三十六話「来客は計画的に」
「・・・・・」
沈黙を守ったまま先に立ち上がったのは恭一だった。
普段から来客は恭一が行うと自然と決まってはいたし、そもそもこの時間帯の来訪者など見る間でもない事――言うまでもなく和佐と舞の二人のどちらか、もしくは両方――だからどちらが出ようと然程違いはない。
「出て来る」
「ぁ、うん」
まだ微かに心配そうな瞳を向けてくる萌を後目に恭一は玄関へと向かおうとした。いつもならそのまま玄関へ向かう恭一だったのだが、今日は違っていた。
「・・・待って」
小さな呟きに恭一は足を止めると振り返った。
ただの呟きだったら態々立ち止まる事もなかったのかもしれない。だがその呟きの中に何かしらの意思のようなものを感じた、だからこそ恭一は立ち止まっていた。
「何だ」
言い淀むように少しの間を置いて。
「わたし、が出るよ。お兄ちゃんは座って待っていて?」
恭一と視線を合わせないようにしながら萌が立ち上がる。そして恭一の見つめる視線に、言い訳をするようにやや慌てて口を開いた。
「ほら、お兄ちゃん何だか顔色が悪いみたいだから。うん、少しでも休んでいて欲しいの」
「そうか」
「う、うん」
明らかに今思いついたような言い訳。それにどうせ既に一度立ってしまったのだから態々そんな事をするなど無駄な事でしかないのに。
「・・・分かった」
どうしても否定は浮かばなかった。
一見不安そうに見えるだけの瞳に、何故か意識の大半を奪われるような錯覚に襲われる。同時に胸の悼みにも今は痛覚をなくしてしまったように感じない。
途中まで来た道を引き返し、恭一は椅子に座りなおした。それを見て幾分安心したように、今度は萌が玄関へと向かっていく。
玄関へ消えていった背中を見送って、ただずっとその誰も居ない場所を見詰め続けていた。
◆ ◆ ◆ ◇ ◇
遅い。
そう思えるほどに時間が経ったかどうかなど関係なかった。そう感じられたという事が重要であるだけ。
ただ一人での緩慢な朝食もつい先ほど食べ終えてしまった。それでも萌はまだ戻ってこない。一体来客を迎えに行くだけでどれだけ時間が掛かっているというのか。
僅かに、玄関に向かっていった時の萌の瞳が脳裏に浮かんだ。
「・・・・」
あの瞳を恭一はいつか見た事がある気がした。が、どうしてもいつだったかを思い出すことが出来ない。
それは思い出にするまでもないという事か、それともその時思い出に出来ない状況に自分があったからか。
不意に、何の前触れもなく、思い浮かんだ。
あれは昔、ただの一度だけ付き合ったままごとで『わたしがお嫁さんの――
「よっ、恭一。相も変わらず無愛想な顔だな」
その声に恭一は顔を向けた。
和佐が片手を上げて居間へと入ってくる。どうやら他人の接近に気付かないほど思考にのめり込んでいたらしい。
続いて萌が出て行ったときとは明らかに違う、いつもと同じ笑顔で入ってきた。
「ごめんね、お兄ちゃん。待たせちゃって・・・あ、もう食べちゃったんだね。お兄ちゃんを待たせてなくてよかったよ」
と、だが何故か途中で不機嫌そうに頬を膨らませた。
「でも、待っててくれてもよかったに・・・」
少し寂しそうに、決して本気ではない瞳で恭一を見つめながら萌は再び椅子へと腰を下ろした。
やっと戻ってきた萌の姿を見て、頭に浮かびかけていたそれも自然と再び記憶の淵へと沈んでいく。
胸に感じていた、いなかったとも言える虚構の痛みも同時に感じなくなっていて、目の前にあった空の容器が視界に映り恭一は思い出したようにそれを持つと立ち上がった。
食器は軽く水で洗い流してから流し場の水へとつけておく。これは後で萌が纏めて洗う為である。
習慣的にその作業をしながら、恭一の脳裏には先ほどの萌の姿が思い浮かんでいた。
ほんの少しだけ恨めしそうな、ただそれだけの様子。そのいつもどおりの萌に我知らず、小さく安堵の息が漏れる。恭一は気づかない、感知出来ない。
居間へと引き返すと丁度食べ終わったらしい萌が食器を手に椅子から立ち上がるところだった。
戻ってきた恭一を見て――もう先ほどの恨めしさ、寂しさはない――笑顔を浮かべる。
「あ、お兄ちゃん。いつもよりちょっと遅くなっちゃったし、先に学校に行く準備していてくれるかな?」
そう言って萌と、返事を返す事もなくすれ違う。それから恭一は萌に言われたとおりに鞄を取りに自分の部屋へと向かった。その際、勝手にテレビを見ていた和佐の存在は完全無視。
「あ、そだ。恭一よ」
勿論幻聴なども聞こえてはいない。構わず居間を出て階段へと向かう。
「俺に感謝とけよな~」
背中に受けた訳の分からない言葉にも応える事もなく、恭一は階段を上り廊下を進んだ。
短い廊下の途中で一応僅かだけ和佐の言葉の意味を考えてみたが思い浮かぶ事柄は一つもなく、だからその時点で恭一は完全にその幻聴を頭の中から消した。
部屋へと入り、ベッドの側においてある鞄を手に取り廊下へと戻る。いつもは此処で一階へと戻るのだが、それから当然のように隣の部屋へと歩を進める。
鍵などというものも当然なく、恭一は隣の――萌の部屋へと入った。
目的のものは捜すまでもなく見つかった。いつもの場所、勉強机の上に置かれていた鞄を手にとってから廊下へ、そして今度こそ階段を下りる。
二つの鞄を手に居間へと戻ると丁度萌が台所から姿を現した。
「あ、お兄ちゃん?」
食器のなくなった卓の上へと二つの鞄を置いて、恭一は改めて萌へと向き直る。萌の視線はちらちらとだが卓の上、二つの鞄へと向けられている。それに気がついた。
「何だ」
「その鞄・・・もしかしなくてもわたしの?」
「そうだ」
答えると萌は僅かに戸惑ったような表情を、それから困ったように笑みを浮かべた。
「あ、うん。お兄ちゃん、態々ごめんね」
何がごめん、なのかは分からないが。
「構わない」
すると益々困ったように、だがそれ以上に嬉しそうに苦笑が眼前に浮かぶ。
「でも、ね。今日はわたし鞄だけじゃなくて、まだ持っていくものがあるの」
その意味を考えて少しの沈黙。口を開いた。
「そうか」
「うん。ごめんね、折角のお兄ちゃんの好意なのに」
「先ほど構わない、と言った」
「うん、そうだったね。でも・・・ありがと」
最後に曇りない満面の笑みを恭一へと向けてから、今度は萌が居間を出て行った。恭一と違いこちらは和佐の存在も忘れなかったようで、出掛けに「和ちゃん、もうちょっと待っててね」と言っていた。
軽くスキップしているような機嫌の良さそうな足取りに思えた萌の姿を態々見送ってから、恭一は再び居間を出た。そして洗面所へと向かう。
洗面所でもう一度歯を磨いて口内をゆすぎ、再び居間へと戻った。
「・・・・・」
目に付いたのは実に暇そうな和佐の姿しかなかった。ちなみにテレビはもう飽きたのか電源が切られている。
素通りして椅子に座ろうとしたところで、気付かれた。
「お、恭一。支度終わったか」
振り返った和佐が何かを言ってはいたが、気にしない。それにそれ以上の言葉もなかった。
恭一は瞳を閉じて、ゆっくりと時が漂うのを待つ。
◆ ◇ ◇ ◇ ◇
居間へと向かってくる微かな足音を耳にして、恭一は瞳を開いた。
壁に掛けてある時計を見ると十分ほど時間が進んでいる。テレビの前で和佐が天気予報を見ていたが、無視。
卓の上の鞄を両方とも手にとって、立ち上がる。
「ん?」
こちらの様子に気付いたようで和佐がテレビを切ると同じようにして鞄を手に立ち上がるのが恭一の視界のほんの端に映った。
鞄を手に玄関へ、そして屈んで靴を履くというところで丁度萌が洗面所から姿を見せた。
「あ、お兄ちゃん。後ちょっとだけまって~」
と、駆け足で恭一に駆け寄ってくる――事はせずに何故かそのまま居間へと入っていった。
だがそれも数秒で、片肩にはバック、両手に花柄と水玉の包みを二つ持って出てくる。
靴を履いて立ち上がった所で、萌が恭一に追いついた。
恭一が振り返ったのと同時に萌から手にあった包み――花柄の方――が差し出される。
「もう・・・はい、お兄ちゃん。またお弁当忘れてたよ」
「ああ」
頷いて、包みを受け取る。
ふと、気付いたように萌の視線が恭一の隣へと移った。それから少しだけ苦笑が浮かぶ。
「和ちゃん、前以って言ってくれるんなら和ちゃんの分のお弁当も用意するよ?」
その言葉に和佐は寄りかかっていた下駄箱から飛び跳ねる勢いで身を起こし、酷く興奮した様子で、
「え!? それほん・・」
丁度取っ手に手を伸ばしていた恭一は感じた気配に素早くその場から身を引いた。次の瞬間、ドアの前にいた和佐を目掛けるようにドアが強襲する。
「とぶっ!!」
言葉も途中にドアと壁に挟まれて沈黙する和佐。
開いたドアからは満面の笑みで舞が姿を現した。勿論着ているのは制服。
都合よく開いたドアに恭一は何事も無いかのように舞の隣を通って外へと出る。間際に舞に軽く会釈されたのを視線だけで返す。
「おはよう、萌ちゃん。今日もまた一段と可愛いわ」
「え、あ・・ありがとう、うん。それとおはよう、舞ちゃん・・・舞ちゃん?」
萌の向かう視線に気付いたのか実に不思議そうに、舞が萌の視線を追っていく。そして辿り着いた先で心底呆れた表情を浮かべた。
「・・・和、そんな所で一体何しているの? もしかして覗きの練習?」
口から出たのはどれも馬鹿にするようなものばかりで、それはまさか自分が原因だなどという事実を知っていて尚微塵も臆していない態度だった。
和佐が怒り心頭というようにドアを跳ね上げる。そのドアは今度は丁度閉まる場所にいた舞へと向かい、舞はひょいとその場を退いたので大きな音を立ててドアは再び閉まった。
「危ないわね、もし私に当たったらどうする気よ? 責任は取らなくていいから償いなさいよね」
「てっ・・・めぇ、それは俺の台詞だ!!」
「は? 何を言っているのか理解しないけど、朝から煩いわよ。黙れ、和」
「・・・・朝からいい度胸だな、舞。俺に喧嘩を売って」
ふるふると全身を震わせていた和佐だったが眼前を横切って少し慌てた様子で玄関を出て行った萌に言葉は止まっていた。
「少し待ってよ、お兄ちゃん~」
二人の、いや和佐の怒りがまるで目に入っていない様子の萌を横目に、寒々とした空気が漂う。
「・・・ふっ」
まるで止めとばかりに勝ち誇る笑みを、しかも流し目で和佐へと向けてから舞は悠然とした足取りで和佐の視界を横切っていく。
「萌ちゃん、待ってよ~」
そして和佐を横切るなり舞は極甘の口調、実に見事な少女走りで、萌の後ろ姿を追って出て行った。
残ったのは和佐一人。
この場合、他人の家なのに信用されているととるべきか、それとも存在を気にされていないととるべきか。
肌が白くなるほどに強く握りこぶしを作りながら、鬼のような形相の和佐はしばらくの間気を落ち着かせるようにその場で深く息を吸っては吐き出す事を繰り返した。
「そう・・・だよな。女、相手・・・だぞ? マジに、なる・・・かって・・・・・」
が、残念な事かそれは労をなさなかった。次に外から耳に届いた言葉が呆気なく自制を崩れさせる。
「あれ、お兄ちゃんがいない・・・・・・って、舞ちゃん、和ちゃんはどうしたの?」
「ああ、あれ。何か人生に疑問を感じたから一人寂しく残って人生の儚さを考える事にしたらしいわよ。和の事は気にせずに、だから今日は二人っきりで登校しましょう?」
「むぅ、でもお兄ちゃんは・・・」
以上。
和佐の頭の中限定で何かの緒が切れる音が響く。
「舞、てめぇ・・・!」
もう、全力で駆け出していく。
誰もいなくなって、開け放たれた玄関が家の中へと風を徹していく。そうしてしばらくの間家の中の空気をかき回してから、
「・・・・・・・・」
玄関の脇から出て来ると、恭一は開けっ放しの玄関を閉じてから確かに鍵を掛けた。そして何事もない様子で学校への路を一人で歩いていく。
いつもとは違う静かな朝。
ただ当然のように三十秒としないうちに萌が恭一を発見、出戻りで腕にしがみついてきて、後はいつもと同じような騒がしいだけの登校になったのはいうまでもない事。
七宝殿~居間で興っている事?~
三十六計「計画を持って」
萌 : うぅ、お兄ちゃんに部屋見られた
真衣 : 何を今更……それに二十三話辺りにも恭一さんは入っていたじゃないですか
萌 : 風邪のときは頭がぼっとしてたからいいの、でも今日は……
真衣 : …全く見られて困るものなんて何かあるんですか?
萌 : そ、それは…
真衣 : まあ、萌さんの事ですから精々で恭一さんの写真でも飾っているってとこですか
萌 : み、見たの!?
真衣 : ………いや、まあ、想像の範囲内ですけどね、で、一体どんな写真なんですか?
萌 : は、嵌められた、よ
真衣 : 何変な事を言っているんですか、自分から喋ったんでしょ?
萌 : うぅぅ…
真衣 : はぁ、いいですいいです、今の事は忘れますから、それで機嫌は直してくださいよ
萌 : ……
真衣 : ほ~ら、飴もありますよ、しかも渦巻き型です
萌 : わ、わたし子供じゃないもん
真衣 : まあ、飴は冗談ですから……って、やっぱりいります?
萌 : ………うん
真衣 : ま、いいですよ、それよりもそろそろ今回の説明に入りましょうか
萌 : ぺろ…うん、そうだね、ぺろぺろ……
真衣 : 今回の話は、一言で言うとタイミング、ですかね
萌 : ? どういうこと?
真衣 : まあ、何事にもタイミングは重要、という事ですよ
萌 : よく、分からないんだけど……
真衣 : 愚か者は馬鹿を見る、という事で
萌 : ますます分からないよ
真衣 : う~ん、それなら……
萌 : うん
真衣 : 和佐さんは被害者だった、という事でしめましょう
萌 : ? 和ちゃんって被害者…なの?
真衣 : そうですよ、始まってからずっと、恐らくこれから先もずっと被害者のままですね
萌 : よくわらからないけど、和ちゃんって一体何の被害者なの?
真衣 : ………まあ、萌さんの口からそれが出ている限り変わることはなさそうですね
萌 : 何だか馬鹿にされている気がしてわたし、納得がいかないんだけど…?
真衣 : ま、今回はもう時間もありませんし、それはおいおいという事で、さ、さんはいっ!
萌&真 : ではでは、次回三十七話で会いましょうね~