セピア色の寝物語
───“鉄錆山脈に立ち入ってはならない”
これは、この世界に広く伝わる伝説の1つである。『鉄錆山脈』と呼ばれる地には、天地開闢より生き続けるという古の存在が住まうと言われているのである。
かつて、この地を越え、その向こう側へ至ろうとした帝国の軍が、空を完全に覆い尽くすほど巨大な何かによって、わずかな生き残りをのぞいて全滅したという話も残っている。
これを与太話と断じ、侵攻を仕掛けた国は数多ある。しかし、そのどれもが全滅した。結果、その山脈にはかつての兵士の装備や遺留品が数多く残り、今も錆び朽ちている。誰も手を出すことなく数多の鉄が錆びる山、故に『鉄錆山脈』と呼ばれる───
このような伝説が残る、立ち入ればそれは自殺と同義とまで言われるかの山に訪れる者はまずいない。だがその日は、誰に知られることもなく、1つの影が、山に吸い込まれていった────
◆◇◆◇◆◇
「……ごめん、ごめんね……」
満月、木々の隙間から月明かりの差し込む明るい夜に、1人の女が、『鉄錆山脈』の中腹で啜り泣く。長く手入れをされていないのか、ボサボサに荒れ果てた黒い長髪に、かつては美しかったのだろうやつれ果てた顔が隠れている。身に纏う衣服も、継ぎ接ぎのしすぎで今にも破れそうになっている1枚の貫頭衣のみだ。それも、長く洗われていないと一目でわかるほどに汚れてしまっている。どれを取ってみても、彼女があまりの貧しさに苦しんでいることは明白だろう。
そして、彼女の腕には、生まれたばかりを思しき赤子が、すやすやと安らかに眠っていた。
貧困に苦しむ女が赤子を抱え、入れば死ぬような場所にいる。この状況で、彼女がなぜここにいるのか、何をしようとしているのか、わからない人はいないだろう。
「あなただけでも……生かしてあげたかったのだけど……ごめんね、私には……できなかった……」
赤子を大切そうに、慈しむように優しく地へと降ろし、彼女は崩れ落ちる。
「叶うなら……奇跡が起きて、あなたが望むように生きる未来が訪れますように……」
未だ静かに眠る赤子に、震える、枯れ枝のような手を伸ばす。だが、その手は赤子に届く前に、星に引かれ力を失う。
「ごめんね……愛していたわ、私の【レーニャ】……」
最期に、赤子の名前をつぶやいて、彼女は永遠の眠りについた。
───はるか遠い空の上から、見守っていた視線には気付かぬままに。
◆◇◆◇◆◇
───それは、天の彼方より一部始終をみていた。もともとこの地に入り込む人間を排除するのがそれの使命であったが、その人間がもうまもなく果てることを、それは感じ取っていた。故に、あえて手を出さずその人間の最期を看取った。
それにとって予想外だったのは、はるか上空からではちょうどその人間に隠れて死角にいた赤子の存在である。時を視ることができる、それがみたところ、赤子は普通に生きればあと72年は生きることだろう。しかし、このままではあと2日生きれば良い方ではないか。それとて、本音を言えば積極的に人間を殺めたくはない。むしろ人の世を見守ることを楽しいと感じるくらいだ。なんの力も持たない赤子を見殺しにすることに、躊躇うくらいには人間を好いている。
赤子は、それの葛藤何ぞ露知らず、実母の最期もまた知らず、未だ眠っている。
それは、しばらくの逡巡の後、これもまた一興と、赤子を生かそうと決める。
それの永く色味の薄い生に、一筋の色彩が差し込んだ瞬間だった。
◆◇◆◇◆◇
それがまず行ったのは、『家』を作ることだった。それは、持つ能力の特性上、結界を張ることに長けている。結界の形状、質感などを変えることも造作のないことだった。当然、人間から見ればそんなの普通は不可能だ。
かつてみた木造の小さな家を模して、結界を張る。一瞬で、森の中に開けた空間に一軒の平屋が建つ。崖のすぐそばに建てられた結界の家は、見た目からは想像できないほどに頑丈だ。もし何かが襲ってきたとしても、ここにいればまず無事だろう。赤子の守りには最適と言える。
しかし、それは家に入ることはできない。なので、それは、赤子の母の過去を視て、彼女を模した結界を形作る。そうして作られた結界は、彼女の若かりし時を丸写しにしたような、美しい女性の姿となった。結界でできた分身で赤子を抱き上げ、『家』へ向かう。
『……お前の名は、レーニャ。お前の母の、最初で最後の贈り物だ』
それが発した思念は、月明かりに吸い込まれて消えていった。
◆◇◆◇◆◇
それは子育ての仕方を知らない。だが、育てられた人間はそこかしこにいる。それはその人間たちの過去をのぞき、見様見真似で子育てをすることになった。
それがまず直面した問題は、赤子──レーニャの食事である。他の物品類は全て結界で代用できるが、食事だけは如何ともし難い。どこかから調達するにも、人間たちの使う通貨は当然持っているはずもなく、この山にも乳を出すことのできる動物はいない。
仕方なく、それは乳と同じ液体を作り出す術式を創り出した。ついでと言わんばかりに、才能開花の効果も混ぜながら。
幾人かの人間が使っていた哺乳瓶を結界で再現し、それと乳生成術式を用いてレーニャの腹を満たす。
レーニャは授乳のたび、嬉しそうにはにかむ。
それは、その顔をみるたび、分身が破顔していることに気づいていない。
◆◇◆◇◆◇
「おかーさん、木の実とってきたよー!」
『戻ったなレーニャ、よくやった』
それがレーニャを拾って数年。レーニャは成長し、少女へと変貌を遂げていた。まだそれの爪の先程度の背丈しかないものの、濡羽色に輝く髪と整った容姿はレーニャの将来が楽しみになる。
分身は、レーニャから、カゴいっぱいに入った木の実を受け取ると、あらかじめ狩っておいた猪の肉と、家の隣に作った畑で取れた香草類、地面から抽出した岩塩などの調味料を揃え、術式を起動させる。
瞬間、そこに出来立ての料理が現れる。料理の仕方なんて知らないそれは、材料を揃えれば自動で料理を作り出す術式まで開発していたのだ。無駄に高性能である。
『飯ができたぞ、手を洗ってきなさい』
「はーい」
それとレーニャの2人だけの日々は、もう少し続く。
◆◇◆◇◆◇
『そう、上手だな』
「んん〜!」
それがレーニャを拾って10年と少しが過ぎた。
それは、レーニャに術式を教え込んでいる。元からの素養と、生後まもなくからずっとかけられ続けてきた才能開花の術式のおかげか、人間基準で見れば、圧倒的な術式の才を持っていた。
それも、自身の特性である時空間術式をレーニャが使えるようになるのではないかと、ノリノリで教え込んでいた。
「ん〜……うりゃ!」
レーニャが少し力むと、術式をかけられていた花の種が、高速で成長していく。ものの数秒で、美しい花を咲かせるが、術式は止まらず、そのまま枯れ果ててしまう。
「あっ……」
『発動は問題ないが、制御はまだまだだな』
「うぅ〜……」
失敗して俯くレーニャの頭に、そっと分身が手を添える。
『さぁ、もう1回練習してみよう』
「うん!」
森の中に生きる少女と分身は、互いに向き合って笑い合った。
◆◇◆◇◆◇
それがレーニャを拾って15年。人間の基準で言えば成人になる年。レーニャは、濡羽色の背中くらいまである髪を、後頭部の高い位置で結んでおり、女性の域に踏み入れ始めたためか、とても美しい娘に育った。街を歩けば、10人のうち10人が振り返るだろう。それの贔屓目に見ても、そう感じるほどだった。
『レーニャ、話がある』
「なに?」
それが、真面目な口調でレーニャに話しかける。レーニャと分身は、改まって机をはさみ向かい合った。
そして、それはこれまでの経緯を全て、レーニャに聞かせた。自分が人間ではないこと。レーニャが本当の子供ではないこと。レーニャの実母の最期のこと……
それを全て聞いたレーニャは、予想に反してとても落ち着いていた。
「そうだったんだ……前から不思議だったんだ。お母さんはいろんなこと教えてくれるけど、お父さんのこととか、私たち以外に人がいないこととか、そういうことだけは教えてくれなかったし」
『……すまん』
レーニャはさほどショックを受けたようには見えなかったが、それでも思うところはあったようで、少し俯く。
「……お母さん、私って、普通の人間からみたら、どう映る?」
『……難しい。が、普通には映らないだろうな』
「だよね……」
一時の沈黙が2人を覆う。が、そこでそれがその沈黙を破る。
『……レーニャが望むなら、レーニャを人間の学校に通わせることはできる』
「……そうなの?」
『鉄錆山脈』に接する公国の人間は、15の成人から数年間、学校に通うことが義務付けられている。何らかの方法で、公国で身分を証明できるものを手に入れられれば、学費は国持ちで学校に通うことができる。身分証も、それにはあてがあった。
『だが、我はレーニャについていくことはできない。この分身は、我から離れすぎると術式が解けてしまうのでな』
「そっか……」
レーニャはしばらく考え込む。数瞬の後、レーニャは決意を固めたのか、迷いのない視線を分身にむける。
「お母さん……私、学校に行ってみたい」
『……わかった。ならば、準備をしよう』
レーニャの門出に、嬉しいような寂しいような、今までに感じたことのない感情をそれは抱いた。
◆◇◆◇◆◇
翌日、レーニャは旅支度を整え、いつでも出発できる運びとなった。
「お母さん、今日までありがとう」
『……気をつけるのだぞ、レーニャ。それと、これは我からの餞別だ』
そう言って、分身が、レーニャにいくつかの品を手渡す。
『まずこの剣だが、我の付与術式でまず壊れることはない。また、最高練度で扱える付与と、所有者固定の術式も組み込んである。剣自体も、我の尾針を加工したものだ。切れ味も保証する』
「え、あ、うん」
レーニャは、伝えられた性能にただただ困惑する。自身でも、人間の常識には疎いと自覚しているが、それでもこれは非常識だと。
『次にこのコートだ。先ほどと同じく所有者固定と不壊、サイズ自動調整、それに防汚と浄化、完全防御障壁、自動反撃と自動回復を織り込んである。これも、我の鱗を加工したものだ。頑丈さは折り紙付きだ』
「う、うん」
『またこの靴は、同様の所有者固定と不壊、サイズ自動調整、さらに空間跳躍、悪路走破、防汚、浄化、疲労軽減を付与した。これは我の皮を使っている』
「は、はぁ」
『最後に、我の爪と鱗数枚だ。街で売れば、数年は遊んで暮らせることだろう』
「う、うん……ありがとう……?」
レーニャは悟る。これらの能力は、決して悟られてはいけない、と。知られれば何に巻き込まれるかわからない。それの過保護ぶりは、控えめに言って常軌を逸していた。
「……そうだ、お母さん」
『む、なんだ。何か足りないものでもあったか?』
しきりに心配の声をかけるそれに、レーニャは小さく首を横にふる。
「違うの。最後に、お母さんの本当の姿を見てみたいな、って」
『……そうだな、レーニャにさえ、見せたことはなかったか』
それは、レーニャに真の姿を見せるべきか悩んだ。だが、他でもないレーニャの願いだ。たとえどんな反応をされようとも、自分はそれを受け入れよう、と。
『……では、外に出よう。家の中からでは見えないからな』
「うん、わかった」
レーニャと分身が家の外に出ると、分身はレーニャに崖の方を向くように伝える。
レーニャが崖に向いて数瞬、崖の外観が突然、歪み始める。
「え、なに!? 何が起こって……っ!?」
崖の変化は続き、少しずつ、崖の全体が持ち上がっていく。
そして、崖は完全に消え果て、代わりにそこに、1つの巨体が姿を表す。
青銀に輝く鱗に日の光を反射させ、それはゆっくりと、豪邸1つは余裕で覆い被せそうな4対の翼を広げる。長い間折り込んでいた四肢を伸ばし、凝り固まった筋肉をほぐすかのように揺らす。巨木のような尾は、先の方が少しなくなっており、そこからレーニャの装備を切り出したことが見て取れる。そして、レーニャたちの住んでいた家ほどもある頭を、ゆっくりと下げ、レーニャの前まで持ってくる。
「……龍」
伝説上の生物、龍。それから物語として聞いていた。この世界ができた頃、神は世界の管理者として、7体の龍を創った、と。7体の龍たちは、それぞれ、炎、水、土、風、光、闇、そして時空間を司っていたという。
『……我は、レーニャを拾った時から、崖に扮していた。レーニャには、この姿はどう映るだろうか……?』
最初は驚き固まっていたレーニャは、その言葉を聞いて、ふっと緊張を解いた。
「……正直、やっぱりって思いがある。だって、龍に関する話とか、昔の歴史に関する話とか、異様に詳しかったもんね」
『……そうか』
「多分、お母さんって時空間を司る龍でしょ?」
『その通りだ。我の真名は【時空龍ディストアツィト】、その名の通り時と空間を司る真龍種だ』
「やっぱりね……」
数瞬の沈黙が流れる。耐えきれずそれ───時空龍ディストアツィトが口を開く。
『やはり、この姿は怖かろう。すぐにでも再び偽装の結界を張って──』
「ううん、大丈夫」
レーニャが割って入る。その瞳に、畏怖の色は一切見られない。
「これで、『私は真なる龍に育てられた龍の娘』って言えるしね。お母さんは、私の自慢だよ」
その言葉は嘘偽りなく、ディストアツィトの心に沁み渡ってゆく。
『……ああ、我も……レーニャは我の、自慢の娘だ』
ディストアツィトの目から、大粒の涙が静かに流れ落ちる。生まれ落ちて数億年。そうしてみればレーニャと過ごした15年など、一瞬にも満たない長さだろう。しかし、その15年は、ディストアツィトには、永遠に忘れられない一瞬となった。
「……学校を出て、有名になったらさ、またお母さんに会いに戻ってくるよ。お母さんからしたらほんとに短い間かもしれないけどさ、それまで待っててね」
『……ああ、もちろんだ』
「……それじゃあ、いってきます」
『……いってらっしゃい、レーニャ』
こうして、レーニャは新たな世界への一歩を踏み出した。長く、短い物語が、幕を開ける────
◆◇◆◇◆◇
「それで、その女の子はどうなったのですか?」
5歳くらいの少女が、母親に物語の続きを乞う。寝物語として話していたつもりが、予想以上に少女の琴線に触れてしまったようだ。
「そうね、彼女は龍に言われた通り、身分証をもらって学校へ通ったの。そこでもいろんなお話があるのだけど、それはまた別のお話ね」
「学校を卒業した後は、どうなったのですか?」
「んー……龍にもらった装備と、龍に教わった術式を使って、傭兵として活躍したの。『傭兵姫』なんて言われたりしてね。その活躍が認められて、公国で爵位をもらって、貴族になったの。ここもまた別のお話」
「その後、その後も!」
「あはは……えーとね、貴族になって、公王様に謁見したんだけど、その公王様の一人息子がね、彼女の学生時代の同級生だったの。ここからはまた今度ね」
「えー、もっと聞きたいです!」
「だーめ、もう遅いから寝なさい。また今度、続きを聴かせてあげるから」
「はーい」
「おやすみなさい」
「おやすみなさい、お母様」
母親は、娘の、自分によく似た濡羽色の前髪を少し掻き上げ、額にそっと口付けする。少女は、くすぐったそうに少し身じろぎして、布団へと潜った。
明日はどのエピソードを語ってあげようか。母親は、少し色の褪せてきた、しかし今もはっきりと色づく自分の記憶を遡りながら、少女と共に眠りについた。