第85話 肉の薬
その頃、セシルは呪いの館の書庫でアルベルトに読み書きを習っていた。
実際には書庫というほどの規模でもないのだが、館内の書籍をひとまとめにされた部屋があるのだ。
「アルベルトさん、ここってどういう意味?」
「おや、そこですか。それはですね……」
教材代わりの本を挟んでそんなやり取りを何度かやっていた時、不意に上から声がした。
ウェンドリンの連絡紐だった。
『アルベルトさん、セシル、ちょっとダイニングまで来れる?』
「別に問題ないけど……どうかしたのか? もう飯?」
『まだそんな時間じゃないでしょ。実はマリアンデールが来てるんだけど、みんなに大事な話があるから今すぐ集まって欲しいって』
大事な話?
セシルは物問い顔でアルベルトを見た。
しかしアルベルトのほうも思い当たる事が無いのか怪訝な顔をしている。
「とりあえず今日はここまでとして、マリアンデール様の元へ参りましょうか」
「そうだね。ありがとう、また暇な時に付き合って貰ってもいいかな」
「ええ、もちろんですとも」
開いていた本を閉じてダイニングへ向かうと、他の怪異たちは既に揃っていた。
長いテーブルの中央にマリアンデールが座り、怪異たちは残りの席に適当に散らばっている。
セシルとアルベルトも空いた席につき、それから尋ねた。
「話というのは?」
「実は薬の試作品が完成してね。だからちょっと見て貰おうと思って」
「薬?」
セシルが怪訝な顔をする。
リンゲンが腕組みしながら言った。
「セシル用の薬という奴か?」
「オレの? ……あ、ひょっとして『初代セシル』関係の?」
セシルは現在薬が必要になるような身体の不調は無い。
そもそも今の人形の身体は病気になどならないのだ。
思い当たる節があるとすれば『初代セシル』の件くらいだった。
半年前の教会本部での騒動の際にセシルの夢の中に現れた、あのもう一人のセシルの事だ。
ただ、あの日以来一度も夢に出てくる事も無かったので、セシル自身はほとんどもう忘れかけていたのだが……。
セシルの問いに対してマリアンデールは頷いた。
「そうよ。セシルの身体を疑似的に『初代セシル』に遭遇した時と同じ状態にして、再びあの子を呼び出せるようにするための薬。と言っても、さっきも言った通り試作品の第一号でまだとても飲めるような代物じゃないから、実際に試して貰うにはさらに何度か改良する必要がありそうだけど……」
そう言いながらマリアンデールは片手を軽く掲げた。
するとその手に瓶が一つ現れる。
空間の魔術でどこかから引っ張ってきたのだろう。
その瓶は透明で、中には黒い液体が入っていた。
不自然なほどに過剰な封が施されている。
そして……その瓶の液体を見た途端、怪異たちは目の色を変えた。
ポルターガイストの三兄弟が悲鳴に近い声を上げる。
「そ、それってまさか!」
「……地獄の泥」
「こわい!」
地獄の泥というのは文字通り地獄に存在する真っ黒な泥の事だ。
穢れているために死後生まれ変わる事を許されず地獄に隔離された魂が堆積し、混ざり合って液状化したもので、この世のあらゆる生物――ただし怪異は別だが――にとっては致死毒となる瘴気を発生させる高粘度の液体である。
また、一定量以上の地獄の泥がさらに濃縮されると『この世ならざる者』と呼ばれるさらに厄介な存在へと変化する。
瓶の中の液体はどう見てもその地獄の泥だった。
容器越しだというのに『この世ならざる者』と対峙した時のあの独特の嫌悪感を覚えるし、それに何より、黒い液体は出口を求めるように瓶の中でうねうねと動いていた。
普通の液体はあんな風に動いたりしない。
「わしの目には薬にはとても見えないんだが」
リンゲンが厳しい表情でマリアンデールを睨み付ける。
しかしマリアンデールは瓶をテーブルに置くと、皆の動揺を抑えるように軽く両手を上げた。
「ごめんなさい、やっぱり一言言ってから見せるべきだったわ。とはいえ、あなたたちがそんな反応をするのなら再現性は十分みたいね」
「どういう事だ?」
「安心して。これは地獄の泥じゃないから。私が謎肉の肉を原料にして作った地獄の泥の模造品よ」
「模造品……?」
椅子に立ったセシルが身を乗り出して瓶を見つめた。
ウェンドリンも半信半疑な顔で言った。
「本当なの? どう見ても本物の泥にしか見えないんだけど……」
「そりゃあ本物に限りなく似るように作ったんだからね」
マリアンデールはどこか得意げに言う。
実際、こんなそっくりな物を作るのは大変だったのだろう。
セシルにはどうやったのか想像も付かない。
リンゲンが言った。
「試作品第一号というのはそういう意味か」
「そうよ。セシルが『初代セシル』との繋がりを持てた要因として一番疑わしいのは地獄の泥を飲みこんでしまった事でしょう? でもまさか検証のために本物の泥をもう一度飲ませる訳にはいかないじゃない。だからこうして代わりになる物を作ったの」
そういえば、とセシルは思い出した。
半年前の騒動のあと、一度マリアンデール立会いの下で『初代セシル』を呼び出そうとした事があったのだ。
結局それは失敗したのだが、その時セシルは自分で「オレがまた瘴気か泥を飲めばいいのかな」と言った。
マリアンデールはそれを聞いてこの模造品の作製を思いついたのかもしれない。
マリアンデールは軽く瓶を振りながら続けた。
「泥の要素のうちの何が要因なのか判断できなかったから、毒性以外はほぼ忠実に再現したわ。ある程度以上の量があれば『この世ならざる者』のように人型になって勝手に歩き出せるようにもしてある」
「え、そこまで再現したの……?」
ウェンドリンが引き気味に言う。
先程から瓶の中で動いているのはそれが原因らしい。
セシルは言った。
「分かった。じゃあ後はオレが試しにそれを飲めばいいんだな」
するとウェンドリンは眉間を寄せる。
「いや良くないわよ。さっき言ったでしょ、こんなの飲ませる訳にはいかないから実際に試すのは飲めるように改良してからだって」
「ああ、そうか」
試作品を見せられた衝撃ですっかり頭から抜けてしまったが、そういえばそんな事を言っていたような気がする。
しかしそれを聞いたリンゲンが疑問を口にした。
「セシルに飲ませようというのでないのなら、お前は一体何をしに来たんだ? まさか試作品を見せびらかすためだけに全員を集めた訳ではないのだろう?」
「もちろん。この薬を見せたのはあくまでもおまけ。今日私がここへ来たのは、今後のためにあなたたちと認識を共有しておきたかったからなの。これからの方針とか、『初代セシル』に関する情報とかね」
「『初代セシル』に関する情報?」
セシルは首を傾げる。
マリアンデールは頷いた。
「実は私ね、昔一度だけ『初代セシル』と思われる個体に会った事があるのよ」
「そうなの?」
「ええ。それで、恐らくなんだけど……私が会ったあいつが『初代セシル』だったとしたら、『初代セシル』はロレッタと深い関りがあるの。ひょっとしたらロレッタの呪いを解く手掛かりを知っているかもしれない」
「なんですと?」
アルベルトが思わず立ち上がる。
セシル以外の他の怪異たちも真剣な表情でマリアンデールを見つめていた。
怪異たちがそんな反応になるのも無理も無かった。
ロレッタというのはこの館のかつての主であるベレンの一人娘。
流行り病で命を落とし、その後ベレンが行った魔術の儀式によって蘇生を試みられるも、魔術の暴走が起きたために呪いを受け、不安定な状態で復活してしまった。
以来、ロレッタは何百年もの間この館の一室で眠り続けている。
怪異たちがこの呪いの館に怪異として生み出された最大の理由はロレッタを守るためであり、ロレッタの魂を天に還す事こそが怪異たちの悲願なのだ。
マリアンデールは言った。
「黙っていて悪かったわね。てっきり『初代セシル』はもう死んでいると思っていたから言っても仕方ないと思っていたのよ。でも半年前の一件でどこかに存在しているらしい事は分かったし、接触を図る方法もある程度は予想が付いてきた。だから今のタイミングであなたたちにも伝えようと思って」
ウェンドリンが戸惑いながら言った。
「色々尋ねたい事はあるけれど……『初代セシル』が死んでいると思っていたというのはどういう意味なの?」
「そうね。順を追って説明しましょうか」
マリアンデールはそう言って説明を始めた。
その口から語られたのは、この呪いの館が誕生した当時の物語だった。




