静寂の中の感傷
両親がついに離婚した。
もうこれ以上家にはいられないし、親戚に世話を頼むにも世話代という料金が発生する。善意、という言葉はどこにも存在しない。ただ、世間体という外見ばかりを気にする一族たちには、自分を受け入れる気などないだろう。
だから出ていく。母は再婚相手の元に行くのだし、父には大量の仕事がある。それぞれに居場所があり、ないのは自分だけなのだからこれから作るしかない。
新しい土地で、新しい環境で。
玄関先で靴を履き、ドアノブに手をかける。そこでふと振り返る。
電話の脇に置かれたダイレクトメール。枯れた花を飾った花瓶。新婚旅行先で買ったという海外の守り神の置物。雨漏りのシミ。手入れを忘れた下駄箱の上にはほこりが積もっている。
もう、ここには戻らない。戻れない。
自分が今日出ていくことを知っているはずだが、見送ろうという意思はないようだ。
父親は仕事疲れでまだ寝ている。母親はもう家を出てしまっている。
ふたりとも、子どもさえいなかったらもうとっくに離婚していただろう。
自分さえいなければ。
ドアノブを回して、外に出る。
縁側に置かれた鉢植え。どこかからもらってきたという福寿草だ。黄色の花を咲かせている。福、守り神。すべてが迷信だ。なんだか馬鹿にされているような気がして、軽く鉢を蹴る。
黄色の花がわずかにゆれる。ふわふわと笑うように。
もうこれ以上植物にからむのをやめて、外の戸を開ける。辺りはひっそりとしていて、ただでさえ寒い冬の空気が凍りつかせている。
リュックに入るだけ詰めた荷物が重い。肩に食い込んでくる布地をぎゅっとつかむ。
今日から、ぼくは生まれ変わる。
捨てられなかったゴミから、人間に。
朝の空気が痛い。容赦のない冬の寒さが肺に流れ込んでくる。その冷たさに思わず咳きこんだ。空はどんよりと暗く、これから雪が降り出してもおかしくない。襟元をきゅっと握りしめて、熱を閉じ込める。
決意して踏み出した足は、霜を踏んでしゃり、と音をたてた。
ぼくは、ぼくだけの居場所を作るんだ。
ひらひらと白いかたまりが降ってくる。旅立ちの日は雪だった。
あの冬の決意の朝から数年。ぼくは自分の居場所を見つけられないでいた。
自立はしている。だれにも頼らずに生きているけれど、それだけだ。
仕事をして金をもらう。生活はできているが、自分だけの居場所はまだない。
ゴミはいつまで経っても、どこまで行ってもゴミだと言われているような気がした。
あの日笑った福寿草の黄色が鮮やかによみがえる。いつまで経っても色あせず、ただただ美しいばかりの花。
けれど、枯れてしまえばあの花だっていつかはゴミになる。
では人間は? 自分は?
いらない、とはっきり言われたわけではない。わかっている。空気がそう言っていた。
あのふたりに流れる空気が、家に漂う雰囲気がもういらないのだと言っていた。両親の仲は急速に冷えていく。ふたりは別れればよい。しかし子どもはどうするのだ、という会話が深夜ひっそりと行われていた。最初のうちは声をひそめていたが、やがてふたりは責任のなすりつけあいになり、結局「結婚しなければよかった」という結論になる。
毎日その繰り返しだった。一向に決まりそうに話し合い。そして、子どもはいらないと言わんばかりのなすりつけあい。ふとんのなかですべて聞いていたぼくは、「出ていく」と両親に告げた。
それが最善の方法に思えた。
母はそのまま再婚できるし、父は以前のように仕事に打ち込める。
両親はおどろき、ふたりのうちどちらを選んでもかまわない、追い出したいわけではないと言った。
うそばっかり言いやがって。
あてがあるなら、そうしてほしいという本心が表情に出ている。
「寮があるところで働くことになったから。肉体労働のところだから、若い人がいると助かるんだって」
うその仕事内容を説明すると、ふたりは安心したように息を吐いた。まだ若いのに、と付け足すように言われたがこれで話は終わった。両親はあっけなくだまされた。
ああ、これでもう終わった。ふたりの子どもであるという役割が終わった。
本当の仕事を言わなかったのは、死亡率が高いからだ。反対されるに決まっている。
こうして、ぼくはいまの仕事をやっている。高額の給料に、住む場所。義務教育が終われば、だれでも採用試験を受けることができる仕事。条件を知って、飛びつくように応募した。
好条件の仕事の裏を、知らなかった。宇宙へ行くという危険を、ぼくはまだ知らなかったのだ。死亡率が高い理由を。
こんなことを頻繁に思い出すような闇のなかに、たったひとりで放り込まれる孤独を。
宇宙ではいつも夜だ。そのため、星の間のパトロールのことを、仲間たちは「夜間飛行」と言っている。
異常があれば報告。しかし、なければそれまで。星のパトロール。もしもデータにない星を見つけたら報告。あるはずの星がなければこれも報告。ここのところ、あまり報告をしていない。データどおりなのだ。報告する必要がない。
パトロールの範囲は決まっている。決められた範囲を手分けして旅に出る。
もちろん、危険と隣り合わせでもある。
操作を誤り、かけらに衝突して星の海に消えた宇宙飛行機もある。
孤独に耐えかねて、発狂して行方不明になる者も。そのなかに、見知った顔もいた。
闇に飲みこまれていく彼らは、どこか切迫した表情をしていた。
つねに足りないものを探していて、それでいて見つけられない。そんな表情。
言いかえるならば、彼らは繊細だったのだ。闇を見つめていれば、己の闇に取りこまれやすい。それに耐えるだけの精神力がなかった。よけいなことを考えて、思考にとらわれて身動きがとれなくなる。そして、自身も闇となる。
彼らの雰囲気はよく似ていた。やさしく、穏やかな人。星の光をひとつひとつ数えるような人。だから自らを支えられなくなって、突然倒れていく。
自分はやさしくなどないし、あまい夢も見ない。だからこそ、まだ生きているのだろう。
やさしかったら両親の仲をとりもつだろう。両親が元通りになる、なんて都合のよい夢だって見ない。 あの離婚騒動を思い出しても、自分は価値のない人間だと何度思い知らされてもまだ生きている。失踪する気にもなれず、ただただむなしい気分になるだけだ。
今日の星雲は、やさしい色をしていた。きつい光ではなく、にぶく光る星のかけらたち。消えた彼らを思い出したのは、この光のせいかもしれない。
死んだ人間が星になるだなんて、たんなる幻想だ。ここには静寂しかない。暗い夜の底。死んだ人間が行き着く先が、この星の海だなんてふざけている。
星のパトロールをしている人間なら知っている。ここが幻想では生きていけないことを。
この世界に飛び込むのは自殺行為だ。
そんな人間を採用する上層部もわからない。実際に飛行に出ていない人間が採用活動をしているのだろうか。
ここには闇しかない。だから、パイロットは闇に飲まれていく。冷静に考えればわかりそうなことだ。
ロマンチストたちがパトロールの職にあこがれるのはわかる。しかし、あこがれはそのままにした方がよい。自分に引き寄せれば、それはその人を蝕んでいく。
思い出したように輝く星。まがまがしいほど不気味な赤、やわらかい銀色、目を焼くような白。さまざまな色があふれていて、そのどれもが闇に慣れた目には毒のように光る。自分の存在を知らしめるように。
ぼくたちの印象に残るように。
ぼくたちの首をしめるように。