表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
雷光  作者: 葉月みこと
2/2

そして夜勤 

  病院に到着したのは11時30分だった。

 生ぬるい雨が降り始めてきた。

 

 薄暗い病院に、誰もいない玄関から入る。

 更衣室は地下1階。中はしんとしている。着替えをする衣擦れの音すら響いた。エアコンの音にもビクッとしてしまう。私は早々に着替えを済ませ、更衣室を出た。

 いつも1階のホールまで階段であがり、そこからエレベータに乗って4階の病棟まで行く。

 

 ガードマン以外、誰とも会うことなくエレベータの前まできた。私は扉の前に立ち、ボタンを押した。

“ピンポーン”

 程なくエレベータが到着を告げ、扉が開いた。中には誰もいなかった。私は乗り込もうと足を踏み出した。

 が、その足は、ピタッと止まった。


 スリッパが1組。エレベータの入り口のすぐ際に、揃えて置かれているのだ。私に「どうそ、お履きください」と言わんばかり。

 飛び降り自殺をする人が、壁際に靴を揃えて置いておく。それと同じ光景だった。


(なんで、スリッパが?)

 私は逃げるようにして、その場を去った。

 エレベーターには乗れない。私は4階まで階段を駆け上った。

 病棟に入り、休憩室の畳に崩れ落ちた。持ってきたペットボトルのお茶を飲んだ。動悸はなかなか治らなかった。

 出勤してきた井沢さんに話すと、

「なに、それ。ウケる」

 と笑い飛ばされた。しかし私の神経は過敏のまま、深夜勤務が始まった。


 空き部屋になった420号室。扉は閉められていた。前を通るだけで、西川さんの笑顔を思い出して、切なくなる。

 しかしその日の夜勤は大忙しで感傷に浸る暇はなかった。

 まずCCU(心疾患集中治療室)では急変があった。さらに奥の個室の患者さんの具合も悪いとのこと。血圧が下がって頻脈になったと申し送りで言っていた。私の指導が本来の仕事である井沢さんは、個室の手伝いに駆り出されていた。井沢さんはいつもはビシッと髪をまとめているが、今日は髪の毛がところどころ解けている。まさに髪を振り乱して仕事をしているという言葉が当てはまっている。


 これでもかと夜勤の試練は続く。今度は緊急入院だ。入院患者さんはあの401号室に入った。

 私が受け持っている部屋は落ち着いていたが、バタバタした病棟に気持ちだけが焦っていた。


 ステーションには私と若林先生しかいなかった。先生はファーストコールの当直だ。電子カルテに入院指示を入力している。カチャカチャとリズミカルなキーボードを叩く音と、複数のモニターの同期音がステーション中に響いていた。


 私は何気無しに先生を見た。先生は太い黒縁の眼鏡をかけていた。

(普段はコンタクトなんか)

と、そんなことを考えて先生の顔を見ていたら、ふっと目が合ってしまった。

「あ、指示、もう少しだから」

 入院指示を催促したと思われたのだろうか。

「い、いえ、違います!」

 そう言って、思わず立ち上がってしまった瞬間。ポケットに入っているハンディフォンが細かく震え、ブブブッと小さな音をたてた。ナースコールを知らせる携帯電話だ。

「ひゃっ!」

 思わず声が出た。慌てて電話機を取り出し、コール音を解除した。

 コールの発信元は401号室だった。受け持ちの部屋ではないが、他の看護師さんたちは対応できそうにない。私は患者さんの名前を確認して、401号室に向かった。


「金子さん。どうされました?」

 私はドアを開け、小さな声で話かけた。

 金子さんは小柄な年配の女性だった。心不全の急性憎悪(ぞうお)で入院になったと聞いている。

 確かに顔はすっかり浮腫(むく)んでいる。ベッドアップをしてファウラー位になっているが、肩で大きく息をしている。鼻にはカニューラがつけられ、酸素吸入をしていた。


「助けて!」

 金子さんの第一声に私は戸惑った。しかも目は見開かれ、血走っていた。部屋の電気は最小限の照度にされている。薄暗い明かりが、不気味に患者さんの顔に当たる。

 私は部屋に入るのを躊躇した。足が前に出ない。

「私、この部屋はいやや。変えて……」

「あ、あのっ。すみません。お部屋、ここしか空いていないんです。あとは大部屋しかなくって……」

「どこでもいいから!」

 大きな声を出したためか、そのあと金子さんはゼイゼイと咳き込んだ。私はやっと患者さんに歩み寄った。モニターをチェックする。脈拍は120前後の心房細動(しんぼうさいどう)。SPO2(酸素飽和度)は90%だった。酸素は1リットルに設定されている。

「金子さん。酸素の値も悪いし、まだ個室でないと……」


「怖いんや。ここ。勘弁して」

 金子さんは視線で私にすがってきた。

「……。 えっ? な、何が?」


「いるんよ。そこに。白髪の痩せたおじいさんが」

「!」


 私は息を飲み込み、半歩後ずさった。

「し、白髪…… の、痩せた、おじいさん?……」

(部屋ん中には誰もおらんし! まさか、西川さん?)

 白髪の老人と言われて、真っ先に西川さんを思い出した。彼はこの部屋で亡くなったのだ。


(この人、西川さんのこと、知っとんのか? いや、まさか、だってこの人、さっき入院してきたばっかや)

 金子さんの視線は私の後ろにある。

「大きな目でこっち、見とる。ほら」

 恐怖に怯えた目をし、視線の先を指差した。


 その瞬間、カーテンが雷光に照らされた。カーテン越しであったが、部屋の中が昼間のように明るくなった。

 そして、間髪入れずに、雷鳴が轟いた。

 

 私はとっさにその部屋から飛び出してしまった。ステーションに駆け込み、しゃがみ込んだ。

 心臓がバクバクしている。心臓が口から出てきそうだった。


「加山さん」

 井沢さんの呼びかけで、ハッと我に帰った。井沢さんは血液ガスの検体を持って小走りしているところだった。ステーションの前を通り過ぎようとしたが、私に気がつきカウンターの向こうから声をかけてきたのだ。

「416号室の新田さんの点滴交換は?」

「あっ。す、すみません。今、やってきます」

「ごめん。すぐ、戻ってくるから」

 井沢さんは検査室へと消えていった。

 私の足はガクガクしていた。しかし仕事への義務感が私の体を動かす。深呼吸を繰り返して、点滴片手に奥の大部屋に向かった。

 金子さんのことは気になったが、今はまだ、あの部屋には入れそうになかった。


 大部屋の方は完全に消灯されている。私は懐中電灯で行先を照らしながら廊下を歩いた。416号室は一番奥にある。廊下の突き当たりには大きな窓があり、昼間であれば外の景色がよく見える。

 私は点滴交換を済ませ、病室を出た。私は突き当たりの窓にかけられているカーテンを、少し開けてみた。外は大嵐だった。豪雨と暴風が窓にぶち当たっていた。

 私はカーテンを直して、踵を返した。するとすぐに雷が鳴った。そして光が廊下を照らした。安っぽい薄いカーテンは、光をしっかりと通していた。

 

 私は足早にステーションに向かった。

 420号室の前まで来た。特に意識したつもりはなかったが、何となく部屋のドアを見てしまう。

 すると420号と書かれたプレートの上のライトが点灯した。部屋の患者さんがナースコールを押した合図である。

(あっ。コール)

 ライトの下にある解除ボタンを押そうとしたとき、ハッと気がついた。

(この部屋。誰もいない!)


 ボタンを押そうとした手が震えた。そのままの体勢で一歩づつ後退した。

 次の瞬間、今夜最高の強烈な雷光が窓を突き抜けて病棟を照らした。その直後。

“ドッカーーン”

 地響きがするほどの雷鳴。建物が揺れた。


 さらに私に衝撃が加えられる。

 同時に懐中電灯の明かりが消えたのだ。私の周りは真っ暗になった。

 私は声にならない悲鳴をあげて、ナースステーションに駆け込んだ。


 明るいステーションで、私は座り込んでしまった。足に力が入らない。

(これって、腰が抜けるってこと?)

 初めての感覚だった。


「すごい雷だったな。停電にならんといいけど」

 若林先生は私が雷に驚いたと思ったらしい。

「違うんです。ナースコールが鳴ったんです。420号。誰もいないのに」

 私は半泣きだった。

「コール?」

 先生は訝しげに患者さんの一覧表を見た。コールが押されるとネームの脇のランプが点灯し、ステーション内でブザーが鳴るのだ。

「いや。コールなんて鳴っとらんけどな」

「えっ?」

(そうや。私のハンディフォンもブルッとらん)

 私はポケットの上から、携帯電話をおさえた。


「でも、本当についたんです。420号室の部屋のランプが」

 私は必死だった。

 先生は椅子から降り、ゆっくりと私の近くまで歩いてきた。

「それに、雷が鳴ったら、懐中電灯も消えちゃって……」

 そう言って懐中電灯を先生の目の前にかざした。

「点いとるよ。接触が悪かったんと違うか」

 先生の冷静な声。懐中電灯は先生の顔を照らしていた。

「それだけじゃないんです。401号室の患者さん。部屋におじいさんがおるって言うんです。誰もおらんのに。白髪のおじいさんがおるって……」


 先生は私の真ん前に来てしゃがみ込んだ。中指で眼鏡の位置を直し、レンズの奥から私の目を覗き込んだ。先生の何の感情もない瞳から、視線を外らせることができなかった。

「えっと、加山さん?」

 私の名札を読んだらしい。

「はい」

「大丈夫だから」

「な、何がですか?」

 声が震えた。

「何か起きても、別に害はないってことや」

 先生は私の背中をポンポンと優しく叩いてくれた。


 しかし最後に、低い声で、ボソッと言った。


「仕方ないか。この病棟。今、3人おるからな」

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ