこぼして枯れるほどにうみねこは泣いた。




【病院探し】


俺はうみねこに今すぐ病院に行こうと言った。でもそれは無理だとキッパリと言われた。

俺は知らなかったが、精神科というところは飛び込みでの診察を受け入れている所は少ない。まず予約の電話をして、1ヶ月後くらいにやっと初診の予約が取れるらしい。それでやっと初診にありつけても、初診だけではその病院や先生が合っているかは分からないし、薬は様子を見ながら種類を変えてみたり、量を増やしたり減らしたりする。心の病気は身体の病気と違い、薬を飲んで安静にすれば完治するという訳ではなく、大体どれくらいで回復するという目処も立ちにくい。だから転院を判断するのも時間がかかるそうだ。

もし転院することになっても、次の病院を探して、また1か月先の初診の予約を取り、今の病院で紹介状を貰ってこなければけない。

早くもっといい病院に連れてうみねこを良くしてやりたいのになんて骨の折れる作業だ。大体心だろうが身体だろうが、体調の悪い人間が出来る作業量じゃない。

それでもうみねこは少しでも自分の安定しない体調をどうにかしたくて、今まで何度も頑張ってこの焦ったいのを期待しては失望するのを繰り返してきたんだろう。


うみねこは今にも死んでしまいそうな程気力がなく、衰弱して、飯もあまり食べなかった。前の病院でもらった薬を飲ませてもそれはあまり変わらなかった。うみねこは職場に迷惑がかかると言って仕事に行きたがったが、客観的に見てとてもそんな状況ではなく俺は初診の日までうみねこを強制的に休ませた。

うみねこの告白を聞いてから俺は色々考えるようになったし、アイツに対する見方が変わった。

器用だと思っていたうみねこは、非常に傷付きやすく常に人の機嫌にびくついているようだった。

空気を読むのがうまいと思っていたうみねこは、人の顔色を読んでその最善解を選んで行動しているようだった。

話し上手だと思っていたうみねこは、実はあまり自分のことは話したがらないんだってこと。


うみねこは人の顔色を伺いながら地雷を上手に避けて、それを悟られないように話す。うみねこは不愉快な思いはひとつもさせずに、ただただ耳触りのいい気持ちのいい言葉を与えてくれる。そんなうみねこと話すのはさぞ気持ちがいいだろう。

俺はそんな風に生きて楽しいのかと思うが、うみねこはそのようにしか生きられないのだ。


そうして遂に初診の日が来た。

俺は仕事を休んで病院に付き添うと言ったけど、うみねこはそれを断った。仕事休むなんて過保護すぎ、レオのおかげでだいぶ調子がいいから大丈夫だよってアイツが笑うから俺はそれを信じた。それでも俺は不安で仕事の合間を見計らって何度もうみねこにメッセージを送った。今ご飯食べたとこ、今から病院向かうよ、今診察待ち……その日途中まではすぐに帰ってきたメッセージは途中でパタリと途絶えた。何時間経っても何度メッセージを送っても、うみねこからの返事はなかった。またあの時みたいな嫌な予感がした。俺は定時になった途端、残っている仕事もほっぽりだして走って帰った。嫌な鼓動と息が上がるので気持ちが悪くなるほど心臓がドキドキしていた。うみねこがちゃんと家に帰れているか、1人で泣き叫んでいないか、帰ってうみねこが自殺を試みていないか、最悪な事態ばかり頭に浮かぶ。どうして俺は1人でいかせてしまったんだろう。アイツのことだからどんなに心細くても平気って言うに決まってるのに。か自殺だけはしないでくれ、苦しいの全部受け止めるから、どうか生きていてくれと何度も心の中で思った


帰って玄関に靴があるのを見た時、まず物凄くホッとした。


「うみねこ……!」


うみねこはリビングの床でうずくまって泣いていた。俺は思った、自殺しなかったんじゃなくてする気力もなかったのだ。うみねこはベッドで泣く気力もテッシュで涙を拭く気力もないようだった。ただ少し変な呼吸をしていた。


「うみねこ……大丈夫か、ちゃんと息して……」

「レ……っ、レオ……っは……レオ……」

「今回のとこも……ダメやったんか……?」

「……っう……もっと頑張れって……僕は自立できてるし、仕事もできてるんやから大丈夫だろうって。うつの人は細かいとこ気にしやすいんだって……」

「……っはぁ!?!?なんっやそれ……こんなにボロボロになるまで頑張ってるうみねこによぉそんなこと……ほんまにうみねこのこと見てるんか、その医者。……もう十分や。……次の診察の時な、もう紹介状貰ってき。そんなとこ何回行ってもよおならへんと俺は思う。もっとちゃんとうみねこのこと見てくれる病院探そ?」

「でも……やっぱりどこに行っても一緒やと思う。それにやっぱり先生の言う通り、僕の頑張りが足りんのや……分かってるけど、ちゃんとやらなって思うけど……全然頑張れんのや……!……〜っ!大体……!動けてるうちは胃が痛ぉても血ぃ吐いてもストレスが原因とかふわっとした事言うて誤魔化して、ほんまに動けんようになってやっと頑張りすぎやとか休めとか手のひら返して……僕は一生身体に鞭打って生きていかないかんのか、ぶっ倒れるか死ぬかせな誰も苦しいのに気付いてくれんのか……!僕のことなんやと、思っ、てっ……っは、はぁっ……はぁっ……」

「うみねこ!大丈夫や、落ち着け、大丈夫やから……」


うみねこが涙を流して俺に本音を見せている。うみねこが過呼吸になるほど感情を垂れ流すなんてよっぽど苦しいんだろう。その苦しみが雪崩れ込んでくるようだった。


「苦しいよな、うみねこ。そいつは医者で病気のことはよく知ってるかもしれんけど、俺の方がうみねこの事はよく知ってる。その俺がうみねこは頑張りすぎてるって、もう頑張らずに休めって言うてるんや。お願いやからここは医者より俺の方を信じてくれんか?絶対うみねこをちゃんと理解して治してくれる先生はおるはずや。」

「っ、う、レオ……っ、……もう頑張れん……怖い……」

「こんな震えて泣いてるんやもん、怖いよな、でもずっとずっと俺が一緒におるから。支えるから。1人やったら怖いけど2人やったら怖くないやろ?ええ病院が見つかるまでは、俺が病院ずっと付き添う。それでええ先生かどうか俺がちゃんと見たるから。それなら安心やろ?また先生がヤな奴やったらさ、2人で悪口言いながらミスド食べて帰ろうや。怖いのも苦しいのも半分こ。な、なんも怖くないやろ。」

「ごめん……そんなに気ぃ遣わせて……それなのに、レオが励ましてくれてもちっとも希望が……生きる気力が湧いてこやんのや……ごめん……こんなクズ死んだ方がマシや……」

「生きるのしんどいか?もう死んでしまいたいか?」

「……ごめんな、生きるのもうしんどいわ……」


うみねこはただか弱い声で小さくつぶやいた。死んでしまいたいと口に出さなかったのはうみねこに生きて欲しい俺に対するうみねこなりの気遣いかもしれない。でもうみねこのその目は、殺してくれと願っている。


「お願いや……生きてくれ……うみねこ……お願いや……」


うみねこがギョッとした顔をするから初めてそこで自分が泣いている事に気付いた。


「お前は生きるっていうモチベーションを保つことがすごい難しいんやんな?しんどいと思うけどさ、ただ心臓動かして息してるだけでええんや。俺のためにどうにか頑張って死にたい気持ちと戦ってくれ。戦う気力ももうないのも分かってる、でも今日と明日、いやこの瞬間だけでも生き抜くことだけを考え続けてくれんか。それすらもしんどくて死にたくなったらいつでも俺に弱音吐いて。何回でも慰めるし笑わせるし何でもするから。欲言えばお前が幸せやと思って毎日過ごしてくれることが何よりの願いなんや……それくらいお前が大事で、生きてて欲しいんや。死にたいお前は生きろって言われるの相当しんどいやろ、それでも俺は……」

「分かったよ、レオ。分かったから……泣かんといて?僕より泣いとるやん。」

「ごめ……っお前の方が辛いのに何泣いてるんや俺……」

「僕が死んだらレオが悲しむのはよく分かった。でもうつ病治さなまた簡単に何度やって死にたくなる。やからちゃんと病気治してくれる病院探すから。次に診察でちゃんと紹介状貰ってくるから。」

「それまでちゃんと生きててや。急にしんどくなって知らん間に死んでるとか絶対なしやで。今日かてやっぱ連絡取れんくなるしほんまヒヤヒヤして……」

「分かったって。レオ昔はそんな過保護じゃなかったのに。僕の過保護がうつったんかな……」

「あほ、お前が心配さすからや。ほんま絶対死なんって約束せえよ。」

「うん、絶対。だってもうレオを泣かせたくないもん。指切りする?子供の時みたいに。」

「うん……」

「するんかいな、レオがそんなに素直やと調子狂うわ。」


指切りげんまんなんていつぶりだろうか。それもお互いに泣き顔で。

俺はこの泣き顔にうみねこを絶対に死なせないと、

うみねこは俺を絶対泣かせないと誓った。


それから俺はうみねこに付き添っていくつか病院を回った。

精神科は初診の予約が取れるのは大体予約の電話をして1ヶ月後。うみねこの場合、初診の次の診察は2週間後に予約することが多かった。初診の雰囲気がよっぽど悪くない限りは2、3回診察してもらって、それでも合わないと感じたら転院の意を伝え、その次の診察で紹介状を貰うのがお決まりの流れだった。だから大体すぐに転院したとしても、期間にして1つの病院に2、3ヶ月は通うことになる。


ホームページや口コミを見て良さそうな病院を見繕ってはいるが、それでも中々いい病院にはありつけない。ただ薬を渡すだけの医者、患者の話を全く聞こうとしない医者、平気で患者を追い詰めるようなことを言う医者……


こちらがどれだけ本気で病気を治したいと思って、根気強く症状を説明しても、次の患者がいるからと毎度追い出されるように診察室を出るのが常だった。本当にうみねこの病気は良くなるのかという不安感や、話すらろくに聞いてもらえない無力感で俺でさえ毎度疲弊した。それに今日にも自殺してしまいそうなうみねこに対しまるで無関心な医者の態度に腹が立った。

けど俺よりもっと傷ついているのはうみねこだ。それにここで俺が諦めたら、この先うみねこの精神状態が勝手によくなることは絶対にないだろう。

もう治療に諦めの色が見え始めているうみねこに病院を探させて予約させるのは気の毒で、途中からは俺が代わりにするようになった。そこまでするくらいには俺も必死だった。

その間もうみねこは色んなものと戦っていた。仕事に行けない焦りや不甲斐なさ、漠然とした不安、そして社会から切り離された孤独感。うみねこは自分はダメだと何回も自分に言い聞かせた。

夜になると怖い夢を見るのか毎日泣いたりうわ言を言った。眠りが浅いせいか昼も眠気であまり起きていられないんだと言った。不安な気持ちが強い時は目を離すと薬を過剰に摂取した。

俺は仕事があって家にいるうみねこを1日中見てやれるわけじゃないから、仕事の間に1度でも多く連絡をして、帰れば話を聞いて、出来るだけ笑わせたり引きこもり気味のうみねこを散歩に連れ出して、気を紛らわせた。死にたいという気持ちに出来るだけ直視させず、とれだけ目を逸らし続けられるかが課題だった。

でもそのやり方が正解かどうか俺には分からない。誰も教えてくれない。どんな言葉がうみねこを追い詰め、ラクにしてやれるのかさえ俺には分からない。

でもだからってうみねことの会話を避けてはダメだ。一緒に住んでおいて、うみねこに何があった時に、「何も知りませんでした。だってうみねこが何も言わなかったから。」なんてカッコ悪いことは言いたくない。

仕事を休ませるのも、病院を探し続けるのも俺のエゴかも知れないし、この行動がうみねこの病気を悪化させているのかも知れない。でも俺はこんな状態のうみねこをそのままにはしておけなかった。

でもその時の俺は何も見えなくて怖かった。うみねこが良くなる見込みも保証も将来も何もなかった。俺はうみねこじゃないから、毎日元気に働くことが出来るし、病気の辛さも孤独も分からない。でもうみねこはこんな抱えきれない程の不安を今まで誰にも言わず1人で隠し通して何食わぬ顔で働いて社会生活を送っていたんだ。

その時に何もしてやれなかった自分が悔しかった。うみねこの症状は年々重くなっているらしい。その時に連絡の1つでも取ってやればよかったとか、仕方のない後悔ばかり浮かぶ。でも今俺が一緒に歩むことでうみねこの不安が少しでも軽くなっていたらいいのに俺はうみねこの寝顔に願った。


俺はいくつか病院を見て回って、色々調べて、決めたことがある。

「認知行動療法」をやっている病院を選ぶ事だ。


精神科は心に病を抱えた人が行くところで、カウンセリングをしてくれるところというイメージが俺にはあった。でも実際にはカウンセリングには予約が必要だったり、先生に話を聞いてもらおうにも話せる時間は10分足らずだ。そう、精神科というところは投薬治療がメインなのだ。気分が下がっている人には気分を上げる薬を、ストレスで胃が痛いのなら胃薬を、眠れないなら睡眠薬を、こう言った具合で。それで良くなる人もきっと大勢いる。でもうみねこみたいにストレスやトラウマや自身の考え方に苦しめられている人は、薬で症状が一時的に良くなっても根本的解決にならない。ストレスを取り除いたり、対処の仕方を学ばないことにはずっとうみねこはこのまま変われないのだ。

だから認知行動療法で考え方や生活習慣の面を指導してくれる病院が必要だった。これは実際に病院に足を運んでうみねこと一緒に診察室に入って、何回も失敗して色々調べてやっと気づくことのできたことだった。これは大きな進歩で、闇雲に病院に体当たりしていた頃と比べ、予約の段階でかなり病院を絞り込むことが出来た。そもそも認知行動療法を行なっている病院がかなり少なく、そう言った意味でもかなり絞れたのだ。


そうして俺は人生を変える病院を予約した。



【初診】


精神科の初診は、まず1時間程度の聞き取りから始まる。

どんな症状かだけでなく、どんな家族構成で、どんな仕事で、どんなトラウマがあるかなど、こと細かく聞かれるのだ。

この病院は特にたっぷり時間を取って聞き取りをした。うみねこが抱えている問題やしがらみやストレス、人間関係や後悔や罪悪感、恐怖や苦痛に至るまで、全てを吐き出すまで、聞き取りは終わらなかった。この病院の聞き取りが今までで最も長くて、最もうみねこが苦しそうだった。

うみねこはきっとこの病院でもいつものように用意した答えを系列順に淡々と話してやり過ごすつもりだったのだろう。

でもこの病院はそれを許さなかった。うみねこがあまり触れたくないことは簡単な短い言葉で完結に話したり、その部分を避けたりすると、5w1hをきちんと埋めるまでうみねこが泣いてもしっかりと質問する。うみねこが触れて欲しくない部分に踏み込んで、記憶の奥底の厳重に閉ざされた部分を無理やり開けさせるような作業だった。無理にこじ開けるとどろっとした目も背けたくなるようなものが溢れ出す。うみねこは説明する途中で思い出すのを拒否するように黙り込んだり、泣いたりしながら搾り出すように震える声で情報を伝えた。そこは、うみねこの言葉を急かすことはせずにゆっくりと話せるまで待ったが、無理に離さなくてもいいですよとは絶対に言わなかった。

俺は苦しそうに言葉を詰まらせて泣くうみねこを見てもうやめてあげてくださいと何度も止めてやりたかった。でもそれを全て掻き出すまで聞き取りは終わらないから、俺は黙ってうみねこの背中を撫でてやる事しか出来なかった。

俺が止められなかった理由がある。

きちんと全部話さないとうみねこのためにならないとかそんな理由じゃない。

俺は知らなかったんだ。


中学の時に仲の良かった先生からセクハラを受けていたこと、分からないように密かにイジメを受けていたこと

親にずっと虐待をされていたこと、大学生の時家を出てからはほぼ絶縁状態だということ、お金に貧窮して沢山の人を利用して騙して身体を売っていたこと、毎日毎日罪悪感と恐怖で未だに悪夢をかかさずに見ること、自殺未遂をしたのが1度や2度ではないこと。

その聞き取りでうみねこが話していた事の半分以上は俺の知らないことだった。何度も今までっ病院にも聞き取りにも同行していたのに、うみねこはきっとどうしても話したくなくて話せなくて伏せていたのだろう。きっとそれらはうみねこの生傷で過去の事だとしても受け入れがたい思い出したくもない事実だった。隣の家で育っても幼なじみでも一緒に住んでいても知らないそのくらい深く押し込められたうみねこの部分だったんだ。


俺も俺以外の人間もうみねこを勝手に美化して理想のうみねこを押し付けて、うみねこはずっと苦しかったのかもしれない。望まれる姿を演じようとうみねこ頑張らせてしまったのかもしれない。俺なんてちょっと嘘を吐いたくらいですぐ顔に出てバレるのに、うみねこはそんな素振り見せなかった。絶対平気だったわけじゃない、何も思わなかってわけじゃない、夜中にうなされて泣いてたところ何度も見てたよ、俺は。でも何がそんなに苦しくて泣いているのかなんて分かってやれなかった。


聞き取りのあと待合室で少し待ってから診察だった。よっぽど堪えたのか、待合室でもうみねこは俺の肩に寄りかかって顔を隠して泣き続けた。大声で泣くのじゃなくて波が来るように、落ち着いたと思ったらはまた泣き始めては呼吸が乱れるのを何度も繰り返した。そんなうみねこの背中を撫でて声をかけて落ち着かせながら俺たちは診察を待った。俺はハンカチを持ち歩いているような気の利いた男じゃない。うみねこも自分がこんなに泣くとは予想もしていなかっただろう。いつもの俺たちはもっとしれっとしていて、今回の病院もダメそうやなあとか、帰りミスド食べて帰ろかとか、落胆を隠して言い合う余裕はあった。もうそんな風に取り繕う余裕もない程、うみねこの心はひっくり返され隅々まで掻き出されてしまった。


「がんばれよ、もうちょっとやから……」


そう励ましたのは俺だけじゃなくて、受付のお姉さんとか看護師さんとか臨床心理士さんとかで、ハンカチもテッシュも持たない俺たちに箱ティッシュを持たせてくれた。


診察室へどうぞ、呼ばれて俺はうみねこを支えて立ち上がった。受付のお姉さんまでうみねこが転ばないように診察室まで隣に付いて歩いてくれた。俺たちはこんな風普通に心配された事など今までなくて嬉しい以上に驚いたのを覚えている。


診察室に入ると先生は心配そうな顔をして俺たちを見た。先生は明るくて優しい雰囲気で、お医者様というより親戚のおじさんという感じの先生だった。


「よく頑張ったね。もう仕事やめましょう。ね?今日で診断書も書くから、すぐやめよう。」


先生は優しい声でハッキリと言い切った。もうちょっと頑張ろうとか、少しだけ休もうとか、ゆっくりしようとかそんなその場しのぎの言葉でで判断を先延ばしにはしなかった。


「それから仕事を休ませてるのはいい判断ですね、一緒に暮らしてあげる事で孤独感も軽減出来て自殺の抑止力にはなってると思います。水野さんはいい友達を持ったね。」


そう俺達の目を見て言った。

うみねこはその言葉にひどく安心し解放されたような表情をしてその場で泣き崩れた。そして泣き崩れながらも、強くはい、とだけと答え何度も頷いた。うみねこはずっと自分をきちんと理解し、信頼できる医者からのの正しい具体的な指示を心から待ち望んでいたんだ。うみねこが即決で返事をするということはもうこの瞬間には、うみねこはこの医師について行こうと決めてたんだと思う。でもそれは俺も同じだった。俺は初めてやっと肯定された。自分が正しいのかさえ分からなかった俺に指針を授けて間違ってないと背中を押してくれた。


先生の言葉は無駄がひとつもなくて優しくて絶対にうみねこを否定しなかった。

ただ1つだけ、うみねこの人生を覆すほどの大きな否定した。


「今までずっとうつ病って診断されてたんですよね。これは……双極性障害ですね。躁鬱病とも言います」

「躁鬱病……?それってうつ病とは違うんですか?」

「同じうつって字が入ってるけど、全く逆の病気です。よく誤診されるんだけど、端的に言うと双極性障害の人にうつ病の薬を投与してしまうと悪化します。っていうのは、うつ病は気分が下がる病気で、双極性障害は気分が上がる病気だからです、気分が上がった反動で気分が下がるだけで。」

「え……それって……僕……」

「初めて精神科を受診して薬を貰ったのが4年前……それから病院変えながら貰ってるのは一貫してうつ病の薬……薬が効かないからOBもしてるし。この期間のせいで余計悪化したのかな……」


先生は同情した目でうみねこを見つめた。

うみねこの苦しんだ数年間はなんやったんやろう。今までの医者はろくに話も聞かんとテキトーに薬出して、良くならんって何回も言ったのに、病院も何回も変えたのに、揃いも揃って誤診って、その間にうみねこは苦しんで悪化させただけやと言うんか。一体人の人生をなんやと思ってるんやろう。

そう思うとぶつけようがないこの怒りをどこにぶつけたらいいのか分からなくて歯を食いしばった。


「じゃあ僕、治るかもしれないんですよね?よくなるかもしれないんですよね?ちゃんと薬飲んで頑張れば……!」


「きっと良くなりますよ。薬も今までのとは全く違うの出すからね。」


うみねこの声には希望を感じた。うみねこは誤診の怒りより、やっと治るかもしれない希望を見出せたことの方が嬉しいようだった。180度別の診断をされたうみねこからしたら、薬を飲んでも治らない未知の病気から、治るかもしれない確立した病気に変わったのだ。この時に出されたのはリーマスだった。


「双極性障害はざっくり言うと元気な躁期と元気がないうつ期の2つを繰り返します。今はうつ期やからとりあえず休むこと、絶対に頑張っちゃダメですよ。眠たければ好きなだけ寝て、無理に動かないで。きちんと薬は決まった時間に、決まった量、正確に飲むこと。1週間後に予約取って、調子が悪ければ予約前でも飛び込みでいいから来て下さい。」


診察時間が極端に長い訳ではなかった。でも限られた時間の中で先生は病気のことや生活指導に至るまで、必要な事を具体的に簡潔に説明してくれた。病気に理解がない俺にも、精神的に今かなりキツいうみねこにもスッと届くようなわかりやすい言葉だった。

うみねこはすっかり毒が抜けてしまったように脱力してぼんやりして、それから泣きすぎで目は腫れてるし鼻は赤いし、疲れてぐったりしていた。会計を待つ間も薬を待つ間もあまり話さなかったが、それでも時折波が来て静かに泣いていた。


「……美味しいもの食べて帰ろっか、レオ。ミスドよりずっといいもの……」


薬局を出て1番にそう言ったうみねこは、再会してから1番晴れやか表情をしていた。


【引っ越し】

そこからはある意味トントンと進んだ。

俺もうみねこも治療に専念すると改めて覚悟を決め、うみねこは休職中だった仕事をやめ、それまで住んでいた部屋を引き払ってうちに越してきた。

俺は狭い部屋が嫌だから1人暮らしのくせに郊外の家賃の安いファミリー向けの賃貸に住んでいた。だからうみねこと2人で住んでもうみねこの引き上げてきた荷物が増えても何も困らなかった。

それまではうみねこにベッドを譲り俺が床に布団を敷いて寝ていたが、これを機にベッドを買った。

男2人で同じベッドは気持ち悪いし、寝る場所を分けるとうみねこの急な体調の変化に気付けない。俺たちは話し合った末、同じシングルベッドを2つ隣り合わせにすることにした。それでも男2人でこれはどうなんだと思うけど、うみねこは子供の時のお泊まり会思い出すねなんて言って呑気に笑っていた。


とりあえず6ヶ月、ゆっくりと過ごしてキチンと病院に行って薬を飲めば、きっと良くなるだろう。その頃には社会復帰も出来るかもしれない。俺たちはそう目星をつけて日々を過ごした。


うみねこは双極性障害の薬を飲み始めて、随分と調子が良くなったように思えた。前よりかなり精神的に安定したというか、ムラが緩やかになったという感じだ。前はまるでジェットコースターのように笑っていたかと思えば急に泣き出したりしていた。波がないというのはうみねこにとっても安心するのか、少し穏やかに明るくなった。本人曰く急に訳の分からない強い不安がくることがあまりなくなったそうだ。


うみねこは起きている間は前より精神的に安定したが、眠るのは怖いと言った。毎日必ず悪夢を見るんだそうだ。夢は無意識のストレスや記憶を反映させるから、薬で精神が安定してももっと深い部分の記憶やストレスが無意識に夢に現れるのかもしれない。薬を飲んでも気分という表面的な部分には作用するが、うみねこの心のもっと深い部分や忌まわしい記憶が綺麗さっぱり無くなるわけではないのだ。

その処方された薬は双極性障害にはよく効く。ただその薬の副作用がいくつかあった。副作用の1つでうみねこはやたらと喉が乾くらしい。ペットボトルの水を一口で飲み干してしまうし、常に喉が渇くと言ってどこに行くにも水が手放せなくなった。それは日中だけでなく、夜中も何度も起きてトイレと水分補給を繰り返した。

そして眠気。薬の副作用と双極性障害のうつ期の特有の症状で、1日中うみねこは眠気に襲われた。だから1日のほとんどをうみねこはボーっと布団で横になって過ごした。ひどい時は1日15時間以上は眠っていたと思う。それでもまだ眠いんだそうだ。だからうつ期の時は、家事はもちろん、風呂や食事などもままならなかった。

病院でそのことを相談するとその時期はとにかく寝ろと先生には言われた。うつ期は躁の時活発に動いたエネルギーを取り戻そうとするいわば充電期間で、眠たければ眠たいだけ寝るのが良いそうだ。しばらく寝ると身体が充電されて目覚めた時や、なんにちかゆっくりすればちょっと元気になる。それが嬉しくてうみねこは少し動けるようになると活発に動こうとした。ゆっくりして過ごせと俺も先生も言ったけど、眠気が少し晴れたうみねこはいつもどこか落ち着かなかった。ちょっと活動すればまたしばらく起きてもいられないくせに、ソワソワして何か新しい事ををしようとするし、先日も求人雑誌を取り上げたところだった。


うみねこは俺が面倒を見ると言ったのに、律儀に生活費を払い続けた。そしてしんどいながらも自分は1日家にいるからと出来る限り家事をしてくれた。しなくていいと言っても家事が好きなんだって言って進んでやってくれた。俺はそれに甘えてしまった。楽させてやりたくて一緒に住んでるのにそれがうみねこに負担をかけてしまった。うみねこは家事が好きなんかじゃない。ただ必要とされたくて家事をしてたんだ。家事もしないで家に金も入れないとここには居られないと思ったんだ。


それから今の病院に通い始めて半年経ってもまだうみねこは体調にムラがあって先生は仕事をすることを許可しなかった。俺はそれが賢明な判断だと思った。

でもそんな俺の甘さがうみねこを追い詰めた。もっとうみねこの状況を考えてやればよかった。

一緒に住んでいてうみねこの焦燥や孤独や無力感の何も気付いてやれなかった。うみねこはまた1人でゆっくりと道を外し始めた。




【金銭の逼迫】

うみねこは金銭的に逼迫した。でも生活費を渡すのがキツイと俺に言えなかった。絶縁している親にも金のことはもちろん相談できなかった。友達にも相談できない。でも仕事は禁止されている。

だからうみねこはまた身体を売って、人を騙して、金を稼いだ。その罪悪感が自分の心を病ませると分かっててそうした。

それが、働くことができない

気分と体調にムラがある

隠れて働くことしか出来ないうみねこの

唯一の金を稼ぐ手段だった。


うみねこには昔のコネがあったし、以前やっていたから慣れている。うみねこは嘘をつくのも隠し事をするのも上手い。

何があっても顔には出ない。よっぽどヘマをしない限りうみねこのオシゴトは俺にはバレないはずだった。でもうみねこはたまにものすごく抜けているんだ。


今日は外の現場で作業していた。場所はホテル街。作業している途中、俺はふとホテルからうみねこに似た若い男と、それに見合わぬそこそこの歳の女が出てきたのを見かけた。俺は居ても立っても居られず、うみねこに似た男を追いかけた。


「おい、ちょっと待てぇ。お前うみねこやろ。」

グイッと肩を捕まえるとうみねこは驚いた顔で俺を見た。

「レオ……!?」

「うみねこ……お前は背ぇも高いし顔もええし目立つねん、こんな平日の昼間っからホテル街ウロウロしてたらさぁ。まさかそのおばちゃんが彼女って苦しい言い訳はせんよなぁ、嘘が得意なお前なら。」

「なんでここに……」

「そんなことするんやったら俺の現場がどこかくらい聞いとけよな……爪が甘いって言うか……最近起きれてる日ぃはどっか出かけてるみたいやったけど、それが最近遊んでるお友達かいな」

「帰って……話そう……レオ……レオも仕事の途中やろ……僕ももう帰るから……」


うみねこがそのおばさんにごめんね、また連絡するからと声を掛けると、おばさんはバタバタと走るように逃げていった。作業着の上に体格がよく目つきの悪い俺が睨みを効かせたからかもしれない。


「……まっすぐ帰れよ、うみねこぉ……逃げたりすんなよ、帰ったらどう言うことか聞かせてもらうからな。」

「……うん……」

「家着いたら連絡せえよ、絶対やぞ」


先生に喧嘩とか怒鳴るとか感情的な、やりとりは絶対やめてくださいと言われた。なのに怒ってしまった。うみねこは怯えていた。でもあんなに身体を売るのは辛いって言ってたのにまたどうして売るんだ。俺に隠れて。

その日はイライラして全然仕事にならなかった。


帰ったらうみねこはきちんとご飯を作って待っていた。罪悪感なのかいつもよりおかずが多かった。


「レオ……っ、おかえり……ごはん……お風呂も沸いとるし……」

「先話しようや、なぁ?」


うみねこの目を見ないまま上着を洗濯機に入れた。


「なぁ、何してたん、昼間、あんなとこで、ええ歳こいたおばはんと」

「……っ」

「もうそういう事すんの辞めたんちゃうんか、あんだけ辛いって言ってたやん。もう辞めるって先生にも約束してたやん。お金困ってるん、何で俺に言わんの。生活費素直に受け取ってたのは俺も悪いわ。でも何回もいらんって、俺が面倒見るって言ったよな」

「ごめん……」

「そんな訳わからん気遣いいらんのやけど。」

「……っ」


アイツの怯えたような傷ついた顔に余計腹が立った。でもこれはきっと罪悪感だ。俺はタバコに火をつけた。うみねこが来てからずっと家でタバコを吸うのを我慢していたのに。


「俺が仕事行ってる間にさ、結構そういうことしてんの?」

「いや、最近になって……ほんま時々やけど……」

「生活費の足しにしようって?」

「……うん……ごめん……こうするしか今の僕にはお金稼ぐ手段がなくて……」

「気持ちよかった?」

「はぁっ!?そんな訳……っ」

「じゃあなんですんねん、お前はいっつもいっつも。もうここずっと居ったらええって、しんどいことから全力で逃げて俺を頼ればええって言うとんねん。俺は精一杯手差し伸べてんのに、お前が助けて言うたら絶対助けるのに、何でしんどいの一言が言えんねん。ラクな居場所用意しても、なんで辛い方ばっか選ぶねん。よお知らん年も離れたおばさんには甘えられるのに、幼馴染の俺のこと信じてないんか。」

「嫌いにならならんといて……」

「嫌いになんかなるか、今はそういう話しとんとちゃう。……お前病気治す気あるんかほんまに……ちょっと良くなってきたのに訳分からんことしやがって……」

「レオには僕の気持ちなんて分からんよ……」

「どういう意味や」

「レオは僕が家でずっとひとりぼっちで働けんで社会から孤立して焦る気持ちなんか分からんやろ……貯金は減る一方やし、レオに面倒見てもらって、でももしレオの機嫌損ねたりしたり、レオに彼女が出来たりして、僕のことが邪魔になってしまったら、僕はどうやって生きていけばいいんや……1人になるのが、1人で生きられんようになるのが怖い……そうなる前に僕は自立せんと……早くせめてお金だけでも……」

「お前は……ここまでしても俺がそんなに信じられんのか……俺の気持ちの一部も分かってくれんのか……」

「レオ……?」

「俺が気まぐれでお前を放り出すと思うか、彼女が出来たらお前のことどうでも良くなると思うか」

「……」

「正直に思ってる事を言え。」

「……分からん……なんも分からん……なんでレオが僕なんかにここまでしてくれるんか、レオが僕のことどう思ってるんか。レオは僕のこと負担に思ってないやろうか、レオの人生の邪魔してるんちゃうやろか、たぶん僕なんておらんようになった方がええんじゃないやろうか……」

「そんなこと思ってない。俺はうみねこが大事やから……」

「こんなダメな僕を無条件に受け入れんといてくれ、僕にはそれが怖いんや。今日みたいに、何かを与えてお金を貰うような対等な関係が落ち着く……。何も出来ん僕にレオが無条件に与えてくれるとしんどくなる……。居心地良くしてくれればしてくれる程、僕には居心地が悪い……。ほんまにこのままでええんかってソワソワする。親切が申し訳なくて僕なんか死んだ方がいいんじゃないかと……僕が死んだらみんな幸せになるんやって思うんや。」

「そんなわけあるか!じゃあどうしたらうみねこは俺と一緒にこの家で暮らしても落ち着くんや。」

「僕を酷く扱って……気に入らなかったら怒鳴って……僕に相応しい扱いをして欲しい……」


そこで俺は先生が認知の歪みという言葉を教えてくれたのを思い出した。全か無か思考(状況を二者択一的に考えること)、結論の飛躍(性急に判断を下すこと)、読心術(なんの根拠もなく他者の考えを思い描くこと)、レッテル貼り(自分自身にレッテル貼りすること)、感情的理由付け(そのように感じることを事実だと決め込むこと)の5つに分けられる、考え方の癖にとらわれて物事を解釈し、他の解釈をすることが難しくなっている状態のことだ。(引用)


「……そこや、そこやうみねこ。その考え方がおかしいねん。そこが人とズレてんねん、やからずっと生きづらいねん。あのな、みんな酷く扱われたらめっちゃ腹立つねん、嫌なことやねん、普通は。でもお前って自分は誰からも無条件で愛されてないし大事に思われてないって、それが当然やと思って生きてるやろ。やから俺みたいな無条件でお前のこと大事でお前の為なら何でもしてやりたいって人間現れたら気持ち悪なんねん、居心地悪ってなんねん。」

「それは……合ってると思う……」

「せやろ、じゃあどうしたら居心地の悪さが解決するか。1個目はさっきお前が言うたみたいにお前を今後クズとして扱う。でもこれは却下や。だってそんなん俺が居心地悪いもん。じゃあ2つ目、お前がめっちゃめちゃに一方的に大事にされても居心地悪くならんようにすること。」

「いや、そんなん無理やって……そんな簡単に考え方変わらん……」

「俺かて無理やわ、お前にそんなひどい態度取るん。それに考え方人とズレてるんお前の方やし。それ直さんとずっと生きづらいし、病気も治らんで。先生も考え方変えてく練習しましょう言うてたやろ、こういうとこやで。」

「……っせやけど……」

「すぐじゃなくてええ。人間そんなすぐ変わらん、そんなこと分かってる。当たり前や、お前がダメやからすぐ変われんのじゃない、みんなそうなんや。でも変わらなあかん、そんな苦しい考え方は。そんなんお前らしさでもなんでもない。やからそのままでええよなんて甘いこと言わんで俺は。一緒に頑張っていこうや、次の診察の時な、ちゃんと話そう。どうやったら変われますかって。簡単やろ?無理やったら一緒に行って聞いてやる、もっと簡単やろ?」

「……っうん……」

「やからさ、とりあえず身体売るのやめ?生活費は取らんし、小遣いやって出す。生活のことはなんも心配せんでええ。」

「そんなんいやや……レオに頼りっぱなしはよくない。先生にお金どうしたらいいですかって、働けませんかって聞く。なんか方法探すから……」

「じゃあ方法見つかるまでは俺のこと頼ってくれるな?けど売りだけはやめてくれ、お願いやから。俺がいややから。」

「でもそれじゃ……」

「俺がええって言うてんのやからこれでええの!」

そう言って黙らせた。




【障害年金】


「障害年金……なんですか、それ……」


俺は今日うみねこに連れ添って病院に来ていた。それでうみねこの金銭の逼迫や認知の歪みについて相談した。うみねこがきちんと自分の口で伝えられるのか不安もあったし、何よりうみねこの世間離れした独特の考え方やズレについて、第三者の俺の口から客観的な意見を話したかったのだ。


「障害年金っていうのは国から受けられる制度で、診断書提出して審査が通れば受給できるんです。等級にもよるけど水野さんみたいに日常生活もままならんのやったら2級で申請して月7万くらいかなぁ。審査にも結構時間かかるし、実際にお金が放り込まれるのももっと先になるけど、とりあえず次回には診断書書き上げますね。」

「そんなにもらえるんですか……」


うみねこはほっとした顔をした。


「うみねこ、よかったな。なんとかなりそうやん、貰えるまでのことは気にすんなよ、俺が面倒見るから」

「……でも、7万円じゃ生活していくのは難しいですよね、

「それやったら生活保護っていう手もあるけど、あんまりおすすめしませんね、条件も厳しいし……」

「生活保護……」


その重い響きにうみねこは少し考えて顔を上げた。


「生活保護でもいいんです、ちゃんと自立せんと……」

「生活保護っていうもは周りの目もあるし……貯金とか財産つまり貴金属とか車とか、ああいうものも持っててもダメやし家の家賃とかも見られるし、家族や親戚にも知らせが行って全員が水野さんを援助できないって断らないと受けられないんですよ。」

「か……っ、家族は困ります……けど、自立できるくらいのお金が欲しいんです、早く働かんと……日雇いでもなんでも……まだ働くのはダメですか?」


「5段階欲求って言ってね、上から順に、

自己実現欲求(自分を高めたい)

承認欲求(認められたい)

社会的欲求(他者や社会との関わり、仕事)

安全欲求(身の安全)

生理的欲求(生命維持、健康)

っていう欲求があります。1番大きな土台は1番下の生理的欲求。

水野さん……お金の不安はもちろん分かりますよ。お金がないと生きられないし、お金がないと不安になります。けどね、健康が1番大事な基礎の部分なんです。そこからしっかり固めていかないと、仕事とかお金とか上を固めても崩壊してしまいます。今までやって無理して認められようとしたり仕事したりして、何回もグズグズになったでしょう。今1番優先しなければいけないのは健康です。」


不安そうなうみねこの横で俺は大きく頷いた。


「だからまだ仕事は早いと思う。今無理に始めたら最初は躁状態になって張り切って頑張れるかもしれないけど、いっぱいいっぱいになってそれがプツンと切れた時……またうつになりますよ。だから医者として仕事していいよとはまだ言ってあげられません。」

「先生、こいつずっと調子なんです。俺は金のことは心配すんなって何回も言うてんのに、無条件で大事にされるんは居心地悪いとかもっと酷く扱って欲しいとか訳分からんこと言うて……俺がどれだけ居心地良くて安全な場所作って心配することないようにしても、わざわざしんどい方に逃げようとするんです。」

「そうですか……水野さんは、自殺未遂と、自傷癖があったよね……最近はどう?自分を傷つけたくなったりしますか?」

「……はい。罪悪感に耐えられんくて……自分を罰したい気分になってしまって……苦しいのが落ち着くって言うか、楽っていうか居心地いいって言うか……レオはこう言ってるけど、申し訳ないし、今の何もせんでいい状態が耐えられんくて……」


うみねこは言葉を濁した。


「つまり、自分は何かしないと価値がないような気がしてるんやね。価値がないから何かしなきゃって焦るし、何も出来んかったら自分を罰したくなる。そういうことですよね?」

「そうです……!」

「そこはね、やっぱり考え方変えていかなきゃいけないですよ。水野さんはトラウマとか抱えてるから、そういう考え方が癖になっちゃってるんですね。悪い癖ってそれがダメやって分かっててもついやっちゃったり、それをやめたら落ち着かなかったりしますよね?

それと一緒で最初は気持ち悪くても何回もその癖を直して修正していきましょう。何も出来なくて居心地悪くても、自分はこのままでよくて死ぬ必要も罰する必要もないって、何回も自分に言いましょう。」

「そんなん無理です……僕に価値があるやなんて……」

「これは癖だから、意識づけてやって下さい。自分は無価値って一瞬でも思ったらそれを否定して下さい。今はほんまにはそう思えないかもしれないです。でも無条件に大切にされてなかったら、加冶屋さんが優しいって理由だけで一緒に住んで面倒見てくれたり、病院に着いてきてくれることなんかないですよ。

それだけあなたが魅力的で、それだけのことをしてもらえる価値がある人間ってことです。自分を否定するとそんな大切にしてくれる人たちの気持ちも否定することになります。自分には価値があるって思えなくても、無価値感に囚われたら何回でも『自分には価値がある』って呟いて下さい、形だけでも。」


その日の診察はそれで終わった。

俺は腑に落ちたけど、うみねこは腑に落ちたような落ちないような複雑な顔をしていた。おそらく頭では分かってるけど心がそれについてかないと言う感じなのだろう。

うみねこの親は、言ったとおりにしないと不機嫌になった。言うとおりにしないとうみねこをダメ人間扱いして全否定した。学校のようなコミュニティで神経をすり減らしていたうみねこは家でも地獄が続いた。

家でゴロゴロだらけたり、テレビを見たり、漫画を読む時必ず親が嫌味を言った。勉強したの、次の成績が楽しみね、家のことしなさい、うみねこは休めるはずの家で常に何かしなくてはとずっとソワソワしていたそうだ。

うみねこは人生の殆どをそういう考えで生きてきたのだからすぐに受け入れられないのは仕方ない。でもそれをい受け入れられたらうみねこはずっと生きやすくなるだろう。それでいつか俺がうみねこを大事に思っているか伝わればいいのに。そんな事をうみねこの採血を待ちながら考えた。



《認知の歪み》


【働かないとお金が……】


その日から俺は食費と小遣いをうみねこに渡した。でもうみねこはずっと居心地が悪そうだった。「自分にそこまでしてもらう価値がない」と何度も言った。そして逆に躁の時期、つまり元気な時期になるたび「大丈夫な気がする」と言って働こうとした。


「でもまたうつの時期が来たら働けなくなるんやろ」

「でも働かないとお金が……」

「また売りするんか」

「…………」

「生活費も小遣いも渡してる。住む場所も。これ以上何を望むんや」

「自分の力で生活がしたいんや……迷惑かけたくない」

「だから今は無理何やって。元気になってからでええやん、そういうことは」

「いつ元気になれるかもわからんのに……っ。一生このままかもしれへんのやで!?」

「やから元気な時にサクッと稼げる売りをするんか。」

「……それしかないやん……」

「それ。先生が言ってた視野狭窄ってやつなん自分で気付いてるか?それから話飛躍してるからな」

「……!…………うん、確かに」

「しかも5大欲求の話もしてたやろ。健康がまず1番ですよーって」

「うん……」

「売りは絶対やめなあかん。普通に危険やし……それに俺にも秘密にしてた絶対言いたくないこと……後ろめたくて嫌なことなんやろう?やめたくないんか?」

「辞められるなら辞めたい……けど僕に出来る事これくらいしかない……」


その言葉に驚いた。うみねこは器用だし人当たりもいいしどこに行ったって馴染める人間だ。そんなうみねこが売りしかできないなんて本気で思っているだなんて。これが認知の歪みか。俺は認知の歪みを恐ろしく思った。


「……ええか、うみねこ。お前は器用やしどこ行ったって馴染める、人から好かれるいい奴や。俺は学生の時魅力的って言葉を聞いた時お前のことが思い浮かんだ。

うみねこはどこ行ったってやっていける。今は病気なんやからよくなることに専念して、働くことなんて考えんでええんや。病気が良くなったらうみねこにできることがいっぱいある。だから売りしかできんなんて言わんといてくれ。」

「僕このままでええの……?」

「何回もそう言うてるやろ、あほ」


「今は健康を優先して働かなくていい」

「うみねこはこのままで価値のある人間だ」

この会話はうみねこが良くなるまで何回も繰り返した会話だ。それだけうみねこの認知の歪みは強力でうみねこを支配するモノだった。




【うみねこが死んだ日】


僕が死んだ日。あれは真夏のクーラーがよく効いた僕の部屋だった。しばらく考え込んでから、処方された薬をありったけ一思いに飲んだ。初めての自殺だった。そしてベッドの上で目を閉じた。遺書も何も残してない。死ぬ前に誰かにLINEを送ったわけでもない。

そして丸一日と少し寝て僕は目を覚ました。失敗だった。

もちろん誰からも連絡は来ていなかった。いつも通り話聞いてよ、とか授業のノート見せて、とかそんなラインが来てただけ。僕は泣いた、そして笑った。


「ははは……はははは……っ、僕が死んでも誰も気づかへん……僕なんて居ても居なくても一緒や……!」


死に対する価値観がガラリと変わった日。

そしてその日僕は本当に死んでしまったんだと思う。





【過呼吸】


終電には帰ると言って出かけたうみねこはいつまで経っても帰って来なかった。先生には過剰に動き回ると反動がくるからと口を酸っぱく言われているから、遊びは終電まで、外泊はしない、多くても2週に1度とルールを決めていた。でもうみねこはなんだかんだと理由をつけてそれを破る時が多かった。


「おい、うみねこ、なにしてんねん。どこおんねん、今。」

「……っレオ、もう帰るから……」

「終電前には帰る言うたやろ、電車ないのにどうやって帰んねん。」

「えっ……と、歩いて帰れるから……」

「嘘つけ……迎えに行ったるから、場所。」

「や、そんな悪いよ……明日仕事やろ?」

「場所言え早く、誰のせいやねん。」


はあッとため息をついて俺は車を出した。


「……友達は?」

「さっきタクシーで帰って……」

「乗ってけばええやん、送るのに……」


ため息をつきながらうみねこが助手席に乗ったのを確認すると車を走らせた。


「……ごめん、なんか友達落ち込んでて、話聞いてたら帰れなくて……レオ、怒ってる?」

「何で俺が怒ってると思うん?」

「終電逃したから……」

「……お前病気治す気あるか?」

「……っあるよ……」

「いや、ないやろ。あるんだったら約束守れや。悩んでても終電やから帰る言うたらええやろ。ほんでまたしんどなんねやろ?」

「……っごめん……」

「いつものことやけとさ、ちょっと学習したら?もうちょっと病気のこと考えなよ、人の相談乗るのもええけど。それに飲み代やってどうせ割り勘やろ、働いてないお前が大事な貯金崩してまでやることか?」

「……」

「なぁ、何で泣くん?泣くことないやろ……」

「……っは、はっ、はぁっ……ごめ、っ、ごめん……っは、」

「落ち着け、落ち着いて息吐け」


俺は路肩に車を停めた。


「大丈夫やから、泣くことないから、ちゃんと息吐いて……無駄なこと考えんでいいから。」

「ごめ、っ、ごめんなさ……っ」

「謝らんでええからしっかり息吐きや」


うみねこは少し強く言うと過呼吸を度々起こした。

二酸化炭素が吸えるように口を手で覆うと苦しそうな呼吸と共に涎が流れて、涙や鼻水をぐちゃぐちゃに零して俺の手をドロドロにした。


吸って、吐いてと声をかけながら背中をとんとんと規則的に叩いてやると、少し落ち着いて、また呼吸が乱れるのを何度か繰り返したらうみねこは落ち着いてくる。


「落ち着いたか?」

「ごめん、レオ、僕また……」

「ええって、いつものことやん……」


そう言って車を走らせるとうみねこはまた必死に謝った。


「ごめんレオ約束破って……また過呼吸起こして……ほんま僕ダメやな……愛想尽かした?怒ってる?嫌いになった?」

「なってないって……」

「明日仕事なのにごめん、ごめん、僕は……っ」


そこまで言うとまたうみねこの息が切れた。


2回目か……、心の中で呟いてまた車を路肩に停めると同じことを繰り返した。

もう時計は3時に近づいていた。


「ごめん、仕事なのに……」

「今はそんなこと気にすんな。」


なんとか家に着いたらうみねこはまた玄関で座り込むと過呼吸を起こして吐いた。


「ごめ……っ、ふっ、はっ、……ごめん……」


うみねこは過呼吸を起こしながら自分の吐いたものを掃除しようとする。


「もうやめぇって、ええから、俺がやるから、」

「レオ、ごめん嫌いにならんで……お願い……」

「分かったから風呂入って落ち着いてき、息しんどいやろけど。ここ掃除したらすぐ行くから」


手早く掃除しようともうみねこの苦しそうな息が聞こえる。


「うみねこー!大丈夫やから!落ち着け!」


俺は声をかけてうみねこを落ち着かせながら掃除した。


布団に入ってもうみねこのごめんねは続くし、何度も繰り返す過呼吸を落ち着かせるうちに朝が来てアラームが鳴った。

落ち着きかけてうとうとしていたうみねこはアラームに驚くとまた発作のように過呼吸を始めた。


「ごめん、仕事なのに寝てないよね。はぁっ、はぁっ……ごめん……」

「もうええわ、今日は休むわ」

「ごめん、行って、仕事?」

「俺がおらんくなったらまた過呼吸なるやろ。1人で過呼吸なんのしんどいやろ?」


ごめんと言って頷いて安心したようにうみねこは寝た。でも何回も目を覚ましては俺を探したり不安気だった。


今日は『赤ちゃんの日』か……


うみねこは鬱のとき不安が極度に高まると、時々こうなる。

俺が怒ったらいつもではないけど、ストレスとかいろんなもんが重なってこうなる。

こうなると、泣くのと吐くのと過呼吸を繰り返して放っておいたら本当に死んでしまいそうだ。

こうなったら俺は怒れなくなる。こうならないように怒ろうと思うけど中々出来ない。先生にも喧嘩とか感情的なやりとりはやめてねって口酸っぱく言われているのに。


逆にうみねこは躁状態であるとき、活発な欲求に勝てなくなる。財布の紐は緩みっぱなしで、悉く誰彼構わず予定を立てて、体力がついていかずにパンクする。そしてまた鬱に戻る。

でもその活発な欲求はどうしても止められないのだそうだ。さらにうみねこは元々の性格で、ノーと言えないのだ。

体調が悪くても金欠でも気が乗らなくても約束は絶対に断れない。帰りたくてももう帰るの一言も言い出せない。

悪循環が断ち切れないのだ。

でも遊ぶ回数をもっと減らせば、気分が過剰に上がることはなく、体力が尽きることもなく、金の心配をすることもない。

それは分かっているそうだがどうしても気分が上がってしまって断ることが難しいようだ。うみねこが唯一断れるのはうつでどうしても動けない時だけらしい。


躁とうつは簡単に入れ替わる。躁の気分で遊びに出掛けて行ったうみねこだが、今隣にいるように1日でうつに入れ替わる。そしてうつの時は認知が歪む。躁の時はあれだけ自分が大丈夫な状態であるのに、うつになった瞬間自分はダメだと言い始める。


うみねこの背中を撫でてやりながらこの病気の難しさをひしひしと感じていた。





【躁と強い信念】


「うみねこ、家事ありがとう」

「ありがとうじゃなくて自分でやってや!」

うみねこが声を荒げた。

「そんな急に怒らんでも……」

「僕が家事しとけばええって思ってるんやろ!」

「思ってへんよ」

「思ってるやん!!!」

「……ちょっと待てぇ、今躁ちゃうか」

「違うわ!レオが僕をイライラさせるんやろ!あぁ!ほんま腹立つ!」


最近うみねこは躁の時、怒りをコントロール出来ないようなのだ。小さなことにイライラしたり逆上したりする。何より厄介なのは躁という自覚がいつもないこと。病識がないのもこの病気の特徴らしい。そしてしばらくすると「僕が家事が出来なくなったら生きる価値ない?」と泣き出したりする。


それを先生に相談すると

「自分には価値がないという強い信念が根本にあるせいですね。この古い信念はずっと戦い続けなければいけません。そういう考えがもし出てきても、『また出てきたわ、お疲れ様』くらいに考えていいですよ」


先生の一直線な答えに思わずぷっと吹き出してしまった。


「こういう風に思われているに違いないと思っても、直接言われたかを気にするようにしてください。あなたには家事しか脳がないと言われましたか?」

「言われてないです……」

「でしょう。それと自分の価値に拘らないことですね。……逆にこの世で価値ある人間ってどれくらいいますか?」

「それは……」


あの口だけは上手いうみねこが完全に言い負かされていた。


「躁状態の時とうつ状態の時では、認知の歪みのベクトルが違います。躁の時は周りを責めますが、うつの時は自分を責めてしまいます。認知の歪みを修正して対処できるのは、うつの時だけです。躁の時は、行動を抑えることを意識してください。うつの時は『認知』に対処し躁の時は『行動』に対処するのが有効です。」


「うつの時は認知、躁の時は行動ですね。わかりました。」


なんてクリアでわかりやすいんだろう。先生はいつも的確な指示をくれる。確かにうみねこは躁の時、比較的認知の歪みがマシで、うつの時ひどくなる気がする。それを知れただけで大きな収穫だった。




【喧嘩】


「この間レオが女の子といるの見たわ、可愛い子やったね」

「あー会社の先輩に紹介されてな」

「僕なんてもうおらん方がええ?僕がおったら邪魔?」

「なんでそうなるねん。大体残念ながらその段階までいってないわ!」

「でもいつかそうなったら僕のことなんて邪魔になるんやろ?」

「そうならんって」

「わからへんやん!それとも僕がおるから他の女の子と付き合われへんの?ごめんね!病気じゃなくて仕事ができてたらすぐに家出てあげられるのにね。」

「そんなこと言ってないやん。」

「言ってなくても思ってるやろ、僕が邪魔やって。それなら最初から僕のこと助けんかったらよかったやん。思ってもないのに僕に味方とか言わんかったらよかったやん!レオの嘘つき!」


分かってる、支離滅裂なことを言ってることは。こんなことを続けていたら嫌われてしまうと思う。けどなぜか止められない。

僕らは最近こんな感じで喧嘩ばかりしてる。喧嘩してる時は感情的だし、喧嘩が終わったら嫌われちゃうかもって何日も落ち込むし、泣いたら疲れる。先生には感情的なやりとりは避けてくださいって言われてるのにまたやってしまった。ダメなのに繰り返してしまう。もう精神的にボロボロだった。


「感情的になったら普通の人の何倍もドーパミンでるんです。だから支離滅裂なことを言ってしまうんです。あんまり自分を責めないで。」

「えっ、そうなんですか」

「仕方ないことなんですよ。今回は加治屋さんが女性と一緒にいるところを目撃したというイレギュラーがあったから喧嘩も仕方ないでしょう。環境的要因がない時でも喧嘩するなら躁を疑います。薬を増やすか経過を見ましょう。」


「はい……」


「それから不安についてなんだけど、不安にはWhy型とHow型があります。」


「whyとHow?」


「Why 型は何が不安なんだ、なぜ不安なんだと犯人探しを始めます。これが、反芻思考になり不安を強めるんです。でも考えてみてください。不安は誰も殺さないし人生をめちゃくちゃにしません。不安に思う気持ちが先行して出るだけで、不安が現実に起こることはないんです。」


「確かに……!」


「Whyではなく、howです。不安にどう向き合うか。そして不安にどう向き合うかずっと考えてたら飽きてくるものなんです。不安は追い出すのではなく置き場を作ってあげると考えてください。

例えば不安は子犬と一緒です。寄ってきたら追い返すのではなく抱っこしてあげたり撫でてあげたりして居場所を作ってあげるんです。そうしているうちに子犬はいずれ飽きるでしょう。なぜ子犬が寄ってくるのかと考え始めるのはよくないんです。それは反芻思考になるから」


「は〜、分かりやすい例えですね。ありがとうございました」


その帰り道


「うみねこ、ごめんなあ。これからは不安にさせないようにするから。」

「うん、でも仕方ないからってレオに支離滅裂なこと言っていい理由にはならんし僕も気を付けるわ……そういえばあの子はどうなるん?」

「音信不通や」

「ぷっ、レオって優しいのにほんとモテへんよなぁ」

「笑うな!お前がモテすぎやねん!世の中不公平やなぁ」

「あはははははっ」


久しぶりにうみねこが心の底から笑った気がした。





【資格の勉強】


うみねこは最近資格の勉強にハマっている。就職した時に役に立てるようにしているらしい。教材もたくさん買い込んで朝から晩まで勉強している姿はすごいと思う。


「ちょっと本屋行ってくるわ。書いたい参考書があるねん。」

「え!?こんな時間からか?明日でええんとちゃう?」

「今日買いたいねん!今すぐ欲しいねん!」

うみねこは強めに俺に言った。


最近家事も完璧だし少し心配だ。


「資格の勉強なんてせんでええんちゃうの?ゆっくりしとけばさぁ」

「生産的なことをせなあかん気がする。ゴロゴロしてんのなんて時間の無駄や」

「また躁ちゃうんか、動きたくなってもじっとしとかなあかん」

「これくらい大丈夫や」


先生の前でも「大丈夫です」を連発するうみねこ。

「加治屋さんから見てどう思いますか?」

話を振られたので俺はありのままを喋った。

「躁ですね、行動抑制して下さい」

「でも僕はフラットな状態やと思ってて……」

「病識がないのもこの病気の特徴ですからね、話を聞く限り完全に躁でしょう。資格の勉強をするのはもっともらしい躁の特徴ですからね。」

「はい……」

そうは言ったもののやっぱり資格の勉強をしてみたり、毎日のように買い物や図書館に行ったりうみねこは落ち着かない様子だった。そして約1カ月後うつで寝込むことになる。

「ゆっくり休んで」

「うん、ごめんね……あの時もっと行動制御出来てればもっと軽いうつで済んだのに……こんなにも苦しい……」

その繰り返し

躁の反動でうつがくるから、躁が強いほどうつが強くなる。躁の時動かんかったらええのにななんて、でもそれが難しい病気なんやんな。





【浮気】


ある日うみねこは頬を腫らして帰ってきた。

「どうしたんや、うみねこ。」

「……浮気がバレた」

「浮気!?」

「浮気したら怒るなんて知っていたら浮気しなかったのに」

「そら浮気されたら誰やって怒るやろう」

「そんなに本気で怒られるほど真剣に僕のこと想ってくれてるなんて知らなかった。僕のことなんてどっちでもいいのかと思ってた。だから僕も代わりを作ったの。」


うみねこは浮気は悪いことだと思うと言った。ただしそれはお互いが本気の場合で、自分のことを本気で思ってくれる人なんていないから浮気してしまうんだと言った。他人に真実の愛みたいなものを見出して信じて生きていたくない。そんな不確かなもの信じて裏切られて泣くなんてバカだ、そう泣きながら言った。居場所も人も友達も愛もできるだけ沢山、使い捨てできるように沢山集めたい、そう言って1人では欠けてしまう心を数で満たそうとしていた。

ただ鬱の時は自分が浮気してしまった罪悪感で死にそうになるんだと言った。でも躁の時に気が大きくなるのと持ち前の認知の歪みで浮気を繰り返しているんだと言った。俺にはうみねこのやり方は破滅に向かっているとしか思えなかった。うみねこには色々なことに共通して自分は大切に思われているという認知が欠けている人間だった。自分に自信がないばかりに、自分のことを愛される価値のない人間だと思っていた。


そういう時俺は先生のマネをして「本気で愛してないって言われましたか?」と言うようにしている。「本当に好きだよっていっぱい言ってもらったんちゃうんか?大事にしてもらったんちゃうんか?それは絶対うそじゃないで」うみねこの浮気がバレるたび、うみねこが疑心暗鬼に耐えられなくなって別れるたび、そう何度も何度も付け加えた。自分はみんなに大切にされてて、尊重されてそれが当然やって状態に持っていけるまで。




【怖いこと】


こわい、こわいんや。

何が怖いってこの世の全てや。

この世の全てが僕の敵で僕を嫌って僕を憎んでる。

大人も子供も友達も親友も知らない人も職場の人、隣の人、僕を好きだと言ってくれる恋人でさえも。

誰も信じられない。怖くて怖くてその不安を誤魔化したくて足掻いて頑張れば頑張るほど空回る。

他人の目も敵意も愛がなくなったと感じるやりとりも全てが不安だ。分かってる、自分が他人に嫌われていると思い込んで、それらしい他人の言動を見つけては、自分はやっぱり嫌われていると納得すること。他人が私に好意的な態度を取ったとしても、僕を騙そうとしているに違いない、僕が容易にその好意的な態度を信じた途端、仲間内で笑っているに違いないと。

僕が鬱になるとき、自分の外で起きていることが何から何まで怖かった。家から一歩も出ていなくても怖くて怖くて一日中布団の中で怯えるしか出来なかった。絶えず頭の中では誰々に嫌われているに違いない、職場の仲間はみんな僕が嫌いだ、僕は除け者にされている、友達は仲のいいフリをしているだけ、そう思った。

グループラインが僕が送ったメッセージで終わると、いつも僕のラインはみんなから無視されている気になった。過去のラインを遡って、僕ばかり無視されているんじゃないかと数を数えた。

メッセージが返ってくるのが遅いだけで、ブロックされたんじゃなかろうかと「ブロック 確かめる方法」で調べて何度も確かめたりした。

メッセージが返ってこないと他のSNSで投稿していないかチェックしたし、もし他のSNSで投稿していたらどうして僕のメッセージはすぐに返してくれないんだろう、嫌われているからだろうかと不安になった。


悪いことの99%は実際に起こらない。先生はいつか僕にそう言った。頭の中ではそれが正しいとなんとなく分かる。でも僕の心の中の99%の必然は、僕が嫌いでわざとやっている、そう思った。これが認知の歪み。

分かってる、でも次に生かせないから毎度この間違いを繰り返す。


「僕なんかしたかな」

うみねこが今にも死にそうな顔で言った。

「どうしたん」

「あつしくんにLINE既読無視された。今までのLINE全部見返して今までのやり取り全部思い出して、あの時キツく言いすぎたなとか、ちょっと話に踏み入りすぎたなとか心当たりいっぱいあって、どうしよう、嫌われたかもしれへん」

うみねこは落ち着かない手つきでケータイを触りながら言った。

「まあまあ忘れてるだけかも知れんで」

「でも、でも……っ」

「あんま気にせんとき。」

そう言ったはいいもののうみねこはその日からケータイに張り付くように見ていた。どうやらあつしくんのSNSに張り付いているようだった。うみねこは始めこそ、SNSが更新されるたびにケータイ見てるはずなのに、僕のLINEも見てるはずなのに、やっぱり僕が嫌いなんだと悲しんでいた。でもそのうち


「僕のこともう嫌いなんやろ。あっちからも連絡来なくなったしもう友達じゃない。SNSは更新してるくせに。あんなサイテーなやつ僕も嫌いや」


とあつしくんを嫌い始めた。

その時俺は、まあ仲違いすることもあるかという程度で聞いていた。

それからひどい鬱になって、みんな僕のことが嫌いなんや、誰も僕を必要としていない、と繰り返し泣くようになった。そして監視するようにケータイにべったりになった。


それから何日かして、ちょっと飲みに行ってくるとうみねこが言った。昨日までうつで横になっていたがその日はちょっと顔色が良かった。

「誰と?」

「あつしくん」

「えっ、この前もう友達じゃないって……」

「あれ僕の勘違いだった。LINE送ったつもりで送れてなかったんだって。最近忙しくて連絡する暇なかったらしい。ちょっと余裕できて1番に僕に連絡くれたんだって。」

「ほー、そらよかったな。終電までやで〜」

そう言って送り出した。終電までに帰ったうみねこはあつしくんとの何が楽しかったかいつまでも話してくれた。

それなのにしばらくすると


「やっぱり最近態度が冷たい!ご飯に誘ってくれない!友だちじゃない!」


と言い始めた。


「また仕事で忙しいだけちゃうの?」

「知らん!態度が冷たいやつなんてもう嫌いや。僕のことも嫌いに決まってる……」


うみねこは何度かそういうことがあった。

俺が思うに自分に自信がないから少しのことで嫌われたと思う0-100思考になっているんだろう。

もし自分が好かれていると安定して思うことができていれば、多少相手の連絡が遅かったり相手の態度が冷たかったとしても、今忙しいのかなとかそういう風に考える。それが自然だ。

うみねこにお前はみんなから好かれている、嫌われているなんて程遠い人間だと思わせるためにはどうしたらいいんだろう。うみねこは割れた器みたいだ。もしその時「自分の勘違いだった、嫌われていなかった」と思えたとしても何度でも「やっぱり嫌われているかもしれない」を繰り返す。

俺は先生が言うみたいに「うみねこは嫌われてなんかいない、みんなに好かれている魅力的な人間だ」と何度でも繰り返す。ただ俺に出来ることだ。



【嫌悪】


大人になるにつれて嫌いというはっきりした感情を人に向けることは少なくなる。それは自分のキャパシティが増えるからだし、嫌いな人には極力近づかないなど対処できるようになるからだ。

嫌いという感情を持った人が実際に行動に移すかどうかは話が違う。大抵の人は誰かが嫌いだとしてもまるで嫌いではないように分け隔てなく接するだろう。その次に多いのは多少態度に出ていたとしても、最低限のコミュニケーションを取り、虐めたり嫌がらせはしない人だ。最も少数派が思い切り態度に出し、いじめなどを行ってしまう人。

ただ僕の思考は、それなら僕は誰にも嫌がらせされないし誰にも嫌われてない、という風には発展しない。僕は社会的に逸脱した行動を無意識にやってしまっていていつも誰かに嫌われているんじゃないかと思う。その罪悪感と不安で死にそうになる。

そんな死にそうになる時、レオと先生の言葉が僕を引っ張り上げてくれる。自分を否定するとそんな大切にしてくれる人たちの気持ちも否定することになる。自分には価値があるって思えんくても。うみねこは価値のある人間や、みんなそう思ってるよって。何度でも何度でも。



【断れない】


相手の機嫌を取ろうとしなくていい、顔色を伺わなくていい、そんなの友だちじゃない、世間はそういうけど報復が怖い


こうしてよ

それ間違ってない?

僕はイヤや

僕はやらない


直接ぶつけたところで聞いてくれると思う?

いいや聞いてくれないね


言い方を変えてみたら?

優しく言ったところで聞く耳持たないよ


じゃあ距離を置いたら?

仕事仲間、家族、距離を置けない関係性なんて山ほどある


じゃあどうするかって?

我慢

ひたすら我慢

解決する方法なんて無い

僕は無力な人間で、動いても無駄無駄

僕の言うことに耳なんて貸さない


じゃあ相手は余計思うだろうね。

僕のことを何をしても特に言い返してこない都合のいい人間だって

でも自分の意見や気持ちを言うって和を乱す行為だと思わない?


そう言うとレオは言い返す。


「言ってもあかん、言わんでもつけあがるなら、言えばええやん」

「それが無理なんやって……」

「攻撃するんじゃなくて、ただイヤな時にイヤって言う。無理な時に無理って言う。したいことはしたいって、本人に直接言う。これは攻撃じゃなくて意思表示。

意思表示に報復してくるやつなんかおらん。」


でも僕にとってはハードルが高い。意思表示して、ノーと言って相手が怒ったらどうしよう、それにいつも怯えている。


そう先生に相談したら「真ん中を取りましょう」って言われた。

「ダメ、じゃなくてまた今度ね、みたいに。自分を下げすぎないように。2回に1回は自己主張して下さいね、引きすぎず押しすぎず。約束です」

「でも真ん中って中々難しいんですが……」

「相手が気を使ってる場合は自分が引きすぎ。その場合は相手に甘えたり、主張していいんです。もし自己主張をして罪悪感を感じるなら断る文言を考えて練習しましょう。」

「一緒に練習しよう、うみねこ」

「うん……」

「罪悪感で自己主張を諦めると、自分が黙っておけば丸く収まるという考えが強化されます。自分自身の意見や人格を否定されて育つと、私には意見する価値がない、私が意見すると怒られたり嫌われたりすると思うようになります。でも実際は自分の気持ちを半分言わないとバランス取れない、安定しないんです。」


うみねこは腑に落ちた顔をしていた。



「また誘われたー……」

最近うみねこに変わったことがある。

以前はダブルブッキングでもしない限り必ず行っていた誘いに、行きたくないと言うようになったのだ。あとは断れるようになったら完璧なのだ。


「行きたくないけど行かなきゃやんなぁ」

「断ったらええやん」

「でも相手に悪いし……」

「自分の気持ちは?相手もそんな気持ちで来られたら嫌とちゃう?」

「確かにそうかもしれんけど……」


うみねこは断ったら嫌われると思ってるらしく、体調が悪くても断らないのだそうだ。断る以外にも自分の意見を言うなども嫌われてしまうと思うから出来ない。これも立派な認知の歪みなので直していかなければいけない。


「ほら!練習!練習!断ろ!」

「えぇ〜なんて断るん?」

「今回はタイミング悪いとか」

「……えと、その日は予定あって……と。……あ!じゃあ次いつにするって……!」

「また連絡するわーって流しとき」

「……!それナイス!イヤって言ってないしちょうど真ん中!」

「相手も気遣ってないやろ?引きすぎず押しすぎず。」

「うん……!」


そんな感じでうみねこは少しずつ苦手を克服していった。




【ルーティンの理想と現実】


朝早く起きてて朝の散歩にジム、それから次の仕事の為に勉強して、家事も完璧に……

そういうルーティンが憧れ


でも無理

躁の時はできる

うつになったら全部崩れる

その過剰なルーティンが僕をうつにさせる

うつの時は何もしない

風呂もご飯さえも

寝るだけ

ただ一日中寝転がって出来ないことは出来ない


不健康すぎるから、少し運動習慣を付け足して

できる時くらいは掃除や自炊はしたいからして

でも買い物行くのは過活動だから減らす

あとは寝転がってもできる程度の軽いこと

映画を見たりケータイを弄ったり


頑張らないことが難しい躁と頑張ることが難しいうつ

その両極端で僕は生きてる

そうになったら止めてくれるレオと、鬱になったらずっと寝ていていいんだと言ってくれるレオと一緒に生きてる



【両極端な気持ち】


買い物したい

外出したい

でも体はぐったり

家でゆっくりしたい


両極端な気持ちが交差する日

睡眠時間は長め

頭はいろんな情報でいっぱい

買い物欲求は高く

また今度買えばいいのに

今日買わないと気が済まない


気持ちはネガティブ

「私嫌われてるかも」「何かしちゃったかな」

そんな妄想を繰り返し

嫌な記憶や思い出したくないこと

嫌いな人や苦手な人、嫉ましい人を

時折思い出してザワっとしまう


いつもは全く気にならないことが

なんでも気になってしまう


そう、まさに混合状態



「苦しい」

そうレオに溢した昼下がり


「そういう時は病気のせいにしちゃおう」

真面目な顔でレオが言った


「決して自分は悪くないし自分の性格の問題でもない。

病気の症状で、ネガティブになっているし、買い物に行きたいし、睡眠時間が長いし、普段気にならないことが気になるんや。

病気のせいでザワっと心に波が立つけどそれはうみねこがなんかしたからやない。ただ病気のせいで立った波が穏やかになるまでゆっくりしよう。波に飲まれるのが1番ダメや。」


「全部病気のせい……?僕のせいと違うの?」

「うみねこのせいやない、今の気分は全部病気のせい。病気に揺さぶられたらあかん。『またきたんやねーお疲れ様ー』って堂々としとくんや」

「ふふっ、先生のマネ」

「結構似てるやろ」

うみねこはほんの少し柔らかい表情になった。


【日課】

8時に起きる

ウォーキングに行く

買い物に行く

資格の勉強をする

映画を見る

ご飯を作る

ウォーキングする

筋トレをする

日記を書く

23時に寝る


これが僕の日課

これを積極的にやり始めると躁

これが出来なくなってくると鬱

これは僕のバロメーター

躁の時は積極的にやりすぎて、筋トレもいつもの倍やったり、ウォーキングも倍歩いたり、買い物をはしごするから、時間が足りなくなってきて睡眠時間を削る。そうしてから回っていく。

うつのときは寝る時間が9時間から12時間に増え昼寝もするから時間が足りなくなる。その前にやる気が足りない。

レオに相談したら、

「そんなの簡単やん、うつのときでもこなせるメニューを毎日やったらええんや。それに絶対やらなあかんことなんてないんやで」だって。

当たり前のことだけど目から鱗だった。それから僕の中でルールを変えた。

筋トレとウォーキング、資格の勉強はできそうな日にやること。

絶対に決められた時間以上はしない。

しんどい日は10分でも大丈夫。

昼寝と日記は精神安定にいいから毎日やる。

そう決めた。





【僕の義務】


「仕事したい 」

「その話は聞きたくない。それでまだその段階じゃないって先生に言われてるやろ。お金のことは心配せんでええからって毎回言うてるやん。何回言わせんねん。今仕事してもうつになって辞めてって目に見えてるやろ。」


このまま家にいてダラダラしてていいのかと不安なんだ。うつになればこの気持ちも消えて家でゆっくりしているしかなくなるのも分かってる。うつになれば自分は何をやってもダメだ、すぐに仕事なんかやめるに決まってるって思うのに。でも今は本気で仕事がしたいのに、できる気がするのに。


「水野さんの義務は病気治すこと、社会の義務は弱者を支えること、ですよ」


先生は言った。


「それから目標が高すぎていませんか?仕事に行くなら週5回同じ時間に起きて村がない状態にしなければいけません。仕事が無理と言っているわけではありません。目標を下げるんです。まず週5回同じ時間に起きる練習からしませんか?できるようになったらまた仕事のことを相談しましょう」


「先生ええこと言うなぁ」

帰り道レオは言った。先生の言うことは的を得てる。それでも僕は仕事がしたくて焦ってる。

ただ仕事してなきゃ生きてる価値がないという僕の認知の歪みに、仕事してなくても生きてていいんだという考えが加わった。それから週5回同じ時間に起きるというまだムラがある僕には難しく、新しいやりがいのある目標ができたことに嬉しく思った。





【かさぶた】


そうの時に心の傷がかさぶたになったように感じても

うつの時にまた剥がれて生傷になってしまう

そうの時でもかさぶたを剥がそうとしてむやみに触ると生傷になってしまう

心の傷は瘡さかさぶたになって気にならなくなっても完治は難しい

生傷は触っても撫でても消毒しても何をしても痛い

痛いからって治療もせず放置したり気になって余計弄り回したり

でもそうしたらバイキンが入って余計悪化する

痛い治療は信頼できる先生に任せて、そのあとは痛く無くなるまでそっとしておこう

そうすればきっと早く治るから





【躁鬱ってなに?】


「鬱って何?」「病んでるってこと?」

「躁鬱ってうつと違うの?」


散々言われてきた


みんなが想像している鬱と

双極性障害の鬱は違う


何か落ち込むことがあってどんよりするのは普通のこと


双極性障害の鬱は

落ち込むことがなくても気分が勝手に落ちる


例えばみんなでディズニーランド行って

「超楽しい〜!!!」と思った5秒後に

急に気分が落ちてしまうことがある


誰かに何か言われたわけでも

ショックなことがあったわけでもない


100%楽しいと思っていても

なぜか急に気分が下がるのだ


一般的な落ち込みやうつ状態は原因があるし、その原因を取り除けば回復出来ることも多い

けど双極性障害のうつは急に気分が上がって下がるのが症状なのだ


気分の変動には、思考、感情、行動の3つが絡み合う


今回のうつはよくあるパターンの1つ

思考は高く感情が低い

この場合、

「ネガティブなことを次々と考えてしまう」

になりがちである


なんだかソワソワとして不安で

胸騒ぎにかなり似ている


この時に僕がよくやってしまう失敗が

「人から好かれよう、嫌われないよう必死に頑張ってしまう」

「嫌われたと思い込んで謝罪メッセージを送りつけてしまう」

そうして人と居るのに疲れてしまう


だからこの時期は疲労感が強く、家に帰るとぐったりしていたり寝室などで1人きりの時間を作るなどする


誰にも関わらず1人でいないと精神のバランスを保てないほどクタクタになってしまう


もう少しうつが悪化し思考の量も減れば

「動けない」「考えられない」「ネガティヴ思考」の

「全く動けない時期」が来るのである




【バレる】


「うみねこー、何布団にくるまってるんやー。うつかー?」

「どうしよう……」

「ん?」

「僕が売りやってたこと誰かにバラされたらどうしよう。隠しカメラで撮られて流されてたらどうしよう……」

「どしたん、急に……」

「うつやから被害妄想になってるのはわかってる。うつやからこんなこと思うんや。けど不安でこの思考が止められんくて死んでしまいそうなんや……なんであんなことしてしまったんや……」


あまりにも怯えるので先生のところへ連れて行った。


「そんなことあり得ません。あるとしても可能性は非常に低いでしょう。その思考がうつやからって気が付けてるのは偉いですね。」

「本当にそうでしょうか……?」

「誰かに何か言われましたか?それは事実ですか?そう考えるのは自分の妄想ではないですか?」


この先生の言葉にうみねこはハッとした。


「そうです……!自分の妄想でした。」

「ですよね、現実を見ましょう。悩みは晴れましたか?」

「はい!」

いつもの先生節でうみねこの悩みは解決した。




【ジプレキサという薬】


最近処方されたジプレキサという薬。まず、手や脚が震える。だから字が上手に書けないし、コンタクトの装着が怖い。「なんで震えてるの?」って心配される。「寒いからですかね」って誤魔化すんだけどね。

次にテンションが上がらなくなる。あまり笑わないし、ふざけたり冗談も言えないし、話のテンポにもついていけない。会話の途中でぼーっとして聞き逃したりして友達からも白けているように思われていたらしい。感情が薄くなったというか、本来テンションが高くなる時にも穏やかな気分になってしまう。

でもそれは先生曰く薬が効いている証拠らしい。薬をやめると元のそうも鬱もある状態に戻ってしまうそうだ。

この薬を飲んでいると静かで落ち着いていて、今まであんなに心の中が騒がしかったのはなんだったんだろうと思えてくる。





【不眠】

ずっと不眠だった。寝たら必ず悪夢を見るから寝るのが怖かった。先生に相談して最初に出されたのがルネスタだった。ルネスタだけじゃ寝られなくなりデエビゴを新たに出してもらうようになった。

双極性障害の患者は9時間は寝た方がいいと言われた。安定している人のうち多くの人が9時間寝ているそうだ。


先生から寝るためのアドバイスをたくさんもらった。


同じ時間に薬を飲み、寝るリズムを作った方がいい。

歩く距離に目覚ましを置く。

寝る1時間前はスマホ触らない。

寝る1時間半前にお風呂に入る。

睡眠起床時間を固定

午後はカフェイン取らない。

朝日を浴びる。

ストレッチをする。

寝る前に考え事をしない。

日中に少し汗ばむ程度の運動をする。

朝の楽しみを作る。


ザッとこんな感じだ。

ジプレキサを飲み始めて躁の時に6時間で起きてしまうことはなくなったが、まだ鬱の時は夜更かしして遅く起きる日内変動がある。

生活リズムを作ることはとても大事らしいので、薬を飲んで、早寝早起き9時間睡眠を守れるようになったらいいと思う。

とまあ簡単に出来たら苦労はしない。

先生に9時までに起きた方がいいと言われて、9時間睡眠として逆算して24時就寝。でも目を閉じてすぐ眠れる訳じゃないから23時には布団に入る。でも結局眠れなくて、薬も使いたくなくて、眠くなるまでケータイを触って寝るのはいつも1時過ぎ、起きるのは11時くらい。薬は頭が冴え渡ってどうしても眠れなさそうな時と、目を閉じても30分寝付けない時だけに使った。

「もう寝る時間やでー」とレオが声をかけてくれたり、眠れない僕の背中を軽くぽんぽんと叩いてくれたりしたが、それでも狙い通りの時間には眠れない。仕事をしておらず何時に起きてもいいという甘えに甘えて、1時睡眠11時起床が癖になってしまった。(ジプレキサのおかげで睡眠時間が少し長め)

なんとか直そうとするもいつも一時的なものに終わってしまう。何より大事な生活リズムが何より難しかった。

こうしたら不眠や過眠がよくなりましたよっていうのはまだなくてまだ僕も試行錯誤の段階にある。

先生のアドバイスに従って、同じ時間に薬を飲んで布団に入るとか、カフェインを控えるとか、ウォーキングするとか自分に出来そうなものから始めて、途中で辞めずに続けていきたい。




【躁、うつ、混合状態の時の行動】


そうの時僕は毎日のように出かけてしまうので決めたルールがいくつかある。

遊びは極力月2回まで。終電までに帰ってくる。遊んだ次の日は1日家でゆっくりする。

買い物に行く日は自炊しない。スーパーのお惣菜に任せる。

日課のウォーキングもよく歩いた日はキャンセル。

土日はだらっとする。そのため料理を作らなくていいように簡単に食べれるパンやおにぎり、お菓子などを金曜日に買い込む。

ただし平日の生活リズムは崩さないようにする。就寝、起床時間、お風呂や日課の時間などのルーティーンを躁の時もうつの時も崩さないのは大事なことらしい。でもそうの時は早起きして朝から晩まで行動したくなるし、うつの時は一日中寝たくなるし難しいんだけど。


うつの時はどうしてるかというと、基本的に好きなだけ寝てる。昼寝もする。寝ている間は不安から解放されるし、不安でいっぱいでも起きると頭がリセットされている気がして少し落ち着く。うつの時は寝坊しがちだし、夜はなぜか元気なときが多いから夜遅くに寝て遅い時間に起きるっていう日内変動が起こりがちなんだけど、少し起きられるようになったらルーティーンを戻してく。

刺激がないように生活する。一日中映画やドラマを横になって見るのがルーティーン。それも子供向けのコンテンツのものが刺激が少なくて気に入っている。そして余力があるならウォーキングする。頭がすーっとクリアになる気がして気持ちがいい。


そうと鬱が混じる混合状態の時もある。

不安な気持ちでいっぱいになってしんどいのに資格の勉強を始めたり、何かやりたいとやる気に満ち溢れてるのに体が動かなかったり。

後者ならまだいいが、前者がもっとひどくなる時、例えば死にたい気持ちなのに体は活発に動くそんな時、人は自殺してしまうらしい。だからうつ期で体が動く時、心に合わせて体もゆっくりさせなさい、それで均衡を取りなさいと先生は言った。



【本当の君】


うみねこは病気になるまでそんな性格じゃなかった。

俺に怒鳴ったり声を荒げることなんて絶対なかった。

自分に価値がないなんて言って大泣きする奴じゃなかった。

薬を飲んで穏やかになったけど、昔はもっとよく喋る、もっとよくふざける奴だったのにな

昔はもっと活発に遊ぶ奴だったのに、今は遊んだ次の日は絶対家でゆっくりしなきゃいけない

病気になって出来るようになったこと、出来ないようになったこと沢山ある

でもその全てがうみねこ



【親のこと】


「レオ、僕の親の話聞いてくれる?」


それは年末の帰省したり、もうすぐで実家で集まっておせちを食べるような時期だった。


「年末もしばらく帰ってないんだ。地元の友達と遊んだりはするけど。ほぼ絶縁状態で……あ、サソリとはたまに連絡取るけど」

「なんでそんな絶縁状態になってしまったんや。おじさんもおばさんもいまだに俺に挨拶してくれるし、小さい頃も公園連れて行ってくれたりして感じのええ人やと思ってた。」

「それは上っ面や。」


そう言ってうみねこは親とのことを話し始めた。

言う事を一から十まで聞いてあげなきゃキレるし、自分の意見を言おうものなら出て行けって怒鳴られる。ひどい時は手が出る。無視される。うみねこがどれだけ頑張っても認めてはくれない。前にも言ったが大学のお金も出してくれなかった。自分達は車買ったり宝石買ったりしてるのにうみねこに出すお金はないんだと。人前ではうみねこに恥をかかせてうみねこを全否定して話のネタにする。一度も見方になってくれたことなんかない。いじめにあった時も、仲の良かった学校の先生にセクハラされた時でさえうみねこが悪いんだと言った。理由なくひどいことなんてされないだろうって。


「もし親に愛されていたら……こんなことには、病気にはならんかった。僕が人間関係や仕事に悩んでも、もし親が受け入れてくれていたら自殺未遂だってしなかった。いつまでも親に言われたことが離れへんのや。一生僕を縛るんや。何をしてもお前のせいだって、こうするべきだって親の声が聞こえるんや。どうして親なのに子供にこんな苦しい思いをさせるん?親は子を愛するものじゃないん。どうして僕は愛してもらえなかったんや……!」


泣きながら訴えるうみねこに俺は心がぎゅっと痛くなった。


「よく言うてくれた……ずっとそんなもん抱えて辛かったやろう。家隣やったのに全然気付いてやれんでごめんなぁ」

「あの人たちは外面がいいから気づかんのは当たり前や。」

「ちゃんと吐き出せて偉かった。ひとつ言うとくけど、お前は何ひとつ悪くないからな。それで親が認めてくれんでも俺が認めるし、俺が味方や。」

そういうとうみねこはよりいっそうボロボロと泣き始めた。うみねこはずっと誰かにそう言って欲しかったんだだろう。

それにしてもうみねこを物みたいに扱ってひどいことを言う親に許せなかった。

「いっぱい認知の歪みがあるなぁ。うみねこの自信のなさとかほとんど親由来やったんやなぁ」

「認知の歪みかぁ。人は思い通りにならないと怒る。怒ったら暴力を振られたり無視をされる。親は僕が嫌いだ。ひどいことをされるのは必ず自分に原因がある。僕は否定されてひどく扱われて当然だ。僕に味方はいない。……こんなもんかなぁ。」

「今度先生に親の話言えるか?」

「うん、これを根本的に解決しなきゃ前に進めないと思うから言う。」


次週うみねこは立派に先生に伝えた。でもそれはうみねこの深いトラウマなのか最後の方でまた泣いていた。


「未来と過去は仮想現実、現在だけが現実なんです。感情は未来、現在、過去をごっちゃにしがちです。未来と過去は仮想現実なので、感情的になってもムダですよ。今感じてる嫌悪感は、今のことに対して感じてるのか、過去や未来のことを考えて出てきた感情なのか考えて下さい。

今を見ることが大事です。今のことだけ考えていると人は悩まないんですよ。」


そう先生に言われてうみねこはもちろん俺もハッとした。


「でも毎晩のように悪夢を見るんです。親に無茶苦茶な理論で叱責されている夢を」

「悪夢はトラウマの記憶を塗り替えてるからいいことです。上書き保存はファイルを1回出して来ないといけないのと一緒の原理ですよ。」

「おー、例えが分かりやすい」

「トラウマ治療っていうのは1番見たくないところをわざわざ蓋開けてみてるからしんどいけど、やる価値はあります。1番思い出したくないところを治療したらその記憶も、普通の記憶と同じように扱えるようになります。ちゃんと治療しないと一生トラウマが付き纏いますよ。」


「…………認知の歪みを治していくたび親のせいでこんな認知になったんだって思うんです。そして認知が歪んでいる親たちはその認知を絶対治すべきだと思います。」

「自分の認知の歪みに気付けたことが、まず成長です。人は変えられません。あれこれ言ったところで自分のタイミングでしか変われないんです。だから何も言わない方がいい。自分はこれまで通り認知の歪みを直して、そのように振舞って下さい。それを見て何かを感じ、相手が変わってくれたら儲けものです。」

「そんなものですかね……でも僕を見て親が変わるようには思えないんです。」

「もしどうしても付き合っていけなかったら、逃げても大丈夫です。逃げることは悪いことじゃない。今まで面倒みてもらったとか、罪悪感なんて何も感じなくていいんです。」

「逃げても……いい……」

「ええ、もちろんです。逃げたくなったら逃げましょう。自分で決めていいんです。もう水野さんには味方や友達がいっぱいいますしね」


それを聞いたうみねこはつきものが落ちたようだった。この先生の言葉がうみねこに勇気を与え、大きくうみねこの背中を押したんだ。





【自殺未遂】


最近体調を安定させていたうみねこが親に会ってくると言い出した。この頃には認知の歪みもだいぶ取り除かれ柔軟な思考ができるようになっていた。

「ずっと引っかかっててん。そろそろ決着つけなあかんなと思ってな」

「でもほんと大丈夫なんか?逃げてもええんやで」

「逃げたらずっとここに引っかかったものある気がするねん。それにほら、認知の歪みだいぶ直ってきたし、そんな僕を見て何かを感じて相手が変わってくれたら儲けもの、やろ!」

「そうかぁ、じゃあ行ってき。なんかあったら電話するんやで」

「分かった分かった」

そう言ってうみねこは電話をかけてこなかった。俺がかけても電話に出なかった。


「うみねこ、うみねこ、うみねこ……!」

うみねこを心配して走って帰ったのは何年振りだろうか。それくらいここ最近は安定してたんだ。

「うみねこ……!」

うみねこは部屋にはいなかった。靴はあったので部屋の中にはいるはずだ。お風呂、トイレ、物置……と探しても見つからない。そして一つ探していないところを思いついた。ベランダだ。ここは5階で落ちたらほぼ確実に死んでしまうと思った。

「うみねこぉ……!」

叫びながらベランダのドアを開けるとうみねこがいた。正直ホッとした。でもホッとしたのも束の間、見るとうみねこは手すりを掴んでいた。

「やめてくれ……」

情けない声しか出なかった。うみねこが死ぬと思うと怖かった。

「死なせてくれ。」

「話なら聞く。辛かったならその気持ちを共有しよう。いつも言うてること言うぞ、お前は価値がある人間なんや。認知が歪んでないお前なら理解できるやろう……!死ぬべき人間とちゃう!お前が死んだら俺が……お前の友達がみんな悲しむぞ!」

泣きながら崩れ落ちたうみねこを落ち着くまで俺は抱きしめ続けた。落ち着くとうみねこは経緯を話し始めた。


「僕双極性障害なんだ。躁うつ病って言ったらわかるかな……それで今レオと住んでて……」

「うつ?うつは甘えでしょ。甘えたこと言ってないで仕事しなさい。昔っからだね、言い訳ばっかりうまいのも誰かに取り入るのがうまいのも。ほんと汚くて恥ずかしい」

母さんはそう言ったんだ。

それで今までやってたことも苦しんだことも全部無かったことにされた気がして、自分のことが無価値な人間って久しぶりに思ったよ。

どうやって家に帰ったのか覚えてない。気づいたら部屋で放心してて、死のうって思って、ベランダで下見ながらぼーっとしてた。こっから落ちたらどうなるかな、どれくらいぐちゃぐちゃになるのかな、すぐに見つけてもらえるかななんて考えながら。」


「よく耐えた、生きててくれてよかった……!」


俺はうみねこが生きていてくれていたのが嬉しくて安心してわんわん泣いた。大の男が泣くなんて恥ずかしい、そう思っている方だが今日はそんなこと気にしてられなかった。


「うみねこ、魔法の言葉。……逃げたい時は?」

「……!逃げていい!そうや、そうやったわ。母さんからの言葉が衝撃的すぎて忘れてたわ〜。ほんまに僕ってアホやな。」

「ほんまやで、1番忘れたらあかん言葉や。死ぬくらいやったら逃げろ。」

「……そうやって僕のために泣いてくれる人が居るなら親なんかいらんな。僕親と縁切るわ。レオがおったらええわ!」

さっきまで死にたいと言っていたうみねこは晴れやかな笑顔で言った。




【あれから】


あれから2年が経った。僕は障害者手帳を取り病気と生きる決心をした。僕の薬は最初と比べて少し増えた。でもその分僕の気分は安定した。

薬の副作用で眠くて睡眠時間が増えた。1日11時間くらいと昼寝が必須。でも前よりずっと穏やかな気分だ。

僕は親と縁を切った。その分誰にも犯されることのない落ち着いた平凡な日々が訪れた。それに家族全員と縁を切ったわけではない。最後まで味方になってくれた姉のさそりとは今だに旅行に行く仲だ。さそりとは親友であり姉弟なのだ。

誘われたら誰とでも飲みに行っていた僕は、断ることができるようになっていた。その結果友だちは厳選された。今では僕の病気を知って理解してくれる友だちしかいない。今思えば昔の僕は人に依存的だったと思う。あれだけ毎日のように誰かと遊びに行っていた日々は今考えると信じられない。

恋人はいない。レオがいればそれでいいやなんて思っている。

一時期仕事だってしていたんだ。一般ではなくA型事業所という障害を持つ人たちが働くところで。先生に無理しすぎって怒られて辞めて、今はまた家でゆっくりしているんだけど。それでも「自分は価値のない人間だ」そう思う回数はグッと減った。レオがそんなことないと言い続けてくれたお陰だ。

まだ終わりじゃない。病気は寛解していない。躁になってうつになって前進して後退してを繰り返してる。でも闘病記録としてつけていた僕の日記を読み返しても、もうどん底に辛かったあの日々が今の僕には理解できない。先生のトラウマ治療のおかげで、辛いことが今も僕を苦しめるものではなく過去の記憶として処理されている。今の僕は昔よりずっと穏やかでそれくらいには前進している。

目標は自立すること。でも昔は自立って全部自分の力でやることだと思ってた。でも今は違う。色んな人の力を借りて立ち上がることだと思ってる。レオの力を借りていい、先生の力を借りていい、友だちの力を借りていいんだ。そうやって僕はこの病気と一緒に生きていく。




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