毛利の罠
輝元の甥であり毛利軍の一軍を率いる毛利秀元の元に、毛利・小早川水軍の敗北が伝えられた。
「そうか……我らの水軍が……」
瀬戸内海で練度を積んだ毛利の水軍が木村水軍に敗れたのは驚いたが、さもありなん。
木村吉清はあの徳川家康に二度も苦渋を飲ませた男である。
むしろ、こちらが侮っていたと考えた方が自然だ。
(毛利の水軍が敗れた以上、本命であるこちらで迎え撃つとしよう)
毛利秀元が眼下に横たわる古の海峡に視線を移した。
関門海峡。中国と九州を結ぶ要衝であり、大陸から畿内へ至る重要な航路として、古来より栄えてきた。
その一方で、数ある水道の中でも屈指の難所として知られていた。
日に四度も潮汐が代わり、最高8海里にも及ぶ潮流で、熟練の船乗りでも事故を起こしてしまう海域だ。
また、陸地に近いところには暗礁も点在しており、喫水の深い大型船では接岸させるのも難しい。
そんな中、毛利軍の将である毛利秀元は関門海峡の最狭部である早鞆ノ瀬戸に陣を構えていた。
両岸では海に向けて大筒が備え付けられており、関門海峡を通過する木村水軍の到来を、今か今かと待ちわびている。
(徳川様より授けられた、必勝の策……。これさえ決まれば、この戦は決したも同然だ……)
木村軍をここにおびき寄せるべく、毛利は北九州や山陽で木村方の大名に猛攻を仕掛けた。
木村軍が援軍を送り込むのなら、まず間違いなく毛利領の付近となるはず。
そうして、毛利の誘いに乗った木村水軍はまんまと関門海峡にまでやってきたのだ。
遥か水平線から船影が見えてくる。
毛利水軍を破った木村水軍だろう。
傷だらけの船体が、激戦の様子を物語っている。
やがて、木村家の家紋を掲げた船が関門海峡の最狭部である早鞆ノ瀬戸の通航を始めた。
まだだ。まだ引きつけろ。
自分に言い聞かせるように、毛利秀元がじっと待つ。
後続の船が海峡の入口に差し掛かり、獲物が十分に食いついたことを確認すると、毛利秀元は合図を出した。
秀元の命により、下関、門司の両岸から砲撃が始まった。
突然のことに、木村方の船が満足に反撃もできないまま沈んでいく。
ある船は水夫が逃げ場を求めるように海に飛び出し、またある船では命乞いをするようにこちらに呼びかける者も見えた。
そうして海面が船の残骸に覆われ、木村水軍が影も形もなくなると、秀元率いる毛利軍は勝鬨を上げるのだった。
いつぞやの伏線回収ですね。
「来島(海峡)でなくていいのか?」
という輝元に対し、家康は
「そっち(関門海峡)の方が都合がいい」
と答えたわけですね。
来島から地名を予想した方は非常に惜しいです。
関門海峡が来島海峡、鳴門海峡と並ぶ日本三大急潮流に数えられており、世界でも有数の航路であり難所であることを知っていれば、おそらく予想できたのではないかなと思います。
補足。
関門海峡の最狭部である早鞆ノ瀬戸は幅630メートルほどしかなく、現代の大型船はここを他の船とすれ違いながら通航しなくてはいけません。
エンジンのある現代の船ならともかく、帆船となれば操舵も難しく、潮流や風向、風力の影響をモロに受けます。
とくにガレオン船は安宅船よりも喫水の深い船なので、その分暗礁に乗り上げてしまうリスクもあります。
日本有数の難所で両岸から大筒で砲撃されたらたまったもんじゃないよね、というのが今回の徳川と毛利の作戦です。
また、船は車と違い、止まろうと思って止まるものではないので、慣性により大きく流されたり、Uターンしようものなら大きく船体を回さなくてはいけません。
そんなことを関門海峡の中でできるわけもないので、海峡に入った時点で木村水軍に勝ち目はなくなります。
一応、流速では来島海峡に軍配が上がりますが、最狭部の狭さと入り組んだ地形を加味した結果、今回は関門海峡が採用されたということですね。
少し話が変わりますが、来島海峡の航法、順中逆西はなかなか面白いので、興味のある方は是非調べてみてください。




