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食傷のユリア  作者: いにかなの
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花の傷


 あの日、アリナが店を訪れてから五日が経っていた。幸い、その間に、彼女の言う弟らしき人は現れなかった。


「……頼む。直ぐに戻らなければならない」


 普段の快活な雰囲気を無くしたマーリンさんは、鋭い目つきをこちらに向けた。俺は彼の思いに応え、何の雑談も無く治癒魔法に専念した。

 彼はその言葉通り、左腕の裂傷を治した途端、足早に姿を消した。しかし、変形した左目は焼けて爛れたままだった。


 状況は大きく変わっていた。

 戦線の限界というのは、確からしい。


 まず、俺の治療所は領地公認となったこと。

 領主様から直接報酬が支払われるようになり、個人から金を貰う事は無くなった。それに準じて、予約制度も無くし、治癒の効率だけが求められるようになった。五日前に比べて、数倍の人数の怪我人を治している。そして、街のほとんど外側、戦線にほと近いところで治療を行なっている。


 次に、俺が治せない傷を負う者が現れたこと。

 戦線に、魔族の中で最上位種が現れたらしい。マーリンさんの話では、そいつ一体でいくつもの部隊が壊滅、前線を大きく退くことを余儀無くされた。そして、そいつが使う魔法での傷や損壊は、俺には治せなかった。


 治せない傷の患部は、皮膚が渦のようにしてねじれ変形し、渦の中央には黒く変色するほどの大火傷があり、一見すると花が飾られているように見える。

 初めてこの怪我を見たのは三日前、その日の夜は熱した鉄で皮膚を焼き、知り合いに炎の魔法を撃ってもらったが、翌る日治癒が成功する事はなかった。


 つまり、その上位者が使う魔法は俺の知る魔法ではなく、受けたことのない傷であるということだ。


「次、どうぞ」


 連続した魔法の行使により、少し疲労を感じていた頃。顔を上げた俺は息を呑んだ。


「お願い、ユリア」


 アリナだった。そしてその隣には、金髪で、怯えた黒目の、少し背の高い少年が立っていた。苦しそうな荒い呼吸を繰り返し、アリナに半身を預けて今にも倒れそうだ。

 右胸に大きな火傷とそれに渦巻く皮膚の裂傷が痛々しい。

 絶望に暮れる暇も無く、俺は思わず目を逸らした。


「……ごめん、ごめん」


 受けたことのある傷ならば完璧に治せる、しかし受けたことのない傷に対して俺は無力だ。

 もしかしたら、俺以外の治癒魔法の使い手ならば、この傷を治す事が出来たのかもしれない。しかしこの領地にいた他の治癒者は、俺のせいで皆他の領地に移ってしまった。


 視界が揺れて、吐き気がしてくる。どうせ何も吐けないというのに。


「……わかった」


 アリナはそれ以上何も聞かず、何も言わないで、弟を庇いながらゆっくりと振り返った。


 大丈夫だと言ったことを、この瞬間に心の底から後悔した。

 今日まで、どこか腑抜けた安心感を持っていた自分に苛立つ。こうなって初めて、命を賭けて戦うということの重さを実感した。


「……明後日、明後日には必ず治す。もう一度来てくれ」


 咄嗟に出たその場任せなどでは無い、自分の中で計画が立った。明日来るであろうマーリンさんに全てを説明して、前線に立たせてもらおう。

 そして俺がその上位者とやらの攻撃を受ければそれで、それで全てが上手くいく。火傷も裂傷も俺が治せる。


「うん、わかった。ありがとう」


 振り返った彼女のその顔は、小さく笑っていた。



 最後の一人の治療が終わり、俺は足早に家へと向かった。

 今日見た怪我人は五百人、その内あの傷を負っていた人は三百人もいた。

 しかしその傷は妙で、どの患者に関しても致命傷にはなっていない。皮膚を焼く痛みと無理にねじられているような痛みが残り続けるその傷は、その者の戦意を大きく削ぐものに留まっている。


「……大丈夫だ」


 まだ死者は出ていない。


 着いた自宅のドアに手をかけて、今日は早く眠ろうと決意する。魔力が尽きてはどうしようもなくなってしまう。


 玄関を抜けて、簡素な一部屋だけの、その中央。


「アリナ……!?」


 アリナがいた。

 母が首を吊ったその位置でうずくまっていた彼女に、靴を脱ぐのも忘れて駆け寄った。突飛な出来事と最悪な予感で、心臓が嫌に鳴っている。


「人違い。というよりも、種違いというのが正しいか」


 そう言いながら、その少女は立ち上がった。

 月光に照って見えたその姿は、アリナをそのまま黒髪にしたような、それ以外、彼女そのものだった。

 それでも足を止めれたのは、声の響きが人のものではなかったことと、魔族の上位者を示す双角が頭部に見えたからである。


「……ここは、俺の家だ。兵士も匿っていない、もし攻撃をすれば条約に反するぞ」


 対峙した彼女、およそ人の形をしているそれは、十中八九魔族だった。それに、会話能力を有しているし、なにより。


「証拠も、なにも残らないよ。すぐ楽にしてあげる」


 滲み出る魔力が、その殺意と強さを表していた。勝つこと以前に、逃げることさえ叶わないだろう。


「なんで、俺を」


 アリナの姿をするそいつは、十中八九、最近現れた上位者と呼ばれる者だろう。なぜそんな見た目をしているか、なぜ前線を超えてこんな所にいるのかわからない、でも。


 それでも、好都合だ。


「とぼけないでよ。いつまで経っても前線が開かないと報告を受けて来てみれば」


 そう言いながら、魔族がかざした右手の先で、閃光が迸った。

 赤黒いその瞬きは、見慣れたあの傷の火傷と同じ色をしていた。


 目を瞑り、口角が上がる。

 これで、アリナの弟の傷も治すことができる。


「避けるんだ!」


 閃光が俺に到達しようとしたその瞬間。聞き慣れたそのやかましい声に、体を突き飛ばされた。


 反転した視界の先で、見慣れた兵装を身に包んだ大男が閃光に弾けた。


「マーリンさんッ!!」


「あぁ、もう、いつも邪魔だお前は」


 女の魔族は深いため息を吐いた。

 その隙に俺は体を起こして、よろめいた彼の元へと駆け寄る。


「……すまない、遅れた。こいつが君を狙う事はわかっていたが、まさか前線結界さえ無視してくるとは」


 傷口は浅い。兵装には何重にも対魔の魔術が仕組まれているのだろう。しかし、あと防げても数発が限度だ。

 

「大丈夫、です」


 庇ってくれなくても良かった、そんな言葉は飲み込んだ。マーリンさんにとって、俺は無力だが強力な治癒者だ。


「君にはいつも助けてもらっている。……今度は、私が守らなければな」


 マーリンさんは、優しい声色で、ゆっくりと言葉を繋いだ。

 そんな彼の言葉を、女は中断させた。


「愚かで、馬鹿で、救えないなぁ。人間は」


 もう一度かざしたその手から、赤黒色の閃光が集中していくのが見えた。その先は、マーリンさんの方へと向いている。


「治癒者も、兵の要もここで死ぬことが、最悪手だと言うのに」


「アリナの手料理は美味しかったかい」


 しかしマーリンさんは魔族の方には一切気にせず、俺に語りかけ続けた。


 いつかのお弁当の味を、味付けがまばらな彼女の手料理の事を思い出す。

 俺は静かに頷いた。


「がはは、君はやはり優しいな。大丈夫だ。アリナとイルをよろしく頼む」


 いつものように、ガサツな手つきで、乱暴に俺の頭を撫でた。

 瞬間、もう一度放たれた閃光が、彼の元へと弾けた。

 俺から、閃光から庇うような位置に立ち続けていてくれたマーリンさんは、それをまたモロに喰らうこととなった。


 しかし彼はもう、よろめきさえしない。


「……最悪手は、子どもを戦いに巻き込んでしまったことだ」


 向きを変えた彼の言葉は静かな怒りを孕んでおり、身体中の裂傷と火傷を感じさせ無いものだった。

 赤黒い華が、三本その身体に咲いていようと、彼の右目は真っ直ぐに敵を見つめている。不死身の兵士長と銘打たれるその理由に、納得がいく。


「私だって望んでいないさ」


 再びかざした魔族の少女は、少しため息をつく。

 踏み込んだと同時に剣を抜いたマーリンさんは、女の三撃目の魔法を一振りで消した。


 反撃の態勢をすぐにとったマーリンさんは、部屋の中央へと距離を詰め、振り上げていた剣をそのまま振り下ろした。


「へぇ、やる」


 余裕そうに笑った少女の、その言葉が言い切られない内に、彼の刃は確実にその首を捉えた。


「またそれか」


 彼の剣は空を切り、手応えなく地面に衝突する。

 その隙をついた少女は、掌底の型をとり、マーリンさんの脇腹を突き飛ばした。


 小さい体躯からは想像できない力で、マーリンさんは壁に激突した。


「がっ……」


 魔族と人間とでは、根本的に持つ力が違う。上位者ともなればなおさらだ。見るからにその衝撃は、人の耐えられる限界を悠に越している。あの怪我では、このままでは、彼は負ける。


 マーリンさんの言葉は嬉しかった。彼が繋いでくれるこの時間に、俺は逃げるべきだ。


 でも、


「治します。勝ちましょう」


 俺の言葉で、停滞したその一瞬に、駆け寄り彼に治癒を送った。

 打撲も、出血も、肋の骨折も、内臓の破裂も、全て経験している。


「今日あなたも救って、俺も助かって。明日幸せで、アリナのお弁当を食べて、あなたの傷を治すんです。それが俺の生きる道です」


 向き直った視界の先で、アリナの姿をしたその魔族は薄く笑った。


「本当に、本当に、愚かだ」


 立ち上がったマーリンさんの元へ駆け寄り、二人して少女に対峙した。


「戦えますか、不死身のマーリンさん」


「……言うようになったなユリア。当たり前だ」


 彼は取りこぼしていた剣を握り直した。

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