和尚の教え :約2000文字
朝。とある寺の倉。重い扉が軋みながら開き始めた。
床に伏せていた男は、その音で目を覚まし、ゆっくりと顔を上げた。
「うっ……」と短く呻き、差し込んだ朝の光に目を細める。眩しさに滲む視界の中、入り口に立つ人影は逆光で黒く塗り潰されて輪郭が曖昧に溶けていたが、目が慣れてくるにつれ、その姿は徐々に形を現わしていった。
袈裟を着た初老の男だった。両手を前に組み、倉の中へ一歩足を踏み入れた。
「どうじゃ、気分は」
和尚は厳かに言った。
低く落ち着いたその声は、静まり返った倉の空気をゆるやかに震わせ、男の耳から脳髄の奥まで重く響いた。
「あ、あんた、あんたは……」
男は震えながら口を開いた。しかし喉は乾ききっており、その声は言葉になりきらず、途中で崩れ落ちた。
「わしはおぬしの仏」
「は……?」
「導き手。救い主。光。本尊。曼荼羅。菩薩。地球。法悟空」
和尚は淡々と言葉を並べながら歩み寄った。そして男の前に腰を下ろすと、その頭へそっと手を置いた。
男は泥棒だった。昨夜この寺に忍び込み、仏像や骨董品を盗み出そうとしていたのだ。
寺の一室には大きな金庫が据え付けられていた。黒くざらついた鉄の塊はところどころに錆が浮いており、長い年月を経た重厚さと人を寄せつけない威圧感を放っていた。
そのいかにもな雰囲気に、男は直感した。間違いなくこの中にお宝が眠っていると。
男は吸い寄せられるように金庫の前に進み、膝をついてダイヤルに手をかけた。
耳をぴたりと鉄扉にくっつけ、わずかな手応えを探りながら番号を合わせていく――しかし、その最中だった。
弟子たちに見つかり、あっという間に取り押さえられてしまった。縄で縛り上げられ、そのまま荷物のようにこの倉に放り込まれたのだった。
「わしを信じなさい」
和尚は静かに言った。
「仏の教えを知れば盗みなど馬鹿らしくなるぞ」
何を馬鹿なことを――そう言い返そうとした、その瞬間だった。
ふいに左目から涙があふれた。
男は困惑した。自分の意思とは無関係に熱い雫が頬を伝い、ぽたりぽたりと床へ落ちていくのだ。
反省などしていない。そう吐き捨てようとしたのに言葉は喉の奥で砕け、そのまま消えていった。代わりに込み上げてきたのは嗚咽だった。全身が勝手に震え、息が乱れ、視界が揺れた。
その様子を見た和尚は静かに頷き、男の頭を優しく撫でた。
大きく分厚い手だった。
その手に完全に打ちのめされた男は何度も頷いた。すすり泣く声だけが薄暗い倉の中へ染み込むように響き続けたのだった。
数日後。
男は寺の門前で、すっかり剃り上げられた頭をさすり、照れくさそうに鼻を鳴らした。
「おい新入り。手を休めるな。仏の教えを忘れるなよ」
「は、はい! いてて……」
頭に残るひりつきに顔をしかめながら、男はぎこちなく竹箒を動かした。乾いた音を立てて落ち葉が集まり、朝露を含んだ土の匂いがふわりと立ち上った。
そう、男は弟子入りしたのだ。
寺の一員として仏に仕え、教えを学ぶ生活が始まった。
寺の修行は厳しかった。朝は夜明け前に叩き起こされ、夜遅くまで読経が続く。掃除、炊事、薪割り、座禅、勉強、先輩からの指導。肉体にも精神にも容赦がなく、逃げ出したいと思ったことは一度や二度ではなかった。だが、そんなときには決まって和尚が現れた。何かを諭すわけでもない。ぐっと手を握りしめ、ただ静かに目を見つめるだけだった。
たったそれだけで体が震え、反抗心など失せていくのだった。
時が経つにつれ、男は寺の中で頭角を現していった。
新人の教育や信者への説法、さらには寄付の勧誘や新たな信者の獲得――寺の運営に関わる仕事の多くを任されるようになった。どれにおいても見事な才覚を発揮し、男は寺に欠かせない存在となっていった。
そして、さらに時が流れ――。
「……あっ」
「縛って倉へ押し込んでおきなさい。わしもすぐに行く」
「や、やめろ……!」
ある晩、金庫の前。男は弟子たちに静かに命じた。
泥棒は瞬く間に縄で縛り上げられ、そのまま部屋の外へ引きずられていった。罵声と足音が廊下の奥へ遠ざかっていく。
跡を継ぎ、和尚となった男は目を閉じ、その音に耳を澄ませた。すると、ふと昔の記憶が蘇った――あの日、取り押さえられてこの寺の倉へ放り込まれたことを。
今引きずられていった泥棒の姿がかつての自分と重なり、男は懐かしさに口元を緩めた。
やがて目を開き、金庫に向き直った。慣れた手つきでダイヤルを回すと、重い金属音を立てて扉が開いた。
「……確かに、盗みなど馬鹿らしい」
男は低く呟いた。
しばらく中を見つめ、小さく頷いた。やがて静かに扉を閉めると、肩を回し、両手の指をぽきぽきと鳴らしながら部屋を後にした。
金庫の中には、隙間なく詰め込まれた金の延べ棒が厳かな存在感を放っていた。




