在りし日のいつか~肉まん~
見た目は少年よりも一回りほど上なくらい。歳はおそらく16・7といったところだろう。
その幼さがまだ微かに残っている丁度少女と女性の間ほどの彼女、その双方の瞳がじっと少年のことを見詰める。
「何だっていいだろ・・・」
向かってくるまっすぐな瞳に心なし圧されながら少年は呟いてからバツが悪そうに視線をほんの少しだけそらした。その様子を見て取って女性の方はあきれた顔をして明らかに肩をすかした。しかしそれでもその場から一向に離れようとする気配は無く、むしろそのまま居座ろうとする気配さえ感じられた。
互いの言葉は発せられることは無く、沈黙が、雨を弾く音だけがやたら大きくと聞こえてくるだけ。
「な、なんだよ・・・・」
沈黙の中、物言わぬ瞳に圧されてついに耐え切れなくなったのか少年の方が先に根を上げた。しかしそれでも女性の瞳は何も言わずに少年の方を向いているだけ、それに変わりは無かった。
「ふ~ん」
しばらくしてから何かに気づいたような声が女性の口から漏れた。少年の顔が再び彼女へと向く。
「もしかして・・・君ってお馬鹿さん?」
目が合った瞬間、何の淀みも無く言葉が発せられた。一間呆けたように置いてから、少年がそれに対して何か反論をしようとするがそれも身体が固まっていてなかなか思うとおりに動かなかった。
何も反論してこない少年を見て取って女性の顔に意地の悪そうな笑みが浮かぶ。
「だって、こんな雨の中で傘も差さずに居るなんて馬鹿か・・・そうじゃなかったらよっぽど雨に打たれるのが好きなのね、君?」
少年の身体の事、今考えていることすべてを見通したかのような口調で言ってくる彼女。それにもやはり少年は何も言うことができなかった。反論をしたくても言葉が思い浮かばない。それに有無を言わせない雰囲気が彼女の周りにはあった。
何も言ってこない少年の事をもう一度意地悪げな笑みで見て取ってから、女性はその目の前で湯気の上がっている肉まんをさもおいしそうに一口頬張った。
「あー、おいし。こういう時はやっぱほかほかの肉まんね。君もそう思うでしょ、ん?」
彼女の顔に満面の、意地の悪さは消えてそれこそ本当の笑顔だけが広がる。
漂ってきている香りとおいしそうにそれを頬張っている女性、それを見て少年も思わず唾を飲んだ。それから思い出す、ずっとこの場所に居たために夕食をまだ食べていない事を。育ち盛りのこの時期、たかが一食と侮る無かれ、である。
しかしそこで気を取り直して、その誘惑に負けないために少年は再び顔を背けた。しかし少年の意志に反してその瞬間に少年のお腹がくぅ~、というかわいい音を立てて空腹を訴えた。
「な、なんだよ・・・」
恥ずかしさのあまり相手の反応よりも先に言葉が出る。
きっと、絶対に笑っているんだ、そうに決まっている。そんな自己疑心がわいて出てくる。
ちょっと顔を上げて確かめればいいだけのもののそれを行うだけの勇気は少年には無かった。
だからその様子を見て取った女性の顔に今までとは違った本当の意味での微笑みが浮かんだのを少年は見られなかった。
「別に、何でもないよ」
一言だけ。それは違いないし、それがなんら変なわけでもない。
それでもどこか今までとは違うそのどこか冷めたような口調に少年は変な気持ちを感じて女性の方へと顔を上げた。
「・・ん、んぐ、むん~」
上げた瞬間、半ば開いていた少年の口の中に強制的に何かが詰め込また。身体が強張り思わずそれを噛み締めて体が口の中に急いで空気を供給しようとする。しかし驚いている少年にお構いなしにその詰め込まれる圧力はさらに力を増した。女性の様子を伺う余裕などもちろんない。
少年の口の中は噛んで破れた皮の中から身があふれ出てきていた。口いっぱいに熱が広がる。
「んふ、んふひ、んふんふ・・・」
必死に抗議を試みてみたがそれでもやはり力は弱まることなくさらに強くなったように感じられた。
やむえず口の中にある熱い物体を飲み込んだ。それでもすぐ次に新しいものが口の中へと圧し入れられる。
次から次へとくるそれを少年は本当に死に物狂いで飲み込んでいった。熱さと呼吸困難、これほどまでに死というものを少年が感じた事は今までに一度も無いことだった。実際、それほど苦しかったし、状況は拙かった。
ようやく圧し付けられたものすべてを飲み込み、それを行っていた彼女に文句をつける。
「いきなり何・・・」
言いかけて言葉がとまった。喉にあった熱さが引いたと同時に口の中に甘い感じが広がりなんともいえない不満感が急に湧き上がってきた。
「ど、美味しいでしょ?」
聞こえて、女性の方を見てからそこで初めて今自分が何を食べたのかを少年は知った。
肉まん。
いつの間にか同じ視線の高さにあった彼女姿、その手にあったものがなくなって、今まさに新しいひとつを抱えた紙袋の中から取り出そうとする最中だったのだ。
何もいえなくなった少年を尻目にして手に持った肉まんを再び頬張ろうとする。しかしその手はふと途中で止まった。
「何、一個じゃ足りない?」
その言葉に少年は初めてじっと彼女を見詰めていた事に気がついて慌てて目をそらした。
「べっ、別に・・・・」
言葉が思わずそっけなくなって、言ってから何故だか胸の中に後悔の念が広がっていく。
沈黙の後、気持ちがついにいっぱいになり少年は窺うようにして女性の方へと視線を向けた。
「!」
じっと見つめていた瞳と目が合い、今度は勢いよくそれを逸らす。逸らしてから、先ほどと同じ後悔の念のようなものが漂った。
と、聞こえていた音が近づく。同時に今までかかっていた寒さと水滴が弱まった。
少年は思わず顔を上に上げて見ていた。
見上げた上にはいつの間にか、灰黒い空と冷たい雨ではなくて女性の差していた傘の色、水色の景色が広がっていた。
「ねえ、君?」
「なん・・・んっ!」
かかってきた声に再び女性の方を向き応えようとして、開きかけた口の中にまた何かが詰め込まれて半ば強制的に口が開いた。
一瞬驚きはしたものの二度目という事もあって少年の驚きはさほど長いものではなかった。それに今度は先ほどと違い口の中にあるものが何なのかが判っている。
もちろん肉まん。
圧し込まれはしたものの、今度は落ち着きをもって自分の速度でそれを口の中に通して平らげていく。外から伝わってくる圧力も口を閉じていれば別に物は中までは入って来ないのだ。
今度は落ち着いて食べたために、満足感と快感をはっきりと覚えられた。口の中に広がるほのかな熱さと甘さはその残り香である。
「ん~?」
何か唸りながら少年の目線の高さに合わさるように腰を下ろしてその場にかがむ。
今までで一番間近に迫ったその瞳に、しかし今度は気圧されるようなことは不思議と無かった。代わりにまるで心の中を覗き込まれているかのような不快感に襲われる。
「なん・・・・」
文句を言いかけて、その言葉はまたも途中で止まっていた。
不思議そうに見上げる少年をよそに女性はその場から立つと羽織っていた上着を一枚だけ脱いだ。
行動の真意が分からずにそれを見ていただけだった少年だが、女性はそれを気にせずにもう一度屈んで同じ視線の高さになると、手に持っていた上着をそのまま少年へと被せた。
降ってきた服に顔を覆われて沸いてきた不安感に急いで隙間から顔を覗かせて目の前の女性の事を窺い見る。
「はい、これ上げる」
更に座っている少年の膝の上に持っていた紙袋を乗せるともう片手にある傘を身体とブランコに立てかけるようにして置いた。
何をされているのか少年が理解出来ず呆気にとられている間に女性はその場からさっと身体を引くと自ら傘の外に出てその身体を雨の下に晒した。
「あ~あ、これじゃ私の方が雨に打たれるのが好きなお馬鹿さんになっちゃったか・・・・・」
空に顔を向けて降ってくる雨に濡れながらしみじみとそう言う彼女に少年は少し前の言葉を思い出した。
――こんな雨の中で傘も差さずに居るなんて馬鹿か・・・そうじゃなかったらよっぽど雨に打たれるのが好きなのね
同時にどうしてこの人はこんな行動を取っているのかが疑念に思えてきた。そしてその想いは言葉になる。
「これ・・・・」
「ん?」
小さな呟きに女性が空を見上げるのを止め少年の方を、こちらも劣らず不思議そうな表情で見返した。
「これは、一体なんのつもりだよ・・」
俯きながら言葉を漏らす少年に、しかし女性の方はそれを聞くと打って変わってあっけらかんとしたものだった。仕舞いには笑い声まで上げる始末。
「あははっ。なんだ、自棄に深刻な口調だと思ったらそんな事?」
その態度に思わずかっとなり少年は膝の上に置かれたものも忘れて立ち上がりかけた。
「こら」
しかしそれは嗜めるような声と、頭を押さえつける一本の手によって阻まれた。
「今立ち上がろうとしたでしょ?」
少年の頭の上に手を置いて勝ち誇ったような笑みを浮かべる。
「駄目だよ。せっかく肉まんと傘あげたんだから、また濡れたら私のした事が無駄になるでしょ?」
立ち上がろうにも押さえつける力が強くて立ち上がることもできそうに無い。何度か試してみてその事に気づいた少年は立ち上がる事はひとまず諦めた。
替わりに、湧き上がってきた疑問をそのままぶつける。
「どうしてこんな事するんだよ・・・・・・」
その言葉にまたも女性は驚いたような不思議な表情が一度浮かんだ。
もう立ち上がるのを諦めたと悟ったのか女性は少年の頭から押さえつけていた手を離すと雨の下に出て、指を一本口元にもっていくと再び空へと視線を上げた。
「そうね、一体どうしてかな? う~ん、考えてみると意外と分からないものね・・・・・」
聞かれた自分の事なのに空を見上げながら女性は不思議そうに呟きを漏らす。
少年の耳にも当然その言葉は入ってきており、目の前の女性に対する疑心が一層に強いものへとなった。一言に言えば「何だ、この変な姉ちゃんは?」と思っているのである。
「ごめん、やっぱり分からない」
何故だか照れたような笑みを浮かべて再び少年へと顔を向ける。
「ま、多分単に私がやりたかったからそうしたってだけ。理由なんてその後についてくるものよ、きっと・・・・・・て、どうかした?私の顔に何かついてる?」
不思議そうな女性の言葉でようやく少年は我に返った。それと同時に初めて気がつく、彼女に見惚れていた事に。
「別に。雨が付いてるだけだよ」
どうしてだか分からない決して不快感ではない不思議な気持ちが湧き上がってくるのを抑えきれずに、少年はそっけない態度で顔をそむけた。それが照れというものだという事を少年はまだ知らない。
それをやや不思議そうな表情で見つつも女性はそれ以上言ってくることは無くひとまずは納得したようだった。ただ覗き込むように少年の事をじっと見つめており、その視線に気づいている少年は気まずくて視線を戻すに戻せないでいた。
「おっと・・・」
不思議な言葉が聞こえて少年は気まずかったことも忘れて顔を上げると女性の方を見上げた。
不思議そうに見上げてくる視線に気が付いた女性が見上げていた空から目を離して少年の方へと視線を下ろす。視線が互いに合わさってから、女性は再び微笑を浮かべた。
「うん。君、私は濡れちゃうからもう帰るけど、君も風引かないように気をつけるのよ?」
笑顔でそういわれて、突然に少年の胸に焦燥感が浮かんできた。そんな少年にお構いなしに、じゃあね、と一言残すと女性は軽快に走って遠ざかっていく。その際にきゃ~、や濡れる濡れる~、などと笑いながら叫んでいたのが少年には一番印象に残ったりもした。
声をかけなければ、という突拍子も無い考えが少年の頭には浮かんできたがそれを実行しようとしても喉が詰まっているかのように一言も発する事が出来ない。そのまま彼女の姿がその視界の内から遠ざかって、消えた。
しばらくの間じっとその場を動かなかった少年だが、ぐぅという腹の虫の音と下から漂ってくる魅惑の香りに膝上にある袋の中へと視線を移して手を突っ込んだ。
袋の中から肉まんをひとつ取り、今度は自分の手で口の中に頬張る。口内に熱が広がりそれが冷えた少年の身体全身を温める。
ほくほくと食べながら、これを食べ終わったら家に帰ろう、と少年は考えていた。
食べた肉まんの味は温かくて、でも何故だか変な味がした。