限られた時間
寮に帰るのはもうずいぶんとひさしぶりな気がする。
不規則な生活はいまさらで、自由な時間などあまりない。
もっとも、自由なんてあっても退屈なだけだ。家族に会う必要もないし、友人もいない。寮の部屋のなかでひっそりと過ごす。けれど、それが一番平和な気がしている。
だれとも会わない生活ということは、気を遣わなくてすむということだ。
「夜間飛行の目的か……」
答えは見つかりそうにない。そもそも、言われてすぐに思い当たることがあれば、六年の間に気がついている。
わからないことをいつまでも考えていても仕方がない。こうして頭を切り替えることが、癖になっている。だから気づけないのだろう。しかし、ここで生きていくためには必要なことだ。
「飯でも食いに行くか」
財布をジーンズのポケットに突っ込むと部屋を出た。
今日の食事は何にしようか。肉が食べたい。長い飛行を終えると、野菜よりも肉。脂っこいものが欲しくなる。体にはよくないのだろうが、仕方がない。その分、宇宙では味気ない携帯食を片手で食べているのだから相殺してくれるだろう。
食事は自分の部屋で作ったことはない。なるべく生活感を出さないようにしているからだ。
冷蔵庫のなかは、飲み物しかいれてない。食器は数えるぐらい。家事はほとんどしない。するのは、掃除機をかけるぐらいだ。
ほかの人、たとえばコウはどういう風に生活しているのかは知らない。
プライベートで親しくなると、あとで支障をきたす恐れがあるからしない。いつか消えてしまうかもしれないからだ。失踪、だなんて生殺しだ。
まだ生きているかもしれない。どこかの星に緊急着陸して、帰るに帰れないだけかもしれない。それなら見つけ出せばいい、そんな風にも思ってしまう。
割り切れる要素がどこにもない。何年待っても、いくら探しても見つからない。そうしている間に探している人間の精神が病んでいく。
ミイラ取りがミイラになる。
まわりを見て、生きていくために学んだ。切り捨てなければいけない感情。付き合い。
プライベートをのぞくべからず。親しくなるな。
生きていくためには、ある程度心を凍らせなければいけない。ここでの裏ルール。
自分も星の海に消えたくなる日が来るかもしれない。勝手に着地して、夜間飛行を終わらせる。その日のために、なるべく支給されたときのままの状態で過ごしているのかもしれない。仮の住居。だから、いつまで経っても自分の部屋という気になれない。
みな明るい表情で日々を過ごしているが、夜間飛行に慣れた人間はおびえているのかもしれない。
外に出ると、夕焼けが広がっていた。
よかった。今日はごくふつうの食事の時間に間に合った。宇宙に出ていると、時間はあってないようなものだ。朝だろうが、夕方だろうが関係はない。戻ってこられる時間はバラバラだ。
朝早くに帰ってきて食事をとろうとしても、店はやっていない。やってはいるが、食べたいものが食べられるとは限らない。
この時間だと、食べられそうだ。ひさしぶりにステーキでも食べようか。肉と脂っこいもの。欲求を満たすメニューだ。
考えながら、タバコをポケットから取り出す。火をつけて煙を吐き出すと、風に流されて夕焼けの空に消えていった。肺に流れ込むものを感じて、うすく笑う。不健康にまた近づいた。
けれど、だれが健康なんてものに気を遣うのだろう。いつか消えていくかもしれない職業の人間が。 ぼくたちには限られた時間しかない。
パラパラと灰が落ち、火がくすぶっている。
命の残り火。
世の中では人口増加で食糧が足りないだの、ゴミ・環境問題やら、戦争やら、住む場所が足りないだのいろいろ言われている。そんなにも多くの人間がいるなかでも、ぼくらのように時間が限られている人々は少ないだろう。
これがぼくらの毎日。ぼくらの戦い。
しばらく歩くとヒグラシの声が聞こえた。すっかり忘れていたが、夏が近づいているらしい。
季節を感じられるほど地上にいるわけではない。飛行に出て、外に出るのは週に一日あるかどうかだ。 そんな生活を繰り返していれば、月を数えるのを忘れる。
長袖のシャツの袖をまくって、額ににじむ汗をぬぐう。しまった、汗をふくものがないと思いながら目的の店の扉をくぐる。
「いらっしゃいませ!」
明るい少女の声と涼しい空気に出迎えられる。
「おひとりさまですか?窓際の席へどうぞ」
無言でうなずいて、示された席に座る。メニューを目の前にひらりと差し出される。
「ご注文がお決まりになりましたら、お呼びください」
少女はよどみなく、さわやかな笑顔で言う。メニューを見るふりをしつつ無言で観察する。
ぼくと同じぐらいの年だろうか。やや下かもしれない。
グラスに冷水を注いでから一礼して去っていく。ぼくのような態度が悪い客にも接客態度を崩さない。できた人物だと妙なところで感心する。
この仕事にはどれだけの時給が発生しているのだろうか。その時給で納得して、自分の時間を切り売りすることを決意したのだろう。
思考が変な方向に流れていることに気づいて、意識をメニューに戻す。肉の焼ける音と、にんにくの匂いが漂ってきて食欲を誘う。
真剣に考えることが面倒になってきて、おすすめステーキディナーセットにしようとなげやりに決める。
肉が食べられればそれでよい。
視線を上げれば、先ほどの少女がやってきた。無言でメニューの写真を指させば、気を悪くした様子も見せずににっこりと笑う。
「おすすめステーキディナーセットですね。焼き加減はいかがいたしますか?」
「レア」
即答して、相手を見ずに注文の復唱を聞く。彼女はそんな失礼な客には慣れているのかさわやかな声だ。
軽く礼をしてから立ち去る後ろ姿を見送り、水を飲む。自分と同じく汗をかいたグラスから水滴がたれる。
まだ夕飯の時間には少し早いが、家族づれの客が何組かいるようだ。子どものはしゃぐ声がする。つれて視線を動かすと、三人組みの親子だった。
両親そろっての外食など経験したことがない。それに、ふたりの前ではしゃいだ記憶もない。
笑い、さざめいている声。
ぼくはいつも冷めていた。一歩引いて、ふたりの機嫌を分析してこれ以上悪くならないようにふるまっていた。
処世術を身につけた子どもなど、かわいくともなんともない。
だからぼくには楽しかった記憶はない。
いつもだれかの機嫌を気にして、遠くから眺めている子ども。
当然、友達もいなかった。
ため息をついて、水を飲む。氷がそのまま口に入ってきたので、ガリガリ音をたててかむ。
空しい気分を殺すように、氷を細かくしていく。
セミの声が遠くから聞こえる。
肉が焼ける音。にんにくの匂い。
我が家では料理を作ってもらえなかった。出来合いのものですますか、ファーストフード店で食事をすませていた。だれかが自分以外の人に食べさせるために作る料理。
夕飯どきになると、あちこちの家庭から流れてくる匂い。カレー、しょうゆを煮つめた匂い、焼き魚、そのどれもが幸せそうな暖かい家庭に見えた。
ぼくの家にはない匂い。