天罰
小姓からの報告を聞き、徳川家康の口元がニヤリと歪んだ。
「太閤殿下が関白殿下の謀反をのぅ……」
秀次が謀反とあっては、良くて出家。悪くて切腹は免れないだろう。
次期後継者と目された秀次が失脚するということは、豊臣政権の基盤が揺らぐことを意味している。
そうなれば、豊臣の力が落ちる絶好の好機かもしれない。
この事件の煽りを食う者の中には、伊達政宗や最上義光といった、家康と親しい者も含まれている。
彼らの嘆願もしつつ、他にも秀次事件で煽りを食う者の助命嘆願も進めていこう。
彼らを徳川派閥に組み込めれば、秀吉の死後、豊臣政権下で主導権を握れるかもしれない。
「さすれば、儂が次の天下人よ……」
独りごちる家康の元に、息を切らせた小姓がやってきた。
「た、大変です! 秀忠様が、関白殿下の謀反に関与したとの疑いがあるとのことにございます!」
「なんじゃと!?」
「さらに、太閤殿下は妻子に至るまでことごとく処刑せよと仰せです!」
妻子まで処刑するということは、秀次と婚儀を交した家康の三女、振姫の命が危ないことを意味していた。
「こうしてはおれん……!」
秀忠と振姫を助命するべく、秀吉の元へ急ぐのだった。
謹慎の解けた吉清は、秀吉の命令で伏見城に参上していた。
「吉清、お主は高野山へ参り、秀次に切腹仰せ付けの申し渡しをいたせ」
「そ、それがしがにございますか!?」
秀吉の命令に吉清が狼狽した。
この役目は、ただ秀吉の命令を伝えるだけではない。
秀次の切腹を介錯し、見届ける検死の役も務めなければならない。
仮に秀次が拒否したり逃亡を試みた場合は、吉清が斬らなくてはならないことを意味している。
きっと、秀吉は試しているのだ。
吉清に謀反の心がないのなら、秀次を切れるはずだと。
秀次を切ることで、自分に二心がないことを。秀吉への忠誠心を示せ、と。
(これも戦国のならいとはいえ、無情なものよ……)
重い足取りで、吉清は高野山へ向かうのだった。
秀吉からの命令を告げると、秀次は落ち着いた様子で尋ねた。
「それが、殿下からの命なのか?」
「はっ」
吉清は静かに顔を伏せた。
申し訳なさと罪悪感が重くのしかかり、まともに秀次の顔を見ることができない。
「あいわかったと、殿下に伝えてくれ」
予想以上にあっさりと切腹を受け入れる秀次に拍子抜けしつつ、吉清は顔を上げた。
どこか憑き物が落ちたようで、取り乱す様子はない。
むしろ、不気味なほど達観している。
かけるべき言葉を探していると、秀次が口を開いた。
「……木村殿は、私が殿下に謀反をすると思うか?」
「……………………」
秀次を避ける吉清に対して、秀次は無遠慮に距離を詰めていった。
時には自分の手料理をご馳走し、時には遊びに誘ったりと、常に吉清を気にかけてくれていた。
たしかに空気の読めないところはある。
だが、決して悪意から来る行動ではなく、善意が空回りした結果、悪い方向へ転がることの多いように感じられた。
無自覚に地雷を踏むことは多いが、決して悪い人物ではない。むしろ、温厚で気さくな人物と言った方がいい。
良かれと思ってやったことが、結果的に悪い方向へ転がることはあるが、進んで悪いことをしたり、率先して人を傷つけるようなことはしない。
それが、吉清から見た豊臣秀次という人間であった。
吉清が首を振ると、秀次は安堵した様子で息をついた。
「……そうか」
長い沈黙。
吉清が言葉に窮していると、秀次が口を開けた。
「覚えているか。淀殿が拾様の兄にあたる鶴松様を身篭った際、聚楽第の塀に落書きがあったことを」
吉清は頷いた。
天正17年(1589年)秀吉が居を構える聚楽第の塀に、何者かが落書きを書いた。
内容は、『淀殿の腹にいるのは秀吉の子ではない。不義の子だ』とするものだった。
根も葉もない落書きであったが、秀吉の勘気に触れることとなった。
これに関わりがある者として、聚楽第の警備をしていた番衆17人が犠牲となった。
それ以降、この話は豊臣政権内でも禁忌とされ、口にするのもはばかられてきた。
「殿下には長らく子がお生まれにならなかったからな……。それが、突然の懐妊だ。喜びこそしたが、内心気にしておられたのだろう……」
吉清も秀次の意見に同感であった。
だが、なぜ今その話をするのか。
まさか、秀次がその落書きの犯人だとでもいうのか。
「私が殿下に……拾様に謀反などできるはずがないというのに……!」
「……では、殿下に釈明をすれば良いのではないですか?」
「…………それはできん」
吉清が「なぜ」と尋ねる前に、秀次が口を開いた。
「──拾様は、私の子かもしれないからだ」
面白かった、続きが気になると思ったら、ブクマや評価をして頂けると励みになります。
秀次事件編が終わったら、一度活動報告に蒲生騒動、秀次事件編のあとがきを書こうと思っています。




