一時の気の迷い
時は夜。
月明かりもろくにない山中の夜道を、大集団が移動する。
大型の木製運搬車が3台、中型が4台、人数はおよそ40人。そのほとんどが物々しい武装を身に着けている。
ガラゴロ、ガラゴロ、大した整備もない道はいたるところが凹んでおり、運搬車の車輪が取られないように随分とゆっくりとした移動である。
その様子を山中から睨むように見守る人影が3つ、女が二人と男が一人、見つからぬように息を潜めていた。三人とも黒い服で身を包み、闇夜に紛れている。
「予定よりだいぶ遅いね」
長身の女が呟く。美女という表現が最も似合う容姿だ。可憐さではなく、猛獣のような野性味のある美しさを備えている。
予定では今日の昼にはここを通過する工程のはずだったが、何かあったのだろうか。
美女の思考する横で、小柄な女が呟く。
「お姉さま、もう我慢できません。ここでやりましょう、襲いましょう、殺しましょう?」
三人の中で最も若いその女――というより少女は、齢にそぐわぬ狂気に満ちた目で、大型運搬車の一つを凝視する。その運搬車は全体が布で覆われており、中身をうかがい知ることは出来ない。
「ダメ。私たちの獲物はあの獣じゃないよ。それに、護衛に腕利きが何人もいる。あなたも彼とはやり合いたくないでしょう。やるのは森へ到着してから、ここに来るときに約束したはずよ?」
息を荒くして、今にも輸送集団に飛び掛かろうとする少女を美女は優しく制止する。すらりとした腕を伸ばして少女の頭をなで、その感情を和らげてやる。
だがそれでも、キャロの感情の高ぶりは止められない。
目は血走り、興奮を押しとどめようと噛みしめた歯がガチガチと鳴り、手がわなわなと震えている。
「ああぁ、ああぁあぁぁあ、ダメ、ダメですお姉さま、もう、我慢できないぃぃ……」
絞り出すように、喘ぐように絞り出された言葉は、キャロの限界を告げていた。
美女は小さくため息を漏らすと、一緒に隠れている大柄な男に視線を送る。男は無言で頷き返す。
この少女が「我慢ができないから」との頼みで様子を見に来たのだが、まあ予想通り我慢ができなくなってしまっている。
「……戻ろう。これ以上は――」
そう告げた時だった。
「グゥゥアオオオオオオオオオオオオ!!!!!!!」
耳をつんざくような咆哮が夜空に向かって放たれた。びりびりと大気が震え、布に覆われていた大型運搬車の覆いが吹き飛んだ。
荷台に置かれていたのは、檻だ。それもひと際巨大で頑丈な物だ。素材は鋼鉄に加えて亜神器も使われているだろう。並大抵のことでは破壊は出来ない。
問題はその中身だった。
一見すれば犬のようにも見える。人の背丈を優に超える巨大な四足獣だ。
その全身は、金属を思わせるゴツゴツとした赤黒い板が幾重にも重なっており、まるで『鎧』の如く四足獣を護っている。
その巨体が檻に体当たりをするたびに、金属同士がぶつかる複雑な音が静かな山中に響き渡る。
輸送隊は「なぜ起きた」「早く鎮静剤を打ち直せ」と、アリの巣をつついたような大騒ぎである。
だが、その様子ばかり気にしてはいられない。
爆弾はこちらにもあるのだ。
「ああ、ああ! ああああああ!!!」
少女はすでに限界が近かったというのに、そこへ最大級の刺激が加わって、今まさに破裂をしてしまった。
「ダメだよ」
「が……ががががが、『鎧獣』があぁぁあぁぁぁぁ!!!!!!!」
美女の静止も叶わず、およそその可愛らしい少女の容貌からは想像のできない怖ろしい雄叫びを上げ、キャロは放たれた弓の如く獣の檻へと飛び出した。
あらゆる力量は少女より美女の方が勝っているが、ただ一点、無動作から最高速度に至るスピードでは少女に及ばない。
ここへ少女を連れてきたのも、彼女がアレを見れば暴走するだろうことを予測できただろうことも、みすみす突撃を許したのも美女の失態と思うのだが、美女は小さく「仕方ない」とため息をつくのみだ。
代わりに隣の大男が慌てふためいている。
「だ、だんちょ、ま、まま、まずい」
「わかってるよ。はぁ……ここだと近すぎるから動きづらいんだけどな……私が止めてくるから、ガスロフは先に戻っていて。朝までに戻らなければ拠点へ戻れ」
男にそう告げると、美女は輸送団の悲鳴を耳にしつつ、飛び出した少女の後を追った。
時は夜。
月明かりもろくにない、道もろくにない山の中を突き進む。
新月でもなければ、狩人にとって闇夜は恐ろしいものでは無い。見習いである俺でもそれは然りだ。しっかりと足元を確認しながら藪をナイフでかき分けていく。
「くっそ、もっと良いやつパクってくるんだったな」
ナイフの切れ味に文句を垂れながら、俺は少しでも早く遠くに行かねばと焦っていた。追手を警戒してのことだ。
そう、何を隠そう、シュアンこと俺は『脱走の最中である。
そういうわけだから、俺は生きるために脱走という非常に前向きな選択をとることとした。
幸いにも今日の訓練は休みになったことから、身体の回復と荷物のまとめをする時間はあった。決断すればあとは実行である。
こんなこともあろうかと、兼ねてより逃走経路は準備済みである。
かくして、あっさりと脱走は成功し、現在は発見されないように夜の山中を楽しい登山というわけである。
しかし、脱走するまでは考えていたが、その後のことは面倒くさくて考えていなかった。生まれの村に帰る訳には行くまいし、どこかにあてがあるわけでもない。
「まあなんとかなるか」
ああ、それにしても、シャオルのことはどうするかな。そっちの方が気がかりだ。
怒るだろうか。怒るだろうな。あいつは昔から口うるさい。
泣くだろうか。泣くだろうな。あいつは昔から泣き虫だ。
また会えるだろうか。……分からない。このまま無事に逃げおおせれば、もう会えないかもしれない。
この行動は自分で決めたことだが、それにしても、短絡的すぎたかもしれない。
戻るか? いやしかし、今更それは……
思考するために、急な斜面を登る歩みを少し止めた時だった。
「グゥゥアオオオオオオオオオオオオ!!!!!!!」
「うおわぁぁぁっ!」
まさに天地がひっくり返ったかのような衝撃を受け、そのまま斜面を転がり落ち、木にぶつかって止まる。途中で石にでも引っかかったらしく、太ももから血が滲んだ。
「あだだだだ……なんだなんだ!」
森の獣の遠吠えではない。もっと巨大で危険な存在の咆哮だ。
よくわからない衝動に駆られ、俺は山中を音のする方へと向かって走り始める。街道とは名ばかりの大きな道からはそう離れていない。すぐにもその喧噪の真っただ中の現場に辿り着いた。
「な、ありゃあ……」
巨大な運搬車の荷台にはこれまた巨大な檻が置かれ、その中には全身を『鎧』のような外殻に包まれた巨大な犬が、自分を包む檻に向かって全身を叩きつけている。
金属同士のぶつかる音が、森の中に不気味にこだまし、周囲の人間たちがぎゃあぎゃあと騒ぎ立てていた。
その犬の特徴はまさしく、200年前に突如として現れ、人類を絶滅の淵にまで追い込んだ『鎧獣』の一種である。
鎧獣<ガイジュウ>。
その起源も生態も謎の多い存在であるが、分かっていることは一つ、遍く人類の敵であるという点だ。あれは犬型のようだが、多種多様な種類が存在し、個体によっては一匹で国を亡ぼすようなやつまでいるらしい。
共通する特徴は鎧と評される頑丈な外殻である。生半可な武具では傷すらつかず、その獰猛な攻撃性をもって数多くの人間が餌食となってきた。
200年前の人口から10分の1にまで減った人類から対抗手段が生まれたのは150年前。驚異的な身体能力と神器と呼ばれる武器を手に、あの邪悪な獣たちに対抗する存在こそが『狩人』であった。
彼らの活躍によって人類は鎧獣から生存圏を何とか維持できていた。
「鎧獣、初めて見たな。おっかねぇ」
初めて見た鎧獣へ心の底から湧き上がる恐怖心を、すぐさま払しょくすることは難しかった。心の中がざわめき、背中から足へとわずかな脱力を感じ、すぐさま太腿と心臓を叩いて体と心を奮起させる。大きく息を吐けば、少しだけ冷静さが戻って来た。
話を聞いていただけではピンと来ていなかったが、実物を見ればよくわかる。あれは恐ろしいものだ。たった一頭、遠くから見ただけ、吠え声を聞いただけでこの有様だ。この時に、これから先のことを考える余裕があれば気が滅入った事だろう。
「しかし、なんだってこんなところにいるんだ」
狩人たちによって鎧獣の生息域は『絶対防衛境界線』より以北にあり、この場所は境界線から比較的離れた場所にある。わざわざこんな所へ連れてくるのも一苦労だろうに。
その鎧獣を連れて来た輸送隊は大騒ぎである。松明の明かりを振りかざしながら、数十人の男たちが怒声を発している。
「おいぃ、鎮静剤はまだか! 早くしてくれぇ!」
「他の積み荷は無事かぁ! アレを盗られたら大ごとだぞ!!」
「見られたぞ、逃げた襲撃者を探せ、一人だ!」
「何言ってんだ、二人だったろ!」
「そんなことは良いから鎧獣をなんとかしろ!」
やがて鎧獣に向かって檻の隙間から矢が放たれたと思うと、鎧獣はしばらくフラフラとした後に大きな音を立てて倒れ伏した。
腹が大きく上下しているのを見るに死んだわけでは無さそうだ。
その様子をじっと息を潜めてみていたが、やがて山に向かって十数名が登ってくるのが見えた。
見つかってはまずい、と転進し、気配を殺してもう少し山の中へと進みかけたその時だ。
がさり、と人影が目の前に飛び出してきた。
「えっ」
「!?」
互いに、目が合った。
向こうはまさかここに俺が潜んでいるとは気づかなかったらしく、一瞬の間の後に飛びのいて腰の剣を引き抜き、警戒態勢をとった。
俺はと言えば、こんな時に何を言っているんだと思われるだろうが。
「き」
――見惚れた。
「綺麗だ」
一目惚れ、というやつだろうか。
とても美しい人だった。女神が光臨されたのかと見間違うほどだ。
俺に対して警戒色あらわな大きな目には強い意思を感じる。剣を持つ腕は一流の彫刻士が掘り出したかのように理想的な筋肉を露わにし、しなやかな脚は猛獣のそれを思わせる。
長い銀髪は後頭部で縛られ、月の光を反射して天の川のように揺れる。
美女はこちらを警戒しているようだが、敵意のようなものはない。こちらを敵と判断すべきかの逡巡が見られる。
その腕の中には、布にくるまれた何かが抱きかかえられている。顔は見えないが、手足らしきものが出ているのを見るに、小柄な人間のようだ。
自分のものではない血の臭いをかぎ分けた俺は、すぐにも目の前のどちらかが怪我をしていると判断する。
無視をして逃げるのが最善の手だと、冷静な自分が告げている。関われば、間違いなく人生で一番の面倒ごとになる。
だが、いつもの自分では考えられないような行動を起こしてしまったのだ。
「隠れて」
「?」
「早くっ」
怪訝な顔をする美女に、俺は小声で促す。すでに山を登ってくる多くの足音が俺の背後にまで迫っていたからだ。
美女がわずかな迷いと共に決断し、藪の中に隠れて気配を殺したのを確認した直後に、怒号が浴びせられた。
「動くなぁ!! 動けば撃つ! 手を上げてゆっくりとこちらを向けぇ!」
さて、ここからどうしたものか。