九話「汝の名、その目覚め」
「くく、くくくっ」
片手で顔を覆いながら男は笑っていた。
「まさか、手前が術者だったとはな・・・俺もちぃとばかり油断しすぎたみてぇだな」
訪来を歓迎するように、大きく両手を広げる。
立ち昇った靄は目視できるほどの密度で男の周りを漂い、その姿を完全に飲み込んだ。
「いいさ、些か不服だが・・・・あの餓鬼が来る前にこの力、試して見とくのも悪くねぇ」
男を包んだ黒い靄が肥大化していく。それに伴うように男の声は音とも取れない発音に変わっていき、肌を突き刺す殺気も段差に膨れ上がる。
肉のひしゃげるような音が鳴り響き、それが本能的に恐怖を誘う。
「いいぜ、イイゼ・・・テメェヲ、アノクソヤロウヲコロス・・・・・コロシテコロシテ、ヤル」
「「!!」」
靄を切ってその内から飛び出してきた何かをそれぞれ左右に跳んで避ける。
間置かずに地面に突き刺さった其れにより軽い震動が起こる。
其れは巨大な剣だった。
鋼とも黒曜石とも取れぬ黒光りを発する其れは全長が二間程はあろうか。大凡人の扱えるものではない事だけは確かだった。
黒の靄を割って腕が、次いで本体が姿を現した。
昆虫のように全身が甲に覆われているような身体。だが膨張した肉がその滑らかさを損なわせている。節は四倍ほどに膨れ上がりごつごつした其れは甲、と呼ぶよりは岩石の塊といった方が的確なのかもしれない。
頭部から僅かに覗く赤い輝きは其れの目か。
何より全身から立ち上る狂気、既に其れは人間を辞めているとしか言えなかった。
「もう喰い尽されていたのか」
男の変貌にも凪は特に取り乱した様子は無かった。淡々と事実を語るのみ。
だがもう一人は違っていた。
「そん、な・・・」
信じられないものを見たように少女の声は震えている。いや、驚いていると言うよりも悲観している、と表した方が正しいか。
「如何した、まさかアレを見たのは初めて・・・・・か?」
その問いに少女の首が左右に振られる。
「あの人・・・・いえ、あれは」
未だその事実が受け入れられないように、少女の言葉は震えている。
「九日」
「え?」
其れから目を離し初めて凪が少女を見る。
「九日前にアレを別の身体で見ました。間違いありません」
「なん、だと・・・・それは確かな事なのか?」
すると少女は何故か僅かに頬を染めながら俯き、漏らした。
「はい。その・・・・助けてもらった時ですから」
「助け・・・千里か」
「・・・はい」
ほぅ、とため息を漏らした少女を他所に、凪にもようやく驚愕の意味を理解した。
それは絶対にありえない事。人の姿を保ったまま喰い尽すのは最低でも二週間は掛かる。桁外れに強いモノならば可能性はあるが禍々しいとはいえ目前の其れは突出し過ぎ、ではない。
だが目の前の其れが、現実が事実を否定する。
ありうるならば偶発的発破か、それとも作為的な“何か”か。
出でた其れが辺りを見回し、先に出た剣へと視線が止まった。二つの距離は大凡五間ほど。
その距離が、一瞬で詰まっていた。
其れの腕部が剣の柄を取り、軽々と剣を引き抜く。そして何かを試すように数度空振りをして、納得したように止めた。
そして其れが二人を向いた。
其れの面の配置が微妙に動く。それが笑みだとは誰も思えない。
「取り敢えず、アレが先決だ」
「はい、そうですね」
ゆっくりと振り上げられていた剣の動きが頭上で止まり、次の瞬間其れと二人との間にあった距離が二拍程度で消えた。
凶器が振り下ろされる。
地面に堕ちた其れは土を割り、そのまま刀身の半分ほどを飲み込ませた。
一寸の差を置いてその斬撃を見送った少女は舞い上がる空気に髪を靡かせながらも返し様に棍を振った。
「痛っ」
だが甲の前に棍は弾かれて、少女の手が痺れただけ。そもそも其れに痛覚があるのかどうかも怪しい。
其れが易々と刃を上げて少女を見、
「閃っ!!」
後ろから放たれた赤い刃が、だが同様に黒い甲に阻まれて弾かれる。
上げられた剣が周囲の空気を唸らせる前に二人は僅差を置いて其れから離脱した。
空気の唸る音が引いた二人の髪を巻き上げる。
「硬い、な」
嘆息を一つ零して、凪は自分から前に出た。
最初の攻撃で分かった事だが、どうやら迅いのは脚の動きだけらしく腕を振る速度、つまり剣速は移動に比べればそれほどでもなかった。
斬撃を潜り抜けて其れの懐に入り込み、焔を腹部に衝き立てた。
「っ」
やはり弾かれるがそれでも無理矢理押し込んで、兎に角触れさせた。
「発」
静かに発した言葉に同調するように、刃が爆散した。その勢いを以ってして凪は身体を宙に浮かし後退する。
立った煙の所為で視界が悪くなっている。それでも完全に晴れ切る前に、凪は煙の先を見て僅かに目を細めた。
一振りした短剣が再びその身に紅蓮を纏う。
「くそっ、本当に硬い」
腹部が僅かに黒ずんだだけ、其れは全くの無傷といってよかった。
向こうも煙の先に凪の姿を認めたらしくしっかりと見据えた後に、動いた。
迫り来る斬撃を見切る為に剣をやや上げて腰を据え
「凪さん突き!!」
掛け声に咄嗟に身を返した。
風が巻き起こる錯覚と共に其れが一瞬の内に通り過ぎて凪の背後にあった木を突き倒した。
振り返り様剣を一閃。宙を奔った焔は消えずに、そのまま数個の玉となった。
「行け」
凪の言葉と同時に火の玉が全て其れの元へと奔った。
「往きます」
続けて凪の背後から、少女がほのかに光を纏った棍を手に火の玉を追う。
其れは初陣の火の玉を剣の一振りで薙ぎ払い、爆散した火の粉がその視界を覆った。
「水月流鑓術・・・」
煙の向こうから少女の声。
一瞬煙の向こうに光る物が其れの目には映ったかもしれない。
「真突!!」
閃光と言ってもいい。
光を纏った棍の衝きはレーザーのように鋭く其れの胸を突いた。
「グ・・・?」
己の胸に打たれたモノを見下ろして、
「ガアアアアアアアアアア」
其れは景気良く吹き飛んだ。
「・・・凄いな」
その光景を後ろで見ていた凪が呆然と呟く。だがそこで少女の姿が突きの体勢のまま動かない事に気付いた。
「おい・・・?」
駆け寄って顔を覗きこむとその顔は酷く白かった。
息もしているのか危ない静止の状態で、不意に息を吹き返すように少女が荒い呼吸を漏らし始めた。
「っ・・は、は、は、は・・・・・・はぁ。や、やりました、か?」
先ほどの一撃、威力が凄まじい筈だ。恐らく全力で撃ったのだろう。もう顔を上げる体力も尽いたのか、俯いたまま聞いて来る。
「あ、ああ。あの様子なら・・・」
其れの吹き飛んだ方を向いて、
「っ!!」
咄嗟に構えた短剣は防御としてはまるで意味を成さなかった。
蹴飛ばされた石ころのように地面を転がり果て、仕舞いに木の根にぶつかり動きが止まる。
背中の衝撃に息が肺から噴き出される。
「かは・・・・、くっ・・・・・・」
少し霞んだ視界で、すぐに少女の事を思い出して凪は顔を上げた。
少女は一応まだ無事だった。運良く力尽きたらしく凪が吹き飛ばされたあの薙ぎは当たらなかったらしい。
だが所詮はまだ、でしかない。
足元に転がる少女の姿に其れは再び面の配置を微妙に動かして両手に持った剣を断首刀の如く振り上げた。
「くそ、止め」
身体を起こそうとするが鈍い痛みに無様に倒れる。
縦に動いていく視界の中で、其れが少女に向かって今まさに剣を振り下ろす。アレが直撃すれば先ず助かる見込みは無いだろう。
いつの間にか取巻く世界がまるでコマ送りのように一瞬一瞬動いていた。
宙で虚しく足掻く。どれだけ手を伸ばしても、足掻いても、この距離では如何する事も出来ない。たとえ近くにいたとしても今の凪にあの斬撃を避けるだけの力もない。
全くの無力。
世界は確実に少女の死へと向かっていた。
その事実を、どうしようもなく確信する。
「・・・ぁ」
いつの間にか握り締めていた、鮮緑の石が填まった胸元の首飾り。その石から光が溢れ出す。
なんて、錯覚。
凪は地面に倒れ、
轟音が大地を揺るがした。
◆ ◆ ◇ ◇ ◇
「お兄、ちゃん?」
萌が不思議そうに見上げてくる。
だがそんな事。
胸の鼓動が煩いほど打っていた。今にも破裂しそうなほどの勢い。
食後の梅昆布茶をゆっくりと飲むのも忘れ、恭一は呆然としながら立ち尽くしていた。
今すぐこの場から駆け出して何処か・・・『あそこ』へ往きたいという想いが込み上げてくる。
そして同時に、息を呑むようなこの感情の渦は、
「お兄ちゃんっ!!」
泣きそうな、切羽詰まったような声に身体が震える。
ふと我に返った。
「・・・何だ」
「どうか、したの?」
「何でもない」
いつもと変わらない。
出来るだけ安心させるように努めて伝えて、椅子に腰を下ろした。
不安げな眼差しがじっと見つめてくる。見返しているうちに萌の頬が段々と赤みを帯び始め、それと共に恭一は自分の気持ちが落ち着いてくるのを感じた。
一過性の衝動のようなものか。
少しだけ温くなった梅昆布茶を一気に喉に通す。
「ねえ、お兄ちゃん?」
「何だ」
「今日は、ね・・・・」
言い澱むように沈黙が続く。
恭一は萌から視線を逸らさず、萌も恭一から視線を逸らさない。
やがて思いつめるように唇を結んで、萌が口を開いた。
「どこにも、行かないで」
これから往こうとする散歩を指しているのは分かった、それにそれ以外の事も。
何故今日に限ってそんな事を言うのかは分からない。この十年間近く暗黙の内に続けていた事だ。それを萌が止めたのは今日が初めてだった。
だが今この目を離してしまうとまるで消えてしまいそうに、
「・・・・・お兄ちゃん」
昔、家で一人帰りを待つ萌の姿を思い出した。
「ああ、そうだな」
あの時と同じように、手を伸ばして萌の頭をそっと撫でる。
その頃にはもう完全に、『懐かしい』などという感情は恭一の中から消えていた。
◆ ◆ ◆ ◇ ◇
地面に倒れたまま、凪は動く事が出来なかった。
あの攻撃に対して少女は余りにも無防備だった。恐らく命はもう無いだろう。
友を失った事に対する念が胸を苛んだ。
だがそれも一時。すぐに思考を切り替えるように、傍の木を頼りに身を起こそうと顔を挙げ、ぎょっとした。
いつの間に現れたのか、目の前に男の姿が在った。
歳の頃は四・五十か、だが決して無駄に歳を取ったのではなく、一種の威厳を醸し出していた。
服装も長い今の物ではない。ボロ布、昔の和服のようなものだった。
しかし何より、凪が驚いたのはそんな事ではなかった。
其処に在るというのにまるで存在感の無さ。目視してでさえ在る者として扱う事が出来なかった。
その男は困ったように頭を掻き、何故だか笑ってみせた。
「・・・・・・・・・・・・・・」
口が何かを紡ぐ。
だが音は無い。
「何だと?」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」
やはり音は無い。
訝しがるように凪は眉を寄せて、
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」
男は諦めるようにため息を一つ付くと幻のようにその姿を消した。
まるで悪い白昼夢のようだった。
兎に角、思考を切り替えて凪は傍の木を頼りに今度こそ身体を起こした。
「は?」
その瞬間、凪は自分の状況を把握することが出来なかった。
身を起こした其処は吹き飛ばされた木の傍などではなかった。少女の、そして其れのすぐ傍、というか真ん前。
手にした剣が、白色の焔を纏った剣が其れの肩に突き刺さりその動きを止めていた。
驚きながら手を反すとまるで豆腐を切るような滑らかさで其れの片腕が落ちた。先ほどまでの硬さがまるで嘘のような手応え。
「え?」
「ガァァ・・・コロス・・・・・・コ・・ロ・テヤル」
隻腕になった其れが剣を振り上げて、振り下ろす。
凪は訳も分からぬまま下ろされた剣と刃を交わし、
「ガアァアァァ!!!!!!」
剣のみならず易々と其れの身体を引き裂いた。
袈裟方に身体を斬られた其れの身体に、斬口から全身に向けて亀裂が奔る。そして呆然と見つめる中で亀裂は砕け散り、その内側にあったと思われる肉も漏れずに其れは黒い粒子のようなものになって空に舞い上がって、消えていった。
醜い外見とは裏腹に何と幻想的な最後だった事か。
何も残ってはいなかった。男の影は、存在を示したものは何一つ無い。呆気ないほどの、信じられないほどの最後。
いつの間にか短剣を纏っていた焔が赤色に戻り、ただの短剣になっていたのだがそれにも気付かない。
凪は一人、しばらくの間呆然と立ち尽くしていた。
「凪さん、姉さん、無事!?」
後方から声に我に返る。振り向くと少年の姿を認めた。
「何か凄い光が見えて急いできたけど・・・・・・・・・・どうしたの?」
不思議そうに聞いて来る少年だがそれに答えることは出来ない。自身でさえ何が起こったのか理解できていなかったのだから。
「う、ん・・・」
僅かに、凪の後ろで倒れていた少女が身じろぎした。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
「あ〜あ〜、お気楽なものですね〜。こっちの気も知らないで」
公園とはとても結びつかない、遥か彼方の建物の屋上。
その少女は公園の方角を眺めながら嘆息を一つした。当然だが公園の方角を眺めたからといって目視できる距離ではない。
「でも・・・・・やっぱり見つかりますよね、あれじゃ。む〜、困った、のかなぁ?」
困ったと言っている割には少女の口調は弾んでいた。にこにこと笑みを浮かべながら、楽しそうな雰囲気を出している。
「それでは・・・・・・早速こちらから動くとしますか、ね♪」
少女の姿が屋上から消える。
ゆっくりと止め具を軋ませながら屋上の入り口が閉まっていった。
七宝殿〜居間で興っている事?〜
急須「難事の南、その眼差し」
萌 お兄ちゃんがいないよ〜! お兄ちゃんが出てないよ〜! お兄ちゃんが出てないよ〜!
………
萌 ……? あれ、もしかして誰もいないの?
………
萌 ????? どうしてだろ?
………
萌 あれ、本当にわたし一人だよ、もう誰か呼んじゃおっと、え〜っと…お兄ちゃ〜ん
恭一 ……呼んだか?
萌 あっ、お兄ちゃん、いらっしゃい
恭一 どうした?
萌 あのね、今回の紹介、誰もいないみたいだから来てもらったの、一緒に…しよ?
恭一 そういう事か、分かった
萌 やった〜
恭一 早く始めるぞ
萌 あ、うん
恭一 今回のは…戦い……か、これは
萌 え〜っと…うん、そうみたい、凪さんが戦うんだよ〜
恭一 まったくダメな文だな、一人一人しか取り上げられてない
萌 ぅ〜ん、それは…そうなんだけど……批評じゃなくて説明だよ、お兄ちゃん
恭一 そうか、文が下手なのは措いておくのか
萌 ……えっと、相手の生物全部『其れ』で表されてるんだよ、分かった、お兄ちゃん?
恭一 …今から此処へ行っても間に合うか?
萌 無理…だと思うよ、それよりも説明……
恭一 あの最後に出てきた『少女』が気になる、何か手がかりになるかもしれない…
萌 お兄ちゃん……
恭一 心配するな、大丈夫だ、お前のことは絶対に守る
萌 お兄ちゃん…うん
恭一 …戻るか
萌 うん!
萌 ………あのね、お兄ちゃん
恭一 なんだ?
萌 今日はがんばって夕食作るよ
恭一 …………ああ
………
恭一 ん、あと十話で会おう