流言
細川忠興と立花統虎の攻撃により退却した井伊直政は、敗走する徳川兵をまとめ、家康率いる本陣に戻っていた。
散々山中を駆け回ったのか、疲労した様子で膝をつく。
「此度の失態、申し開きのしようもございませぬ。すべての責任はそれがしにあります。……いかなる処罰も受ける覚悟にございます」
頭を垂れる井伊直政に、家康は首を振った。
「お主の実力は、誰よりも儂がわかっておる……。先の失態は、槍働きにて挽回するがよい」
「……はっ!」
井伊直政のまとめ上げた2000の徳川兵と合わせ、再び1万の兵を与えると、家康は直政に北側の軍を率いる大将を続投させた。
細川忠興が大坂城に物資を届けたおかげで、兵糧攻めも仕切り直しとなった。
おまけに、遊軍となった細川軍が大坂城を包囲する徳川方を背後から脅かしているというではないか。
おかげで斥候や背後を警戒させるためにも兵を割かざるを得ず、力攻めによる攻略は、もはや不可能となった。
元より、徳川方についた豊臣恩顧の大名たちは、大坂城に攻め入ることに消極的な者ばかりである。
押し寄せる凶報の数々に、ここにきて豊臣恩顧の大名たちの間で厭戦感情が高まり始めていた。
何か手はないものか……。
考えを巡らせる家康に、ある策が浮かんだ。
「そういえば、秀忠の正室である江姫は、淀殿の妹であったな……」
そうして、家康はすぐさま秀忠を呼び寄せるのだった。
吉清が軍議を開くべく東西南北それぞれを大将を集めるも、周りの視線が妙に余所余所しい。
「なんじゃ、いったい……」
釈然としないものを感じていると、島津義弘が吉清を一瞥した。
「こげん女にうつつを抜かしちょっ奴に、総大将は務まらんと思うがなあ!」
島津義弘が吉清を見やり、嫌味たらしく睨みつける。
島津義弘だけではない。立花統虎や真田昌幸までもが、何かを言いたげな目で吉清を見ていた。
「な、なんじゃ。言いたいことがあるのなら、さっさと言ったらどうじゃ」
真田昌幸と顔を見合わせ、立花統虎が遠慮がちに口を開いた。
「……実は、城内である噂が出回っているのです」
「噂……?」
「木村殿が淀殿と……その……不義を致したと……」
「なっ…………」
吉清の頭が真っ白になった。
なぜ知っている。どうしてバレた。普通に考えてバレるはずはないがこれが知れては自分の築き上げた立場もこの戦いもすべて危うくなる──
顔面蒼白になった吉清を見て、島津義弘が呆れた様子でため息をついた。
「ふん、やはりか……」
「何かの間違いかと思いたいが……」
「木村殿の顔に答えが書いてしまっているのではな……」
今回の戦い、表向きは会津征伐から端を発した戦だが、事実上、豊臣政権内における木村方と徳川方の主導権争いだ。
しかし、吉清が淀殿と繋がっていたとなると話が変わってくる。
今回、家康が大戦を仕掛けたのが、私欲によるものではなく吉清による豊臣家の支配を止めるためだとしたら。
淀殿を籠絡することで、吉清は裏から豊臣家を操ろうとしていたのだとしたら。
吉清は最終的に淀殿を継室に迎え、秀頼の養父となることで豊臣家を牛耳ろうとしていたとしたら、これまでのすべての前提が崩れることを意味している。
ここで木村方に味方をするということは、吉清による豊臣家の簒奪を認めることとなってしまう。
それがわかっているのか、真田昌幸が難しい顔をした。
「内府と違い、木村殿には義があると思ったから味方についたというのに、その木村殿が淀殿を手篭めにしていたとは……」
「ちっ、違う! これは罠じゃ! 儂を陥れるため、家康が流言を流したのじゃ!」
立花統虎が吉清に同情するような目を向ける。
「同じ男として、綺麗な女子を抱きたいという気持ち、わからなくもない。……きっと、一時の気の迷いなのでしょう。木村殿が淀殿と密通したのも、何かわけあってのことに違いありませぬ……」
「優しい目で儂を見るな! そのようなことをするはずがなかろう!」
「とにかく、俺はこげん戦バカバカしくて付き合うてられん。東側ん大将には他ん者を命じてくれ」
「島津殿!」
島津義弘が去るのを皮切りに、真田昌幸、立花統虎がその場を後にした。
三人の背を見送り、吉清は呆然とその場に立ち尽くした。
ありえない。淀殿を抱いたのは、あの一度きりだ。
どこでバレた。物的証拠は残っておらず、証人とて吉清や淀殿といった限られた者しかいないというのに……。
と、そこまで考えて、噂の出処に思い当たった。
「あの女狐め……!」
なぜあの島津義弘や立花統虎らがただの噂と一蹴せずに信じてしまったのか。
その理由は、真実を知り、相応の立場を持つ者が語ったからに他ならないのではないか。
そう考えた吉清は、家臣たちを引き連れ淀殿のいる奥へ足を踏み入れた。
物々しい様子に、侍女たちが次々と道を開けていく。
そんな中、老齢の侍女が吉清の前に立ち塞がった。
「なっ、なんですか! ここは男子禁制です! このように乗り込むなど……」
「どけ! 今は一刻を争うのだ!」
立ちはだかる侍女を押しのけ、淀殿の部屋に押し入った。
「御免!」
無作法な来訪者に、淀殿がムッとした。
「……なんです、騒々しい」
淀殿の言葉を無視して吉清が詰め寄る。
「あの噂は、お主が広めたのであろう!」
「あの噂って、どのことですか?」
とぼけた様子で首を傾げる淀殿。
白々しい。この期に及んでしらを切るとは。
「儂と淀殿が不義をしたという噂じゃ」
「ああ……」
吉清の不幸がおかしいのか、淀殿が笑みを浮かべた。
「私は何もしていませんよ?」
「しかし、現に噂が広がっていよう。それこそ、ただの噂話に信を持たせられる者……。
すなわち、淀殿以外に噂を広めた者は考えられん」
家臣の手前、吉清が淀殿と不義におよんだ事実という核心部分は避けて問い詰める。
保身に走る吉清が面白くないのか、淀殿がムッとした。
「……それより、いいのですか? このように乱暴な手を使って」
「……何が言いたい」
「ただの噂と一蹴すればよかったものを、そのように必死になられては、あらぬ誤解を受けることになるのではないですか?」
「……今さらじゃ。既に島津殿、立花殿、真田殿から誤解されておる。……なればこそ、もはやなりふり構っている場合ではないのじゃ!」
吉清が合図を出すと、木村家家臣や吉清配下の侍女たちが淀殿の身柄を拘束した。
「何をするのです!」
「今の淀殿をここに置いておくわけにはいかぬ。……場所を変えて話を聞かせてもらおう」
「離しなさい! わたくしを誰だと思っているのですか!」
「心配せずとも、手荒な真似はせぬ。……仮にも秀頼様のご母堂なのだからな……」
抵抗する淀殿を抑えつけ、大坂城内で木村家の者が集まる区画に軟禁する。
秀頼の生母という手前、乱暴なことはできないものの、知っていることはすべて吐いてもらわなくては。
吉清は大坂城西側の陣に戻ると、淀殿自白の報告を待つのだった。
吉清の元を去ったのち、昌幸は真田軍が陣を構える南側に戻っていた。
こうなった以上、木村方について戦う理由は見い出せない。
敵陣を見やり、呆然とため息をついた。
「これは……つく方を間違えたかもしれんのぉ……」
昌幸が意気消沈する中、息子である真田信繁がやってきた。
「浮かない顔をして……いかがされたのですか?」
昌幸が事情を話すと、信繁の顔が引きつった。
「そういえば、お主は太閤殿下の元で小姓として仕えておったな。……何か、それらしい話を聞いたことはないか?」
心当たりがあるのか、信繁の目が泳いだ。
「さあ……どうでしょう……」
「なんじゃ、はっきりせんなぁ」
「……私から言えることは、淀殿が密通しているという噂は以前からありました。
誰が相手かなどはわかりませぬが、おそらく木村殿はハメられたのではないかと……」
秀吉の小姓として長年仕えてきた信繁の言葉には説得力がある。
木村吉清は無実で、あくまで罠に嵌められたというのか……。
一番悪い状況は、淀殿の素行の悪さを利用して木村吉清にあらぬ濡れ衣を着せようとしている場合だ。
その場合、大坂方は徳川の手に踊らされて分裂した末、この戦いに敗北することとなる。
「……これが徳川の流言で、我らを離間させる策であれば、面倒なことになる。……ただちに噂の出処を調べるぞ!」
「はっ!」
大坂城の北側に戻った立花統虎は、先の軍議を思い返していた。
あの時の木村吉清の顔は、たしかに重大な秘密がバレた時の表情をしていた。
しかし、立花統虎には、木村吉清が豊臣家を簒奪するような男には思えなかった。
大友義統を支援し大友家を再興したのも、不利とわかっていながら加賀征伐で前田に味方をしたのも、すべて義に依った行動である。
その吉清が、私利私欲のために豊臣家を乗っ取るなど、果たしてあり得るのだろうか。
家臣の一人を呼び寄せると、統虎の率直な思いを述べた。
「私には、木村殿が豊臣家の簒奪を目論んでいるとは、どうしても思えぬのだ」
「しかし、噂を聞かされた時の木村様は、重大な秘密をバラされたような顔をしていたと……」
「それよ。おそらく、何かのっぴきならない理由があるのではなかろうか」
「理由、ですか……いったい、どのような……」
「それがわからぬのだ……」
しばらく考えると、立花統虎が立ち上がった。
「いかがされたのですか?」
「やはりわからぬ……。この噂が真実なのか、木村殿が本当に豊臣家を簒奪しようといているのか……。
……なれば、わかる者に聞くほかあるまい。
この大坂城には、事情を知る者も、噂を流した者も、皆が一蓮托生となって閉じ篭っておるのだ。一人ずつ話を聞けば、自ずと答えも出るであろう……!」
さっそく他の家臣たちも呼び寄せると、噂の情報を集めるべく家臣に命じた。
(これで木村殿が私欲のため、己の野心のために戦っていたのなら、私の人を見る目もそれまでだっただけのこと……。私は木村殿を信じるぞ……!)
義弘は島津軍が陣を置く東側に戻ると、大将としての任を木村家臣の御宿勘兵衛に任せ、一人酒を煽っていた。
「興の覚むっことじゃ……天下分け目ん戦いが、淀殿との不義のために引き起こされたものだったのではな……」
「殿、あんまり飲まれると、お身体に障りっじゃ。もっと自重したもんせ。もう若こはなかとじゃっで……」
「わかっちょっわい、そんくらい!」
そう言って、義弘がふらつきながらその場に立ち上がった。
「どちらへ行かるっとな?」
「水を飲んでくる」
城の裏手。ひっそりと目立たぬところに置かれた井戸までやってくると、何やら女の姿が見えた。
「…………あ?」
女は水を汲むでもなく、井戸の中に身を乗り出そうとしている。
「おい、何よしておる!」
咄嗟に義弘が駆け寄ると、女を井戸から引き上げた。
「なにも身投げすっことはなかじゃろう!」
「は……? えっと、その……」
困惑した様子の女に、義弘はなんとも言えない違和感を覚えた。
なんだ? 身投げではないのか?
その時、井戸の中から下人のような男が顔を出した。
「グズグズするな。さっさとずらかるぞ! こんなところ、誰かに見られでもしたら……」
「おう、見られたら、何じゃちゅうど?」
義弘の姿を見て、下人の男の顔が真っ青になるのだった。
吉清が淀殿を軟禁して数日が経過したが、淀殿は未だに口を割る様子はなかった。
「強情なことよ……」
秀頼の生母ゆえ、拷問こそしていないものの、身の回りを木村家の者に囲まれ、暇さえあれば問い詰められるのだ。
淀殿の性格からして、知ってることを吐いてもおかしくないのだが……。
報告を待つ吉清の元に、見知った者が近づいてきた。
「島津殿……」
挨拶もそこそこに、島津義弘が縄に繋がれた男女を差し出した。
「……これは?」
「井戸ん中ん抜け道から逃げ出そうとしちょっ者を見つけた。尋問したところ、淀殿の侍女と下人をしちょったが、その実徳川の手の者らしい。……どうやら、奴らが噂を流しちょったらしかね」
「おお! それはかたじけない! これでようやく、儂の身の潔白が証明できそうじゃ」
上機嫌の吉清をよそに、バツの悪い様子で島津義弘が頭を下げた。
「…………こん前は悪かった。まんまと徳川ん流言に乗せられてしもて……。
こげなことを言えた義理じゃなかが、木村殿さえ良ければ、また俺を東側ん大将に任じて欲しか」
「島津殿……!」
島津義弘が頭を下げる姿に、吉清は胸を打たれた。
あの島津義弘が、頭を下げてまで吉清の元で戦いたいと懇願するとは……!
「……先の軍議は、徳川方を油断させるためのもの……! 混乱したように見せかけ、間者を捕まえるべく、島津殿はひと芝居打った……。そうですな? 島津殿」
「…………おう! 総大将ん危機とあっちゃあ、大将として見捨つっことはできんでな!」
そう言って、義弘は力強く胸を叩くのだった。
淀殿に関しては完全な誤認逮捕ですね。
ただ、元をただせば淀殿にも原因があるので…




