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遊泳

作者: かふぇ猫。

 午後一時。いや、正確には数分過ぎている。水曜の昼間にも関わらず、酒と香水と煙草の臭いが街全体に広がり、ドブを煮詰めたような不快さが漂っている中で、高度成長期に立ち並んだものであろう廃ビル群の一角、その屋上へと男は登っていた。

 その場所は男にとっては何でもなかった。普段から通っている路にあるわけでもなく、何か思い入れのあるモノでもなかった。しかし、だからこそ、男はそこに居た。

 (ほつ)れた小汚いワイシャツに皺の寄ったパンツ、年季が入ったと言えば聞こえが良いと思えるほどにボロボロの革靴を身に纏った、三十半ばにも見える男が居た。男は、今年が二十八になる年だった。元々老け顔と言うわけでも無いが、目の下の隈と、扱けた頬、無精髭などから、そう見られてもおかしくない。男はドアノブに手をかけた。

 屋上の戸を開けると強い風が男の身体を押し退けて中に吹き抜けようとした。普段からの不摂生が影響しているのか、少しばかり痩せぎすな男は、軽く踏ん張ったものの、少しよろめく。風が落ち着いたのを確認して男は外へと足を運ぶ。

「ふ~、少し冷えるなあ。ようやく秋って感じだ」

 乾きを得た風に小さな秋を見つけながら呟く。もう九月も暮れだというのに、最近まで真夏の名残があっただけに、そういった変化にも気づきやすいのかもしれない。

 男は少しばかり前に出て、もう安全とは言えないほどにボロボロの鉄柵に近づいた。触れると柵の錆が手の平にこべりついた。

「うお、思ったよりボロボロだな。まあ、都合良し。か」

 そう言いながら遠くへと目を飛ばす。先には摩天楼が立ち並んでいた。あんな狭い土地に天を衝かんとする建造物など、いくつも要らないだろうと男は考えていた。男が居る廃ビルは、その街の外れにあった。

 摩天楼の中心にはいっとう大きなビルがあった。頭一つ、いや、階層五階分といったところか、他のものよりも天に近いものがあった。そのビルには、男の居る場所からでも分かるほどに巨大なスクリーンが備えられていた。その下を、米粒のように小さな人間たちが所狭しと詰められていた。

 ある者は立ち止まってスクリーンを見ている、ある者は歯牙にもかけずに過ぎ去っていく、またある者は、座り込んで酒を呑んでいる。遠目からでは分からないが、普段からそうなのだから、今日もそうだろう。

「全く、皆さん暇なもんですなあ」

 呆れたような、力のない声で零す。風に乗って飛んで行った。

 スクリーンには様々な映像が映し出されていた。おそらく人気があるだろう俳優らしき人物や、ピカピカとライトの光ばかりが映るミュージックビデオ、テレビアニメの予告なんかが目まぐるしく移ろっていく。ここ数年テレビを観ていない男にとっては、全くもって興味の感じないものだった。

 男は社会人である。普通の高校を出て、二流と言われる大学へ進み、適当な企業に就職して、毎日のように使い潰されている、どこにでも居るサラリーマンである。なんともまあ、聞こえの良い文句に乗せられ入ったものの、蓋を開ければただのブラック企業だっただけだ。要するに外れたのだ。

 男は疲れていた。初めは、朝起きることが少し辛いだけのものだったが、日を重ねるごとに生気が失われていった。勤めて五年ほど経っているだろうか、今月も当たり前のように二十五日間働き通しである。身体の不調と言うのは兆し無く来るもので、昨日まで空元気ながらに動いていたというのに、目が覚めるとピクリとも身体が動かなかった。

 何とか無理を言って休みをもらったが、電話越しにも上司の苛立ちを感じていた。朝一番に病院に行き、そのまま出社するかとも考えていたのだが、精神的にも肉体的にも、危ない状態であると告げられ、休むべきだと進言された。だが、休むという事が、男にとっては既に分からないものになっていた。

 そうして、帰路に着くかと思いきや、男は廃ビルに居た。頭では帰っているつもりだったのだが、身体はおそらく違ったようだ。ただ人気の少ない、見晴らしのいい場所を、無意識に求めていた。男は、死ぬつもりだった。


「くだらないってんだよ」

 男は屋上の薄汚れた床に身体を投げだした。仰向けになり天を視る。憎たらしいほどの快晴がスゥっと高くまで青を注していた。その中に陽と、大きな雲が一つだけ在った。

「ああ、澄んでんなあ」

 少しの静寂が流れ、ただ風の音だけが耳を撫でていた。しばらくぼうっと空を見つめていた男はふと、雲の方へと目を遣った。

 雲は巨躯を自由にうねらせて、只管(ひたすら)に青々とした空を(およ)いでいた。おそらくあれは、空ではなく海なのだろう。そう思えるほどに雄大に游いでいる。雲は陽を食らい、その自慢の身体へと呑み込んでいく。陰が、照らされていた凡てを攫っていった。それを見つめていた男は、その雲が鯨であることに気がついた。白く海に映える、美しい肌に大きな鰭、尊大にうねるその姿は、まさしく鯨であった。男はそれに声をかける。

「おい、聞こえているだろうか」

 勿論の事ながら返事はない。男は構わず続ける。

「お前、いつもそこから見ているんだろう。どうだい、今まで泳いできた中で、人間を見ていて面白いことはあったかい」

 鯨の身体が少し逸れたのを返事だと解釈する。

「そうだよなあ、面白いもんなんてありゃしない。俺も、そう長いこと生きちゃいないけど全く面白くもねえ。毎日毎日、同僚の尻ぬぐいばかりだ」

「かと言って俺の尻ぬぐいときたら、手前でしろって言うもんだからな。ホント、めちゃくちゃなこと言うもんだ」

 鯨は少し動きが遅くなった。以前よりもゆっくりしている。男は起き上がって胡坐をかくと、また上を見上げた。鯨は、矢張り喋ることは無い。

「どうやら俺は人間社会に合わなかったらしい」

 鯨が男に一瞥する。

「まあ、独り言を聞いてくれよ」


 そうすると男は語りを始めた。

「俺は、何者かになりたくて、何物にもなれなかった。だから、妥協して、誰しもがなれるような普通の人間になることを目指していた」

「枠組みから外れることが怖かったんだ。なりたい者になるには、型にハマっても仕方がないと言うのに。いつからそんなことを考えるようになったのかは、覚えちゃいない。ただ怖かったんだ。だから、普通であることを望んだ」

「普通の高校を選んで、普通に学生生活を送って、身の丈に丁度いいようなレベルの大学を受けて、適当に単位を取って、色んな企業受けて、そうして会社員になって…ずうっと何もかも普通で、ずうっとそうやって生きて来れた。もしかするとそうする必要もなかったかのように」

「畢竟、俺は凡庸な人間だった」

 視線を外し、また游ぎ出す。


「そうして生きてきて気づいたんだが、人間はどうにも排他的な生物らしい」

「排他的っつうのも、少しおかしいかもしれないが。本質、根幹において、自分本位で他者を顧みないってのが、俺にそう思わせた」

 鯨は身体をうねらせて、少し遠くへと昇っていく。

「人に良くしていれば、いずれ自分に返ってくるなんて、古くから言われちゃいるけど、それはおそらく、良くして貰った側の言葉なんだろうな。実際は、体の良い奴隷として使い潰されるだけだ」

「人間ってのは自分が一番可愛い奴らなんだよ。親愛だとか、正義だとか唄っている奴らも居るが、そいつらは上っ面しか見ちゃいない偽善者だ。上辺だけの言葉を並べて粋がっている楽天家だ。人間の本質はドロドロと腐った汚泥みたいなモンなんだよ」

 游ぐ、游ぐ。

「俺をイジメていたあいつらも、ボロ雑巾のようにこき使うようなブラックな職場の上司も、それが人間の本質だと分かってからは、可愛く思えた。自分に素直に生きている、愛すべき醜悪な、最も人間らしい奴らじゃないか」

「それが人間にとっての『普通』だって分かった時に、俺の中で何かが壊れたんだ。普通という鋳型に自分を融かし込んで、画一化された人間を演じている。俺はそれになりたかったのか、そんなものを俺は目指していたのか、頭にそれが浮かんだ時に、何もかもどうでもよくなっちまった」

「だから、諦めてしまった。人間の善性も、それを信じたいと想う自分も」

 一つ潮を吹く、そうして身体をうねらせる。

「どうにも俺には向いてなかったみたいだ。偽善を振り撒いてヘラヘラ笑って生きていけるなら、俺もこんなに無駄な考えを持つことは無かったんだろうな。だがそうはならなかった。だったらもう、俺は世界に必要なければ、俺にも世界が必要ないってわけだ」

「誰かの機嫌を窺うのも、良い顔して社会に合わせるのも、不器用なりに積み上げてきたモンも、全部、全部要らない。負担でしかない。俺からしたら、命すら重く感じる」


「要は疲れちまった。死にたいんだ」

 鯨は何も言わない。


「圧し掛かってるモノ捨て去って、ボコボコに崩れてった自分を掃いて、平らな地面に何も無くなりゃ、ようやく楽になるんじゃねえかって」

 鯨の方を今一度、視線を飛ばす。

「だから今日は此処に来た。ああ、勘違いするなよ」

 男は手を(かざ)し制止する。

「立つ鳥跡を濁さずってな、やるべきことは全部やった。部屋の中もまっさらだ。遺書もない。こんな外れにそう、人も来ない。此処で死んでも誰も気付かずに腐ってくだろう。俺の痕跡は何も残らない」

 男は立ち上がり、ズボンのポケットを漁ると、煙草とライターを取り出した。

「これ一本吸って、後は飛び降りるだけだな。一服付き合ってくれ」

 火を点け、深く肺へとケムリを入れ込み、海へと吐き捨てる。ケムリは只管、鯨の居る方へと立ち昇っていく。

「ッスゥ~……ハァ~……美味え~~~」

 快楽が浸透していく。男の全身に、言葉に表すことのできない高揚感が駆け巡って、頭の中に風を吹かせた。命の味を感じていた。

「お前も、感じているか。この味を」

 鯨に問いを投げる。ケムリは鯨の身体に吸われていく。少しの多幸感を感じているようにも思えてくるような、おどけた様子を見せてきた。

「心残りがあるとすりゃ、もうこれを味わえないってところだな…」

 スッと一息に吸い込む。燃えカスがポロポロ落ちていく。男は吸殻を握りしめて火を消すと、鉄柵を越えて縁に立った。


 秋の乾いた風が男の肌を撫でる。男は今まさに生命の淵に居る。

「最期の、最期にお前と話せてよかったよ、ありがとう」

 鯨へと声をかける。風が少し強く吹き始めていた。

「さて、と」

 一歩、宙に踏み出そうとする。足が、前に出ない。

「は…」

 柵から手が離れない。身体が拒絶している。膝が笑っている。

「は、はは…っんだよ…!!最期だろ、あと一歩、あと一歩踏み出すだけだろ!!なあ、おい!!何やってんだよ…!!」

 心底呆れた声が漏れだす。

「どこまでいっても、臆病モンじゃねえかよ…」

 途端、上から大きな音が聞こえた。鯨が、歌っている。

 どこまでも大きく、どこまでも朗らかに、その鯨は声を響き渡らせていた。

「なんだよ、馬鹿にしてんのか」

 悪態をついてから、男はふと気がつく。あの歌は自分に向けて歌っている。そうだ、その壮大で自由な巨躯を只管に動かしながら、あの鯨は男へと歌を向けている。

 これは餞別(せんべつ)である。あの偉大なる者からの祝福である。生涯を生き抜いた、ひとりの凡人へ贈る讃美歌(さんびか)である。男はそれに気づいてしまった。

「お前のように大きければ、怖くないんだろうか」

「お前のように自由であれば、融かし込めただろうか」

「お前のように歌えたならば、或いは、俺も人で在ることが…」

 そうして答えを得る。

「そうか、俺は、お前のようになりたかったのか。ただ、大きく自由な、お前のような存在に、なってみたかったんだろうな」

 笑っていた膝が落ち着きを取り戻した。いつの間にか柵から手も離れている。

「昇ることが出来れば、お前と共に游ぐことが出来るだろうか」

 鯨は歌う。

「そうであれば、それほど嬉しいことは無いな」

 男は晴れやかに笑う。

「生まれ変わったらお前のようになりたい、なんて思わないさ。人間死んだら骨だけだ。神はいない。願ってどうにかなるようだったら、俺は今ここに立っていない」

「それでも、お前と共に游ぎたかったな」

 今一度、友に別れを告げる。

「ありがとう、名も知らぬ鯨よ。またいつか出会う日まで」

 瞬間、鯨が一際(ひときわ)に大きな咆哮を上げ、身体を目一杯、跳ね上がらせる。一陣の風が吹き荒び男の身体を押し出した。心地好(ここちよ)い風。男の門出を祝う為だけに、強く、強く吹いた風。音さえも攫って去っていく。

 祝福を一身に受け、男は海を游いだ。

読んでいただき、ありがとうございます。

また何か思いついたら、投稿するかもしれないので

その時には是非よろしくお願いします。

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