魔王
一章を書き上げてから出そうと思ったんですが、予想以上に時間が掛かってしまいました。
路地裏の壁に手をついてフレデリックは荒い息を吐いた。
長い間動かしていなかった体は自分で想像していたよりも疲弊していたらしく、心臓が痛いほど鼓動している。つまりなまっている。フレデリックはニコを降ろすと、深く息を吐いた。
外壁に体を預けてゆっくりと、息を整える。二回吐いて一度吸うという単調な作業を繰り返しながら、体を休める。
「うーん、撒いたかな……」
フレデリックが顔を上げると、銀髪の魔物が暗い路地から人通りの多い街路を覗き込んでいた。
まるで息を乱していないその魔物相手に、フレデリックは少し悔しい気分になった。
くるっと、その銀髪が翻ってこちらに、奇妙なお面を被った顔が向けられる。
「お前は……」
「私は、ディスだ。君は?」
「………フレデリック・フォン・ルウ………いや、フレデリックでいい」
「じゃあ、リックでいいな」
―――馴れ馴れしい。魔物ってヤツはみんなこうなのか。フレデリックは顔を顰めた。
「さて、リック、我々は今、少々厄介な事態なんだが―――、どうした、オークの息を嗅いだような顔をして」
「別に」
「もしかして、あれくらいで疲れてしまったのかい」
小馬鹿にするかんじに、鼻を鳴らすディスという魔物。非常にわざとらしい。
「人間というのは貧弱だなあ」
「…………どうでもいいが、お面は外さないのか」
「おっと、これは失礼」
うっかりしていたという風に、ディスは謝罪すると、「デ、ディスさまっ」と戸惑うニコの方を見ずに、あっさりとその仮面を外した。
「これでいいかい」
中から現れたのは、男か女か、ぱっと見では判断し辛い中性的な顔だった。実際フレデリックはこの薄暗い路地では、この魔物が男か女か断言できなかった。長い銀髪を無造作に垂らしていて、腰ほどまであるそれをまるで頓着しない身なり。顔も目もその髪に覆われて、隙間から少し見える程度。目は髪の銀色に光沢を追加したような色で、暗い場所だというのにおぼろげに光っている。仮面を外す時に見た指には、全て違う形の指輪が嵌められているのがごつごつしていて、目立つ。
人ならざるもの共通の、気配。それも、尋常じゃない周囲を覆い尽くして飲み込むほどの。
「はじめに言って置くけど、私は男だからね。よく間違われるれんだ」
長い犬歯を除かせながら三日月のような笑みを浮かべるディス。成る程、そう言われれば男に見えてくるから不思議だ。男、というよりも少年に近いような気もするが。
「っ!」
その瞳に魅入った瞬間、フレデリックの右目に激痛が走った。
針を一本眼球に突き刺したような鋭い痛みが、瞳から脳裏まで貫き刺さっているような衝撃。体を折り曲げる。無様な悲鳴を上げるのだけは堪えた。
「だ、だいじょうぶっ?」
「おや、めずらしい。その瞳は」
心配そうなニコの隣に立って、ディスがフレデリックを覗き込む。右目を押さえてひたすら痛みを堪える。この痛みは、潮が引くように自然に引いていくものだ。それは、経験から分かっていた。
「………」
数秒後、痛みが引いていくのを確認して、立ち上がる。この痛みを経験したのは一度や二度ではない。しかし、勝手に痛み出したのは、これがはじめてだった。
「だ、だいじょうぶ、ですか」
不安な瞳で見上げてくるニコに、笑う。多少頬は引きつってはいたが、笑顔になる。
「ああ、平気だ」
「その『呪い』は魔物に刻まれたもののようだけど、随分古い呪いだ。興味深い」
「……まさか、この呪いをかけたのはお前か」
まだ痛む目を押さえながら、問う。脳裏に浮かんだのは焼け果てた地獄のような光景。
「いいや、違うね。――――知り合いの心当たりもない。魔物によって呪われた物には魔物の意思が宿る。大方それが、私に反応しただけだ」
「お前は………」
「察して欲しいところではあるが」
ディスはなんでもないように告げる。
「私が魔王だ」
―――短慮的に素手で殴りかかって攻撃するような行為を、フレデリックはしなかった。
逆に驚いた表情をしたのはディスだった。
「うーん、意外だ。取り乱さないのか」
「意味のない行為だ」
「そういう反応もあるのか。………じゃ、私が君を殺そうとしても?」
ディスは表情を変えずに腕をフレデリックに伸ばす。凄まじい威圧感が腕から放たれる。一瞬で理解できる。魔王は自分をいつ、いかようにも殺せるということが。
「逃げないのかい……?」
「抵抗はする。しかし、今の俺では殺されるだけだ」
「じゃ、頑張らないと」
ディスの腕は伸びて、フレデリックの喉に触れる。冷たい、氷のように凍えた手だった。触れているだけで、万力のような力が伝わってくる。その腕から、ゆっくりと黒い靄が現れてフレデリックの首に巻きついていく。魔術か、それ以外のなにかなのか、フレデリックには分からない。
ディスは瞳に刃物のような煌きを宿しながら、口元には酷薄な笑みが浮かぶ。
「動かないと、ねえリック」
「………茶番はよせ」
冷や汗をかきながらも、フレデリックは表情を崩さなかった。
「茶番……?」腕にわずかに力が込められ、フレデリックは苦しげな息を吐く。徐々に力が込められていく「なにが茶番なんだい」愉しそうに問うディス。
フレデリックは静かに告げた。
「茶番だ。―――殺す気ならいつでも殺せている」
「ふうん…………」
指が喉から外される。
「ごほっ」
新鮮な空気が、どっと喉に流れ込んで、咽る。
「ま、いいか、とりあえず合格」
「ディスさま!」
ニコが弾かれたように叫んだ。
「ら、らんぼうは、だめです」
「大丈夫、とりあえず今は殺さないよ」
優しい笑顔を浮かる。
「もっとも、約束を守るか守らないかは、私の気分次第だけど」
「そんな」
悲鳴のような声をニコは上げる。
「悪いが、これはもう私の本能みたいなものだからさ」
「………『白銀の魔王』。銀髪みた時点で気が付くべきだった」
「ん?」
「戦争屋の傭兵の間で噂されてる他愛もない与太話の一つに過ぎないと思っていた。本当に実在するとはな」
フレデリックは戦慄した感情を無理やり押し潰し、その銀眼を睨みつける。
「だが、そんな事はどうでもいい。………俺が訊きたいのはただ一つ、魔王、――お前が、…………………………………………『人を喰った事があるかどうか』。それだけだ」
ディスは、ただ目を細めた。
「……………」
「そ、そんなことっ、ディスさまはそんなことしませんっ」
憤慨した風にニコが口を挟む。
「ニコ、俺は、こいつに訊いてんだ」
「………もし、私が『ある』と答えたら、君は一体どうするつもりだい、ニック?」
殺す、などとは口が裂けても言えまい。
「………………………………」
「戦争で人は人を大勢殺すというのに、一人の魔物が人を喰うか喰わないかそんなちっぽけな事を気にする。人間は変わっている」
本当に不思議そうな顔をする。「まあ、うーん、どうでもいいか」とディスはまたあっさりと答える。
「ないよ、一度も」
「わ、わたしもありません!」
ニコも続けて回答。虚実を述べているかどうか、フレデリックにはわからない。しかし、嘘を述べる理由もないはずだ。
「……そうか、すまなかった。それから、―――ありがとう」
「ありがとう?」
「お前が、俺は助けてくれたんだろ。礼を言わなくていけない」
フレデリックは頭を下げて精一杯の感謝を表す。致命的な隙だが、殺すつもりなら、とっくに殺されている。
上から声が降り注ぐ。
「人は魔物を憎悪しているのに、そんな相手に頭を下げるのかい」
「感謝をするならば」
「頭を上げて」
「………」
なぜか、憮然とした顔をしたディスがいた。つまらなそうな、面白く無さそうな顔をしている、というべきか。
「君は、本気で言ってるのかい」
「………まあ。確かに俺は魔物を殺す。しかし、………恩には礼を尽くさねばいけない。俺の唯一の家訓だ」
じっと見つめあう。フレデリックは魔王の子供のようなキョトンとした目を見て、不覚にも少しも怖いとは思わなかった。むしろ、なんていうか。
フレデリックが嘘を付いていないことが伝わったのか、ディスはこの時、はじめて本当に驚いた顔をした。
「君、変わってる。リック、君は変わり者だ。今まで、魔物に感謝した人なんてひとりもいなかったのに。うーん、つまらなくなってしまった」
―――俺にどう反応しろと?
「うーん、ま、いいや。君、気に入った」
「へ?」
「リック、私の部下になれ」




