天下人の死
床につく秀吉は、己の死期が近いことを悟っていた。
最後の力を振り絞り、三成を呼び寄せた。
豊臣の家臣は数あれど、三成ほど豊臣のために力を尽くし、忠義を捧げた者はいないと思っていた。
その三成の手を握り、秀吉の目の端に涙が浮かんだ。
「三成、儂の亡き後、秀頼を頼んだぞ……」
「はっ、この身にかえましても」
「徳川も毛利も、儂がいるから大人しくしておるにすぎん。お主だけが頼りじゃ、三成……」
溢れそうになる涙を堪え、三成が目を伏した。
「……はっ」
枯れ木のような手で三成の手を握り、自分の死んだ後のことを必死に懇願する秀吉に、天下人としての威厳はまるでなかった。
三成の目の前に居るのは、自分の築き上げたものを必死に守ろうとすがる、哀れな老人であった。
秀吉の空虚な瞳が三成を見上げた。
普段の冷静さは鳴りを潜め、顔を歪ませる三成を見て、秀吉はふと気がついた。
今際の際の言葉がこれだけ重いのなら、同じように諸大名に声を掛ければいいのではないか。
同じように、秀頼を頼むと、秀頼を支えるよう懇願すれば、大名たちの心を動かせるのではないか。
そう思った秀吉は、すぐさま見舞いに現れた大名たちと面会することにした。
その中には、大老筆頭として日本最大の外様大名である、徳川家康も含まれているのだった。
慶長3年(1598年)8月18日
農民から天下人まで登り詰めた豊臣秀吉は、下剋上の世を象徴するような、波乱に満ちた生涯を終えた。
秀吉の生涯は後世の人々に語り継がれ、歴史に大きな爪痕を残したのだった。
秀吉が没すると、今後の方針を話し合うべく、大老の徳川家康、前田利家、五奉行の石田三成らが大坂城に集まった。
「大陸に殿下の死が広まれば、兵たちは動揺し、明や朝鮮が勢いづきましょう。一刻も早く講和を結ぶべきかと存じます」
三成が集まる大名たちを見渡すと、徳川家康や前田利長が頷いた。
「石田殿の意見に異存はない。……問題は、どのような条件で和議を結ぶかじゃ」
この戦では、明や朝鮮の土地を得んと多くの大名たちが期待を寄せていた。
それが頓挫したとあっては、大名たちの不満が噴出しかねない。
和議の中身には、この戦で日本側がどれだけの土地を獲得できるかも含まれており、大名たちの利益に直結するだけに、慎重に決めなくてはならないだろう。
「明では宇喜多殿が善戦し、朝鮮や黄海の制海権は木村清久殿が掌握している。此度の戦は我らが有利に進められているゆえ、明や朝鮮に強気で出たところでバチは当たるまい」
強気な態度を取る前田利家に、徳川家康が異を唱えた。
「……しかし、それは殿下の死を伏したことが前提となるもの……。時を置けば、明や朝鮮に知れるのも時間の問題じゃ。今は、どのような条件であれ、一刻も早く和議を結ぶべきであろう」
議論は平行線を辿った。時間だけが虚しく過ぎていく中、家康が語気を強めた。
「信長公の死後、殿下は信長公の死を伏せ、疾く毛利と講和を交わし、明智を打ち破った。すなわち、仮に殿下がこの場に居られたとて、同じことをしたであろう……。すぐにでも講和を結べ、とな」
秀吉という前例を出されては誰も反論できるはずもなく、前田利家や石田三成が渋々といった様子で了承した。
家康の熱弁が功を奏し、大幅に譲歩した形で講和を結ぶこととなった。
和睦を結ぶべく、家康は宗氏や小西行長の家臣と共に、自身の家臣を明へ向かわせた。
それと同じくして、明や朝鮮の猛反撃が始まるのだった。




