日勤 〜嵐の予感〜
私、加山さき。
看護師になって4ヶ月。まだペーペーの看護師。
私のような新卒看護師にはプリセプター(実地指導者)がつき、マンツーマンで指導をしてくれる。私のプリセプターは井沢さん。27歳。独身。いつも髪もメイクもビシッと決めている。身長は165cmもあり、背筋もシャキッとしている。猫背気味で身長152cmの私。いつもノーメイクで伸ばし放題の髪は適当にまとめるだけ。
見た目は対照的な2人だが、実はゲーム好きという共通点がある。
私が勤めている若林病院。小さなこの町で、一番規模の大きな病院だ。
私は循環器内科病棟に勤務している。心臓に関連した病気を治療する病棟だ。急性期の患者さんが多く、心身共に疲れ果てることがある。
でも、今回私は、ちょっと違う意味での病院勤務の大変さを経験した。怖い思いと共に。
「……、420号室。西川昭作さん。7月12日にPCI(経皮的冠動脈形成術)です。日程が決まったので透析室への連絡お願いします。
有村洋さん。CABG(冠動脈バイパス術)目的で、今日心外(心臓血管外科)に転科(診療科が変わること)転棟(病棟を移動すること)です」
夜勤の看護師から、日勤の看護師への申し送りの最中。私は必死にメモを取っている。420号室は今日の私の受け持ち部屋であるし、西川さんは私の受け持ち患者さんなのだ。
申し送りが終わると、私は自分の受け持ち部屋の処置の準備を始めた。そしてまず、ナースステーションに一番近い420号室に向かった。
西川さんは部屋の窓から景色を眺めていた。
「おはようございます」
私が部屋に入ると、西川さんは振り返りニコッと笑ってくれた。
「ああ、おはようさん。今日は加山さんが担当なんや」
「はい。よろしくお願いします」
西川さんは杖をつきながら、ゆっくりとベッドに戻った。
西川昭作さん。72歳。しかし髪の毛は全部白髪で、顔にはしわがいっぱい刻まれている。そのせいで実年齢よりもずっと老けて見える。入院時のアナムネーぜ(病歴)を取る時、失礼ながら私は、付き添いに来た患者さんのお父さんかと思ったほどだ。
西川さんは60歳の時に脳梗塞を発症し、左半身に麻痺が残っている。それでも日常生活はほぼ自立している。またいつも奥さんが付き添いをしているため、それほど身体的な援助は必要のない患者さんだ。今日もすでに奥さんが来てくれていた。
420号室は2人部屋。私はまず西川さんに声をかけた。
「今日は入浴日ですね。午前中にお風呂、入られますか?」
「うーん。そやなぁ。今日はよしとこかな。なんか、朝から体がえらいっていうか……」
「大丈夫なんか? そういえば、顔色も悪いんと違う?」
奥さんが心配そうに顔を覗き込む。
「あの、胸が痛いとか、苦しいとかではないですか?」
「そうやない。多分、あんまり、寝られんかったからや」
西川さんはそう言って、ぎょろっとした大きな目で、何かを探すように部屋を見渡した。
「なんか、この部屋なぁ……」
しかし隣のベッドの有村さんと目があうと、気まずそうに視線を外らせた。
「いや。なんでもない。きっと緊張しとるからや。入院は何度もしとるけどな、心臓の病棟は初めてなん」
「私もそうですよ」
隣のベッドの有村さんが相槌を打った。
「私なんて、今日これから病棟を移って、いよいよ手術ですからね。昨日は全然寝られなかったです」
「でも、有村さんは手術できるんでしょう。羨ましいですよ。私の場合、無理やって言われて……。
私の狭心症も結構重症で、本当は手術したいのだそうです。
でも透析を20年以上もやっとりますから、もう血管がボロボロなんやそうです。手術してつなぐ血管がないとか、糖尿病やから、手術した後の合併症がなんだとか。面倒な体ですわ。
そんでも、カテーテルで治療してくれるんやから、先生たちに感謝や」
西川夫妻は顔を見合わせて微笑んだ。
「西川さん。じゃあ、体を拭くタオルをお持ちしますね。洗髪はどうされます?」
西川さんは髪の毛に手を通した。銀髪に近いほどの真っ白な髪だ。入院が長引いているためか、だいぶ伸びている。
「今日はやめとくわ。
明日、体調が良かったらお願いしたいんやけど。加山さん、明日も日勤かな」
「いえ。私、今日は深夜入りなんです」
「そっか。そら残念や。でも、明日の朝、また会えるんやな」
入院慣れしている西川さんは、看護師の勤務体制までわかっている。
ここでは、看護師は三交代勤務をしている。日勤、準夜、そして深夜とそれぞれ言われている。
日勤は朝から夕方までの勤務のことをいう。日勤の後、夕方から夜中までの仕事は準夜、深夜は夜中から朝までだ。
今日の私の勤務は日勤の深夜入り。日勤は5時に終わり(定時に終わることは、ほぼほぼないけど)、そのあと1回家に帰る。そしてその日の夜中にまた出勤してくる勤務だ。
ナースステーションに戻ると、 中では医師がひとり、電子カルテを見ていた。
若林先生。週1回、大学病院から来てくれるアルバイトの医師で、心臓カテーテル検査をしてくれたり、ファーストコール当直もしてくれる。どこか不思議な雰囲気を持っている先生だ。井沢さんの話では、院長先生の息子さんなのだとか。
「今日のカテ(カテーテル検査の略)の患者さんのリストは?」
穏やかな声。ちょっとドキッとした。
「あっ。すみません。リーダーさん、呼んできます」
ステーションを出ようと振り返ると、廊下を歩いてくる西川さんが見えた。オープンなナースステーションなので、廊下が一望できる。
突然西川さんがよろめいた。そして倒れそうになり、慌てて奥さんが腕を支えた。
「どうしたんですか」
私は駆け寄った。
「あ、加山さん……。 いや、洗面所に行こうかと、思ったんやけどな。なんか、胸が……」
そう言うと西川さんは胸を押さえてその場に倒れ込んだ。
「西川さん!」
私の声を聞きつけ、ステーションから若林先生が飛び出してきた。
「そこの個室が空いとるな。そこに寝かせて!
誰か、手伝って!」
突然に病棟が慌ただしくなった。
ステーションのすぐ脇の401号室のベッドに西川さんは横たわった。先輩たちはテキパキと動いた。あっという間に心電図が取られた。
「AMI(急性心筋梗塞)や。ルート確保(血管の確保。点滴)して。酸素。モニターもつけて。早く主治医の先生呼んで」
若林先生が矢継ぎ早に指示した。
しかし突然、西川さんの体から力が抜けた。
「大丈夫ですか!」
若林先生がかけた声に、西川さんは全く反応しなかった。呼吸も止まっており、ピクとも動かなくなっていた。その時、装着し終えたモニターが西川さんの心臓の波形を映し出した。
先生は心臓マッサージを始め、叫んだ。
「Vf(心室細動)や! DC!」
401号室にDCが運び込まれ、準備が整った。
若林先生は一旦、心臓マッサージを止めた。そして西川さんの骨ばった胸に2つのパドルを当てた。西川さんに触れていた人が、パッと手を離した。
“ピーーーーッ!!”
DCからエネルギーがチャージされたことを知らせる、けたたましい音が鳴り響いた。
「全員、離れたな」
先生は確認をしてからショックボタンを押した。
“ドンッ!”
西川さんの体がビクンと持ち上がった。そして数秒、全員の動きが止まり、皆が息をひそめた。沈黙の間が生じた。
「……。 だめや。戻らん」
若林先生はモニターを確認すると、再び心臓マッサージを始めた。
そこへ西川さんの主治医の三上先生が、息を切らせながら病室に入ってきた。
「先生。ありがと。代わるわ」
「はい。すみません」
若林先生が手を止めた時、モニターには真っ直ぐな直線の波形が描かれていた。
「…… アレスト(心停止)」
三上先生の声が漏れた。
三上先生から西川さんの奥さんに病状説明がされた。奥さんはこれ以上の延命処置を望まなかった。
「もう、何年も透析をして、いろんな病気をしてきました。主人は日頃から、何かあった時、延命治療はしないでほしいって言っていました」
奥さんはそう言うと、涙を流して先生にお礼を言った。
私は401号室で井沢さんの指導を受けながら、西川さんにエンゼルケア(患者さんが亡くなった後に行う処置)を施した。看護師になって初めてのケアだった。学生の時の実習以来だった。大部屋しか受け持ったことのない私は、受け持ち患者さんの死亡を経験したことがなかったのだ。
ケアが終わってナースステーションに戻ってくると、皆、日常業務に戻っていた。若林先生もすでにステーションにはいなかった。
先輩看護師たちは「若林先生と仕事できてラッキー」「やっぱ、かっこええなぁ。テキパキしてくれるし……」などと雑談している。
確かに先生はイケメンで背も高い。怒鳴ったりすることはないし、穏やかに淡々と仕事をこなす。職員の間で人気があるのもわかる。
でも、受け持ち患者さんが亡くなって間もない今、私は先輩たちのようにはしゃぐ気にはなれなかった。
その後はいつも通りに日勤業務が終わった。私は職員玄関を出た。夕暮れではあったが、まだ生暖かい。梅雨時期特有の、もやっとした空気がまとわり付いてきた。
私は近くのコンビニに寄った。夕飯と夜勤のおやつを買うためだ。今日は何かを作る体力も気力もなかった。
店内を見て回った。しかし食欲がないためか、なかなか決まらない。とりあえず夕飯は、さっぱりとした冷やしうどんにした。そして夜勤のおやつはチョコレートとゼリー。お腹が空いた時に、簡単にエネルギー補給ができるカロリーメイトを購入した。
病院のすぐ近くにある看護師寮に着いたのは、6時45分だった。
部屋の中はムンムンとしていた。私は真っ先に窓を開けて、空気を通した。
夕飯のうどんを食べ、シャワーを浴びた。
0時30分から深夜勤務が始まる。11時頃までは眠りたいと思い、ベッドの中で必死に目を閉じていた。しかし睡魔は全然やってこない。
ふと、お気に入りのゲームがイベントに入っていることを思い出した。むくっと起き上がり、ゲームを始めた。眠ることは諦めた。
11時。ゲームがひと段落した。私は出勤時間には早いが寮を出た。
ため息をつきながら空を見上げた。星は何も見えない。ぶ厚い雲に覆われている。
なぜかいやな予感が、暗雲のようにわいてくる。
雷鳴が遠くで轟いていた。