秀次事件1
京都、伏見城。
秀吉は幼い拾と戯れながら、内心拾の未来に不安を募らせていた。
吉野の花見では、豊臣家の後継者は秀次であると明言した。
秀次は秀吉の甥にあたり、血縁上では秀次は後継者の資格がある。
また、秀吉の養子として以降は内外に秀吉の跡継ぎであると喧伝したこともあり、豊臣家の事実上の跡継ぎに他ならない。
しかし、秀吉の心は拾に傾いていた。
老齢にしてようやく生まれた嫡男ということもあり、自分のすべてを拾に継がせたい。
今になって、秀次を後継者に指名したことを後悔し初めていた。
できることなら、拾に跡を継がせたい。
しかし、それでは秀次との約束を反故にしてしまうことに他ならない。
「どうしたものかのぉ……」
独りごちる秀吉に、三成が頭を下げた。
「殿下、いかがされましたか」
「拾に跡を継がせたい」
秀吉がそう溢すと、三成が固まった。
「それでは……」
……秀次はどうするというのか。
三成は続く言葉をぐっと飲み込んだ。
「しかし、吉野の花見で、関白殿下に跡を継がせるとおっしゃったはず……。それを覆すとなると……」
「そこじゃ、三成。何か良い策でもないか?」
秀吉は、暗に秀次を排除、または失脚させる案を出せと言っている。
三成は冷や汗を流した。
先日、秀吉には天下を二分するようなことだけは避けた方がいいと進言をしたはずだ。
しかし、今まさに秀吉自らが豊臣家に亀裂を作ろうとしている。
どうしたものか……。
長考の末、三成は口を開いた。
「…………拾様と関白殿下の娘で婚儀を結ばせ、拾様を次期後継者に、関白殿下はその後見にしてみてはいかがでしょうか」
「婚儀か……」
これならば、秀次は拾の義父ということになり、一度は後継者に指名した秀次に、一応は筋を通せると言えた。
「うむ。では、そうしよう」
三成の提案に満足したのか、秀吉は機嫌を良くした。
「三成、秀次にもそのように伝えておけ」
「はっ」
秀次の元を訪れると、秀吉からの命令を伝えた。
「後継者は拾様とし、関白殿下には拾様の後見を務めていただきたい、とのことにございます」
「…………殿下がそのようにおっしゃったのか?」
「はっ」
「そうか……」
秀次の声が沈んだ。
三成から伝えられた命令に、密かに落胆していた。
吉野の花見では、自分が後継者であると約束してくれたのに……。
しかし、秀吉からの命令に、心のどこかでホッとしている自分もいた。
自分が吉野の花見で申し出た通り、後見に徹することができるのだ。
これで秀吉の勘気に触れることなく、円満に豊臣家という舞台から降りることができるのだ。
三成を安心させるべく、秀次はにこりと微笑んだ。
「……わかった。太閤殿下に承知したと伝えてくれ」
「はっ、つきましては、後見を務めるにあたり、関白殿下の娘を拾様に嫁がせて欲しいとのこと」
三成の言葉に秀次が固まった。
「……………………」
「いかがされた」
「…………娘たちは、既に全員嫁ぎ先が決まっているのだ。今さらそれを覆せというのは……」
「……なれど、それが殿下の下知にございます。どうか、よくよくお考えられますよう……」
「……………………」
三成から伝えられた命令に、秀次は最後まで頷くことができなかった。
そんな折、毛利家での懐妊騒動が聞こえてきた。
毛利輝元の跡取りには従兄弟である秀元が指名されており、豊臣家としても次期毛利家当主は秀元のつもりであった。
しかし、ここにきての当主夫人の懐妊に、毛利家家中では「男児ならば跡取りに」との声が高まっていた。
毛利家ほど表立ってはいないものの、状況だけ見れば豊臣家とよく似ている。
毛利がお家騒動となれば減封の口実にできるが、豊臣家のお家騒動ともなれば、天下を二分する争いとなるのは目に見えていた。
今になって、三成の言葉が蘇る。
「天下を二分することだけは避けた方がよい、か……」
実の甥で、一度は跡継ぎに指名した秀次を謀殺するなど、明らかに道理を違えている。
ただ、そんな理性とは裏腹に、無意識に秀次を追い落とす策を練るのだった。




