間章「蠢く欠片」
日が失せて熱だけが地上に残り、本来は光が隠れ闇に覆われる時刻。
だが少なくともこの国、場所ではそれも今は昔の事。逆に闇は所々に点在する灯火によって消されていた。明るさだけ見ればやや昼に見劣りするも、幾許か先が見通せるだけの光は常に供給されている。
闇の排除――これこそまさに人間の能力の結晶とも呼べるものだろう。
昼行性の生物は闇に恐怖する。その内に潜む所在無き狩人に対して恐れ戦くのである。それが僅かといえど薄れるという事、決して小さな安堵ではない。
最も、逆に夜行性の生物は日に翳る訳だが。
点在する結晶、それが今は道すがら消えていた。が、しばらくするとまた灯る。しかも街灯だけに選らず、周囲の家々も同様に闇に包まれては灯っていた。
局地停電。しかも動いていると来る。
生憎と都合良く、誰もが寝静まり周囲に人影は無い。ただ仮にこの場に誰か居れば先ずこの光景に違和感を覚えていただろう。いや、驚くのを由とするのなら、この場合誰もいないからこそのこの異常といった方がいいのかもしれない。何はともあれ――
この光景が奇妙な事に変わりはない。
闇が闊歩する――まさにその言葉が一番身に填まるだろうか。その速度は丁度成人がゆっくりと歩けばこの程度、というものだった。
闇は星明りさえ拒み遮り、仮に中に誰かいたとしてもそれを確認する事は困難、もしくは不可能に近い事だった。
もし中にものがいてそれを確認できるとして。そう、丁度その何かが音を上げさえすれば、
「おや、これは・・・?」
それは低く、だが鮮明な男の声だった。そして無情の声。例え言葉の主が内に何を想おうと伝わり難い。だが言葉から何かを見つけた事だけは分かる。尤も闇の中どのような手段で彼――仮にそう置く――が見つけたのかは甚だ疑問ではあるが。
ただはっきりとした事が一つ、あった。
声と同時に闇がその場に留まった事。それが指すのは詰る所、本当に闇は歩いていたという事になる。そしてその中にいる何かが止まったから闇も止まった。一番単純で、一番馬鹿馬鹿しい考えだろう。
だが仮に全てが本当だとして、それは明らかに人智の域を越えていた。
「ほぅ、また珍しいものが、っ」
闇のざわめきに遅れて何かの空気を切る音。
「危ないですね。まさか屑の分際で此処まで残っているとは・・・」
また感情の篭らない、高揚すらない声が場に響いて、不意にぷつりと音が途切れた。
周囲の空気の流れが変わる。ただ光を喰らっていたはずの闇が今は何かを必死で押し留めるように、堪えていた。
それは理由もなしに伝わり感じるもの。
同時に、それは現実としても空気を伝わるものとして周囲に漏れ渡った。人は普通それを笑いと呼ぶ。ただ、今漏れるこれが果たして笑いと呼べるものかどうかは定かではないが。
「く、く、く。こうでなくては、いけない。それでこそ、というものですよ」
初めて声に感情が篭る。
だが単なる悦びでしかないはずのそれが、同時に取巻く闇よりも深い混沌を見出させる。
「あれへの伝は無駄になったが、まあいいでしょう。今はこれを餌にして彼を・・・・・・ふふふ、前回のものとは違い愉しめそうですね」
渡り声は小さく微かに響き、呼応するように主を取り囲む闇が一斉に音のない歓喜を叫んだ。
闇が蠢く。
別に闇の蠢く様が見えるわけでもないのに、それはそう思わせる。仮に効果音でもあればさぞや不気味だろうが、生憎とそんなものあるはずもなく取巻く空気は震える事無くただに無音。
蠢く闇は何かに我先にと喰らいついていた。それが何に、なのかは闇に包まれたまま分からない。ただ一ついえる事、確実に闇は何かを喰らっている。
静かな世界の中、動きはやがて緩慢になり、元あったように全てを吸込むだけの闇へと静かに留まった。
それは何かが完全に喰われたという事か。
「さあ、お前は誰だ?」
闇の主の言葉は一体何に対して言っているのか。声の掛ける問いに、闇は同じく沈黙で応えるのみ。
だがそれでも、次に返した闇の主の言葉は嬉しそうなものだった。
「・・・そう来るか。いや、それも又面白い。ならば後は、期が熟すのを待つばかりという事・・・になりますね」
再び、何事も無かったかのように闇が動き出す。途行く光を喰らいつつの侵攻。光は闇に縋る事を許されない。
そして闇は、留まる事無く闊歩しその場から去っていった。
「・・・・・・・」
闇の去った後、闇の闊歩が現実である事を示すように僅かな闇がその場に残っていた。
在る違和に気付くものは誰もない。そもそもこの場には誰もいない。
身動ぎするように蠢いた闇は次第に景色に溶け込み、薄らいでいく。そして一秒と待たずに元の風景への帰還を果たしていた。
丁度それと同時に誰もいなかったこの途へと人影が現れた。その人影は闇が蠢いていた場所で僅かに立ち止まり、次に消えた小さな闇があった場所へと視線を向ける。
「発見は思うより早かったですね。しかしこの空気・・・・・・嫌な臭いが混じっています。もう、動きますか?」
それはただの独り言。
人影、一人の少女は遣る瀬無さに首を振り、歩を再開した。
ただ最後に一度、その場に透明な風が吹き抜ける。