放浪のヨーゼフ
シーナは逃げていた。
普段ほとんど運動をしていないシーナは息を切らしながらも必死に逃げていた。音を立てながら逃げるのは愚策である、そう狩人のジーンは言っていたが、怪物に遭遇して冷静に対処できるものなど普通いないだろう。ましてシーナは、村の出身でありながら領主様のメイドをさせていただいているという以外に、これといって特徴のない普通の女の子なのだ。
シーナの後ろを追いかけ回すのは[ストンプシープ]――――――可愛らしいモコモコの外見は虫も食べないような雰囲気を醸し出しているが、その実態は自分の二倍程の高さを跳んで踏みつけて、獲物を肉塊にして食らう魔物――――――である。
シーナは観念した。もうダメだと。ストンプシープはシーナで遊んでいたにすぎない。そうでなければ、自分の何倍もの高さを跳ぶストンプシープの脚力でシーナに追いつけないわけがない。シーナが追い詰められたのは、森の中の少し拓けた場所。ここならストンプシープのジャンプが木の枝に邪魔されることもないのだろう。
どうなるのか、それをシーナは身をもって体験することになる。
シーナは生を諦め、神に祈っていた。シーナの村で最も崇拝されている豊穣の女神トルービドー様にである。
( 大した教養のない村人にとって豊穣の女神と言われても豊穣がどういう意味かを分かっているものなどおらず、祈ると良いらしいぞくらいの印象で、祈ったとこで何かが変わることはないと、実地での経験で知っている。常習的に
祈るのはある程度の教養と財を持つ者だけなのだ。)
それでも、シーナは祈ることにした。もし助けてくれたらあなたのこと信じるから!旅の僧侶が言っていたように、毎日朝と夜一回ずつ祈るから!!
酷く即物的な祈りであり、教会の者が聞いていたのなら噴飯ものであろう。現実であれば、この願いは届くことなく、シーナは死んでいたことであろう。ただ、この世界はファンタジーだ。魔法のある夢の世界。もしかしたら神も実在するのかもしれない。その願いを豊穣の女神が聞き届けたのかどうかは誰にも分からないが、助けは来た。それだけが、シーナにとって重要なことであった。
突然のことだ。今にも遅いかからんとしていたスタンプシープのモコモコの毛に拳大の黒い塊がぶつかった。地面にポトリと落ちたそれは数瞬の間を空けて、ボンッと火を吹いた。シーナにはそうとしか表現出来なかった。
ストンプシープは、衝撃からかひっくり返っていたがすぐに起き上がり、黒い塊が飛んできた方を警戒するように姿勢を低くして見ていた。
煙が晴れてそこにいたのは、顔に傷のある白髪のおじいちゃんであった。シーナはもう一度観念した。
それは白髪のおじいちゃんが去年死んだシーナのおじいちゃんよりも年上であるようだったからだ。教養のないシーナでも、歳をとったものの足がおぼつかなくなり、手は震え、目が見えづらくなり、反応が鈍ることを知っていた。事実シーナのおじいちゃんがそうであった。
対してストンプシープは、中堅と言われるようになるDからCランクの四人程度の冒険者のパーティーが適正と言われる。一人で倒すにはBランクが最低なのだ、と元冒険者のシーナのおじいちゃんは言っていた。そして、冒険者は年を重ねるごとにランクが下がるか死ぬか引退するからしい。あの白髪のおじいちゃんがどれくらい強かったかは知らないが、ストンプシープは老人が一人で相手するような敵ではないのだ。
「おじいちゃん、逃げて!!死んじゃう!!」
だから叫んだ。もし、ストンプシープを知らないのならその外見に騙されて、私を助けようとしてくれているのかもしれないから。ストンプシープは見た目よりずっと凶暴で、目の前に立つだけで憤るという。ストンプシープに火を吹く塊を投げたおじいちゃんが、ストンプシープの怒りを買っていることに間違いはないだろう。
「君は優しい子だね。大丈夫、怖いのなら、ほんの少しだけ目をつぶっていなさい。ほら。」
おじいちゃんから発せられる声は聞いているだけで心地よく、この人ならどうにかしてくれるのではと思わせる深い安堵をもたらしてくれた。
いつの間にか、言われたとおりに目を瞑っている自分がいて、先ほどとは違って、もう大丈夫という安堵があった。
ヨーゼフは目の前の素直に目を瞑る少女に少し微笑みが漏れていた。久しぶりに交す会話は、ヨーゼフを幸せにした。放浪を続けていると、ゴロツキや金を毟り取ろうとする商人との会話はあっても、純粋な子と話すことはない。
ヨーゼフはすぐに気持ちを切り替え、目の前のストンプシープを見据えた。ストンプシープは見た目と違って酷く残忍で狡猾である。獲物に道を選ばせながらもストンプシープ自身が獲物を狩りやすい猟場へと誘導するのである。
ストンプシープの重心が後ろにズレる。跳躍の前兆だ。
ダンッ!
想像通りに跳躍したストンプシープは、その体からは想像もできない程の俊敏さである。ただ、狡猾であるとはいえ所詮は獣だ。私が老いているからか、その戦い方には遊びが見える。普通、ストンプシープは戦いにおいて、跳躍することはない。なぜなら跳躍すればそれだけ隙が生まれるし、弱点である毛の薄い腹側も晒される。それでも、ストンプシープが跳躍するのは、跳躍しても問題ないと判断した獲物の場合だけだ。
ストンプシープの跳躍に合わせて愛剣を抜く。帯広の剣は、その昔に授かったもので、魔法がかけられている。かけられている魔法は固定化と手入れ不要という微妙なものであるが、放浪の旅を続けている内に残るのはこれだけになった。
ストンプシープが私の強さに気付いたのか、空中を蹴り反転しようとする。だが、もう遅い。私の剣の範囲内だ。
剣を引いて構え、貫く。それだけだが、何度も繰り返したその動きは、ストンプシープの反転の動きよりも疾く、鋭い。
ストンプシープの腹に刺さった剣を捻り、剣を地面に振り下ろす。地面に叩きつけられたストンプシープの腹の剣を、素早く引き斬る。
ストンプシープは声を上げることもなく絶命した。
「お嬢さん、もう大丈夫。目を開けてご覧」
少女に声をかける。ギュッと強く瞑っていた目が開かれ、私の身体の隅々を見て、それから、ストンプシープの死骸を見た。
一拍。彼女は飛び跳ねて、私に近寄ってきた。その姿はストンプシープよりもずっと愛らしい。
「ねぇ、おじいちゃん、お名前は?」
愛らしい少女は先ほどの恐怖などなかったかのように優しく微笑みながら私の名を聞いてきた。
「私の名は、そうだな……。村の広場にでも行ってみるといい。きっと分かるはずだ。気を付けて帰りなさい。」
そう告げて、私は元来た道を引き返し、その場を後にした。
自然に別れを告げたおじいちゃんに私は何も言えず、村へと歩を進めた。
村では私の帰りを心配した村の人たちが、今まさに捜索へと出発しようとしている所だった。心配をかけた私は母親、父親にたっぷりと怒られた後、静かに強く抱きしめられたのだ。
その後、ストンプシープに追いかけられていたと聞いた村長が、今度は討伐のために冒険者組合への依頼書を作ろうとし始めたので、急いで初めて会う白髪の老人に救われ、その老人が一人でストンプシープを倒したことを話した。初めこそ信じてくれなかった村長だが、私の話を聞いて現場を見たものから、確かにストンプシープの死骸があったと報告され、安堵の溜め息を吐いたのだった。
今度は、その老人が誰かという話になったので、名前は名乗らなかったが、村の集会所に行けば分かると言っていたと言うと、村長は顔を曇らせ私を連れ立って、村の集会所へとやってきた。
そこで私は思い出した。村の集会所にあって、名前が分かるものといえば、国から配布される手配書にほかならない、と。
彼の名前は、ヨーゼフ・ルイゼンバーン。元第一騎士団団長でありながら、自国の王を殺した反逆者。ここ数十年において最も凶悪な犯罪者である……
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