自分のなかの死神
母星に戻り、誘導灯に従って着陸させる。コックピットを開けて飛び降りた。
とたんに、色と音が戻ってくる。あの星の海のなかにはない色、自分の声ではない他人の声、生活音があふれている。
この瞬間に生きているのだと実感する。夜間飛行の終わりだ。
そう、星に帰ってくれば終わる。終われるのだ。
「今日も無事の生還、お疲れさまです」、「おめでとうございます」と整備係にお決まりの言葉をかけられる。人によっては「お疲れさま」が「おめでとうございます」に変わる。
「ああ、お疲れ。あとよろしく」
それらに軽く返事をする。どうせ、本心で言っているやつのほうが少ない。
帰ってくるやつと帰ってこないやつ。
いつの間にか人数が減っていれば、どこからか補充されてくる。機械的に、表面では穏やかに。
その光景にみな慣れている。慣れれば、生還のあいさつはたんなる儀式になる。毎日気持ちよく過ごすための儀式。儀式が終われば頭のスイッチを切り替えて、それぞれの役割に没頭する。自分もさっさとスイッチを切り替えて寮に戻ろうとしたとき、後ろから声をかけられた。
「おー、ひさしぶりに見る顔がいるな。元気か、ハヤト?」
「無事の帰還おめでとうございます、コウさん。見てのとおり、ぼくは元気です」
「減らず口は相変わらずだな」
わざと規律正しくお辞儀をしながら答える。コウは面白そうに笑った。
「おかげさまで」
一回り以上年上のコウは、見ない間にだいぶふけこんだ。ひげをそるのを忘れているからかもしれない。
「ふけましたね」
さらりと言うと、コウは大口を開けて笑った。ぼくの目線から何が言いたいのかを理解したらしい。ひげをなでつけながら言った。
「まあな、せめてひげをそれば変わるんだろうな。または髪を増やすとか」
さも簡単に言うので思わず笑うと、コウは満足そうに笑った。
「こうして軽口をたたけるのなら安心だな」
「どういうことです?」
深刻な気配を察して、思わず声を低める。辺りには、ほかの夜間飛行のパイロットたちがたむろしている。
「新人たちがそろそろ第一の波に入る。たまにそれにつられて、ベテランも波に飲まれることもあるからな」
「ああ……」
納得してうなずく。飛行を終えたばかりのパイロットたちはやたらと興奮して、なにかを大声で言い合っている。
最初のころは独特の高揚感に戸惑った。自分でも制御しきれないほどの興奮状態。それをなにで鎮めるかが問題だ。酒、タバコ、女、ケンカ。あるいは負の感情にとらわれると自殺、ということもありうる。 表面にださなくても、再び夜間飛行に出れば自発的に失踪する人間もいる。
ハヤト自身はタバコで気を紛らわせている。ケンカと女で鎮めようと思ったことはない。
そんなものは親の間に起きた問題を見ていれば飽きた。それに女にのめりこもうとしても、頭の片隅にちらつくのは母親の姿だった。結局は子どもを捨てた母。
自分をゴミにした母。
のめりこんだとしても、もういらないと言われるのではないかという思いが頭にちらつく。甲高い声も苦手だ。あまく、やさしい声を出すくせに掌を返して急に冷酷になる。だから女はこの世でもっとも理解できない生き物だ。関わる気はない。
ケンカはもう見あきた。ただそれだけの理由だ。だから消去法でタバコしか残っていなかった。
肺に満ちるものが、冬の凍えた空気ではない。煙が肺に入ってくれば、それだけであの出来事を消せるような気がした。一瞬でも、そんな気にさせてくれるタバコは好きだ。
暗い感情をタバコが吸って、空気を濁らせる。たんなる煙だとわかっているが、そう思うと胸がすっとした。自分のなかで積もりにつもった感情を、吐き出させてくれる。
言葉にできなかった数々の想いを煙にする。
「そんな時期か。たしかに、あいつらそろそろケンカはじめそうですね」
喫煙できる場所は限られているため、すぐには吸えない。そんなうっぷんを他人に向けるやつも少なくない。喫煙所まで我慢して思う存分タバコをふかせばよいものを。
「まったく、おれらが見てないところでしてくれよ。先輩がとめなきゃいかんだろうが」
「エースパイロットならなおさら、ですね」
「……おまえもそろそろ仲間入りだぞ。六年もいればベテランだ」
六年。六年もこの世界で食べていたのかと改めて感心していると、考えていることがわかったらしい。あきれた顔をされた。
「自覚なしか」
「もうそんなになるんですね。ぼくはまだまだ新人かと思っていましたよ。あいつらに同期扱いされるし?」
しばしの沈黙。ほぼ同時に大笑いをすると、周りにいた人々がギョッとしてこちらを見た。まともなやつらから見れば、気が触れたと思われてもしかたがない。
「童顔だよなぁ、たしかに。ま、おまえはそれを差し引いても若いけどな」
「ここには制限年齢で入りましたから」
夜間飛行パイロットは十五歳からと法律で決まっている。義務教育が終了するからだ。
しかし、実際にはその年齢で応募する者は少ない。
死亡率が高いからだ。だからこの年齢でパイロット、となるとわけありということになる。
もちろん、ハヤトもそのわけありの人間だ。
母親が不倫をし、父親と離婚。その後不倫相手と結婚した。母親は子連れ再婚をしたくないのは当然だし、だからといって仕事人間な父親に自分の面倒を見ることはできない。
ようするに、ぼくはいらなかったのだ。粗大ゴミのように回収できればよかったのだが、そうはいかない。どこにも捨てられないし、どこにも行けない荷物。
金を払っても取りに来てもらえない、意思を持つ大きなゴミ。
そんななか、夜間飛行パイロットの存在を知った。
多額の給料。寮まであるのだから、衣食住に困ることはない。年齢もギリギリだが、クリアしている。どちらにもついて行かないことを宣言して、駆け込み寺のようにやってきた。そのまま現在に至る。
後悔はしていない。
ここではやることがあるし、こうして話す相手もいる。家に帰れば、毎日沈黙が満ちていた。いつ帰ったのか、いつ出かけたのかわからない家族たち。同居している他人の寄せ集めのようだった。会話もなかった。学校行事を知らせるプリントはコンビニの前のゴミ箱に捨てていた。
なるべく会話をしないように。これ以上面倒だと思われないように。
自然と口数が減るぼくに対して、同級生たちは手厳しくなった。しゃべらないなら何をしてもよいと思っているように、嫌がらせが続く。教科書への落書き、清掃当番の押しつけ、面倒な係りはすべてぼくに回ってくる。表面しか見ていない担任は、ぼくを「真面目な人間」だと評していた。
どこに行っても、ぼくはひとりだった。
学校は息苦しい。けれど、家に帰ればもっと苦しい。
夜間飛行者になれたのは幸運だった。あの地獄はもうここにはない。
けれど、飛行に出ればあのときの窒息感がよみがえる。のどの奥がつまった感じがして、気持ちが悪い。しょっちゅう家にただよっていた空気を思い出す。
海外の守り神の置物、枯れた花、福寿草、コンビニの前のゴミ箱。
飛行に出れば、闇しか広がっていない。しかし、闇は目に見えるものだけではない。自分のなかの暗い過去がじわりじわりと漏れ出して、宇宙へ広がっているようにも感じる。
いつか自分を飲みこむかもしれない闇。それは自分のなかにあるものだ。
本当の闇は宇宙ではない。自分だ。
「それでもまだギリギリ十代だろ」
「去年成人しました。一応」
ややむかついてにらみつけるようにして言うと、コウはさらに笑った。
「童顔、気にしているんですからね。新人たちにタメ口きかれるんです」
家を出た冬のあの日。あの日から自分の時間は止まっているのではないかと思うときがある。
だから、ぼくは幼いままなのだろうか。玄関先にあった枯れた花。あの花のように、もっとも美しい時期は終わってしまったのではないだろうか。
成長しない自分を置いて、時間は流れていく。周りの変化は早い。ただそれをぼうっとしながら眺めているだけのように感じる。
ぼくには、生きている実感がない。そんな人間が年をとれるだなんて笑い話だ。
自分のことなのに、どこか他人事のように感じている。夢を見ているように、ふわふわとした世界。夜間飛行はその夢のなかに登場する死神。