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火星の年末

作者: 村崎羯諦

【2124年の目標】


・新しい趣味を始める           → ×

・長期休みをとって旅行する        → ×

・健康のため運動の習慣を身につける    → ×

・要らないものを捨てて部屋をきれいにする → ×

・去年よりも少しでも前向きになる     → ×

 年末になって今年最大のニュースが母親の口から飛び込んできた。なんでも十年付き合った元彼の亮介が結婚するらしい。


 亮介とは一年近い話し合いの末、別々の人生を生きていこうってお互いに納得して別れた。喧嘩別れをしたわけでもないし、亮介を恨んでたり、できるだけ不幸になれって呪ってるわけでもない。むしろその逆で、親の次くらいにずっと一緒に過ごした相手だからこそ、心の底から幸せになって欲しいって思っていた。


 でもさ、やっぱり精神的に来るものがあるよね。なけなしのプライドを絞り出して、それはよかったねってなんとか言えたけど、ナイフで心臓を一突きされたくらいのダメージは受けた気がする。家族同士で仲が良かったから物心がつくまえから一緒に遊んでいて、恋人として十代の後半から二十代の後半を一緒に過ごして、きっとそのうち結婚するんだろうなーって心のどこかで思ってた人が、私ではなくて別の人を選んだってことだから。


「あんたもいつまでも火星でぷらぷらしてないで、地球に帰ってきなさい」


 無理無理マジ無理かたつむり。母親の口からそんなニュースを聞いたらなおさら地球に帰れるわけないじゃん。地球には結婚が決まった亮介がいて、私と亮介が付き合ってた頃を知ってた友達がたくさんいるんだよ? 地球に帰って、地元で亮介にたまたま会って、久しぶり、この人が俺のフィアンセです、なーんて紹介されちゃったら、嫉妬と惨めさでその場で亮介にドロップキックをお見舞いしちゃうかもしれない。


 とにかく今年も年末は火星で過ごすから。そう言って強引に惑星間電話を切った私は、受話器を握りしめながら大きくため息をついた。駅併設の惑星間電話専用電話ボックスから出て、それから大きく伸びをしながら、空を仰ぐ。都市全体を覆う透明なドームの天井越しに見える火星の空は、浴室のカビみたいな淡いピンク色をしていた。






*****






『国際火星開拓連合火星支部により、第八次火星開拓計画の方針が発表されました。計画では、未開拓地区であるY-G-アプロティア区画において、居住可能ドーム型都市が新たに建設されることが盛り込まれています。計画は来月に国際火星開拓連合本部により承認される見込みで、本格的な都市建設工事は来年の四月から着手されるとのことです』


 好きか嫌いかで言えば、火星は嫌い。だけど、しがらみとか忘れたい過去で溢れかえった地球はもっと嫌い。だから私は、会社が公募した転勤を口実に地球を離れ、火星にいる。瞬きをしている間にも変わり続ける、新しく若いこの惑星に。


 火星では毎日のように人が増え、新しい建物が立ち、どこかの誰かが鉱脈を見つけて一攫千金なんてニュースが流れる。夢に区切りをつけて地球に帰っていく人がいれば、夢を叶えるために火星にやってくる人がいる。同じ職場で働いていた人が気づかない間に転職していたり、可愛がっていた後輩がSNSで子供を産んだことを報告したりしている。


 そんな目まぐるしく変わり続けるこの場所で、私はたった一人、何も変われないままでいる。趣味でも始めようとして買った未開封の絵の具セットは洋服箪笥の上で埃を被り、ジョギング用のスニーカーは靴箱の一番上で、土一つ付いていない状態のまま放置されている。壁にかけられた今年の目標は、一つも達成の◯がつかないまま存在自体を忘れ去られている。今年の私は去年の私と一緒で、去年の私は一昨年の私と全く一緒。同じ家に住み、同じ仕事を続け、そして毎日、あの時の失恋を思い出している。


「このタイミングで本当に申し訳ないんですが、先輩に報告がありまして……。実は私、結婚することになりました」


 ()()()()()()()()()()()()。私と亮介の共通の知り合いである佑香が歯切れ悪そうに口を開く。ごめんよ、佑香。本当は幸せ気分のまま私に報告したかったよね。タイミングをちょっとずらそうかとか、いやでも、地球からの付き合いである私への報告が後回しになるのは失礼だし、みたいに変に悩ませただろうし、こちらこそ本当に申し訳ない。佑香は何も悪くないよ。悪いのは全部、このタイミングで結婚した亮介だから。


「おめでとう。幸せになりなよ。まさかまったく恋愛とは無縁だった佑香が結婚するなんてね」

「私も、まさか先輩よりも先に結婚するなんて思っていなくて……」

「いいのいいの、佑香が気にすることじゃないから。私もさ、別に結婚願望が強いわけじゃないし、結婚を羨んでるわけじゃないの」


 別に佑香に気遣ってるわけじゃない。亮介と別れてから、つくづく自分が恋愛とか結婚に向いていないってことを思い知ったし、このまま独り身のまま生きていく覚悟でいる。実際、1LDKの家を買おうかと考えたり、ペットを飼い始めようかと考えたりしてるし。


 でも、身近な人の結婚報告やキャリアアップの話を聞くたびに、私の胸がぎゅっと締め付けられる。人生ゲームでみんながマスを進めている中、私だけルーレットで0しか出なくて、ずっと同じマスにいる、そんな感じ。キラキラしている人だけ目についてしまうというのはもちろんある。だけど、心の奥に巣食っている自己愛が悪魔のように囁いて、どうしてもそういうキラキラした人たちと自分とを比べてしまう。


 私はお酒を飲み、背もたれにもたれかかってレストランの天井を見上げる。低く温かみのある木製の天井には、控えめな照明が埋め込まれていて、その光が星のように点々としていた。照明からは柔らかな光が漏れ、テーブルに映るシャンデリアの輝きと対照的な、穏やかで控えめな輝きを放っていた。


 レストランには年末特有の、どこか浮かれた空気が漂っていた。他の人たちは新年を迎える準備にわくわくしているのか、笑い声や歓声が絶え間なく聞こえてきた。皆が新しい年となるのを心待ちにしているけれど、私は新年なんて来ないで欲しいと思っている。私がきちんと成長できるまでは、空気を読んで暦も待ってて欲しいって思ってる。キンキンに冷えた孤独感と肩こりのような停滞感。私は大きくため息をつく。すると、向かいに座っていた佑香が心配そうに私の表情を伺った。


「お姉さんたち、せっかくだから一緒に飲まない?」


 嫌な気分の時ほど、嫌なことが起きてしまう。私が声のする方に目を向けると、同年代くらいのチャラそうな男が下心ダダ漏れの気持ち悪い笑顔を浮かべて立っていた。声をかけるんだったら、せめて下心くらいは隠しておけよ。私は苛立ちを覚えながら、大丈夫ですと返すが、相手は酔いが回っているのかなかなか引き下がらない。そして、気の強そうな私じゃ話にならないのかと思ったのか、私とナンパ男を不安そうに眺めている佑香の方へ顔を向けると、「かわいいお姉さんは俺たちと飲みたいと思ってるよね?」とキモさ全開の口調で話しかける。


 そして、彼氏がいるんでと必死に断ろうとする佑香の肩にナンパ男の手が触れた瞬間、私の頭の血管がブチ切れる音がした。私はお酒のグラスを掴み、ナンパ男たちに向けてその中身を勢いよくぶちまけた。お酒は彼らの顔面に直撃し、その飛沫の音が店内に響きわたる。先ほどまで雑音で騒々しかった店内が、一瞬で静まり返り、誰もが皆、一体何が起きたんだとこちらの様子を息を呑んで伺っていた。


 お酒をぶちまけられた男たちは自分たちが一体何をされたのかわかっていない様子だった。しかし、すぐに自分たちがされたことを理解すると、ナンパ男たちの表情が恥ずかしさと怒りでみるみるうちに赤くなっていく。それを見た私は、なんでお前らに怒る権利があるんだという気持ちになって、さらに怒りのボルテージが上がっていった。私はテーブルを思いっきり手で叩き、立ち上がる。


「あんたたちみたいな虫がいるせいで、私が幸せになれないのよ!!」


 苛立ちと酔いから自分でもよくわからない叫びをナンパ男にぶつける。ナンパ男もアルコールで頭が回っていないのか、私の言葉に対して、「なんだと!」と怒りで返してくる。そして、理性を失った男が、今にも私につかみかかってこようとしてくる。しかし、その瞬間、いつの間にかナンパ男の後ろに立っていた別の客が男が振り翳した腕を掴み、ナンパ男を静止した。


「まあまあ、落ち着いてください。女性たちが嫌がってるのにしつこくナンパしてるあなたたちも悪いですよ」


 ナンパ男が自分を静止した男の方へ顔を向け、驚きの表情を浮かべた。それも当然だった。喧嘩を止めにきた男はナンパ男よりも一回りも二回りも背が高い、2m超の大男だったから。男は穏やかで優しい表情を浮かべながら、あくまで大人の対応で宥めようとする。その態度が余計に腹立たしく思ったのか、ナンパ男が腕を振り解き、今度はその男に対して殴り掛かろうとした。しかし、男はすぐに腕をナンパ男の背中に回し、ナンパ男の動きを封じる。ナンパ男が痛い痛いと情けない声を出していると、騒ぎを聞きつけた店員数名が席までやってきて、そのままナンパ男たちはお店の奥へと連れて行かれてしまった。


 ナンパ男たちが去っていき、店内に少しずつ喧騒が戻っていく。私は涙目になりながら様子を見守っていた佑香を落ち着かせながら、助けてくれた男性に頭を下げてお礼をいった。頭を上げて男を見ると、改めて相手の背の高さに驚いてしまう。私も別に背が低い方ではないけれど、ここまで首を曲げないと目が合わない人は生まれて初めてだった。


「それにしても、いくら相手に苛立ったとはいえ、お酒をぶっかけるなんてすごいですね」

「いや、私もちょっと怒りに我を忘れてしまって……。あなたに助けてもらってなかったらどうなってたことか」

「気にしないでください。せっかくの年末なんです。嫌なことも腹に立つことも、すべて時間が持ち去ってくれますよ」


 そういって背の高い男性は私たちの席を去り、自分の席へと戻っていった。私は安堵のため息をつきながら席に座り、あらためて佑香に騒ぎを大きくしてしまったことを謝罪した。佑香はこちらこそ助けてもらってありがとうございますとお礼を言った後で、じっと私の方を見ながら小さい声で聞いてくる。


「さっき助けてくれた人の連絡先とか名前を聞いた方が良かったんじゃないですか?」

「どうして?」

「いや、なんかこう運命的な出会いっぽかったじゃないですか」


 私は佑香の言葉に呆れながら肩を落とす。


「もう結婚するってのに、まだそんな少女漫画みたいな展開を信じてるの? これが運命的な出会いになるわけなんてないし、さっき言った通り、もう恋愛自体に懲り懲りしてるわけ」


 佑香が不服そうな表情を浮かべる。私は呆れながらも、店内を見渡し、先ほど助けてくれた男性の姿を探してみる。だけど、違うフロアにいるのか、それともさっさとお店を出ていってしまったのか、彼の姿は見当たらない。運命的な出会い。そんなものを信じていられるほど、私は夢を見られなくなっている。でも、その一方で、街中でふともう一度彼に出会うことがあるかもしれないと思った。だって、あれだけ身長が高い人間は火星に立ってそうそういないから。


 私がお酒に手を伸ばそうとしたタイミングで、携帯が通知を告げる。なんだろうと思って手に取ると、地球にいる姉からのメッセージだった。私は嫌な予感を覚えながら、メッセージを開く。


『やっほー! 仕事の都合で次の金曜日に火星に行くことになったんだけど、一瞬だけ会わない? 積もる話もあるしさ(含み笑い)』


 私はそのメッセージを読んでげんなりする。どうしてただでさえ憂鬱な年末に、次から次に面倒ごとがやってくるんだろう。






*****






「亮介くんが結婚するってなって、有希がちょっと心配で会いに来たんだけど……とりあえず元気そうでよかったわ」


 数年ぶりに対面で会った姉は、いつもと同じどこかおどけたような口調でそう言った。ご心配をおかけして申し訳ありませんね。私が皮肉混じりに返すと、姉はふふふと含み笑いを浮かべた。火星第二惑星間移動ターミナルの施設内で待ち合わせた私たちは、姉が乗る宇宙船の搭乗時刻までの間、施設内にある喫茶店に入ってお茶をすることにした。喫茶店内は宇宙船の出発時刻を待っている人で賑わっていて、私たちは20分ほど待ってからようやくお店の中に入ることができた。


 私たちは向かい合わせに座り、お互いの近況について語り合う。仕事のこととか、プライベートの話。最近腹が立ったこととか、昔のしょうもない思い出。地球にいた時と変わらない、不思議と呼吸のあった長話。昔から私と姉はよく一緒に出掛けて、こういう喫茶店でとりとめもない話をするのが好きだった。そのことを知人に話すと、仲のいい姉妹ですねとよく言われる。別に普通じゃない? 学生時代とかは、仲がいいという言葉にピンと来なかったけれど、大人になってからはその言葉に頷けるようになった。大事な話ができる関係とか、いつも一緒にいる関係とか、そういう関係も大事だとは思うけど、こうやって何の意味もない話をあきずにできる関係は、とても貴重な関係なんだってことに気がついたから。


「それで、亮介くんのことなんだけど……聞きたい?」


 話が一段落したタイミングで姉が話を切り出す。積もる話=亮介の話というのは予想できていたけれど、亮介という単語に私の心が一瞬ざわついてしまう。姉は私の返事を待たずに勝手に喋り出す。私の家と亮介の家は昔から家単位で親交があったからか、少し前に亮介と亮介のお父さんがわざわざ私の家にお嫁さんを連れて挨拶をしに来たらしい。亮介の結婚相手は仕事の取引先の女性で、年は亮介よりも五つ上。そしてそれから、五歳の息子がいるシングルマザーらしい。


「意外だと思った?」


 結婚相手の情報を伝えてきた後で、姉が私に聞いてくる。私は力無く笑って、全然意外じゃないよと答える。亮介は昔から子供が好きだったし、相手がバツイチだとか、子供がいるとかそんなことを気にせずに、まっすぐ相手を愛せる人だから。私はそう言ってから、自分で自分の言葉に泣きそうになる。お互いに納得して別れたはずなのに、結婚相手が羨ましいという気持ちが心のどこかでひょっこりと顔を覗かせる。姉は私のそんな心情を敏感に察したのか、大きくため息をつき、テーブルの上に置かれた自分のコーヒーへと視線を落とした。


「お互いに嫌いあって別れたんだったらもっと簡単だったかもしれないけど、別れの原因が将来のこととか価値観の違いじゃあ、未練も残りますわな」

「改めてそう言われると余計に傷つくんですけど」

「やっぱりまだ未練がある?」

「未練はないよ。もう一度あの頃にタイムスリップしたとしても、きっと同じように別れるだろうし。ただ……」

「ただ?」

「亮介は前へ進んでいるのに、私は別れたあの日から時間が止まったままだなと思ってるだけ」


 姉が顔をあげ、私の目をじっと見つめてくる。私は無意識に姉から顔を背け、喫茶店の窓から外の宇宙船用舗装路をぼんやりと眺める。2階から見下ろすことができる舗装路は、空港の滑走路のように長く伸びていて、ドーム外に経てられている打ち上げ台へ続いている。遠くにある打ち上げ台からはミサイル雲が立ち上っていて、ちょうどこのタイミングでまた一機、窓越しにもかすかに聞こえるほどの轟音と灰色の煙とともに、宇宙船が宇宙空間へと射出されていった。


 ものすごいスピードで上昇していく宇宙船を見つめながら、あの機体には一体どんな人が乗っているんだろうとぼんやり考えてしまう。火星にビジネスでやってきただけのビジネスマン、観光帰りの旅行客、そして、夢に敗れて地球へ帰ることになった人。私は想像を膨らませながら、自分が初めて火星に降り立った時のことを思い出す。何か変わらなくちゃという焦りと、どうにでもなれという投げやりな気持ち。それから場所を変えれば、きっと何かが変わるはずという甘い考え。あの頃の私が何を考えていたのか、正直あまり覚えていない。だけど、その時の私が今の私を見て、一体何を思うのだろう。私はそんなことを考えてしまう。


「時間は止まってなんかないよ。有希だってきちんと前に進んでる」


 私は姉に顔を向ける。そんなことない。私が首を振って否定すると、姉は笑いながら、変わってないと思ってるのはあんただけだよと言った。


「あんたが火星に行く直前のこと、覚えてる? 私が亮介って単語を言うだけで、涙目になってたんだよ? それが今では、皮肉を返せるまでにはなったんだから」

「そんなの時間が経てば誰だってそうなるよ。私が言ってるのは、もっと人間的な成長とか、人生のステージとかそういう話なの」

「地球にいた頃と比べて表情も明るくなったし、さっきの話を聞いてても有希なりに仕事だって頑張ってる。それに、火星に住むってこと自体、私からしたら大きな人生の決断だと思うけどね」


 姉らしくない落ち着いた言葉に私は何も言い返せなくなる。姉は一口自分の飲み物を飲んだ後で、私と同じように窓の外を見る。そして、地球へ飛び立っていく宇宙船を眺めながら、火星は好き? と唐突に聞いてくる。私はいきなりの質問に戸惑いながらも、地球よりかはマシだと答える。姉は笑いながらこちらを見る。姉の目は、いつになく穏やかで、すべてを包み込んでくれそうなほどに優しかった。


「火星からの出戻りって結構周りに多くてね、その大半が一年も経たずに帰ってきてるの。有希は火星に来てから何年だっけ?」

「今年で三年かな」

「地球であろうと火星であろうと、土地には個性とか性格があると思うの。住み続けていれば、自分でも気がつかないうちにその土地の性格に影響されて、違う場所に住んでいた時とは違う考え方とか感じ方をするようになる。だけど、相性が良くないと、それが気持ち悪くなって長くは住めない。今まで旅行ですらいったことのない火星にいきなりやってきて、きちんと元気に生活できてるってことは、きっと有希と火星は相性がいいんだと思う。有希は火星のことがそれほど好きじゃないとしてもさ、きっと火星は有希のこと、気に入ってくれてるよ」


 火星が私を気に入っている。姉はわかるようなわからないような言葉を言った後、自分の時計を確認する。そして、そろそろ搭乗時刻だから行かなくちゃと私に告げる。お会計をすまし、喫茶店の外へ出る。搭乗ゲートの前まで一緒に行き、ゲートの入り口で姉はもう一度私の方へ振り帰り、それじゃ元気でねと別れの挨拶をする。


「私って、火星に来て良かったと思う?」


 時間がないのに、なぜか私はそんな質問をぶつけてしまう。姉は怒ることなく、このタイミングでそんな質問する? と笑ってくれた。姉は私と向き合い、両手で私の両頬を触る。何か大事なことを伝えたい時の姉の癖。姉はじっと私の目を見つめ、微笑んだ。


「来て良かったと思う。あの時、お母さんを頑張って説得した甲斐があったよ」


 あの時のお母さんの反対はすごかったよね。私が笑い、姉も笑う。たまには地球に帰ってきなさいよと最後に言い、姉は搭乗口へと入っていった。私は姉の背中を見送り、展望デッキへと向かった。私は柵越しに姉が乗っている地球行きの宇宙船を見つけ、その宇宙船がゆっくりと動き出すのを眺めた。舗装路を抜け、ドームの外に建設されている打ち上げ台の中へと消えていく。しばらくすると、空気を振動させながら、轟音を響かせ、打ち上げ台の天板が開いていく。そして、煙と共に、姉を乗せた宇宙船が宇宙空間目指して飛び立っていく。私は顔をあげ、飛んで行った宇宙船と宇宙船が残していったロケット雲を眺め続けた。そして、姉が残していった言葉を思い返しながら、大きく背伸びをするのだった。






*****






「報告するかどうか迷ったんだけど……一応言っておいた方がいいかなと思ってさ」


 惑星間電話の予約が偶然空いていた大晦日の23時。惑星間電話専用電話ボックスの中で、数年ぶりに聞いた亮介の声は、私が覚えていた声よりも少しだけ大人びているような気がした。だけど、それは亮介の声が実際に変わったからなのか、惑星間電話にノイズが混じっているからなのかはわからない。


 姉と別れた翌日、亮介から大事な報告があるから電話をしたいという連絡が来た。婚約者がいる人間が元カノに連絡を取るのはどうなの? と思ったけど、私の家にわざわざ挨拶に来ているのだから、確かに私だけ仲間外れにするのは亮介のお父さんが嫌いそうだなとちょっと思った。


「彼女さんは嫌がらないの? 元カノに直接電話で結婚報告するなんて」

「正直俺はしたくなかったんだけど、親父と彼女がした方がいいってずっと言ってて。彼女も彼女で別れた旦那に電話で報告したらしいんだ」

「へー、そういうもんなの」

「ところで、火星での生活はどんな感じ? 元気にやってる?」

「地球にいたときと正直あんまり変わんないかな。平日は仕事して、休日は疲れて午前中は寝て過ごして、そんな感じに毎日が過ぎていく。でも……」

「でも?」

「こっちではいろんなことが良い意味でも悪い意味でも変わり続けているから、飽きないよ」


 私の言葉を聞き、亮介はよかったと小さく呟いた。別れた彼女が楽しく過ごしていないからと言ってあんたが罪悪感なんて持つ必要ないのに。私は呆れながらも、そんな変に責任感が強かったり、まじめだったりするところは変わってないなと笑ってしまう。でも、変わっていない部分あるのと同じように、お互いに変わった部分もあるのかもしれない。お互いにいろんなことを経験して、いろんな人と話して、気がつかないくらいに小さな変化を積み重ねて。


 結婚おめでとう、幸せにね。去年とか一昨年の私だったら、自分の惨めさから目を背けるために、意地悪な言葉とか茶化した言葉を言ってたかもしれない。だけど、今の私は意地を張らず、素直に祝福の言葉を言うことができる。これはひょっとしたら、姉が言っていた私の変化の一つなのかもしれない。


 それから私たちは取り止めのない話をいくつかした後、そろそろ切るねとこちらから切り出す。お互いに元気でと言い合って、そのまま電話を切ろうとする。だけど、そのタイミングで亮介がちょっと待ってと静止する。


「今が大晦日だってことをすっかり忘れてた」

「ああ、そっか」

「良いお年を」

「うん、良いお年を」


 そして、私たちは電話を切る。受話器を握りしめながら私はため息をついたけれど、そのため息は決してネガティブなものではなくて、一仕事終えた時の達成感からくるため息だった。私は外へ出て、空を仰ぐ。火星の空は数週間前に見た時と全く変わらないピンク色をしている。だけど、不思議と嫌な気持ちはせず、これはこれで火星らしい空だなと私は笑って眺め続けた。


 私はそのまま都市中央にあるセンター街へと向かった。センター街では新年を迎えるためのカウントダウンイベントが行われていて、イベントに集まった人で大いに賑わっていた。カウントダウンまであと三十分程度。路上ではお酒を片手に持った酔っ払いが笑っていたり、皆が新年を、この瞬間を、浮き足だった気持ちで迎えようとしていた。


 私もお酒でも飲もうと出店を物色していると、人混みの中に、頭二つ分ほど飛び抜けた背の高い人が目に留まった。私はその人物の横顔を見て、彼がこの前レストランのいざこざを助けてくれた人だと言うことに気がつく。私は人混みをかき分けながら、彼に近づき、後ろから声をかける。私の方へ振り向いた彼は一瞬私が誰だかわかっていなかったけれど、私があの時レストランで助けてもらってありがとうございましたとお礼を言うと、あの時の人ですねと思い出しながら笑い返してくれた。


 お互いに一人でカウントダウンイベントに来ていたということもあって、せっかくだからと二人でお酒を買い、たまたま空いていた路上のスペースに腰掛け、乾杯した。私たちは喧騒に耳をすませながら、とりとめもない話をする。


「火星に住んで十年になりますけど、火星の年末の雰囲気が好きなんです」


 陳と名乗った彼はイベントにはしゃぐ人たちを見ながら、感慨深げに呟いた。


「私としては、地球の年末とあんまり変わんないなと思ってるんですが、どこらへんが好きなんですか?」

「火星って今、地球暦と同じカレンダーが採用されているじゃないですか? 一日の長さは地球と同じなので問題はないんですけど、公転周期が全然違ってるので、地球の日本だと十二月は毎年冬でも、火星では夏だったり、秋だったり、季節がいつも変わってる」

「ああ、確かに。火星暦もあるにはありますけど、火星では第一次産業は全く栄えてませんし、地球とのビジネスに便利な地球歴しかみんな使ってないですもんね」

「地球にいた頃は、毎年毎年同じ年末を過ごしているような気がしていたんです。そのことに、まるで自分がずっと同じ場所にいるようなフラストレーションを抱えていました。だけど、火星に来てからは、毎年違った年末を過ごすことができているような気がするんです。別に同じ一日、同じ一ヶ月、同じ一年、同じ年末なんて本当はないって頭ではわかっているつもりだったのに、なぜか火星で年末を迎えるようになるまでは、なかなかそのことを実感できなかったんです」


 私は顔をあげ、彼の横顔をじっと見つめる。自分と対して変わらない年齢のはずの彼の横顔は、どこか大人びて感じた。


「早田さんは火星に来てからどれくらい経つんですか?」


 陳さんの質問に私は三年ですと答える。それから彼は火星は好きですかと聞いてくる。私は思わず笑ってしまい、どうしました? 陳が不思議そうに聞いてくる。ちょうどこの前姉から全く同じ質問をされたんですと答えると、陳さんもそれは偶然ですねと言って笑ってくれた。


「火星は嫌いじゃないと姉に答えたら、姉は火星は私のことが好きだよと言ってました」

「ユニークなお姉さんですね」

「陳さんは十年近くここに住んでいるので、相思相愛ですね」


 センター街中央のビルにカラフルな照明が灯り、カウントダウンの開始が告げられる。座っていた人たちがみな立ち上がり、この場所に集まった大勢の人たちの興奮で夜の空気が揺れているようだった。私と陳さんも立ち上がり、中央のビルへ視線を向ける。


 夜の空を背にして、中央のビルが次第にライトアップされていく。初めは静かに、しかし確実にその輪郭が鮮やかな光に包まれていき、まるで夜の帳がゆっくりと持ち上がるかのようだった。ビルの窓一つ一つが光のピクセルになって、巨大なキャンバスに変わる。


「火星ってどういう人が好きなんですかね」


 私がポツリと呟く。喧騒の中に紛れて聞こえないかと思ったが、陳さんは私の方を見てから、そうですねと真剣に考えてくれる。10、9、8……。カウントダウンが始まると、群衆の一体感はさらに増し、それぞれの声が一つになり空に響き渡る。


「変わりたいって思ってる人が好きなのかもしれないですね」


 私は陳さんの方を見上げる。ライトアップされた眩しい光で照らされた顔がこちらに微笑みかけているのがわかり、私もそれに答えるように微笑み返す。ビルの光はカウントダウンに合わせて強度を増し、パルスのように打ち上げられる光がビートを刻む。音楽が鳴り響き、それに合わせてビル全体がリズミカルに点灯し消えていく。


 3、2、1……。中央の見つめあっていた私たちは差し合わせたように顔をビルの方へ向ける。ビルの奥から音楽に混じり、花火が打ち上がる音が聞こえてくる。そして、最後のカウントが終わったその瞬間。中央のビルからは巨大な光の波が放たれ、空が華やかな花火で彩られた。イベントに集まった人たちは歓声と共に互いに抱き合い、鮮やかな光の下新年の幕開けを共に祝っている。


 私と陳さんも抱き合いはしなかったけれど、お互いに新年を祝いあった。希望と新しい始まりへの期待を胸に、私は自分に言い聞かせるように陳さんに言った。


「今年()良い一年になるといいですね」


 カウントダウンイベントが終わり、私は家に帰ってくる。靴を脱ぎながら部屋の電気をつけると、去年と全く変わらない荒れた部屋が目の前に現れる。


 散らかった部屋を見回し小さくため息をつき、まず今年は大掃除からしないとなと小さく呟く。そして、ふと私は壁にかけられた去年の目標を書いた紙に目が止まる。


 私はその紙の前に立ち、去年の自分が書いた目標を見て思わず笑ってしまう。そして、机の上に置きっぱなしにしていたペンを手に取って、去年の目標の一つを書き換えるのだった。

【2124年の目標】


・新しい趣味を始める           → ×

・長期休みをとって旅行する        → ×

・健康のため運動の習慣を身につける    → ×

・要らないものを捨てて部屋をきれいにする → ×

・去年よりも少しでも前向きになる     → 達成?

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