第56話 人形遣いの退魔少女
真夜中の教会本部。
しんと静まり返った構内を、修道服姿の男が一人、ランタンの明かりを頼りに歩いていた。
「はあ、ついてないな……」
男は教会本部の職員で名はリチャードと言った。
現在は見回り業務の最中。
盗難などの防止のために当番制で毎晩決まった時刻にこうして異常が無いか見て回ることになっているのだ。
本来は二人で行うものなのだが、この日はもう一人の当番が夕方ごろ急に体調を崩して寝込んでしまった。
そのため、今夜はリチャード一人で回ることになってしまったのである。
誰もいない通路に自分の足音だけが響く。
リチャードはしきりに周囲を警戒しながら足早にいつもの見回りコースを進んで行った。
リチャードはそこそこのベテランで、夜の見回りも既にもう何度も経験していた。
だから少々不気味に見えるこの夜の教会の光景にも慣れたもので、普段なら一人だからといって別にどうという事はなかった。
しかしこの時のリチャードは内心かなり怯えていた。
原因は言うまでもなく例の噂だ。
深夜に地の底から悪霊の呻き声が聞こえる、とかいうあの噂である。
リチャード自身は悪霊の存在など信じてはいなかった。
ましてや、この神聖なイリス神教本部の地下にそんなものがいるはずがない。
誰が広めたのかは知らないが、信心の足りない誰かによる悪趣味なイタズラか何かだろう。そう考えていた。
しかし、信じていないからといって心に全く影響が無いかといえばそんな事は無いのだ。
そういう情報が頭にあるだけで、ひょっとしたら……とどうしても脳裏を過ぎってしまうものなのである。
「とにかく、さっさと終わらせよう」
リチャードは自分に言い聞かせるように呟き、さらに足を速めた。
今のところ悪霊どころか不審なものも特に見当たらない。
このまま何事も無ければいつも通り報告書に異常なしと書いて終わり。
今夜は一刻も早く仕事を終わらせ、寝床に入って眠ってしまいたかった。
だが、職員の居住棟の通路を歩いていた時、リチャードはふと妙なことに気が付いた。
自分の足音の他に、もう一つ別の足音が聞こえたのだ。
誰かが用を足しにでも起きてきたのか?
リチャードは足音の聞こえた方へ振り返りランタンを掲げた。
しかしそこには誰もおらず、足音も聞こえなくなっていた。
「あれ、気のせいだったか?」
リチャードは首を傾げ、再び歩き出した。
だが、しばらくするとまた足音が聞こえてきた。
しかも今度はリチャードと足音が重なるようにわざとこちらに歩調を合わせている。
「………」
間違いなく誰かいる。
明らかに自分を脅かそうとしている気配が感じられた。
悪霊の噂に便乗した悪ふざけのつもりだろうか。
リチャードはこの手の冗談は嫌いである。
軽い苛立ちを覚え、後ろの奴を捕まえて吊るし上げてやろう、と考えた。
リチャードは背後の足音には気付かない振りをしてそのまま歩き続け、遮蔽物の無い長い通路に入った。
それからさらにしばらく歩き、足音が付いて来ているのを確認してから、相手の不意を打つタイミングで勢いよく振り返って怒鳴りつけた。
「おい! 誰だか知らんがふざけるのもいい加減に……って、あれ?」
後ろには誰もいなかった。
振り返る直前まで、間違いなく誰かが歩いていたはずなのに……。
リチャードは背筋が寒くなるのを感じた。
気味が悪かった。
そして脳裏に、悪霊、という言葉が浮かぶ。
「………」
どちらにしても今夜は何かおかしい。
早く戻ろう。
リチャードは顔を強張らせ、その場から急いで立ち去ろうとした。
しかし振り返った矢先、何かにぶつかって尻餅をついた。
思わずわっと叫び、顔をしかめながらリチャードは身体を起こした。
そして、一体何にぶつかったのかと顔を上げて――みるみる青ざめた。
そこに立っていたのは、骨と皮だけのミイラだった。
痩せているとかそういうレベルではない。
どう見ても生きた人間には見えなかった。
礼服をまとい、どこか気品を感じさせるが、それが逆に不気味さを際立たせる。
「ひっ……!」
予想外の出来事にリチャードは腰を抜かした。
しかしどうにか逃げようと、尻餅の体勢のまま必死に後退を試みる。
ミイラはそんなリチャードをじっと見下ろし、カタカタと下顎を動かした。
それから一歩一歩じわじわとリチャードとの距離を詰め、無表情のまま片腕を振り上げる。
先程まで普通の手のように見えていたのに、上げられた手の指からはまるで刃物のような長く鋭い爪が伸びていた。
あんなものを振り下ろされたらどうなるか。
リチャードは恐怖に顔を歪めた。
ミイラは無表情なまま爪をリチャードへ振り下ろす。
リチャードは叫び声を上げ、反射的に両腕で顔を庇った。
その時だった。
「危ない!」
女の声が通路に響いた。
同時に何か小さなものが駆けて来てミイラに体当たりする。
不意打ちを受けたミイラはバランスを崩し、床に大の字に倒れた。
そしてそのまま煙のように消えてしまった。
「い、一体何が……」
恐る恐る顔を上げたリチャードは状況が呑み込めなかった。
すると背後から声を掛けられた。
先程のものと同じ女性の声だった。
「大丈夫ですか?」
そこに立っていたのは一人の修道女だった。
かなり若く、まだ十代だろう。リチャードには見覚えの無い顔だった。
「君が助けてくれたのか?」
「はい。といっても、直接助けたのはあの子ですが」
「あの子?」
修道女の呼びかけに反応したのか、暗闇の中で立っていた小さな何かがランタンの明かりの傍まで駆け寄って来た。
その姿を見てリチャードはギョッとした。
人形だ。
赤いドレスを着た少女の人形がひとりでに動いているのだ。
人形はリチャードの視線など構う様子もなく真っ直ぐ修道女のほうへ駆けて行くと両手を広げた胸元へぴょんと飛び込んだ。
修道女は人形をしっかり抱きとめると「良くやったぞ」とねぎらいの言葉を掛けている。
リチャードは何が何だかわからず尋ねた。
「君は一体何者なんだ? 今のミイラみたいなのは何なんだ。あれが噂の悪霊だったのか?」
すると修道女は何故か申し訳なさそうな顔をしてリチャードに頭を下げる。
「いえ、あれは私たちを追って来た呪いの館の怪異です。お騒がせして申し訳ありません」
「呪いの館の……? それじゃあ君が例の、悪魔祓いのために第三支部から呼ばれたという……」
「はい。セシルと言います」
リチャードは今日の昼過ぎにオーウェン枢機卿の署名付きで回って来た通達の内容を思い出していた。
それによると、悪霊の一件を解決するために第三支部から悪魔祓い師を呼んだのだという。
なんでも、あの『呪いの館』の怪異を祓ったという実績があるのだとかなんとか。
急な呼び出しで施設内の事にも不慣れだろうから、見掛けたら親切に対応してやって欲しい、との事だった。
そしてその通達には、最後にこう書き添えられていた。
今回呼んだ悪魔祓い師には少々特殊な事情があり、滞在中は何かしらの怪奇現象が起きる可能性がある。
それらについても対処してくれるそうなので心配はいらないが、各自それなりに覚悟しておいてくれたまえ、と。
あれはてっきりオーウェン枢機卿のいつもの冗談か何かだと思っていたのだが……。
リチャードはこの修道女からもっと詳しい事情を聞きたいと思った。
しかし気が動転しすぎて考えが上手くまとまらない。
修道女は自分の事をじっと見つめてくるリチャードを不思議そうに見つめていたが、やがて何か思い出した様子で言った。
「ごめんなさい、急ぐのでこれで失礼します」
「え? あ、おい、ちょっと……」
もう一度ペコリと頭を下げると、人形を抱えたままそそくさとその場から走り去ってしまう。
まだ腰に力が入らないリチャードは茫然としてそれを見送った。
そして夜が明け、次の日。
教会本部では地下の悪霊の噂はすっかり影を潜め、代わりに人形を使役して怪異を祓うという少女の話題で持ち切りになっていた。




