第70話 奈落
「ここが無人になっているのはあなたたちの仕業?」
思いがけない遭遇に息を飲むセシルとオルレアに対し、ケテルが尋ねた。
その口調は以前に出会った時と同様に穏やかで、苛立ちのような物は全く感じられない。
ただ、今の状況では逆に気味が悪かった。
教会の中が無人というこの状況はケテルたちにとって想定外なはずだ。
それなのにどうして平然としているのか。
セシルはいつでも動けるように身構えながら答えた。
「その通りですよ」
「やっぱりそうだったの。どんな手を使ったのかは分からないけれど、それじゃあなたたちにはお礼を言わなければいけないわね」
「え?」
「実を言うとね、私も今夜この建物から人払いがしたかったのよ。でもそうするための良い案が思い浮かばなくてね。だから助かったわ」
ケテルは世間話でもするような調子で言った。
虚勢を張っているという感じでもない。
「あんたたちがここの地下を指定したのは、ここに大勢の人がいるからじゃなかったのか?」
「ええ、『レイミナ』様にはそういう狙いもあったみたいね」
意図が分からず尋ねるセシルに対してケテルは他人事のように言った。
さらに意味が分からない。こいつは『レイミナ』の仲間だったんじゃないのか?
オルレアが思わず口を開く。
「ケテル様は『レイミナ』の命令で動いていたのでは……?」
「そうね。でももう取り引きも済んだし、互いに協力する必要も無くなったもの。元々そういう約束だったのよ。だから意識して妨害をするつもりは無いけれど、手助けをする理由も無いの」
「一体どういう事だ。何故あんたは『レイミナ』とつるんでたんだ?」
セシルは尋ねた。
てっきりケテルは『レイミナ』に脅されているか又は同じ目的があって協力しているのだと思っていた。
だがどうやらそうではなかったらしい。
ケテルはセシルの質問には答えず、背後の女神像を見上げた。
「あなたたちも早くここから離れなさい」
「何だと?」
「もうすぐ私の目的は果たされる。……我ながら身勝手だと思うんだけどね。罪のない人が巻き込まれるのは出来るだけ避けたいの」
まるで諭すような言い方だった。
どういうつもりか知らないが本気でこちらを心配しているらしい、とセシルは思った。
だが出て行けと言われてハイそうですかと引き下がる訳にはいかない。
ケテルの目的も考えも未だに理解できないが、言い方から察するにこれから何か仕出かすつもりなのは間違いないのだ。
「離れて欲しいなら説明してくれ。一体何を企んでるんだ」
「そうです。ケテル様、私たちに話して下さい」
セシルたちは言った。
しかし、ケテルはただ悲しそうに微笑んだ。
「時間が来たようだわ」
「え?」
「時間って……」
「ごめんなさい。叶う事なら無事に逃げてちょうだいね」
突如、礼拝堂内が激しく揺れ出した。
これまでのような地下から伝わる振動ではなく、この部屋を起点とした揺れのようだった。
「うわっ!?」
「きゃっ!」
セシルは思わず手にしていたランタンを床に落とした。
そのまま倒れそうになるのを近くの長椅子の背を掴み何とか耐える。
ケテルは一体どうなったのかと必死に目を向けると、ケテルは奇妙な赤い光に照らされていた。
ケテルの周囲の床が光を放っているようだった。
その光を見て、セシルはマリアンデールが魔術を使う時に現れる魔法陣の輝きを思い出した。
「まさか……」
セシルが口を開いた瞬間、全身を悪寒が走った。
何かが砕ける音が響き、それまで以上の振動と衝撃が辺りを包む。
セシルは咄嗟にオルレアを守るように覆い被さった。
しばらくして揺れは収まり、室内がシンと静まり返る。
セシルは恐る恐る顔を上げた。
ランタンは消えてしてしまったが、ステンドグラスから差し込む月光によって周囲の様子はうっすらとではあるが確認できた。
そして、セシルは信じられない光景を目の当たりにした。
穴だ。
ケテルが立っていた場所を中心に、真っ黒い穴が開いていた。
腐肉に似た臭いと共に、穴の縁から黒い泥が這い出すかのように湧き出している。
地獄の穴。
そんな言葉がセシルの脳裏を過ぎった。
状況的に考えてケテルがやったのだろう。
そしてケテルの姿はどこにも無かった。
恐らく穴に落ちてしまったに違いない。
「なんてこと……」
オルレアが震える声で呟く。
セシルも絶句したまま呆然と立ち尽くした。
だが、ショックを受けている暇は無かった。
身体に違和感を覚え、セシルは口元を押さえてうずくまった。
「セシルさん!?」
異常に気付いたオルレアが駆け寄る。
しかしセシルはまともに返事も出来なかった。
呼吸が苦しい。目の焦点が定まらない。全身が痺れる。
地獄の瘴気は人間には猛毒だ、とセシルは何度も聞かされていた。
どうやらその症状が出始めたらしい。
このままだと不味い。
「動けますか!? まずはここを離れましょう!」
オルレアの必死な声が聞こえる。
その声でセシルはどうにか我に返った。
そうだ。
ここで倒れる訳にはいかない。
中庭でまだ育てていない野菜がある。自分の部屋ももっと改装して住み心地を良くしたいし、ようやく苦労して文字だって覚えたのだ。
まだやりたい事は沢山ある。
それに何より、今のこの身体はオルレアの身体だ。
散々迷惑を掛けたのだ。何があろうとちゃんと返して、元の生活に戻って貰わないといけない。
そのためには、安全な場所まで移動しないと……。
セシルは朦朧としながら立ち上がり、椅子に手を付きながら出口へと歩き始めた。
だが、その時――。
「ヒヒヒ……」
背後から声がした。
振り返ると、地獄の穴の中央に何かが立っていた。
「あれは、ケテル様……?」
その『この世ならざる者』は、ケテルと同じ枢機卿専用の修道服をまとっていた。
ただし、もはやそこにケテルの面影は微塵も残ってはいなかった。
修道服から出ている頭や手の部分はただの真っ黒な泥の塊。
『ベレン』とは違い全て喰い尽くされてしまったのだろうか。
確かな事は、ケテルがセシルたちにとって完全に敵に回ったらしい、という事だけだった。
『ケテル』は自分の身体を物珍しそうに眺めたあと、無造作に片腕を持ち上げた。
すると握り締めていた拳が弾丸のように放たれ、壁際に飾られていた壺を粉々に打ち砕いた。
「キャキャキャキャッ!」
『ケテル』は愉快そうに笑った。
撃ち出して失われたはずの拳は既に元通りになっていた。
足元の泥を補充したのだろう。
『ケテル』はしばらく浮かれていたが、やがて突然動きを止めた。
それからニタリと口元を歪めたかと思うと、セシルのほうへ拳を向けた。
「セシルさん!」
オルレアが飛び上がったのと拳が撃ち出されたのはほぼ同時だった。
セシル目掛けて放たれた泥の拳をオルレアが胴体で受け止め、そのまま受け身も取らずセシルの足元に落ちた。
セシルは自分が狙い撃たれた事自体を把握できていなかったが、ぐったりと横たわったまま動かないオルレアを見て愕然とした。
「ティッタ姉ちゃん!」
セシルはオルレアを抱きかかえると思わず叫んだ。
ともに貧困街で暮らしていた頃の昔の姉の名前。
咄嗟に口から出たのはオルレアではなくそちらの名の方だった。
「キャキャキャッ! ヒキャキャキャキャキャッ!」
『ケテル』の雄叫びにも似た笑い声が礼拝堂にこだました。
その声とともに空間が裂け、地獄への穴がさらに広がった。
反応する暇も無かった。
穴はセシルたちの足元をも飲み込み、声を上げる間もなくセシルたちは奈落の底へ――地獄の泥の中へと落ちて行った。




