戦いのはじまり
外からは子ども特有の高い声が聞こえる。これからどこか遊びに行くのだろうか。近くには市で運営しているプールがある。そこに行くのかもしれない。「待てよー」と声がする。
ぼんやりとした頭で考える。よいな、と。
叫ぶ元気があってよいな、いっしょに遊ぶ友だちがいてよいな、明るく笑えてよいな。
額に浮かんだ汗をTシャツで拭く。枕もとに置いてある時計を見て、ため息を吐いた。
昼の三時。まだ暑い時間ではないか。
冷房もなにもつけていない部屋のため、一度暑さに気がつくともう二度寝ができない。しかたがなく起き上がり、階下の台所まで行こうと部屋を出る。
「え? よいわよ。どうせ向こうは遅いんだもの」
かすかな声が耳に届く。声をひそめているつもりらしいのだが、丸聞こえだ。いつもより声のトーンが高い。華やいだ声。家にいるときには聞けない声だ。
(これから出かけるのか……)
会話の内容は想像がついた。これから会わないか、という誘いを受けたのだろう。
父親は確かに会社で遅くなる。だから、母親も誘われれば当日でも簡単に出かけていく。
「ええ、わかったわ。それじゃああとで」
やさしくあまい声。その声を聞いて、また自室に戻った。しばらくしてから階段を昇って来る足音が聞こえた。これから着替えてたっぷり化粧をして、髪もセットして、踵の高い靴を履いて出かけるのだろう。そんな母親は別人に見えた。
そんな姿を見ると、もうこの家には戻ってこないのだろうと毎回思う。実際には戻ってくるのだが、精神的に戻ってこないだろうということだ。
離れてしまった心は、もう戻らない。
クローゼットを開ける音が聞こえる。ハヤトは息を殺す。自分が気付いていることを、相手に悟らせてはならない。ゆっくりと音をたてないように、再び寝転がる。寝たふりをして、気配を探る。
途中でなにかに気がついたらしい。「あ」と声をあげて、こちらへ足音が近づいてきた。
そうっとくる足音。ゆっくりあけられる戸。その気配を察して、ハヤトはぎゅっと目をつぶった。なるべく自然に呼吸をする。しばらくそのままだったが、やがてゆっくりと戸がしまった。
「なら大丈夫ね」
ひとり言をつぶやくと、また準備に戻る。三面鏡を開ける音がした。これから化粧をするのだろう。それがわかると、ハヤトは寝たふりを解除した。
これでもう自分の様子をうかがうようなことはしないだろう。あとは台所のテーブルの上に金を置いて出ていくだけだ。「友達とご飯を食べます。好きなものをこれで食べてください」と書かれた広告の紙の裏。
会話はしない。まるで話したらいけないという決まりがあるかのように。
話したって、お互いに顔を見ない。言いたいことを言ってそれで終わりだ。極端な話、ぼくがどんなに殴られてきたってわからないだろう。
こんな状態を家族と呼ぶ人がいるのなら、お目にかかりたい。
いつまで続くのだろう。母とその交際相手は本気なのだろうか。だとしたら、ぼくはいつ出ていけばよいのだろう。すぐに就職しなくてはいけないことになりそうだ。
なにになりたいかだなんて関係ない。金が必要だ。ひとりで暮らしていくにはどれだけの金が必要なのか。教師や親に聞いたってまともな答えをくれるはずがない。正気を疑われて、根掘り葉掘り聞かれるだけだ。
家賃、光熱費、食費…と考えるが、相場がよくわからない。それでも、ひとりで生きていくのだ。
もう、この家は終わりだということはわかっている。
セミがうるさいほどに鳴いている。警告のように、頭に響いた。
「お疲れ。今回の範囲だ」
いつもなら上司から渡される星の地図。なぜか今回に限ってはコウから渡された。
「……これは」
なんだ、この範囲は。
思わず息をのむと、言いたいことを理解したらしい。すぐに説明される。
「正式にハヤトがエース候補として挙がった。今日は練習飛行だ」
エース候補。その説明として、わざわざエースパイロットのコウが説明に来たらしい。
「ここが中間地点だ。燃料補給と睡眠をとるといい」
いつもより明らかに範囲が広い。こんな範囲の飛行は初めてだ。
「中間地点は初めてじゃないよな?」
「まあ、何回かは利用したことがあります。新人時代はとくに利用していました」
最初のころは効率よく回る、ということができなくて何度か燃料危機に陥った。そのときに利用したのだ。新人のときにはよくあることらしく、やや挙動不審の自分を先輩パイロットたちは「気にするな」「よくあることだ」と笑っていた。
「そう、睡眠もとれる施設もある。利用したことがあるかわからないが、今回は利用しろ。じゃないと絶対もたないからな。あと携帯食も補給しておけ」
「了解」
コウは大きくうなずく。
「で、質問は?」
「……長い飛行ができるようになればエースなんですか?」
今回の飛行が、エースになるための仮試験みたいなものなのだろうか。疑問を口にすると、コウはやや考え込んだ。
「まあ、それもひとつだな」
「試験に合格したら? 勤続年数も関係あるんですか?」
「それもある」
そこでこの前の会話が頭によみがえってきた。夜間飛行の目的。
「……目的を理解したら、が一番の大きな条件なんですね?」
「そうだ。今回の飛行は目的を理解させるための飛行だ。……理解して、賛同したらだな」
新しい情報を手に入れて、思わずコウをまじまじと見る。
飛行直後のコウと違って、ひげがなくなっている。そのせいか若く見えた。いったいいくつからここで働き、いつからエースになったのか。
「賛同ですか。……具体的にはまだ教えてもらえないんですね」
この間から謎かけのような話が繰り返されている。そこまで隠さなければいけないものなのだろうか。
「……おまえは賛同しないかもしれないな」
ぼそりと、ため息を吐き出すようにして言われた言葉。
「夜間飛行なんて、本当によいところなしの仕事だ」
それがわかればいい。だんだんと声が低くなっていく。わざと聞き取りにくくしているのかもしれないが、残念ながらすべて聞こえた。
「エースになっても?」
聞き流してほしかったのかもしれないが、質問してしまった。パイロットの頂点であるエース。その地位に立っても、なにもないのだろうか。
「そうだ。まったく、な」
そういうものか、と納得しかけてふと思いつく。
「エースのなかのエースになっても?」
浮かんだことをそのまま言うと、コウは虚を突かれた顔をした。考えつかなかったのだと、その表情でわかった。
「……そうだな。それにはだいぶ時間がかかるだろうが」
歯切れが悪い答え。あまり期待ができそうにない。
なにもしないよりかはマシ、という程度なのだろうか。
そこまで考えて、ふと思いつく。エースになった場合、コウの部下になるのだろうか。
「……もしぼくがエースになったら、コウさんが直属の上司になるんですか?」
「ああ、そうだな。そのときは面倒見てやるよ」
やや乱暴な言い方だが、彼が面倒を見たくてたまらないという様子に見えて、思わず笑った。
「じゃあ、気を強く持てよ」
いままでの空気がガラリと変わって、深刻なものへと変わる。
「戻れないほどきついんですか?」
「……戻ってこないやつもいる」
眉根を寄せると彼は少し笑った。
「おどして悪かったな。待っているから、行ってこい」
言いたいことだけ言うと去っていく姿を、じっと見つめた
「中途半端で思わせぶりだな……」
ため息をついてから、自分もその場を去る。
さあ、戦いに行こう。