二十二話「縛り者は過去か現代か」
気がつくと外にいた。
いや、気がつくと、と言うのは正しくない。あの家の中で闇が蝕み始めた瞬間から、そして今も身体を動かしているのは恭一の意志ではなく一つの深い衝動なのだから。
だからここが何処か、外か内かと言う事は意味を成さない。今まで何をしていたかと言う事も僅差ない。
ただ変わらず一つ、恭一が持ち続けたものがあった。
恐怖。
怖かった。恐ろしかった。何か、かは知らないし知る気もない。もしかすると分かっているかもしれないがそれこそが、知る価値こそ恐怖だった。
脳裏に焼きついて離れないのは今の情景ではなく過ぎた時のもの。
赤い、アカイ色が、炎の熱さが、いや、そんな細事ではなく怖いものはあの事だけ。
今、恭一の目の前に空き地が在った。街灯すら疎らなその通りは日が沈んだ今となっては一寸先さえ暗闇に包まれている。
それ以上に目前の空き地は闇が深かった。まるで何かを引き込むような闇が空き地の先へと誘いを求める。
そんな暗闇さえ恭一の瞳には関係しない。
ぽつ、と頬に冷たいものが当たり恭一は自然と顔を空へと向けた。それは衝動にも似た自然の行為。
上を向いたそれはもう一度恭一の頬に当たると、つぅ・・・と頬を伝い顎から喉へ、身体を離れて吸込まれるように地面へと落ちていった。
頬に残った涙の後を拭う事無く、恭一はその闇の中へと一歩、また一歩と歩を進めて、誘われて行った。
◆ ◆ ◆ ◇ ◇
「・・・・・・・・」
テーブルの上にあるのは数時間前までは湯気を昇らせて芳しい香りを経たせていただろう二人分の料理。
萌はテーブルに付いた二つの椅子の片方に座っていた。力なく俯いて、料理に手をつけることさえしていない。
対面の椅子には本来座るべき相手、両親が不在の今、仮初の主である少年の姿は無かった。
今にも泣き出しそうに、いや、泣き出す力すらないように、萌はたった一人の誰よりも近しい兄の帰りを二時間弱の間、身動ぎさえせずに待っていた。
微かな空気を振わせる音。
呼鈴が鳴るその刹那、今まで彫刻のようですらあった萌はその場から動いていた。
跳ねるように、一切の乱略を許さず一目散に玄関へと向かっていく。
永劫とも感じる数秒の後、辿り着いた玄関。その取っ手へと手を伸ばし、仕切を空けると同時に、
「お兄ちゃ・・・」
「きょうい・・・」
発しかけた言葉、発されかけた言葉は止まり、永遠に出てこない。
来訪者と萌の二人は呆けるように互いを見て、いや、ただ視線だけを向け合っていた。
先に我に帰ったのは偶然、萌の方だった。
「な、なに・・和ちゃん?」
何とか笑顔を作り、少なくとも本人はその気で来訪者、和佐へと声をかける。同時に、和佐の方は自らの用事が済んだ事を悟った。
「あいつ、居ないんだな・・・・?」
それはどれ程の望みか。だが声色は疑惑と言うよりも確認のそれに近かった。
答えは言葉でなく表情ではっきりと返る。
引き攣った萌の笑顔は直ちに消え去り、表情には何も浮かばなくなった。
見たくもない、それが全ての返答。
「あいつ、何が・・・・・っ!?」
一瞬和佐の表情が強張り、だがすぐさま何かを考え込むように萌から視線を逸らす。
だが所詮は無駄な行為。それを見逃す萌でもない。
「お兄ちゃん・・・・・の事、何か知ってるの、和ちゃん?」
声色は酷く落ち着いたものだった。だがそれこそが恐怖。落ち着いているなどとんでもない。ただ単に、何も篭っていないから落ち着いて聞こえるだけ。
瞳を見れば全てが解る。僅かに悲観、それ以外は何もない。
だからこそ、和佐は視線を逸らした。知っているからこそ決して見たくないものだったから。
全てが逆効果だとは知らず。知っていたならば逸らしはしなかっただろうに。
「知ってるんだね、お兄ちゃんどうかしたの、大丈夫なの? 平気なの?? 無事なの??? 今どこにいるの、ねえ和ちゃん!!!」
責めるように、だが乞うように、そして何処か狂ったように、萌は和佐に攫みかかり激しく聞きたてる。
和佐は変わらず視線を逸らし、強く噛み締めたからかその唇からつぅ、と血が漏れた。
それさえ萌には気付かないのか、攫みかかった和佐を一層激しく揺さ振る。
「お願い、和ちゃん。教えて、教えてよっ・・・お兄ちゃんが何処にいるのかどうしたのか、知ってるんなら教えて!!!」
和佐は何も言わずにただされるがまま。
「ねえ、教えて・・教えてよ! 和ちゃん、和ちゃん!!」
涙が溢れ出ている、必死なその表情。
僅かに覗いた視線にそれが入って和佐は力なく、萌の肩を手にとって身体を引き離した。
期待に濡れた瞳が見上げてくる、それを直視せずに。
「悪い、俺もわからない」
「っ!!」
萌の瞳が大きく見開かれて、
「萌ちゃ・・!!」
和佐の反応は一瞬遅かった。
靴も履かずに薄着のまま、萌は和佐をすり抜けて外へ、夜の街へと出て行ってしまう。伸ばそうとした手も逸らした視線の為に反応が一瞬遅れて、空を切る。
「ちっ」
舌打ちをする間も惜しく、和佐はあいたままのドアを叩き閉めて萌の後を追って身を翻す。
直後、ぽつり、と。
空から落ちた雫が一滴、また一滴。数分も経たないうちにそれは完全な雨に変わった。
◆ ◆ ◆ ◆ ◇
雨が降り続いていた。あの日と同じ、冷たい雨。
そこには雨音以外何も無い。物音一つ届かない。
あれだけ五月蝿かった野次馬の声も、今はもうない。
そもそも場所自体が違うのだがそれに気付く余裕も当然なく、恭一はただずぶ濡れの身体を僅かに震わせた。それ以外は動く事さえしない。
一点のみ。
空き地の一点、その先にあるものへと視線を送り続ける。ただそれも眼に映っているのか、定かではない。
その静寂の中、破るように駆け来る足音が二つ。
「お兄ちゃん!!」
次の瞬間、どんな静寂でも届かなかったというのにその背後からの声は実に呆気なく恭一の元へと届いた。
空虚なはず。恐怖しているはず。だがそれ以上に、酷く感じる感傷に、恭一は緩慢に振り向いていた。
向いた先にいたのは全身雨に濡れた少女。その髪からは水が滴り落ちて止まらない。駆け寄ってくるのが目に入る。
映った風景は何処か懐かしさを感じさせ、それでいて見た事がない、あるはずもないもの。
少女の名は何と言ったか。
「も、え・・・?」
浮かぶより先に肉体がその答えを発していた。だがそれも僅か。冷え切った身体は震え、声は霞んで何処にも届かない。
だと言うのに、
「お兄ちゃん!!」
彼女は当然のようにその呟きに言葉を返した。
駆け寄り、向かってくる萌の姿が闇の中でも見えるような距離になり、後数歩で手が届くと言うのに彼女は止まっていた。否、止まらざるを得なかった。
在ったのはひとの姿。だが見たのは久しくなかった彼の漆黒に澱む澄んだ瞳。
「お、に・・・ちゃん?」
震える声。
困惑、ではない。それは恭一と同じ、けれど違う恐怖。
恭一は何も返さない。口から出た言葉、彼女の姿。だから彼女が何者であるかなど当に分かっている。それでも、恭一は萌の事を見てはいなかった。
「そ・・・な・・・・・・」
目前の少女の体が激しく震える。顔色は血が引けたように真っ青になり、通り越して真っ白へと移る。
直視出来ない、とばかりに彼女は俯いた。そして現実を見たその瞳は色が削げ落ちていき、やがてはその兄と同等のものへと
「萌ちゃ・・っ!!」
遅れてきた二つ目の足音に恭一は萌を通り越しその姿を見止めた。
全身ずぶ濡れの、男。彼は間違いなく和佐であるが。
目の前の濡れた少女と近づいてくる一人の男。
酷く懐かしく感じる、儚い夢のように。哀しむ現実のように。
「ミズ・・・キ」
その光景が今に重なった。
あれが誰であろうと関係はなく、重なるその男の名はミズキと言う。
ならば、全てはもう同じだった。恭一の中の色全てが一色へと塗り潰されていく。怒り、憎しみ、恐怖、なんでもいい。ただ、殺意と言う名の害する目的さえ同じならば構わない。
「ミズ、キィィ!!!」
「っ!?」
叫び声が響いたのと、萌が肩を震わせ顔を上げた事、和佐が息を呑みつつも己の武器を抜き構えた事、そして恭一が動いたのはほぼ同時だった。
「お兄ちゃ・・・・」
消えるような声。だがそんなものに今の恭一が反応などするはずも無い。
萌が伸ばした手は恭一が通り過ぎた後を切り、恭一の姿はもう萌の背後へとあった。
驚くべきはその脚力か。和佐が一刀の小太刀を手にしたとき恭一は既に直前へと迫っていた。
「くっ」
挟んだ刃の腹に恭一の拳は打たれ、刃が反る。慌てたようにすぐに刃の裏へと和佐の拳が当てられて、反りが止まる。
「きょ、恭一、待て俺だ和佐だ、目を覚ませって・・・あぁ、分かんねえのかっ!!!」
「――殺す」
放たれる拳を刀で受け止めつつ、必死に似た和佐の叫びに答えは単純なものだった。
だから恭一の暴挙は止まらない。
邪魔な小太刀を鷲掴む。刀は引いて初めて切れる。だから、刃が手を傷つけるより先に恭一はそれを支点にして跳んだ。
蹴りを放つ。
「っ!!」
和佐は身体を捌いて蹴りを避ける。が、構う事は無い。恭一は着地と同時に身体を回して肘を打った。
身を伏せた和佐にその一撃はまたも空を切り、
「ぐっ」
肘を折って打った掌底は咄嗟に頭部を庇うように挟まれた小太刀によって防がれた。
間置かずに下段へ蹴りを放ち、動く気配を見せた小太刀を手で押し留める。
「ちょ」
っと待て、と言う言葉を最後まで吐かせずに恭一の蹴りは見事に伏せていた和佐のわき腹へと捻入った。
左手の痛み――和佐が引いた小太刀によって斬られた――に構わず、地面へ転がる和佐へと更なる追撃を
「だめぇ!!!」
動きを止めた。
声の方を向き、歩み寄ってくる萌を視界へと収めた。
「お兄ちゃん。駄目、だよ」
そうして、新たに目に入った獲物へと恭一は飛び掛り
「萌ちゃ、ちっ!」
横から来た、初めて殺気の篭った剣戟に大きく跳んでそれをかわした。
「恭一、てめぇ・・・今誰を攻撃しようとしたか分かってんのか?」
一瞬の内に身を起こし、萌の前に立ちはだかるようにして和佐は殺気とも怒気とも取れるものを全身から発していた。
「か、和ちゃん大丈・・・」
「萌ちゃん、離れろ」
「ぇ?」
「今の恭一に何言っても多分・・・無駄だ。だから許せとは言わないし第一余裕もないけど、俺は今から徹底的にこいつをぶちのめす」
「で、でも和ちゃ・・ぁ」
跳んでくる和佐に恭一は当然、迎接する。
斬りかかってきた刃を紙一重で避けて一足で間を詰め、和佐に密着しながら小太刀を持った腕を押さえ込む。
「ちっ」
面に向かって打ち込まれてくる拳に構わず、恭一はそれに合わせるように拳を放った。
互いの拳が互いの頬を捉えるがどちらも構わない。いや、相乗効果で和佐の体制が僅かに崩れた。
出来た隙にすかさず恭一は打って出て、いつの間にか空中に投げられた小太刀が拳と和佐の身体の間にあった。しかも刃は拳を向いてある。
打ち出した拳、それをぎりぎりのところで止めて、容赦ない蹴りが腹に決まった。
「っ」
すかさず振り下ろされた刃に恭一は手を離して大きく後ろに跳んだ。
二人の距離が開く。
だがそれも一瞬。すぐさま和佐は恭一を追撃し、恭一はそれを迎え撃ち
「〜〜やっぱり違う!!!」
その叫びに和佐が止まり、そして恭一も萌の方を向いていた。
「こんなの違うっ!! 間違ってる!! どうしてお兄ちゃんと和ちゃんがこんな事しなくちゃいけないの!? お兄ちゃんはわたしのお兄ちゃんで、和ちゃんはわたしの友達、お兄ちゃんの友達なんだよっ!!!」
絶叫は、今度こそ恭一の関心を引くのに十分な音量だった。
「お兄ちゃんはお兄ちゃんだよ!! わたしを置いて往かないって、傍に居てくれるって言ってくれたよね!?」
恭一に答えは無い。
届いていないのか、届いて尚聞こうとしないのか。じっと、動きを止めて萌を見ていた。
「何があっても、お兄ちゃんはわたしのお兄ちゃん・・・だよね?」
萌は恭一しか見ておらず、恭一も今はただ萌を見ていた。
瞳に映るのは空虚な今。
その瞳に、その姿に、その心象に、恭一は湧いた恐怖と憎しみに、萌へ向かって一直線に駆けていた。
「っ、待て恭一!!」
後ろから和佐が追ってくるが、構わない。今は一刻も早く目の前の少女を、否、目の前の恐怖の具現を消し去る事が先決。
あれが誰かなど関係はない、はず。狂わんばかりの具象を潰し熨す。
「・・・お兄ちゃん」
萌は動かない。向かってくるその人を正面から受け止めるべく、心底信頼するようにその場で両腕を広げた。
更に加速。
「駄目だ、止めろ・・・萌ちゃん!!!」
和佐の必死の語りに、萌はにっこりと無言の笑顔で応えた。
迫った恭一は振り上げた拳を微塵の躊躇いも見せずそのまま萌へと放
風が吹いた。
一陣の風。そして恭一の拳は誰も居ない空間を切っていた。
「ぜっ・・・っ、は、はっは・・・かっ、く・・・は、は・・・」
「なん、で・・・・」
恭一から遠く離れた場所に和佐と萌の姿はあった。和佐は息も絶え絶えに萌を抱きかかえるように地面に倒れこみ、萌は目を見開いて自我茫然とした様子で恭一がいる場所、自分が居た場所を見ていた。
僅かに視線を巡らせた後、恭一は離れて倒れこんでいた二人へと視線を止めた。
映る瞳は恐怖と憎しみに、色が変わる事はない。たった今誰をどうしたか、など浮かんでもいなかった。
「何で!!」
その叫びは恭一に向けたもの、ではなかった。すぐ傍に倒れこんでいる和佐へ無慈悲に攫みかかる。
「何で、和ちゃん!! 邪魔しないで!!」
「ぅ・・はっ、は・・・・・ぐっ」
和佐は息を切らせて身体を揺すられて、答える事もしない。
そんな二人に構う事もなく、恭一は一歩、萌たちへと踏み出す。
「っ!」
荒立つ呼吸も整えずに和佐が身を起こして二人の間に立ちふさがる。
恭一が踏み込んでくるなり、和佐の腕が振られた。
奔った一閃に恭一は後ろに跳んでそれをかわす。
「和ちゃ・・」
「黙れ!!」
「っ」
「・・・頼むから、下がってくれ」
和佐の牽制に恭一はうかつには近づかない。まだ息が荒れているとはいえ気迫は明らかに前以上。それが一気に詰める事を躊躇わせていた。
「・・・頼む。ちゃんと現実を見てくれ。あれは・・・・・本気だ」
答えは無かった。
最早構わず、忍耐が切れた恭一が動くより一瞬先に和佐が動いた。
和佐が浮かべた瞳は恭一と全てが逆であり、何一つ違うものがない色。背中のひとだけは何としても守り抜くと言う決意の表れ。
だが、そんなもの。
後ろに控える恐怖の元を断つのに邪魔な障害物に、恭一は容赦しない。
その障害に迎え撃つべく振り上げた拳を恭一は放ち、
「ふっ」
間合を見誤ったのかそれは空を切った。
そうして間合をわざと遅らせた和佐が上段に構えていた小太刀をそのまま右下方へと斬り落してくる。
かわす事は即座に断念。
振り下ろされた刃の軌道を手の裏を当てて逸らし、更にその拳で掌打を繰り出した。
狙いは顎。
だがその一撃は刀と共に体勢を落した和佐の頭上を行く。更に追い討ちに返し刀が迫った。
恭一は身を反らしてかわす。が、続いて来た側面からの蹴り上げに側頭部を打たれる。
和佐が身を起こし、重力に従い恭一の頭部を打った足は頭を巻き込んだまままるで刈り獲るように振り切られ、地面へと着地した。
「がっ」
一応受身は取るものの、地面に叩きつけられた威力はそれほど弱くない。激しく脳を揺られた衝撃に恭一の意識が一瞬飛ぶ。
当然、和佐はまだ止まらない。ここで止めたらその一瞬の内に自分が殺られる事を知っているから。
逆手に持たれた小太刀が恭一の頭に狙って自重と共に振り落とされる。
「・・・・っ」
突き立てられる刹那、漏れる息も漏らさずに和佐の手から小太刀が零れ落ちた。それは恭一の顔すぐ横へと突き刺さる。
和佐の動きが止まった。
出来た大きな隙を見逃すはずもなく、恭一は揺れる焦点を無理矢理定めると逆に手を交差させて和佐の首元を攫み自らに引き寄せた。
下腹部には膝を叩き込み、落ちてくる勢いと合わせてそのまま強く蹴り上げた。
和佐の身体が空中で回転する。
更に交差させた手で縦に横回転を加えて、最後に大きく一引きした後に手を離した。奇妙な回転を行いながら和佐の身体は恭一を通り越していく。
「和ちゃん!!」
「がっぅ・・・」
萌の叫び声と同時に恭一の頭上の地面へと叩きつけられた。
まだ朦朧とする頭を軽く振りながら恭一は身を起こす。
一方で和佐は身を起こす事は無かった。あの投げられ方ではろくな受身も取れはしないだろうし、僅かに整いかけていた息も今は絶え絶え、過度の運動による呼吸困難で呼吸をするのさえ苦しそうな様子だった。意識も朦朧としているかもしれない。
「は、は、は、は、は、は、は、は、は・・・・」
ただ短い息だけが漏れ出る。
ようやく障害物を除け終えた恭一はそんなゴミに構う事はなく改めて萌へと、恐怖の具象へと顔を向けた。
「はっは、は、は、は、は、は、は、は、きょ、は、ち・・・」
耳障りな息切れと笑いが背後から届くが気にしない。むしろ自分から向かってきていたその相手から視線を外せない。
「お兄ちゃん、どうして!?」
その叫びが、言葉が、表情が、胸に突き刺さる。
一層の恐怖、殺意を湧かせながら恭一は身動ぎすら出来ず、視線を逸らす事もしなかった。
それが目に入ったから。
「もう止めてよ、お兄ちゃん!! これは和ちゃんだよ!! それにわたしは萌・・・だから、だから戻ってきてよ、お兄ちゃん!!!」
ずぶ濡れの姿で、髪からは絶えず雫を滴らせ、それでもどうして彼女が涙を流していると分かってしまうのだろうか?
――・・・ばか
答えは簡単だった。何故なら、同じ景色を見た事があるから。
雨に打たれたあの日、公園の中で意識を失ったあの日、そして家に帰ったあの瞬間。
言葉を発したのは、叱ったのは、背負われたのは、誰だった?
「も・・え・・・?」
絡まった手に、引き寄せられた温もりに、恭一はようやくただ一人のかけがえの無い妹の姿を見た。雨と泥水でぐちゃぐちゃの、悲しげな表情を浮かべたものだったが見間違えるはずもない。
――絶対、破ったら私が赦さないわよ
あの時の誓約。
どうして今になってこんな約束を思い出すのか。
失くしていたはずの胸の中が何故だか激しい痛みを訴える。
「そうだよ、お兄ちゃん。わたしは萌、だよ」
悲しげな表情が儚く、だが微笑みに変わった。
「どうして・・・・此処、は」
気が付くと、憶えのない場所に立っていた。何処かの空き地。自分は泥まみれで、萌も泥まみれだった。
「っ!!」
激しく頭が痛み、その刺激に数枚の写真のような情景が頭の中を駆け巡った。
自覚はまるで無いが、そこには和佐に殴りかかっていく自分がいた。振り返り見ると、確かに情景通りに和佐が地面に転がっていた。
「お兄ちゃん、大丈夫・・・?」
不安そうに見上げてくる瞳。
それはいけない。それだけはいけない、と。
手を上げて大丈夫だとの意を伝えようとしたが、叶わなかった。手は上がらず、自分にはどうしようもないほどに全身に力が入らずに身体は萌へと寄りかかっていた。
それでも大丈夫だと伝えようとして動かした唇は酷く凍えていてどうにも自分の意思どおりには動かずに、言葉は口から漏れ出なかった。
ただ、やっと出したのはそのときの空色を眺めての一言。
「もう・・・夕食、か」
最後まで言えたかどうかも分からないまま、恭一はゆっくりと、だが確実に意識を遠ざけていった。だがそれは以前の侵蝕されるような気色悪さはなく、繋がれた手と身体に伝わってくる温もりに覆われたほっとするようなものだった。
自ら全身の力を抜き、恭一は意識を手放した。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
今度は取り乱す事無く、萌はゆっくりと恭一の身体を抱き寄せて、大切なものを扱うように包み込んだ。
「ううん、まだ大丈夫だよ」
寝ている子を起こさぬように優しく呟き、自分も身体を相手に預ける。
萌の身体は恭一同様に酷く冷え切っていた。それでも互いに触れ合う部分が時間と共にじわりじわりと温もりが戻ってくる。
「だからお兄ちゃん、早く、帰ろう? もうご飯冷めちゃってるけど、また暖め直すね?」
微笑んで恭一の頬へと手を伸ばして、萌は糸切れる操り人形のように恭一へと体重を預けた。
手は宙を切り、頬には触れずに垂れ落ちた。
「あ・・れ・・・?」
瞼がゆっくりと下りる。
恭一と萌の身体は支えをなくして互いに横へと倒れた。倒れた二人の身体は、やはり雨に凍えて酷く震えていたが、互いに重なりあう様はまるでそれぞれがそれぞれを護り合っているようだった。
「っ、萌ちゃん!! 恭一・・・」
息を整え、膝を立てた和佐は軋む身体に無理をいいながら二人へと身を引き摺りながらも近寄った。こんな雨の中、もう痛みや息がどうこうと言っている場合ではない。
大いに苦労して二人へと辿り着き、二つの倒れた身体を抱き起こす。
酷く身体は冷えているようだったがそれだけで、色々な意味を込めて和佐は一度深く安堵の息を漏らした。
温めるように、二人の身体を抱き締める。
「くそっ、くそっ・・・くそっ・・・たれ・・」
和佐でも、恭一でも、まして恭一でもなく、誰も責めないままそれでも和佐は雨の中でその言葉を吐き続けた。
雨が止むほど雲はまだなくなってはいない。
七宝殿〜居間で興っている事?〜
廿庭「縛った干物は恰好の現代化」
佐久弥 今回は萌さん、風邪でお休みだそうです
鼎 だから僕たちが引き受けた、と?
凪 そのようだな
佐久弥 だってわたし達、今回は出番が無いでしょ?
鼎 まあ、それならそうだね、ここは暇人の集まる場所だし
佐久弥 鼎……もうっ、そんな酷い事言っちゃ駄目って言ってるでしょ!
鼎 で、でも本当のことなんだし……ねえ、凪さん?
凪 …今回は鼎が悪いと思うぞ
鼎 そんなぁ
佐久弥 か・な・え?
鼎 ……はい、酷い事いってごめんなさい
佐久弥 うん、よく出来ました
鼎 っ〜〜〜、だからそうやって頭を撫でて子ども扱いするの止めてよ、姉さん!
佐久弥 あ、ごめんね、ついついいつもの癖で
凪 まあ、姉弟の団欒はこの程度にしておいたらどうだ?
鼎 そ、そんなんじゃない!
佐久弥 そうだね、そろそろ今回のお話の説明をしないと…
鼎 ………
凪 では、今回の話……これは…?
佐久弥 わたし……萌さんに悪い事をしちゃっていたんだね
鼎 別に…姉さんが悪いって訳じゃないよ
佐久弥 でも、恭一さんはわたしが…
凪 あー…んんっ、兎に角今回の話の概要を言えば今回は千里の心の傷だそうだ
佐久弥 という事はこれが…恭一さんの心の中?
鼎 …ふん、まるっきり、凶戦士だね、これじゃ
佐久弥 ………
鼎 っああもう、先刻から何だよ姉さん、恭一さん、恭一さんって、あいつが何なんだよ!!
佐久弥 ぇ? ………鼎、どうしたの?
鼎 どうしたの、じゃ無くて…ああ、もう、いい、僕はもう行くからね
佐久弥 かな…え、行っちゃった、どうしたのかな、鼎?
凪 ……はぁ、分からないなら気にする必要はないと思う
佐久弥 凪さんには今どうして鼎が怒ってたのか、分かるの?
凪 怒っているのは分かるのか…いや、しかしあれは単に…っと、もう制限時間のようだ
佐久弥 あ、そうですね、その続きが少し気になるけど…後は舞台裏でということで……
凪&佐 それでは皆様、また二十三話で会いましょう!!