特派
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航空母艦“ナハトファルター”より、初の脱走兵が出現した。
名はツェツィーリア・アドラー大尉──大尉は何故か人間爆弾・個体名AS-665を伴い、救命艇を使って脱走を企てた。
初動が遅れた艦長たちではあったが、その後の行動は迅速を極めた。帝国本土で補給するのと同時に“特別派遣調査隊”──通称・特派が派遣された。特派においては、階級が上のものであっても問答無用で処罰の対象者なりえる。そのため、特派に睨まれたら軍内部での昇進は難しい、以上に不可能であるとまで言及されている。
彼らは艦内の監視体制や艦内風紀に問題がなかったか調査することを主目的とする部隊であったが、
「今回は災難だったな、ヴィル」
その特派の重鎮にして、軍の出資先の次期家長──海運業と鉄鉱業を営んでいるエドゥアルト家の長男──であるハンス・エドゥアルト大佐は、軍儀礼的な前置きを進めた後、士官学校の同期にして戦友……親友の此度の不始末を笑ってやった。
本来であれば特派に個人的な感情を斟酌し忖度する人員配置など愚の骨頂にしかならないが、ハンスはそのあたりの事情からは無縁なまでに徹底した内部調査を軍の奏上することで有名であった。とりわけ、旧上官の不始末……女性関係や軍金融関係にかんする報告書の山は、冷淡を通り越して酷薄な印相を軍上層部に与え「エドゥアルト大佐ならば問題なく軍務を遂行できる」と判じたわけだ。
無論、親友にして戦友であるヴィルヘルム艦長も、そのことはよく理解している。
彼が同期生というだけで手を抜くような輩ではないことを。
それでも、彼は正直な気持ちを愚痴ってしまう。
「……まさか。実の娘が脱走するのを防げなかったとはな」
「いやいや、それもあるが」
気のいい赤毛の友人──ハンスは微笑してみせた。
「あの娘が父のお前に逆らうなんて、生まれて初めてのことじゃないか?」
「……ああ」
ヴィルヘルムは率直に頷いた。
反抗期のない、良い子に育った。
母親はすぐになくなったが、我儘も泣き言も言わない強い子に育った。
末は女性士官の星とまでもてはやされていた娘が、一体なにを血迷って、今回のような愚挙に及んだのか、理解の範疇を超えすぎていた。
しかも、どういう理由でか、人間爆弾の一人を伴っての逃避行とは。
「二人が密接な関係を示す証言は?」
「ありえん。相手は人間爆弾だぞ? 先の知れた存在に横恋慕でもして、それで危険を冒すほど、あの娘は愚かではない」
「その評価は俺も同意見だが……彼女の個室、士官室を見たか?」
「いや?」
ならば見ておくべきだろうとハンスに伴われ、ヴィルヘルム艦長はツェツィーリア大尉の個室へと案内された。
「……なんだ、これは?」
そこは個室というよりも、一種の研究機関の装いに変貌していた。棚も机もすべて人間爆弾関連の内容。積み上げられた博士論文も、張り付けられた特記事項も、すべて“人間爆弾”にかんすることばかり。
特に、人間爆弾が定期的にメンテナンスを必要とする存在であり、そのための最低限の設備や薬物について、事細かく記帳され、独自に研究までされている。
ハンスが呆れ声で告げる。
「よくもまぁ、こんなに……軍属ではなく博士号を取るのが、彼女の夢だったのかい?」
「いや、そんなはずは……」
そう宣う実父であるが、自信などこの部屋を見れば雲散霧消してしまう。
「とにかく。彼女にとってAS-665という個体は、ここまでせねばならないような存在らしいことは確かだ」
ハンスは結論付ける。
そのうえで、ヴィルヘルムたちが普段目にしていた二人の様子を事細かく聴取する必要があった。
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三日後、救命艇は無事に《小大陸》の南端に流れ着いた。
空母の進路予想と潮流の計算まで見事にこなしたツェツィーリア大尉は、半ば動くことの難しい人間爆弾──AS-556を抱えて、適当な洞穴の中に身を隠す。
荷物の中でも最重要に位置付けていた薬箱を開けて、注射器で強壮剤を射つのも手慣れたもの。
ついでに野営準備を整え、三日ぶりに泉の水で体を洗う大尉の背中を虚ろな視線で観察しながら、AS-665はたずねる。
「大尉、あなたはどうして、…………」
自分のためにここまでしてくれるのだろう?
人間爆弾ならば、他にもたくさんいた。だというのに、何故、AS-665なのか。
何度考えても分からなかった。幾度となく繰り返された問答に、金髪を絞り切った大尉は儚そうな笑みを浮かべるだけで、少年には何も答えない。
それでも。AS-665は感謝した。
猫を助けようとして失敗した、クソみたいな異世界転生のなかで、はじめて芽生えた感情がそれであった。
AS-665は、彼女に自分を託すことを決めた──たとえどんな結果に陥ろうとも。
そのように賭けたのだ。
彼らの賭けの結果が一体どのようなことになるのか、今の時点では誰にもわからない。