wiki 木村吉清
木村吉清(生年不詳−1612年)日本の戦国時代の武将。倭国の国父。
通称、奥州のマムシ。
山崎の戦い以降豊臣家臣となり、天下分け目の戦いに勝利したのちは高山国(現在の台湾)に倭国を建国し、初代国王の清久を支えた。
奥州入りまで
亀山城主の内藤如安や荒木村重に仕えたのち明智家臣となり、この頃は光清と名乗っていた。光秀からの信任も厚く、亀山城代を任されていた。
山崎の戦いで光秀が敗れたのち、豊臣秀吉に取り立てられ家臣となった。この時、秀吉から偏諱を受け吉清と名を変え、以降は吉清と名乗ることとなる。
京都町奉行や太閤検地の奉行として実績を残し、小牧・長久手の戦いや小田原征伐で武功を立て、奥州仕置きでは敵軍を撃破、大将首を取る働きを見せた。
この武功が認められ、旧葛西・大崎領12郡約30万石を与えられ、同地は木村家発展の礎となっている。
領地を与えられてからは北条旧臣を取り立て、善政を敷き領内の安定化に務めると共に、伊達政宗の扇動した一揆(葛西大崎の乱)の鎮圧より、秀吉の天下統一間もない奥州の平定に努めた。
なお、吉清が奥州を任された理由としては、豊臣家中で頭角を現しつつあった吉清に期待していたとする説や、吉清の才覚を恐れた秀吉が中央から遠ざけたとの説がある。
文禄の役
文禄元年(1592年)の文禄の役では亀井茲矩と共に高山国(現在の台湾)に侵攻すると、またたく間に沿岸部を制圧し、同地の統治や植民を行ない日本化を推し進めた。
高山国の支配と共に倭寇を傘下に収めると、明に対して継続的に略奪や襲撃を行ない、朝鮮半島から明に向かっていた日本軍を大いに助けた。
なお、この時吉清が川を遡って南京にまで攻め込み10万の大軍を相手に戦ったという記録が残されているが、明側には当該記録は残されておらず、吉清が武功を捏造したものだと思われる。
倭寇を木村水軍に組み込むと、スペインの支配していたルソン(現倭国ルソン島)に侵攻を開始した。船の質や水軍の練度で劣る木村軍だったが、マニラ湾を封鎖してスペインの船を封じたのち、陸上からマニラに攻め込むと、同日中にマニラが陥落した。
これ以降、高山国、ルソンは吉清の元で発展を続け、木村家の躍進を大いに支えることとなる。
蒲生騒動
吉清と懇意にしていた蒲生氏郷が亡くなると、跡を継いだ蒲生秀行は若年で家中の統率が取れないとして、改易の危機が迫っていた。
吉清は秀行に娘を嫁がせて外戚となると、秀行の後見人として家中を取り仕切り、謀反を起こそうとしていた蒲生郷安、曽根昌世を木村家預かりとし、蒲生家の改易を阻止した。
この後、蒲生郷安、曽根昌世は木村家家臣となり、樺太や高山国の運営で力を奮った。
秀次事件
秀次事件に連座して謹慎処分となった。しかし、比較的に処分が軽く済んだため、秀次事件に連座した他の大名や武将の助命に奔走した。
その縁で最上義光の娘、駒姫が吉清の嫡男、清久と結ばれることとなった。
この時、秀次旧臣を召し抱えることに成功し、木村家の行政能力、軍事能力は飛躍的に上昇することとなる。
秀次切腹の際は見届け人を果たしており、秀次の死を秀吉に報告している。
また、秀次の死には不可解な点も多く、吉清が最上義光、伊達政宗と結託して秀次を陥れたとする説、秀頼を跡継ぎとしたい淀殿が吉清に命じて秀次を陥れたとの説がある。
しかし、徳川秀忠の自伝(秀忠記)には秀次と吉清の仲が良好だったとする記録が残されており、上記の説の反証とされている。
慶長の役
吉清は宇喜多秀家率いる高山国組の奉行を務めており、軍の輸送や兵站の維持、拠点構築を行なった。
その一方で、明遠征軍を私的に利用し、領内の開発を行なわせたとする記述も残っており、津軽為信、南部信直、松前慶広、秋田実季の記録が残されている。
秀吉の死が明らかとなると、諸大名の混乱を抑えつつ島津義弘と共に殿を務め、無事に明遠征軍を退却させることに成功した。(金門島の戦い)
この頃、真田昌幸や立花統虎、島津義弘と親交を深めており、のちの大坂城の戦いでは共に徳川方を相手に戦うこととなる。
前田と徳川の争い
秀吉没後は、豊臣家の主導権争いに前田利家と徳川家康が争う形となった。
吉清は養子の宗明が前田から嫁をもらっていたこともあり前田陣営につくと、他の前田方の大名と共に大坂の前田屋敷に参上している。
のちに前田家と徳川家が和解すると、それからほどなくして利家が亡くなった。
利家死去と同じくして、石田三成が武断派の武将である加藤清正、福島正則らに襲撃されるという事件が起きる。(七将襲撃)
加賀征伐
利家没後。家康は豊臣政権で抜きん出た力を持つようになった。
慶長4年(1599年)8月、前田を屈服させるべく、加賀征伐の号令がかけられた。
多くの大名が徳川家に味方をする中、吉清は北庄から援軍を送ると共に、水軍を江戸湾に展開させ、家康を講和の席に引きずり出した。
こうした行動により、前田家と親しい細川や宇喜多からも信頼されるようになっていく。
木村征伐
慶長5年(1600年)11月。加賀征伐以降、対徳川の急先鋒に立たされていた木村家に、木村征伐の号令がかけられた。
石巻の目前に10万もの兵が集結する中、吉清は宇喜多領に潜伏していた。
家康が上方を離れた隙に他の反徳川の立場をとる前田や宇喜多と共に秀頼にかけあい、石巻30万石を豊臣家に返上し、石巻は戦禍を免れた。
それと同時に宇喜多領に停泊させていた木村水軍を江戸に展開すると、江戸の町を襲撃し、家康があとに引けない状況を作り出した。
こうなれば家康は本拠地の移転先である高山国へ遠征せざるを得ず、そうなれば木村水軍と一戦交えなくてはならない。
しかし、徳川家には木村水軍と戦えるだけの水軍が揃っていなかったため、秀頼を介して和睦を提案した。
この戦いは吉清が制したものの、秀頼の介入により、事実上痛み分けで幕を下ろした。
天下分け目の戦い
上記の戦いにより、吉清はその名声を大きく高めた。
しかし、それと同時に吉清に反感を抱く大名(徳川、毛利、上杉)の結束を招くこととなった。
木村、徳川が両陣営を固める中、慶長8年(1603年)8月。家康が木村派閥の一員である蒲生秀行の領する会津征伐を敢行したことで、天下分け目の戦いが勃発した。
家康率いる本隊が会津に向かって進軍する間、吉清は高山国に戻り、5万の兵を集めて上洛を開始した。
島津領薩摩、鍋島領肥前で補給をし、玄界灘で毛利・小早川水軍を破ると、次の補給地である宇喜多領備前に向かっていた。
しかし、黒田如水が木村方に寝返り関門海峡に罠が仕掛けられていることが知らされると、木村水軍は大きく迂回して紀伊水道からの行軍を余儀なくされ、大坂到着が大きく遅れることになるのだった。
大坂に着いた吉清は関ヶ原での敗戦を聞かされ、残る兵と共に大坂城に篭った。
この時、大津城攻めで関ヶ原に参陣できなかった立花統虎、関ヶ原で中央突破を果たして生還した島津義弘、上田城で秀忠軍を足止めした真田昌幸がそれぞれ守将を務めた。
戦いの中、徳川方に内通した淀殿を捕縛すると、秀頼を出陣させ、徳川方についていた豊臣恩顧の大名の多くを戦意喪失に追い込んだ。
秀頼の出陣。それと同時に江戸城の陥落を聞かされ、家康は木村方に降伏した。
同年12月、毛利、上杉が降伏したことで、徳川の乱は幕を下ろすのだった。
戦後と木村家の独立
徳川の乱の功により、木村家は奥州石巻と下関、門司の100万石を加増され、新五大老の筆頭となった。
しかし、主家を凌ぐ勢力を持つようになった木村家が豊臣家の傘下に収まる道理はなく、1604年5月に木村家は豊臣家からの独立と今日まで続く倭国の建国を果たした。
当初は吉清が主導して国の舵取りをしていたが、国の仕組みが整うのと同時に台北に隠居し、子作りに励みながら余生を過ごした。
1612年、4月12日に腹上死により死去すると、木村家のみならず豊臣家や諸大名から惜しまれながらこの世を去った。
吉清の遺言として西欧への留学生の派遣や水軍力の維持に注力したおかげで、倭国は極東の雄として君臨することとなり、今日の倭国発展の礎を築くこととなった。
逸話
・奥州に入った際、大崎、葛西の旧臣を多く召し抱え、彼らと共に分国法を作り上げた。
この時にできた奥州法度之次第はのちに倭国の法律となっており、現在の倭国ではある程度形を変えながらも、憲法として残されている。
・吉野の花見では、雨が止まないことに怒った秀吉が、「明日雨が止まなければ、吉野の山を焼き払う」と言い、それを真に受けた吉清が油を大量に用意した。
結局、翌日晴天だったため油を使うことはなかったが、この時に余った油を諸大名に格安で引き払ったことで、油売りと呼ばれるようになり、それが後述する秀次事件と合わせ奥州のマムシと呼ばれる所以となった。
・秀次事件では秀吉の命令で秀次を陥れたとする説がある一方で、秀次とは良好な関係だったとする説も残されている。
・石田三成の屋敷が七将に包囲されると、吉清は自ら囮役を買って出た。裏口から馬に乗って飛び出すと、周囲の目を引きつけ三成の逃亡を助けたという(要出典)
・最上義光とは秀次を通じて良好な関係となっており、互いに敵味方に別れて戦うことになった際には互いの身を案じ涙を流したという。
・吉清の死後、神格化された吉清は神となって崇められており、現在の倭国や倭国の旧領各地に神社が残されている。
・徳川の乱以降、吉清の側近に東照という僧が重用されるようになる。徳川家康が歴史の舞台からの退場と同時に登場したこともあり、東照は徳川家康ではないかとの俗説があるが、後世の創作と言われている。




