二十九話「その意味さえ知らぬままに」
最早此処に居る意味は無く、一室を後に恭一は真っ直ぐに玄関口へと向かっていた。
玄関について、靴を履いている最中に和佐が姿を現した。
「よ、恭一・・・って、随分とやられたみたいだな」
一瞥くれるだけで、呆れたように肩を空かす。
靴を履き終えて、恭一は立ち上がった。
「もう帰るのか?」
「う、うん。和ちゃん、またね」
恭一は一人で先に家を出る。後ろで萌と和佐の問答が少々あったようだが恭一が気にするような事ではなかった。
駆け足で追いついてきた萌が再び恭一の腕にしがみつく。
腕に張り付かれると非常に歩きづらいのだが、それでも恭一が振り払う事はなかった。こんなことで喜びを得られるのなら、気にしはしない。
「ね、お兄ちゃん?」
「何だ」
「師匠の言った事、気にしてる?」
「している」
「・・・そう」
僅かに俯いた萌の表情は如何だったのか。僅かに腕に回った力が込められた。恭一はただ前を向き歩く。今気にする事は何もない、はずだから。
「お兄ちゃん」
「何だ」
「お兄ちゃんは、死なないよね?」
その言葉に、返事はなかった。
萌は顔を上げ、何も言わずに再び俯いた。恐らくはそれが意味を成さない事だと解ってしまったが故に。
また僅かに密着度が高まって、それはまるで何処かに置いていかれないようにする子供の仕草のよう。
ふと、恭一は何故そんな懐かしい事を思ったのだろうか、考える事もない。後は家に着くまで二人とも無言だった。
◆ ◇ ◇ ◇ ◇
家に入って抱かれた腕は解かれ、恭一はすぐに自室へと向かった。
「あ、お兄ちゃん?」
階段にかけた足を止め、後ろからの声に振り向き、見る。
「何だ」
「ちょっとの間待っててね。わたし、すぐに夕食作るから」
胸の前で頑張る意志を示すように握りこぶしを二つ。微笑を浮かべて萌は台所へと向かった。その後姿を見送って居間へと消える刹那、不意に声が漏れていた。
「いい」
「ぇ?」
不意打ちに驚きの表情で振り返る。
「今何か言った、お兄ちゃん?」
「ああ。今日は、いい」
「いいって、何が?」
「時間は気にしなくても良い。ゆっくり、作れ」
後は萌が浮かべた表情も見る事はなく、恭一はそのまま階段を上った。だから後に残った萌が浮かべていた、どんな表情を浮かべていいか分からない、というような表情を見る事もなかった。
「ぁ、お兄ちゃ・・!」
背中に僅かに届いた声も振り返り応える事はせずに、階段を上り終えるとそのまま自分の部屋へと入る。
着ていた服を脱ぎ捨ててベッドの上へとその身を投げ出した。柔らかいものが全身を受け止めて、恭一はぼんやりと瞳の中に映る天井を見詰めた。
今食事をする気にはなれず、呆とした思考が頭の中を支配する。
――今生きている価値は何だ?
「・・・・・・・」
思い浮かんだ言葉に訳もなく思考が停止する。今更、こんな事が浮かんでくるなど考える必要もないはずなのに。
何も考えられないまま時計の進む音だけが鳴り渡り、不意に喉に物足りなさを覚えた。遅れて気付く、自分が息をしていなかったという事実に。
事を悟ると急に息苦しさが込み上げてきて、恭一は急ぎ空気を肺へと吸込んだ。
「――ぁ・・・はぁはぁはぁ・・・・」
荒れた呼吸を整えながらも、全身には冷たい汗が所々から滲み出てくる。
酸欠に僅かに視界が回る中で、恭一の視線はまるで引き寄せられるようにそれへと移っていった。
部屋の隅に立てかけた、布を被せた棒状のもの。明らかに部屋の景色からは浮いている、それ。
肩を上下させながら、痛む頭を押さえつけながらその場所までふらつき、辿り着く。元より数歩とない距離だったにも関わらず、恭一には何故か非常に長い距離に感じられた。
被せた布には埃が積もり、長い間手がつけられていない事を示している。
改めて間近でそれを視界に納めて、どくん、と心臓が一つ高鳴った。
無意識に喉を鳴らして、ゆっくりとそれに右手を伸ばす。
先ず指先が僅かに布から垣間見える黒い部分に触れた。冷やりと、周囲よりも熱を孕んでいない鉄の感触が指先から全身へと行き渡る。
更に愚鈍に手を伸ばし、確かにそれを攫み取った。
質量を確かめるようにしっかりと握り締めてから、恭一は被さった布を左手で軽く払い除けた。布は風に吹かれたように軽く、埃と一緒に舞い上がり剥がれ落ちる。
手に在るのは一本の刀だった。だがこれを手に取ったのは貰ってからまだ二度目。あの夏の日以来、初めての事。
初めてこれを手にしたあの時に彼女に酷く怒られて、それ以来気安い気持ちで抜こうと、持とうとも思った事はない。
動悸が益々早打ちを始め、それに構わず恭一はゆっくりと柄に手を当てた。
握り締めた手を、抜き放つ。
「・・・・・・・」
外見の埃塗れと違いその刀身に曇りは一つもなく、新品同然の輝きを誇っていた。ある意味当然か、抜いたのはこれが初めて。
刀身の美しさに息を呑み、呑もうとして唐突に刀を持つ手が重くなるのを感じた。と、思った時には既に全身の力が抜けていた。
「――っ、ぁ・・・・は、はぁ・・っ・・・は、は・・・」
額に嫌な汗が滲みその時になって初めて、刀を手にしてから肺に空気を入れた。その事実に今更ながら本人は気付かない。
揺らめく視界で床を見下ろすと、いつの間に手の内を離れたのか刀は手の内から零れ落ちて床に転がっていた。
もう一度手を伸ばそうと、今度は伸ばすはずの手自体が動かない事に気付いた。
かたかた、と。
何処からか鳴る音に気付いて視線を向けると、小刻みに震える自分の右手と鞘の触れ合いぶつかり合っている音だった。
全身が震え、その震えが今更ながらに止まらない事にも気が付いた。
「ぁ・・う・・・くっ」
今度は冷やりとした感触と僅かな痛みが左手に伝った。
軋む首を回して逆側へと顔を向けると、左手も同じように震えているのが眼に映った。そしてその震えた左手が刀身に擦れたのか微かな血が流れ出ていた。
「ぅ」
視界に納めた現実に、朧気だった痛みが確かなものとなって伝わる。だがそれ以上に、こみ上げてくる吐気が酷い。寒気が身体を凍えさせる。
精一杯、それでも実に緩慢な動きで左手を刀身から遠ざけようと試みる。が、身体そのものがやはり上手く動いてはくれずに、どころか指先の血が益々刀身に付着した。
血に染まり、血を吸う刀。それは本願か。
――誰かの血に染まっていく刀
「・・・・・・」
視線が、刀身に吸込まれていく。
目が逸らせない。逸らしてはいけない。
動機は胸をはちきらんばかりに高鳴り、無い酸素を必死に全身へと運ぼうとする。それでも全身は言う事を聞かず、息も出来ない。ただ詰まる、喉が、胸が、意識が、何もかも。
不意に視界が霞みを帯びたと思えば、取巻く世界が色を失っていった。
ぱたり、と。
恭一自身、自分が倒れた事に気がついたのは薄れ行く意識の中で、本当に意識が途切れる間際だった。
◆ ◆ ◇ ◇ ◇
ぽたり、と。
温かいものが頬や鼻先、瞼などに幾つも降りかかる。その感触を受けて初めて恭一の意識は浮かび上がっていった。
最初に視界に映ったのは涙に濡れた目、そして胸の詰まるような顔だった。
「お、兄・・ちゃん?」
「・・・も・・え」
自分の声が耳に届き、意識が完全に覚醒した。どうやらベッドの上に横たわっていたらしく、身体をゆっくりと起こす。
その過程で、萌が勢いよく飛び込んできた。
抱きついてくる萌と倒れかける自分の身体を支えようと、結局恭一はその衝撃に萌共々再びベッドの中に身を沈めていた。
「どうし」
どうした、と出かけた言葉は途中で止まった。肌に触れる萌の身体が小刻みに震えていることに気が付いたから。
顔を上げぬまま、くぐもった声が漏れ出る。
「お兄ちゃん」
「何だ」
「身体、何処にも痛いとこ無いよね?」
胸の辺りが次第に湿り気を帯びていく。共に聞こえてきた啜り泣く声に、恭一は自然と萌の背中へと両手を回していた。
「大丈夫、何処も痛くはない」
「・・・うん。よかった、よ」
「萌」
「なに、お兄ちゃん?」
「済まない」
理由も無く、口から漏れたのは謝罪の言葉。だがそんなもの、目の前で萌が泣いているだけで理由は十分過ぎた。誰でもない自分が、泣かせたのだから。
何時か感じたような、痛みが胸の内に疼く。
背に回した手で宥めるように、繰り返し何度もゆっくりと撫で下ろす。
繰り返すうちに伝わってくる震えも次第に治まっていき、やがて止まった。後の残ったのは温かく濡れた服の胸部だけ。
「・・・・ありがとうね、お兄ちゃん」
「いや」
顔は胸に埋めたまま、まだ上げられない。
言葉の意味も知らぬまま、恭一が何か次の言葉を発するより先に萌は胸から顔を離して一人、身を起こしていた。
「えへへ、ご飯出来たから呼びに来たらお兄ちゃんが倒れてるんだもん。本当にびっくりしたよ」
「そうか」
そこで初めて恭一は自分が気を失ったのだ、という事を知った。なるほど道理で、目覚め時に萌の姿が傍にあったわけだ。
だがそれ以上に、正面に見た笑顔に苦しさを覚えて気が付くと視線を逸らしていた。そしてふと気付く。長年部屋の一景色としてあったからこそ、一目で気付く事が出来た。
「あれは・・・どうした」
「・・・・・・・・・・・・・あれって何?」
笑顔が消えた。
瞳の中には何も篭ってはいない。少なくとも一瞥しただけではそう見える程に何も無かった。
遣り切れなさ、無力感、何かが欠落したその感情に、それ以上出る言葉は無かった。恭一の方から視線を逸らす。
「何でもない」
「そう」
互いに顔を背けたまま、どちらともなしに視線を戻していた。間に先ほどまでの気まずいような雰囲気は微塵も無い。いつも通りの、二人だった。
「お腹空いてるよね? ご飯、出来たよ」
「ああ、着替えてから行く」
今度こそベッドから身体を起こして、濡れた胸部に手を這わせてからシャツを脱ぐ。新しい服が必要だった。
「そそ、それじゃ、先に下で待ってる・・・からね!!」
「ああ」
応えに、萌へと振り向くといつの間にかその姿は消え、代わりにドアの閉まる音が室内に大きく響いた。そしてあわただしい足音が、一階に下りていく音が届いた。
珍しくもない事に、恭一は然して気にするでもなくただ淡々と自分の着替えを行った。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆
夕食も終わり、食後のお茶をゆったりと飲みながらぼうっとしていた恭一だったが、一気にお茶を飲み干すなり立ち上がった。
「っ!!」
椅子の擦れる音に驚いたのか、萌の身体が大きく震える。
殆ど無意識の作業として萌の姿を視界に入れないようにしながら玄関へと足を向ける。背後では萌が付いてきているのを感じつつもどちらも言葉は交わさない。
玄関口で靴を履き、立ち上がる。その間も互いに言葉は無い。
恭一はドアへと手を掛けて、
「すぐ戻る」
「う、うん。いって、らっしゃい。お兄ちゃん」
いつもの、言いたい事を言えないように口ごもりながら返ってきた言葉を背に受けて、恭一はノブを回して外へと踏み出した。
振り返る事をせずに後ろ手でドアを閉める。
室内とは違う冷たい風が全身を撫でて、心地好い夜の香りが鼻孔を擽った。熱を持ったからだが外気に熱を奪われて、指先までが程よい冷たさになっていく。
思い出すように、態々自分の内からその気持ちを搾り出すように、
「ミズキ」
言ってから、自分の口から漏れた言葉に恭一は心底驚いた。だがそれ以上に胸の内から、今度は何もせずとも湧き出てくる衝動に身を任せる。
「赦さない」
呟いて、いつもよりも冷たく感じられる風に、微かに湿り気を帯びるような胸部だけが必要以上に凍えるように感じられた。
――優しいからね
いつか、誰かが誰かに贈った言葉。
「約束、か」
口を付いて出た言葉。誓約はまだ知らない。忘れたいのか、交わした誓い。
風がまた全身を撫でていき、いつの間にか再び熱く火照っていた身体を心地好いほどにゆっくりと冷やしていった。
「・・・・・・」
ふと見上げた空に、雲が掛かった月を視界に収めた。冷たい光を放つそれを数秒ほど見上げて、掛かった雲が月を完全に隠した。
恭一は視線を戻すと振り返り、今閉めたばかりのドアへと手を掛ける。
恐らくは自分が帰るまで何時間でも、ずっとそこで立っているだろう妹の顔を頭に思い浮かべながら、握ったノブを回して再びドアを開けた。
七宝殿〜居間で興っている事?〜
人形旧は「その価値さえも分からない」
舞 萌ちゃ〜ん、今度こそ…げっ
和佐 うぇっ
舞 なんで和がここにいるのよ
和佐 お前こそ
舞 …
和佐 ………
舞&和 は、ははははははははははははははははっ……ふぅ
舞 …で、萌ちゃんはどうしたの?
和佐 ほら、この紙
舞 ん? 『萌は本編でお休み中』?
和佐 わかったか?
舞 あっ…の、腐れ作者〜〜世界の害意の分際で私と萌ちゃんの仲を常々邪魔するのね
和佐 と、ちょっと待て
舞 …何よ、この手を離しなさい、私は今すぐ萌ちゃんの所に向かうのよ
和佐 俺もお前なんかに触れたくないところなんだが、そうもいかないんだよ
舞 …なんでよ
和佐 逃げるなよ、今回は俺とお前とでこのコーナーやるみたいなんだから
舞 ・…
和佐 ………
舞 貴方を殺して私も死ぬわ
和佐 って、何尤もらしい事言ってんだよ!! どうせ俺殺してもお前死ぬ全然気ないだろ
舞 そ、そんな事…
和佐 思いっきりあるだろ?
舞 もちろん(笑顔)
和佐 だあぁぁぁぁ、だからこんなのと一緒に演ってれっかって言うんだよ
舞 それは私が言いたい事よ
和佐 だから、刃渡り三十五の包丁持って言う言葉じゃねえだろ、それ!?
舞 和は細かいところ気にしすぎだからモテないのよ、きっと
和佐 別に俺はモテないわけじゃねえ、ただ萌ちゃん一筋なだけだっ!!
舞 …ちっ、それが一番悪いのよ
和佐 あ? 何か言ったか?
舞 別に〜…さ、私の愛を受け取って、あ・な・た〜(包丁を前に出す)
和佐 うぎゃぁぁ、鳥肌がぁ〜(脱兎で逃げ出した)
舞 ふっ…と、言うわけで今回はこれで終いよ、三十話で今度こそ萌ちゃんと…
舞 …え、解説? そうね……お兄さんの困ったさん、てところでいいかしら?