おかえりなさい。どうぞ、お幸せに。さようなら。
――お前の声が、世界を滅ぼす――
それが私に下された神託だった。
***
この世界では、子どもが生まれて三月ほどが過ぎると神からの神託を授けられる。どの国であろうと、それは変わらないやり方らしい。各国にそれぞれ置かれている神殿は、貴族の子どもから貧しい平民の子どもまで分け隔てなく歓迎しているのだとか。神官さまいわく、どんな才能を持っているのか、どんな大人になる可能性があるのかを知ることで、世界の宝である子どもたちがより良い人生を進むことができるからだそうだ。
今日もまた幸せそうな一組の夫婦が神殿にやってくるのが見えた。生まれたばかりの小さな赤子を抱え、ふたりはくすくすと笑いあっている。腕の中の小さな命におっかなびっくり手を伸ばす男性と、少し疲れは見えるけれど喜びに満ちた輝く笑顔の女性。そして彼らの視線を一身に受けている無垢なる存在。目に入る光景がどうにも眩しくて、そっと目をすがめた。
神殿奥深くにあるというのに、私の部屋は風の吹き溜まりになっているせいか、外を歩くひとの声がよく聞こえる。まるで何も持たないこちらへあてつけるように。
「もしもこの子に、特別な才能が授けられていたらどうする?」
「どんな祝福だったとしても、この子はわたしたちの可愛い娘だろう?」
「ええ、そうね。わたしとしては、お針子の才能やお料理の才能なんかがお勧めなのだけれど。お嫁に行くときに困らずに済むわ」
「お嫁になんかやるもんか。婿として来てくれる男とじゃなきゃ結婚させてやれん」
「もう、あなたったら。生まれたばかりだっていうのに、もうお嫁に行く心配をしているの?」
そんな風に笑いさざめく家族たちの後姿を、指をくわえて見守ることしかできない。彼らのような家族の形は、私からあまりにも遠すぎるものだったから。幸福を約束するはずの聖なる神託。けれど私にあるのは、残酷な現実だけ。
――お前の声が、世界を滅ぼす――
恐ろしい神託が下されたとき、私の家族はどんな反応をしたのだろう。気味が悪いと家族で私を捨てたのか。あるいは何の後ろ盾もない平民の手には余るだろう、まだ幼い命が消えるのは忍びないと神殿が救いの手を差し伸べたのか。細かい事情はよくわからない。ただひとつ確かなことは、私は神殿の中でも隠されるように育てられてきた厄介者だということ。
私の存在は「穢れ」らしい。関われば自身が穢れるのだとか。おかげさまで私は物心ついてこの方、ただの一度も誰かに触れた記憶がない。
手を繋ぐこともなく、頭を撫でられることもなく。抱きしめられること、言葉をかけられることもなく。少しでも接触したのなら身体が腐り落ちるのだと言わんばかりに、徹底して存在を無視される。時々、私は本当にこの世に存在している存在なのかわからなくなる。
そもそも、光の射し込まない神殿の奥で最低限の世話をされることは生きていると言えるのだろうか。それでも私にとっては、罪人のような暮らしが生まれた時からの当たり前で、それ以上を望むべくもなかった。あの方――私の騎士さま――に出会うまでは。
***
「初めまして。こんにちは」
私を監視するという名目でやってきた騎士さまは、他のひととはずいぶん毛色が異なるひとだった。初対面のはずの彼の視線は、まっすぐに私を射抜いている。私に下された神託を知らないはずがないのに。
私は、騎士さまがどんな相手かもわからぬまま黙って頭を下げた。どのような経緯でここに来ているのだとしても、不本意な務めであるに違いない。うっかり相手の地雷を踏んで、ぶたれたり、殴られたりしてはたまらない。けれど、私の予想は良い方向に裏切られた。
「これは……ひどい。今までずっと痛かっただろう? どうしてこんなになるまで。神殿は一体何を考えているんだ」
「っ!」
不意に騎士さまの大きな手が私の肌に触れてくる。かさぶたになることのない、ぐじゅぐじゅとした傷跡が痛み、声にならない悲鳴とともに勢いよく飛びのいた。重たい金属でできた魔道具は、肌に食い込み、こすれ、ずっと血がにじんでいたけれど、騎士さまはそのことを一目で見抜いたらしい。
分別のつく年頃になった私は、かつて赤子のときに殺されることがなかったのは、泣き声が破滅を呼ぶかもしれないと警戒されていたからだということを知った。
そんな彼らの不安も、近年では解消されてしまったのだけれど。私は自分の首元を静かに確かめる。首を絞め殺すかのようにきつい金属の首輪。声封じの魔道具だ。「特別製だ」と神官さまたちは、嫌な笑みを浮かべていた。それを何重にも私はつけられている。
柔らかい肌に剥き出しの金属をつけ続けていれば、擦れて炎症を起こすことくらい神官さまたちは知っていたはずだ。それでも決して改善されなかったのは、たぶん意図的だったに違いない。「災厄」を封じつつ、罰することができるなんて一石二鳥だとでも考えたのだろうか。
どんなに嫌なことをされても、声が出せなければ誰かに訴えることなどできない。文字を知らなければ神殿外に助けを求めることもできない。そもそも味方のいないもの知らずの平民にできることはただじっと我慢することだけ。
「君が口を開けば、世界が滅ぶだなんて。神託が本当かどうかも怪しいのに、こんな小さい子どもになんて酷なことを」
告げられた言葉に目を丸くする。神官さまたちが耳にしたら激昂してしまいそうな不遜な内容だ。あの方はあくまでわたしを普通の子どもとして扱った。他のひとにしてみればごくごく普通の、けれど私にとっては初めての温かいやりとり。騎士さまに惹かれていくのは、当然のことだったのかもしれない。
失うとわかっていたなら、始めから愛など求めなかったのに。
***
騎士さまは、私にとって神さまの御使いも同然のひとだった。彼は私に私の求めていたすべてを与えてくれた。
太陽の温かさと地面の柔らかさを感じた。
出ることの叶わなかった神殿の自室から連れ出され、騎士さまが用意したという小さな屋敷に連れていかれた。なんと騎士さまもここに住んでいるのだという。
「身体が冷え切っているな。あんな北向きの石牢みたいな部屋に閉じ込めているからだ。子どもは日の光をたくさん浴びなくては。大人の都合で縛りつけたところで、良いことなどありはしないさ」
柔らかな寝台はふわふわと空に浮いているようで、しばらく床で寝ていたのはここだけの話だ。
誰かとともに食べる食事の美味しさに驚いた。
「なんだ今までの食事は。鳥の餌か? まあ確かに君は小鳥のように可愛らしいが。ほら、もっと肉を食べなさい。子どもはたくさん食べて、大きくなるのが仕事なのだから。毒見は俺がしているから。ちゃんと食事は温かいものでなくては、つまらないだろう?」
騎士さまの好物だというスープが一番好きだというと、騎士さまは私にその作り方を教えてくれた。料理は苦手だと言いながら、騎士さまの手際はとてもよかった。
文字を覚え、自分の想いを相手に伝える楽しさを覚えた。
「そうか、気に入ってくれたか。あれは、俺が子ども時代に楽しんだ冒険小説なんだ。周囲には、そんなものより帝王学を学べと叱責されたものだが。こうやって一緒に楽しんでくれる相手が見つかって、俺も嬉しいよ」
つたない文字で、ただ面白かったことだけを一生懸命伝えれば、騎士さまは嬉しそうに小さくはにかんだ。
共に外の空気を吸い、花の香りをかいだ。
「花は好きかい? ほらこっちにおいで。この花は君によく似合う。ああ、もしかしたら君はこの花の精だったのかもしれないな」
やがて騎士さまは、私を花の名前で呼ぶようになった。春が似合う可愛らしい小花。名前さえ与えられず、ただ「それ」とか「あれ」とか「災厄」とさえ呼ばれていた私だったのに。
騎士さま。騎士さま。私の騎士さま。
最初の頃は当たり前のように抱きしめてくださったのに、しばらくすると騎士さまは私に不用意に触れなくなった。「穢れ」だと認識されたからではないことはわかっている。騎士さまは、ようやく気が付かれたのだ。私が幼い子どもではないことに。
ただあまりにも粗雑に扱われていたから。まともな食事ひとつ与えられていなかったから、ひどくやせ衰えていただけ。しっかりと栄養をとれば私は年相応の女になった。それでも私は無邪気を装って、騎士さまに甘えた。何も知らない私は、ただ騎士さまの服越しの体温に触れるだけで満たされたから。
騎士さまのおかげで、生きる意味を知った。騎士さまがいてくださるなら、一生このままで構わない。そんなことをちらりと願ってしまったかもしれない。私の馬鹿な望みが、騎士さまの運命を歪めてしまったのだ。
***
私をひととして扱ったがために、騎士さまは隣国との戦の最前線に送られた。神殿と対立したがゆえの、あからさまな見せしめだった。
「どうか泣かないで。俺は必ず戻ってくる。いつか、君の歌を聴かせておくれ」
ああ、騎士さま。そんなことおっしゃらないでください。
私のせいで騎士さまが大変な目に遭っているというのに、私のためにそこまで力を尽くしてくれていたことが、めまいがするほど嬉しくてたまらない。この方が幸せになれるのなら、今すぐ死んだってかまわないのだと言い切ってしまえるのに。
どうしても離れがたくて、騎士さまの手を離せなかった。最初に出会ったときと同じように困ったような顔をしている騎士さまは、私を突き放さずに受け入れてくれた。もしかしたら、騎士さまも戦場に出るのは恐ろしかったのかもしれない。私のような何のとりえもない女が騎士さまの心を慰めることができたのなら、これ以上ない幸福だ。
初めての口づけは火傷しそうに熱かった。与えられた痛みも快感も声を上げずにはいられなかったはずなのに、それでも私の口からは何ひとつ漏れ出ることはなかった。大神官さま直々に嵌められた首輪は、とんでもなく強固な呪いをかけられていたらしい。
甘い嬌声ひとつ出せない女はたいそう面白みに欠けただろうけれど、それでも騎士さまは辺りが白く明るくなるまで、私を乱し続けた。そうして私が意識をなくしている間に、騎士さまは戦場へ旅立ってしまったらしい。目覚めた寝台でひとりきり、声の出せないまま涙を流し続けた。
出した手紙は星の数ほど。けれどいつの間にか返事は途絶えがちになり、やがて完全になくなった。ちょうど同じころ私は、再び神殿の奥に閉じ込められることになった。かつて過ごしたはずの自室は、さらに陰鬱さを増していた。
そして初雪の降った日、あの方が亡くなったという知らせが届いたのだ。敵襲から逃げ遅れた部下を庇ったのだそうだ。最期まであの方らしいと思い、それでもどんなみっともない生き方だったとしても生きていてほしかった。
呆然と座り込む私の前で、大神官さまは楽しそうに騎士さまの死にざまを伝えてきた。ひとの死を喜ぶこんな男が、大神官だなんて神さまは本当にどうかしている。本当に私に災厄の力があるのだとしたら、この男に雷を落としてやるのに。
私が書いた手紙は、そもそも騎士さまに届いていなかった。私を無視する周囲の人々が、私の願いを叶えてくれるはずがなかったのだ。騎士さまがそばにいたからこそ、穏やかに暮らせていただけでそういえば私の暮らしというのはもともとこんなものだった。
時折届いていた騎士さまからの手紙は、人間に託したものではなかったから。魔力を無駄にしてはいけないはずの場所で、転送陣を展開して私に直接届けてくれていたらしい。どうりで、手紙の内容が私の書いた内容とまったく噛み合わないわけだ。戦場まで届くのに時間がかかるからだと思っていた私は、なんて愚かだったのだろう。平和ボケにもほどがある。
間違いであってほしいと思ったし、そう祈り続けたけれど、いくら待ったところで騎士さまは戻ってこない。戦が終わる気配は微塵もない。ゆっくりと私の中で、柔らかな部分が腐り落ちていく。あの方に育てられた人間らしさが。
気が付けば、騎士さまが美しいと褒めてくださった瞳が、髪が、真っ黒に染まっていた。指先まで墨を含ませたような色に変っているのを見て、私は唐突に理解した。その時が来たのだと。
――君を愛している――
「ええ、私も愛しているわ」
幻聴が耳を通り抜けていく。春風によく似た、甘く優しい騎士さまの声。
ひとりぼっちの私は自分自身を両腕で抱きしめる。ひどく寒くて、今にも凍え死んでしまいそうだ。白い息が立ち上った。
さあ、歌を届けましょう。愚かで哀れなひとの世を終わらせる、滅びの歌を。騎士さまのいない世界に、存在する価値などないのだから。
抑えられない律動が、私の内側から湧き上がる。禍々しい憎しみ、焼けつくような怒り、ひりつくほどの悲しみ。溺れてしまいそうな負の感情が濁流となり、私を呑み込んでいく。
あの方が望み、願ってくれた声で、いびつな旋律を高らかに歌い上げる。遠くから雷鳴と地響きが聞こえた。
***
歌声はそのまま炎となる。私は真っ黒な竜に姿を変えていた。
神殿を吹き飛ばし、騎士さまを戦に追いやった王さまたちが住むお城をこんがりと燃やしていたら、どうしようもなくお腹が減ってきてしまった。お城には、食糧庫がある。どうせここに置いていても食べるひとはみんな死んでしまったのだし、別に構わないだろう。
適当にそこら辺を焼き、食糧庫に首を突っ込む。いい感じに火の通った芋はなかなかに美味しい。塩を振り掛ければなおさらだ。勢いのおさまらない食欲に、なぜか少しだけ笑ってしまった。
そんな日々を続けたある日、食事をしようとして、生のままの小麦を食べるのも味気ないなと考えた。騎士さまを偲びながら、スープでも作ろうか。騎士さまのおかげで、私は料理もできるようになっていたのだ。竜というのは、便利な生き物だ。大きな体で難しい作業も、魔力を駆使すれば難なくこなしてしまう。
騎士さまの好きだったスープを作ってみる。匂いを確かめようと思いきり深呼吸した瞬間、不意に吐き気に襲われた。味見どころではない。何だ、何が起きている? 竜というのは、この世界でも最強の生き物だ。それが、猫や犬のように食べられない野菜があるというのか?
信じられない思いで、それでも竜の姿のままでいてはいけないと不意に考えた。慌てて人型をとってみる。昔の姿によく似た格好。少し違うのは、かつての私よりも身体が丸みを帯びていたこと。そして腹が膨れていたことだ。
ああ、子どもを孕んでいたからお腹が空いていたのかと納得した。竜のままなら卵で子どもを産むのかもしれないが、あれだけの肉体を維持するだけの食料をこれからも確保するのは難しいだろう。今までは生きることに未練がなかったから適当に過ごしていたけれど、今は私ひとりの身体ではない。だからこのまま人型で暮らすことに決めた。
女ひとりで暮らしていると知られれば、強盗たちの格好の餌食だ。それでも生き伸びることができたのは、私が竜だったから。竜ではなくひととして生きるならば、近所づきあいも大切だ。仲良くなった周りの人々は、私のことを名のある魔術師だと思っているようだ。私こそが、災厄そのものなのに。
***
そうしてさらにしばらく経ち、彼らはやってきたのだ。この国に巣食う悪の竜を滅ぼす勇者さまご一行が。ちょうど国境付近から流れ着いた荒くれ者を成敗し、こんがりと焼いた後のことだった。襲われていた無辜の民に火が及ぶことはないのだが、はたから見れば襲い掛かっているようにしか見えなかっただろう。
「竜よ、覚悟しろ!」
真ん中に立ち、見慣れた大剣を構えているのは騎士さまだった。私の騎士さまは、生きていた。生きて、勇者としてこの国に戻ってきた。騎士さまが、私を射るような眼差しで見据えている。そこには、春の木漏れ日のような優しさも温もりもなく、あるのはただ凍てつくような冷たさだけ。
それでも、私は別に構わなかった。騎士さまが生きている。それだけで、千金に値するのだから。それに、世界を滅ぼす竜にでもなっていなければ、あんな氷のような騎士さまの表情を見ることなんてなかっただろう。これはきっと役得なのだ、たぶん。
騎士さまが使っていた剣帯は私がかつて指を血まみれにしながら刺繍を施したものではなくなっていた。戦いの最中に千切れてしまったのかもしれないし、もういらないと捨ててしまったのかもしれない。少し寂しいけれど、仕方のないことだ。
騎士さまの傍らには、良い匂いのする女がいた。腹に一物抱える人間は、耐えられないくらいの腐臭がする。神殿の神官たちにいたってはろくな人間でなかったせいか、死臭が立ち昇っていたくらいだ。だが、騎士さまの隣で何かを一所懸命に話している女はなぜか不思議なほど好ましかった。
あの女に騎士さまが惚れたというのなら、受け入れよう。腰の新しい剣帯は、あの女が刺繍したのだろうか。私よりもずいぶんと手慣れた刺繍に少しだけ悔しいとは思ったが、騎士さまが生きていたことはそのすべてを上回るほどの喜びだった。
私は多くのものを騎士さまから奪ってしまった。それを返す時がやってきたのだ。代償は払わねばならない。金品で補償できないのならば、この命を差し出すしかないのだ。
でも、騎士さま。ひとつだけ、お願いを聞いていただけませんか?
私とあなたの子どもを、どうか守ってやってはくださいませんか?
念のため、私のことは母と呼べなくしておきました。あなたのことも、父とは呼べなくなっているはずです。だから、あなたにご迷惑はかけません。かつて神官さまに言葉を封じられた経験が、ここに来て生きるとは思ってもいませんでした。
可哀想な身寄りのない孤児がそれでも何とか周りと支え合って生きていけるように、この国をしっかり治めてくださいませ。
私は知らなかった。
騎士さまは、本来は殿下と呼ばれる身分だったことも。私なんかに構ったせいで派閥争いに負け、王位継承権を失ったことを。臣籍降下し騎士として生きていたものの、この期に及んで私を大切に扱うように主張したせいで、神殿に疎まれてしまったことも。「災厄」を可愛がるなんて、頭がおかしいのではないか、もしや洗脳されたのではないかと疑われたことも。
騎士さまが、死地に追いやられたのは私のせいだとわかっているつもりだった。でも、何もわかっていなかったのだ。
全部、私のせいだった。何もかも、私のせいだった。
私なんかがこの世に生れ落ちてはいけなかった。騎士さまの優しさに甘えてはいけなかった。大切なひとを奈落の底に突き落としたくなんかなかったのに。
「竜よ、この世界を焼き尽くさせるわけにはいかない!」
騎士さまがまっすぐに私を見据えていた。騎士さまの瞳に映る私は、どんな姿に見えているのだろう。
竜まで堕ちた私でも、恩を返し、罪を償い、騎士さまの幸せを願うことはできるはずだ。つまらない嫉妬なんて消えてしまえばいい。
心を込めて騎士さまに歌を捧げる。炎が周囲を赤く染めた。
***
ああ、騎士さま。あなたは、今までどのように過ごしておられたのですか。
そこでも、私にくださった花は咲いていましたか。
隣に立つ美しい花は、あなたを幸せにしてくださいますか。
燃え盛る炎の熱は、私の想いの深さだときっと騎士さまには伝わらない。それでも私は歌うのだ。それが、騎士さまとの約束だったから。
――どうか泣かないで。俺は必ず戻ってくる。いつか、君の歌を聴かせておくれ――
騎士さまは約束を守ってくれた。だから、私も全力で約束を守ろう。大丈夫、私の炎は善きひとを傷つけることはない。燃やし尽くされるのは、誰かを妬み、嫉み、貶めようとするひとたちだけ。騎士さまのお仲間の数人が苦悶の声を上げる。なるほど、彼らは神殿の手先か。他国の間者か。騎士さまが手を出す前に、私はけりをつける。貴重な聖水を無駄にしてはもったいない。
さらに厳しい目で、騎士さまは私をにらみつける。その温度のない瞳の色さえ、私には愛しく心地よい。
「君は下がっていなさい」
「いいえ、わたしには役目がありますから!」
騎士さまが銀の髪と緑の瞳の少女を、その背にかばっている。かつて私が身にまとっていたものと同じ色合い。もしかしたら、騎士さまはそのふたつの組み合わせがお好きだったのだろうか。それならばあの時睦みあったのは、同情ではなく、騎士さまの望みでもあったのだと思ってよいのだろうか。
ついうっかり想いが顔に出てしまっていたらしい。くすりと笑ったつもりが、竜の口は大きく、牙は鋭い。にんまりと何かを企んでいるようにしか見えなかったようだ。鱗が黒いので、頬を染めていてもわからないだろう。まあ、そもそも竜の照れた顔など、ひとには判別がつかないだろうが。
「竜よ、一体何を笑っている。俺たちが必死な様子がそんなに面白いのか!」
騎士さまの言葉にゆっくりと否定の意味を込めて首を振るが、ついうっかり腐臭のする人間を踏み潰してしまった。おかげで、さらに騎士さまからは距離をとられてしまう。
いいえ、いいえ。騎士さま、違うのです。
いつも真面目で不誠実なことを許さないあなたが昔と変わっていなくて、本当に嬉しいのです。私はもう何もかも変わってしまったけれど、愛しい騎士さまだけは昔のまま。それだけで私は、自分の選択が間違っていなかったと胸を張ることができます。
さあ騎士さま、最後の戦いを始めましょう。新しい世界を始めるために。
***
さらに歌を口ずさむ――炎を吐く――素振りを見せれば、大剣がこちらに向かって振るわれた。迷いのない動き。きらめく刃が、私に迫ってくる。私は翼を広げ、そのまま騎士さまに向かって勢いよく飛び込んだ。自分を守るための結界はすべて解除しているから切っ先が狙いを外すことはない。胸を貫く大剣は焼け付くように痛いはずなのに、なぜか少しだけほっとしていている自分がいた。
「ああ、結構疲れちゃいました」
もともとあの日、すべてを終わらせるつもりだった。
騎士さまのいない世界なんて、生きる意味がないから。そのまますべてを無に帰そうと決め、好き勝手にあちこちを破壊して回っていた時、私は自分がひとりではないことを知った。だからあの子のために生きようと決めたのだ。
竜の力を使って自分だけでなく周囲の人々を守ったのも、私の子どもには家族や友人、仲間と呼ばれるひとたちに囲まれて暮らしてほしかったから。だから過程がどれほど乱暴なものであれ、私は新しい世界を創り続けたつもりだ。
傲慢で神を冒涜する神殿も、平民を踏み潰す王さまも、いなくなった。けれど、やっぱり力が強いだけの竜の私には、世界は治められない。何も知らない平民たちだけでは、この生まれたての世界はすぐに崩れ落ちるだろう。この世界には、導き手が必要だ。私を保護し、導いてくれた騎士さまのような誠実なひとが。
ごぽりと口から何かがあふれた。
炎ではない。同じ赤でもまったく異なるそれは、血だ。
死んだことはないけれど、これだけの量を吐けば助からないと一瞬で理解できた。
騎士さまの後ろで、私とよく似た色を持つ少女が目を丸くして何かを叫んでいる。すごく大きな声のはずなのに、何を言っているのかがよく聞き取れない。どうしてあなたが傷ついた顔をするの。泣きたいのは私のほうなのに。
本当は、騎士さまの隣には私が立っていたかった。一緒に年をとり、よぼよぼのおじいちゃんとおばあちゃんになっても、騎士さまの隣にいられるのならそれで十分に幸せだった。それでも、騎士さまが死んでしまった世界をひとりで生きるよりも、騎士さまに殺されるほうがよっぽどいい。
「おかえりなさい」
ああ、騎士さまの匂いがする。目をつぶって、かたい胸に頬を寄せれば、また口から鉄臭いものが溢れ出てきた。まったく困ってしまう。最期の時くらい、口からいろんなものを吐き出さずに、綺麗に逝きたいのに。神さまは、乙女心をもう少し尊重すべきなのではないだろうか。竜の時点でどうしようもないのはわかっているけれど。その上どうしてだろう。こんな時だというのに、なんだか眠くなってきてしまった。
「どうぞ、お幸せに」
ただいまの声は聞こえなかったけれど、騎士さまがこの国に帰ってきてくれた。悪しき竜を討ち取ってくれた。それだけでもう十分。
民を虐げる悪い王さまは、恐ろしい竜に殺されました。そして恐ろしい竜は、強く正しい勇者に打ち滅ぼされました。なんと勇者は、本当は王子さまだったのです。美しい恋人と結婚して、勇者はこの国を正しく平和に治めていくことでしょう。めでたしめでたし。ほら、問題なんてないでしょう? なんて見事なお伽噺。
竜だって、頑張れば可愛く笑うことができるはずだ。精一杯意識して微笑みかければ、騎士さまが大剣を取り落としていた。
もう、騎士さま、そんな風に雑に扱ってはいけません。剣がまるで怒ったように赤く光り始めているではありませんか。
「さようなら」
神託の意味が、少しだけわかったような気がした。きっとこれが、神さまの望まれた最高の結末。
神さま、あなたの神託はどうやら実を結んだようですよ。これでご満足いただけましたか?
それにしても神さまというのは、ずいぶんとまどろっこしいことをなさる。悪い王さまを懲らしめるために、枯れた大地を再生させるために、わざわざ災厄を送り込んで人々を奮起させるなんて。
私は知っている。動物の躯は、やがて森に変わることを。災厄と呼ばれた竜には、大きな力がある。やせ衰えた大地も、私が朽ちた後には豊かな緑に変わるだろう。ほら、世界に光が降り注いでいる。
ねえ、騎士さま。どうして、騎士さまは泣いていらっしゃるのですか? こんなにも世界は美しいというのに。
騎士さま、もしもいつか、ちらりと私のことを思い出したなら、桜草の花を御屋敷に飾ってくださいませ。
ヒーローサイドのお話のリクエストをいただいておりました。
「【連載版】おかえりなさい。どうぞ、お幸せに。さようなら。」(https://ncode.syosetu.com/n8737jl/)にヒーローサイドのお話を載せております。
短編であげようかとも思いましたが、いくつか関連作品をあげた場合読みにくいと思いますので、連載版という形でまとめます。ヒーローサイドや本作のその後が気になるという方は、お手にとっていただけると嬉しいです。
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