左手の傷
何が起きたか理解するのを脳は拒んだ。
それ程までに相手は圧倒的で、自分達はあまりにも無力だった。
「やっぱり、そうは言っても、守っちゃうよね」
つい先ほどまで言葉を交わしていた彼は、力無く地面に倒れている。息を呑んで、目を凝らしても、現実は変わらない。目にさえ捉えられない上位者の魔法で、マーリンさんはあっという間だった。
目前で、少女は薄く笑いながら俺の前にかがんだ。
「良いこと思いついた」
マーリンさんの息はすでに無い。
今から、何か、今からできることは。
震えた足で駆け出して、マーリンさんの剣を拾い上げる。存外重たかったそれは、俺の筋力だけではバランスが保てず、そのまま転んでしまった。そう思った。
「まぁまぁ、これでゆっくりできるし、話くらい聞いてよ」
覚えのない激痛が足を襲っていることには、その患部を見て初めて気がついた。
赤黒い華が膝を蝕んでおり、そこから先が無かった。
「ぁあぁ、が……っ!?」
治癒が、再生が、追いついていない。
よく見れば、その華は皮膚を巻き込んで蠢いていた。傷が加速している。
マーリンさんの剣先を当て、一息に焼けた皮膚ごと剥ぎ取る。
「治癒者って自分自身は治せないんだね、私の魔法と相性悪いみたいだし」
そんな勘違いをしてくると思った。流れていない血も、マーリンさんのものと混じってバレていない。
今は策を練らなければ。
欠損した足。久しぶりの痛みに、脂汗が滲む。
しかし、再生が傷を追い越している。
「落ち着いた?お話しできる?」
ゆっくりとこちらに歩み寄り、もう一度少女は俺の前で屈んだ。
愛おしそうに膝の華を眺めてから、虹彩の歪んだ瞳でこちらを覗く。
「……その姿は何の冗談だ」
怪我にいくら慣れていても、死ぬことに覚悟はできていないようで、声が震えてしまう。
「え、あぁこれ?彼の娘だよ、似てるでしょ」
「そんなことはわかってる!!」
もう動かない彼の方を指差して、魔族はクスクスと笑った。
我慢ならなくて、剣を振ろうとしたが、片足の軸が未だ無く、無様に倒れそうになる。
「とっと、無理しないよ。戦争は効率だ、彼は強かった。でもこの姿になるとそうでも無くなった。それだけだよ」
情けなくも半身を支えられ、そっとその場に座り直される。
「ここの戦線は人間から仕掛けたもので、魔族は多く命を失ってるの。人間の方は、君がいて、まだ誰も死んでない。今日はね、戦線を停滞させている治癒者、君をを殺すつもりだったけど、予定外に敵将を殺せたの」
少女はにこりと笑顔を浮かべた。
「契約をしない?私は君を見逃す。代わりに君は今夜のことを誰にも言わず、明日からも変わらずに治療を続けてほしい、どうかな。そうだ、彼も治さしてあげよう。彼の記憶は少し取るけどね」
足の傷は治った。
行動を起こすことができる。
しかし、女から並べられた言葉に思考が止まる。
「その契約に、お前に何のメリットがある……?」
何かの罠なのは明確だった。しかし、魔族が“契約”と口にしている以上、俺とマーリンさんの命は約束されている。しかし。見極めなければならない。
「そんなの……あぁ、まだ自己紹介がまだだったね」
少女は部屋の中央に躍り出た。月光に照らされて、黒の双角が不気味に反射する。
「私は記憶を司る、テラ。君たちの言葉を借りるなら上位者だったっけ。知識と経験のために生きてるの、だから戦いとか領地とかは正直興味がなくて」
ため息まじりに話を続ける。
「でも私が上位者であるばっかりに、いろんな所に行かなくちゃダメで。ゆっくり本も読めないの。だから、」
そこまで言い切って、少女は明るい笑顔を浮かべた。
「君の治癒技術で、戦線をずーっと長引かせてくれないかな。その間私はゆっくりできるし、君の言う日常も楽しめるし、ここで死ぬよりもいくらかはみんなにとって良いと思うんだけど」
少女の言葉に、心が揺らいだ。そもそも上位者相手に、隙を見て逃走など敵わないだろう。
動機がしてくる。呼吸が上手く取れない。
沈黙の中で、震える手を押さえながら、俺はゆっくりと頷いた。
そんな俺を見て、満足そうな顔を浮かべた彼女はこちらに歩み寄り、震える俺の左手に手を重ねた。傍で、転がっていた短剣を俺に手渡す。
「ふふ、契約成立だ。私は君を殺さない。君は今日のことを秘密にし日常を過ごす、よければ貫いて?」
空いた手で俺の右手を先導し、重なった手の上まで導いた。
俺は迷わず、その両手を貫いた。痛みなどなかった。
◇
割れるような頭痛に襲われて、目が覚めた。
家具も少ない簡素な部屋で、全てが元通りになっていた。壁の欠損も、彼の血飛沫でさえ何も無かった。もちろん、双角の少女もいなくなっている。夢だったと、そう思えるほどの日常だった。
左手の契約の傷と、昨夜の記憶以外、全てが日常だ。
「おぉ、目を覚ましたか。急で悪いのだが、なぜ私がここにいるか尋ねてもいいか」
眼前、緊張感の無い声で話す傷ひとつないマーリンさんに、俺は涙が出そうになった。
「大丈夫ですか、怪我はないですか」
そう言いながら、咄嗟に左手の傷を隠す。
「あ、あぁ。身体は無事だが……」
駆け寄った彼の懐で、無事を知る。
「あぁユリア、治せたのか!?」
彼は自身の左目の火傷がなくなっていることに気がつくと、驚嘆した声を上げた。
昨夜の記憶は本当に抜き取られているらしい。
「……はい、そうです。その件でマーリンさんには昨夜ここに来て貰っていました」
適当な嘘を並べる。
「同じ怪我をしていた方を、優先的に今日、急いで連れて来て下さい。治せるようになりました」
「おぉ!わかった!」
これが女の目的だろう。あの火傷を治せれば、押された前線も大幅に取り返せるだろう。そうすれば、
「……戦線が更に長引く」
しかし、そうする他にない。
急いで駆け出して、離れゆくマーリンさんの背中を眺める。
部屋の隅に転がる探検を拾い、彼と同じ道を辿りながら店へと向かった。
◇
結果として、あの火傷を負った、患部に華が蝕んでいた兵士の傷は全て治った。
元から遅延じみた傷を残す魔法であることも、全て彼女の折り込み済みだったのだろうと今になって思う。
「ありがとう、ありがとう。本当にありがとう」
そう言いながら何度も頭を下げるアリナとイルを見て、返す言葉も無くなる。
自分がしている行為こそ、相手の望む事であり、終わらない戦線の引き金となっている。
「……うん」
なんとか絞り出した言葉に、アリナは少し不思議そうに頭を傾げた。しかし、何かそれ以上言葉を重ねる事なく、すぐに治療所を出ようとする。
その時だった。
「ここが要という訳ですか。おや失礼」
その出自がすぐにわかる、銀色の髪を前に垂らしながら、そいつは入ってきた。
アリナとイルにぶつかりそうになりながら、ひらりと躱す。
昨夜感じたものとは全く別種の威圧感、異物感。
いわゆる“勇者”と呼ばれる存在を俺は初めて感じた。