1
「はぁ……はぁ、なぜっ……こ、こんなことに……」
前々から思っていたことなんだが、どうもオレは運というものがない人間みたいだ。例をあげてみよう。昨晩のこと、お気に入りのパンツに穴が空いているのを発見する。
これまた昨晩のこと、寝ぼけて携帯電話を投げ捨ててしまい、壁に当たった衝撃か床に落ちた衝撃かで、ただいま使用不可能になっている。
おい、どこにいるのか知らないけどよ、オレと勝負しろ!
――ゴッド!
無謀な戦いだとは百も承知で言っているが、それでもオレはお前は許せん!
神よ、一体お前は何が楽しくてオレをいじめるんだ? オレがあなたに何をしたと言うのさ。もし、目の前に神様が降臨するなら、躊躇うことなく殴りかかるだろう。
そして最後にこう言う。
『月に代わって、お仕置きよ!』
わたくしこと山下光太は今、あれ、チーターに勝てるんじゃね、ってくらいの迅速な速さで高校までの道のりを走っていた。満開に咲き乱れる桜なんて呑気に観賞している余裕すらない。
この世に牛乳さえなければこんなことには――。
「牛乳の馬鹿ヤロー!」
なぜ、こんな人通りの少ない道で、独り言を叫ぶまでに追い込まれているかと言うと、時をいささか遡らなければならない。それは今朝のこと。
ジリリリ~ジリリリ~、と目覚まし時計の音が自室に鳴り響き、ほぼ同時に上半身を起こす。数秒の硬直時間があったものの、脳はすぐに覚醒して鳴り続けていた目覚まし時計を止めにいく。目覚めは最高だった。
時刻は七時三十分。
普段よりも早めの起床だ。今日は高校の始業式で二年生になるわけだが、別に嬉しいとかいう感情はないにしろ、多少の緊張感とワクワクがあった。まだ学年が上がったという実感は沸かないけど、初々しい後輩の姿を見れば、そこそこは実感が沸いてくるだろう。
正直に言って、昨年の一年間オレはナンセンスに生きてきた。部活には無所属でバイト経験もなし。勉学に励んでいたかというと、そうでもない。毎日することもなく怠惰な生活を送っている。同じ景色を繰り返す、メリーゴーランドのような生活にそろそろ嫌気が差していた。
そこで二年なった節目の今、この人生を百八十度回転……は大袈裟だけど、何かを変えたいと思っている。
だが、面倒事は御免だね。やはり人生、平穏、平凡ってのは大事だと思うのよ。
「おいっ、童○! 飯だ!」
少々やるせない気分になっていたとき、我が母親の声が一階の方(今いるこの部屋は二階の隅にある)から聞こえてきた。確認しておくが、本当に血の繋がったオレの実の母親だ。
「お、おう。ちょっと待っててくれ!」
起床してすぐに声を張り上げるのは辛かったけど、返事をしなかった時のことを考えるとおぞましい。こんなやり取りを朝からするオレ達は、珍親子なのかもしれない。ご近所さんに聞かれていないかが不安で仕方なかった。
ちなみに母の言う通り、オレは童て……ってどうでもいいな。
オレはもっと、誰もに羨ましがられる淑女な母さんが良かったと心から思う。『光太ー、ご飯できたわよー。うふふ』みたいな感じだろうか。本当にこんな淑女さんが存在するのか、お尋ねしたくなるが今は置いておこう。
生憎、オレの母はまったく逆の生き物。ただ母さんを全否定しているわけではないのだ。こうして、朝食が出来上がっているのは、オレよりも早起きをしているわけで、それに関しては敬意を表したい。
学校に行く準備、学校規定の制服を着て、洗顔と微妙に跳ねている寝癖を直し、朝食が準備されているであろうリビングへと向かった。
母さんがどこにもいないのが気になったが、気にしたら負けだ。
食卓の上にパンとマーガリン、牛乳が置いてあったので、それを朝食として、登校時間まで適当に時間を潰すことにした。
「……っ!」
エマージェンシー……。エマージェンシー……。
突然襲い掛かる腹の痛みに「うおおぉぉぉ!」と腹を抱えながら叫ぶ。なんとか痛みに耐えつつ一階にあるトイレに移動したはいいが……扉が開かない。
思い当たる節はなくはない。というか言ってしまえば、それしかない。
「入ってるのよ! しばくわよ!」
案の定、開かない理由は母さんが先に入っていたからで、若干の苛立ちを抑えて母さんが出てくるの待っていた。一軒家にトイレが一つしかないことに、これほど悩まされたのは今日が初めてだ。
トイレにこもること約十五分、ようやく痛みも治まってきた。
母の話によると、昨日飲んだ牛乳の期限が一週間ほど過ぎていたらしい。それを知っていて実の息子に飲ませるなんて本当に極悪マザーだ。となると、母さんがトイレにいたのも……いや、あの母さんが牛乳なんぞに負けるわけないか。
「……あ」
ふいに言葉が漏れたのは大事なことを思い出したからだ――。
そうして、始業式そうそう息を切らして猛烈なスピードで登校している今に至るわけだ。いつも通りの速度で歩いていたら確実に遅刻だが、このペースを保っていけば、なんとか間に合うかもしれない瀬戸際に立たされている。
諦めたが最後。どんな漫画の主人公だって一パーセントの可能性がある限り諦めなかったさ。
高校まで残り半分の道のりになろうとしていた所で、オレは走るスピードを大幅に緩めた。疲れたという理由もあるけど、もっと重大な理由があった。なんと、歩道の真ん中に人らしき物体が倒れているのを確認したからだ。
遠目だから正確には見えないが、女性のように思える。心配になって駆けていくと、見覚えのある制服というか、オレの高校の制服を身に纏った女の子が倒れていた。
「ねえ君、大丈夫?」
とりあえず、気になって話しかけてみた。意識があるのかないのか、微塵も動こうとしない女の子。そして訪れる沈黙。
もしかして気を失っている? 転んだのではなく、なにか病気で倒れてしまったのか――と数秒のうちにいろいろ考えたが、やがて女の子はおもむろに上体を起こして目が合った。
「……わっ! わわわわ! え、なんで?」
驚き方が尋常ないのは今は横に置いといて、『なんで?』とはこっちが問いたい。意味の解らない問いに頭を抱えたくなったが、彼女の顔を冷静になって見直したら、そんなことどうでもいいと思ってしまった。
オレが出会ってきた……いや、見てきた女性のなかで、彼女は群を抜いて可愛かった。それはテレビで見るどんな女優さん、アイドルよりも可愛く思えた。顔の全てのパーツが整っていて、本当にこんな人がいるのかと感嘆してしまいそうになる。
「あの……?」
「あ、ごめん! み……」つい見惚れていたなんて本音が出てきてしまって、急いで言葉を呑み込んだ。「いつから、どうして倒れてたの?」
軽自動車二台がギリギリ通れるであろうこの道は、家が立ち並ぶ住宅街の裏道のような通りで、平日のこの時間では人通りはごく僅かになる。いつもなら同じ高校に通う生徒がちらほらと通るけど、この時間帯ではさすがにいなかった。だから誰にも気付かれずに、オレがここを通るまでこうして倒れていたのだろうか。
「今日からだよ~」
事もなげにそう言った彼女はゆったりと続けて言った。
「たぶん転んだんだと思うの~。でも段差とか大きな石とかもないし……」
予想外な返答に戸惑いながらも、オレはつい口をはさんだ。
「自分の足につまづいた、とか?」
「それだ!」
パッと花が開いたかのように笑顔を向けられ、思わずドキッとした。自分の足につまずいたことさえ気付かないようなちょっと変わった人だけど、そんなことよりも、ただ笑顔に魅了されてしまった。
「そろそろ起きあがったら?」
上半身だけ起こして、膝を曲げて地べたにペタンと座っている、いわゆる女の子座りの体勢でさっきから会話している。オレは小さな子供を相手するみたいに中腰だ。
彼女は「えへへ、そうだね」と上機嫌に笑ってみせ、スカートについた砂埃などを落とす仕草をした。足を怪我して起き上がれるか多少の心配はしたが問題なさそうだ。
「ひとつ訊いていい?」
「なんなりと」
「……うんじゃあ、なんでずっと起き上がらずに倒れていたの?」
そう、それがずっと気になって仕方なかった。もしかしたら重い病気なのかと思ったし、大怪我したのかとも思った。それなのに立ち上がった時は痛む仕草も見せなかった。
「……たの」
「え? もう一回」
「恥ずかしかったの~!」
彼女の顔はみるみるうちに赤くなり、今にも爆発しそうなくらいだ。確かに何もない場所で、うつ伏せになるほど盛大に転んだら恥ずかしくもなる。だからと言って、その場でいつまでも固まるなんて発想はさすがに浮かんでこないが。
「歩ける?」
耳まで赤く染める彼女は、そんな顔を見せたくないのか俯いている。
「歩けないって言ったら?」
「おいてく」
「ひっど~い!」即答で答えたオレの横腹に向かって、ぽかぽかと彼女は小さな拳で叩く。「歩けるもん!」
そう言って彼女は一歩二歩と小さな歩幅で歩き始めた。どうやら、怪我という怪我はしていないらしく、オレは安堵の息を吐いた。さっきまで肩で息をしていたオレもだいぶ楽になってきた。
「仕方ないからオレも一緒に行ってやるよ」
「ホントっ? ホントにホントに本当?」
一体オレは何様なんだと自問自答しそうになるが、それよりも女の子の反応が気になった。こんな顔に特徴もない普通の高校生と登校するというだけで、なんでこう、いちいち嬉しそうな顔をするんだ? これも整った容姿のせいなのだろうか、さして嬉しくもないけど、常にそういう表情で振る舞っているから、オレの大きな勘違いとなってしまうのか。
実際はそんな深いことは考えられずに、満更でもない感じだった。
「ああ、どっちみち遅刻だし、通る道も一緒なんだからな」
「うん! ありがと~。山下君には今度なにかお礼しなくちゃだね」
「そんなお礼なんて……え?」
ちょっと待て、今オレの聞き間違いじゃなければ山下君って聞こえてきたんだが、いつオレがこいつに名前を教えた?
「ん?」
「いやな、確かにオレは山下だけど、そんな情報どっから仕入れてきたんだ?」
同じ学校である以上、名前を知るきっかけなんて少なくともゼロではないにしろ、オレは目立ったことはしていない。オレには彼女が何年生であるかも知らないし、もちろん名前も然りだ。
「あはは、それは秘密っ。気にしなくていいよ~」
一体これを秘密にして何かメリットがあるのか教えて欲しかったが、きっと深い意味もないのだろう。ただ、気にするなと言われたら、人間いやでも気になるもんだ。
そしてオレ達は桜が舞うポカポカ陽気の中、そこそこ会話も弾み、胸張って遅刻しました! と言えるくらいの時刻に学校に着いたのだった。
このたった十数分の出来事がオレの日常を少しずつ変えていくことになった。