表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

ママは人魚になった

作者: 明宏訊

外に出ると、目障りなほどに白い息が口から迸った。

人を殺す前と、

そして、後では、

なんだか息の色がちがうような気がする。

それも肉親である父親を手にかけたとあっては、

灰色、それも限りなく黒に近くてもおかしくない。

しかし、夜の漆黒は少年の吐息に負けないほどに、

黒々とした禍々しさを発揮している。

冬の夜の風、

それは大量の冷気をまとった、

そんなものにまともに吹かれては、

思わず顔を背けずにはいられない。

少年は覚悟を決めて出てきたというのに、

いたずらな冬風は、

少年に振り向かせた。

そこには、

住み慣れた我が家が黒々と聳えている。

今度、ここに戻るのはいつのことになるのか?

本当にとっさのことだった。

ただ、ただ、

妹に真実を聴かせたくなかっただけだった。

そんな思いが募ったのか、いつの間にか、

気がつくと、父親を殴り飛ばしていた。

拳になんの反発もなかった。

あれほど、

この世で恐ろしいものはないと、

思っていたのになんという脆さか。

少年はそれほど力を入れた覚えはない。

いざ、父親と相対してみると、

妹に対する憐憫など何処かに消え去ってしまった。

ただ、ただ、

自分の身を守ろうとしたのである。

そういう過程があって、少年は実父に拳を向けた。

だが、それは加害者に特有の意識ではなかった。

少なくとも、攻撃しようとは思わなかった・・・はずだ。

だから、あたかもその場所に勝手に意識が宿ったかのように、

拳が勝手に動いた。

その結果、鈍い音がして父親は宙に浮いていた。

しかし確かに拳に軽い痛みが生じたので、少年自身が加害者であることは確かなようだ。


父親が宙に浮いていたのはどのくらいの時間だっただろう。

少なくとも物理的には数秒にすぎないはずだ。

しかし、

少年の目にはあたかもストップモーションのように見えた。

もっといえば静止していたとさえ感じた。

一つの都市が空に浮かんでいる。

彼にとってみればそれほど非現実的な光景だった。

父親とは彼にとってそれほど大きい存在だったのだ。

永遠が過ぎて、

意識が元に戻った。

とたんに大きな都市はこっぱみじんになった。

地面が裂けるような音がして、

妹の泣き叫ぶ声がしたと思うと、

自分が破壊したものが、

空飛ぶ巨大な都市ではなくて、

活きた有機物であるところの、

父親であることに気付いた。

彼もまた壊れることを、

少年は学んだ瞬間だった。


物質は時間をさかのぼれないが、

精神は必ずしもそういう法則に縛られることはない。

少年は、

ストップウオッチを逆に設定した。

どうしてこんなことになったのか?

幼い妹が父親にいつもの質問をした。

父親は酔っぱらってぐでんぐでんになっていた。

ちょうどそのとき、

少年はふたりがいる居間を横切るところだった。

会話を耳にした彼は足を止めた。

父親がどんな答えをするのか、それが気になったのだ。

真実は、

すくなくとも、いまは妹の前に開示されてはならない。

はたして、

少年の恐れるべき事態がその部屋で、

かつて一家団欒が毎日のように繰り返された場所で展開しようとしていた。

当時は、

都市が浮遊することはなかった。

ただ、

都市は大きな街だった。

頼りがいある岩盤であった。

それが崩れたのはいつだったのか?

再び、ストップウオッチを逆に回す。

いつのことだったのかわからない。

少年の意識がまだそれを理解するほどに育っていなかったので、

理解はままならない。

時間をさかのぼると、

純粋な情報ばかりか、

少年自身の、

理解する意思というか、能力そのものも退行してしまう。

とにもかくにも、

何かがあって。

巨大な都市は必要で、かつ不安定な浮遊をはじめた。

それからすべてがおかしくなった。

母親が人魚になったのもそれが原因だった。

すくなくとも、少年はそう理解している。

はたして、妹は父親にそのことを尋ねていた。

「どうして、ママは人魚になったの?また元に戻ってくれるの?」

それは少年が妹に開示した事実だった。

妹の年齢では、

ある日、湖に飛び込んで旅立っていった事実を理解するのは不可能だった。

母親が遺していったスーツケースも彼女には開示していない。

いすれ大きくなったらすべてを説明するつもりだった。

ある日、少年は湖に妹を連れて行った。

たまたま、とある魚が水面から飛び出して、再び着水した

そのときにみせた尾鰭が、

ふいに母親の足が変化したものに視えたことから、

ママは人魚になっただと説明した。

あのとき、少年が目撃したものとまったく同じものを、

妹もまた目にしたのか、わからない。

ただ、彼女はあるていど兄の言葉を信じたようだった。

その日から妹は魚を食べなくなったからだ。

そのうえ、

金魚を取り出して、

早く元に戻ってと叫ぶにいたっては、

少年も新しい真実を開示しなくてはならないと考えていたところだ。

しかし、

ぐでんぐでんになった父親にそれを期待するわけにはいかない。

はたして、

アルコールに思考力と自制心を完全に奪われていた父親は真実を語り始めた。

母親は他所に男を造って、そいつと湖に飛び込んだのだと、

少年は、

父親の言葉を妹がそのまま理解できると、

買い被っていた。

何をか?

もちろん、妹の思考力を、だ。

他所に男を造る、という言い方を彼女が理解できるはずがない。

だが、そのときの少年にそれを理解する能力を求めるのはまちがっているだろう。

アルコールに呑まれて自制心を失った父親こそ責められ、罰せられるべきなのだ。

だが、そのことよりも、

父親が、

少年の知らない真実を開示したことが、

彼の自制心を完全に奪ってしまったのだろう。

「その男というのはな、ママの子供なんだよ、前の男との間にできた、いうならば、おっ前のもうひとりの兄ちゃんなのさ・・・・」

自分に父親の違う兄がいるなどと、

想像したこともなかった。

確かに、彼が聴いたことも、見たこともない若い男性が、

水中から引き揚げられたスーツケースに入っていたというが、

それが兄だったなどと・・

まさか、父親が再婚だったなどと、

誰が想像できるだろうか?

事ここに至って、

少年は自分を完全に見失ってしまった。

それは巨大な都市が、

自分ごときの力で破壊できるはずがない。

幼いころ、

いまの妹くらいのころ、

巨大な都市がちゃんと地面に根をはって、

立派な岩盤だったころ、

よく遊んでもらっていたが、

いかに渾身の力を込めてぶつかっても、

ひっくり返るどころか、微動だにしなかった。

逆にいえば、それは父親に甘えていたのかもしれない。

しかし11歳の少年が父親に甘えてなにが悪いというのか?

気が付くと、巨大浮遊都市は粉砕していた。

ガラスの窓をつきやぶって、真っ赤になっていた。

都市なのに赤い血が流れていたとは、

彼の、

完全に想定外だった。

少年は、

まったく何も考えなくてもするべきことがわかった。

非常時にあって余計に冷静になれる。

それは軍人にこそ似つかわしい習性だったかもしれない。

少年は喉の辺りに、

微小の針が何万本も刺さったような感覚を覚えた。

それが口渇感だと気付くのにかなりの時間が必要だった。

その主要な理由は、

ちょうどある対象への憐憫を思い出したことにある。

妹にこの惨状を見せるわけにはいかない。

泣きじゃくる彼女を乱暴に引き寄せると、

胸の中に埋めるような勢いで抱きしめた。

もしかしたら、少年自身が彼女の泣き声を聴きたくなかったからかもしれない。

彼女はひたすらに人魚になった母親を呼びつつ、泣き叫んでいた。

いっそのこと彼女を抱いたまま、母親たちが、ここで複数形を使わねばならないのはしゃくだが、入水した場所に飛び込もうかと思い悩んだ。

父親はぴくりとも動かない。

少年はすでにそちらに興味を失っていた。

すでに巨大浮遊都市が破壊されたことは、

彼にとって既定事実だったからだ。

いまは、警察でも、父親でもない、巨大な闇としか言いようのない何かから逃げなければならないと感じた。

しかし、警察という単語が脳裏を過ったということは、少年のなかに醜い自己保存の本能が働いたということか。

それが間違っていることは、今になってむくりと動き始めたものに対して、何か冷たくて重いものを思いっきり投げつけたことになる。

触れた感覚から色まではわからなかったが、

材質ははっきりとわかった。

鉄だ。

その物体が父親の脳天に命中し、

それを粉砕したとき、

色は赤で、

鉄からなる、

消火器であることがわかった。

いくら衝撃がものすごかったとはいえ、

まさか、鉄が砕けるはずもなく、

きっと、消火栓が壊れでもしたのだろう。

まるで数十匹の蛇がいっせいに現れたかのような、

シャーという音とともに、

部屋中に充満した白い大気は、

少年の頭の中をも真っ白にした。

少年に自己保身の本能などなかった、もうひとつの理由がある。

彼は自分の胸の中に溶けて行こうとする妹に言った。

彼女が兄の言葉を理解できないことは、認識しつつ・・・、

「この世界のすべての水はつながっているんだよ」

そう言い終わると、

やおら、

妹の細い首に手を回すと、彼女が苦しまないようにいっきに締め上げた。

破壊され、堕ちつつある巨大都市から助かるのは自分だけだった。

まるで、自分が体験しつつある現実が、何処かの世界で物語作家が描いている話であるかのように、自分のためだけにナレーションを入れる。

まだ消火器は白い大気を噴出しつつある。

彼は単純にそれがいやになったが、まだやるべきことが残っている。

巨大浮遊都市が完全に破壊されるまでにすることがあった。

ぐたりとなって身動きすらしなくなった妹を風呂に入れなければならない。

父親が入浴する時間が近いので、きっと埋まっていることだろう。

その水はきっと母親が棲んでいる場所につながっている。

「ママが待っているよ、きっと、お前にも尾びれができるだろう。もう足はなくなっちゃうね」

少年は言葉通りに実行すると、

破壊されつつある巨大浮遊都市から、妹を置いて脱出することにした。

卑怯者でいい。

スーツケースに逃げ込んだ、顔も見たことのない兄や、自分たちよりもいくらか先に生まれからといって、全寮制の学校に逃げ込んだ姉に比較して、どのくらい卑怯者だというのだ?

だからこそ冤罪で卑怯者になってやると生き込んだ。

外に出ると、それが吐息と思えないくらいに白かった。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ