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鬼のしごき

「遅い」

「……すみませーん」


 時は夜。

 夕飯を食べ終わった俺は重い足を引きづって部屋に戻りかけていたのだが、散々悩みに悩んで目的地を変更した。

 何故かと言えば補講を受けるため、すなわち、先ほどの訓練時に呼び出しを食らったベルジャナスの元へと向かったのである。


 無論、無視をするという手立てもあった。早いところ自室に戻りたくて仕方なかったし、少し前まではそうする気であったのだ。

 しかし、この半年間の経験で、それは悪手であることも理解していた。

 次の日から「当たり」が目に見えて強くなるのだ。

 行くも地獄、引くも地獄、ならば少しでも軽い地獄にしておこうという賢明な判断である。


 ここは訓練場ではない。

 ベルジャナスの私室の一角を訓練場所として整備したものだ。

訓練場とはうって変わり、全体が木造りの部屋。床の中央に物は一切置かれておらず、壁際に数種類の武具が少し置いてある程度である。実に飾り気のない部屋だ。

木のぬくもりは一切感じぬ冷たい空気が流れるを見るに、飼い犬は飼い主に似るという話を聞いたことがあるが、部屋も主に似るのかもしれない。


ベルジャナスは遅れた理由を質すでも、遅れたことを怒るでもなく、ただ指摘したのみであった。この辺りのさっぱり感は少なからず助かるところではある。他の教師ならこうはいかないだろう。


「ではいつも通り」


 そう告げると、ベルジャナスは立ち尽くす。

 手には何も持たず、構えもせず、ただそこに立っているだけである。


 そして俺はと言えば、訓練でも使うごくごく一般的な木剣を握りしめ、ごくごく基本的な構えをとる。やる気があって素晴らしいって? 違う、さっさとこの女を満足させて帰りたいのだ。


 空気がまとわりつくように重い。その質量ある空気が木剣に絡みついたかのように、ずしりと重みを感じるほどだ。呼吸が徐々に浅くなっていくのがわかる。

 ただ対峙しているだけだと言うのに、俺は確かな重圧を感じていた。

 事あるごとにベルジャナスの補講を受けている俺だが、この女の雰囲気には慣れない。まるで自分の身体ではないように四肢が重くなる症状が、目に見えて強くなる。


「来なさい」


 その言葉に触発されたわけではない(と思いたい)が、自然と体が前に跳んだ。

 沼に浸かっているわけでもないのに脚が重い。自然と体が沈み込んでしまったのを利用して、下からすくい上げる様に剣を振り上げる。

 ベルジャナスはその細身を少し捻るだけでその斬撃を躱して見せる。

 追撃で二度、三度。

 振られる木剣が空を切る音、俺の踏み込みの音、すでに荒い息遣いが耳にこだまする。


(あいっかわらず嫌になるぜ、これは)


 狩人になるということは、そうそう簡単なものでは無い。

 第一に養成所への入所が必要なのだが、素質が無ければ養成所に入ることすら出来ない。

 

 今から200年ほど前、人類は突然現れたガイジュウという脅威によって、まさしく絶滅の危機に瀕した。

 人類に明日はない。多くの者がそう嘆く時、神は人類に二つの可能性を授けた。

 すなわち、『新人類』と『神器』である。

 新人類とはこれまでの現生人類と似て非なる存在である。

 大岩を軽々と持ち上げ、走れば瞬く間に百里を駆け、隣の山の木の葉を数え、におい一つで三日前の盗人を追跡し、雑踏からたった一人の足音を見つける。

 まさしく人を超えし、超人が生まれたのだ。


 この狩人養成所にいるものは能力に差はあれど、すべからく新人類の素質を持つ者だけである。

 つまるところ、俺だってただの人間じゃない。村ではシャオルを押しのけ、一番の強者であったこともある。


 だというのに、なんだこの力量の差は。尽く空を斬り続ける木剣に、自分の弱さを痛感するばかりだ。

 弱い者いじめだろう、こんなもの。

 僅かながらにもあったプライドは、もはや部屋の片隅を探しても見つからない。


 俺の目下の悩みは、俺ののらりくらり狩人養成所生活を追い詰めるこの女の存在だ。

 ベルジャナス。

 こいつに目を付けられてからというもの、何かと面倒くさいことが増えた。この補講だってその一つだ。

 明らかに他の見習いたちよりも執拗に嫌がらせを受けているようにしか思えない。

 どこかでベルジャナスの怒りを買ったか、恨みを買ったか、それは不明だ。しかし、仮にも伝説とも謳われる狩人様が、若造を捕まえて謎の嫌がらせとはご苦労な事である。


(そんなに人を困らせて楽しいかよ! 陰険だぜ!)


 俺が落ちこぼれに収まっているのは、俺が訓練を面倒くさがって真面目に受けていない事も原因の一つだ。(いや、本気でやってゴーラスに勝てるかどうかは別問題だが)

 俺は面倒くさい事が嫌いだ。

 その面倒くさがりが原因で、落ちこぼれだとゴーラスに絡まれることも、シャオルに心配されることも、まあ仕方のないことだろう。

 問題は、立場を利用して弱者をいたぶる様に面倒ごとを持ち込んでくる奴、つまりベルジャナス、お前だ。お前はゆるさねぇぜ、俺の平穏な生活を乱しやがってよ!


(ふっっざけるなよ!)


 ふつふつと沸いた怒りは、面倒くさいの感情を飛び越えて爆発した。


「ふぅっ!」


 フェイントを3つ織り交ぜ、本命の一撃に怒りの感情を込める。

 思うように付いて来ない脚に喝を入れ、いつもより踏み込みを強めた。どこでもいい、どこかに当たれと剣で鋭く斬りつけた。

 一か所がいつもと違う動きをすれば、当然ながら他の部位は上手くついて来られない。当然の如く、俺の身体は前方に投げ出されて無様にすっころぶこととなる。


 だが、その転倒の直前、俺は自分の握った剣先に確かに鈍い手ごたえを感じていた。

 勢いそのまま、ゴロゴロと床を転がって、ベルジャナスから距離を取る。


 ベルジャナスは、そんな俺には視線を送らず、自分の手の甲をまじまじと見つめていた。少し目を見開いたようにも見える。驚いてでもいるのだろうか。この女の表情の変化を見るのは初めてだ。

 ベルジャナスの手の甲は、徐々に赤く腫れ始めた。間違いなく、俺の渾身の一撃が入った証拠だ。

 あの女に目を着けられてから苦節4か月……ついに一矢報いてやった。


「…………しい」


 何かベルジャナスが呟いたように思ったが、それは余りに小さく、能力減退のせいもあって聞き取れなかった。

 手の甲から視線を外したベルジャナスは、つかつかと壁際に向かうと、一本の木剣を手に取った。


「今日から次の段階に入りましょう」


 ひゅん、と音がした。

それがベルジャナスによって振られた木剣が鳴らす音だと気付いたのは、ベルジャナスが剣を構えてからであった。

切っ先が全く見えなかった……というか、おい、なにやる気だしてんだ。そんな木剣を持ちだしたらあぶねぇ…だろ?


これまでが地獄だったのではない。ここからが、地獄だったのだ。

俺が解放される頃には、ケガのない部分など一つとして残っていなかった。


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