いつか作りたかったチーズ ~異世界転生したチーズ職人、生乳と洞窟で夢を仕込む~
目が覚めたら、別の世界の、乳の匂いの中にいた。
わたしは前世で、乳業の工場でチーズを作っていた。十六年、製造の担当だった。殺菌した乳に、培養した規格の種菌を入れ、決まった温度で固め、決まった日数で出す。同じ味を、同じ早さで、いくつでも。狂いなく揃えることが、わたしの腕だった。
その腕が、この世界では、何の役にも立たないと、すぐに分かった。
村には、殺菌の設備がなかった。培養した種菌も、温度を計る道具も、何もなかった。牧人のウルカという老女が、朝に搾った山羊の乳を、桶のまま、わたしの前に置くだけだった。生乳だった。前世なら、法律で、そのままチーズにすることは許されなかった乳だ。
「これで、何か作れるかい」とウルカは言った。
作れない、とわたしは思った。殺菌していない乳は、危険で、扱えない。種菌がなければ、固める菌を入れられない。温度を計れなければ、工程を管理できない。わたしの十六年は、設備と規格の上に立っていた。その足場が、ここには、一つもなかった。
わたしは、自分の技が、この遅れた世界で、無駄になったのだと思った。
その夜、桶に残した生乳を、わたしは布だけかけて、小屋に置いておいた。捨てるのも惜しかった。
翌朝、桶を覗いて、手が止まった。乳が、わずかに、固まりかけていた。
酸の匂いがした。誰も種菌を入れていない。なのに、乳が、勝手に、固まる準備を始めていた。前世の常識では、あってはならないことだった。管理されていない乳で、勝手に何かが起きている。それは、危険の合図のはずだった。
けれど、その匂いを、わたしは、知っていた。
───
「ウルカさん。この乳は、毎日、こうなるの?」
「ああ、夏場はね。置いておくと、すぐ酸っぱくなる。傷むのが早くて、困ってたんだよ」
傷む、とウルカは言った。けれど、わたしの鼻は、別のことを告げていた。これは、傷んでいるのではない。空気の中の菌が、勝手に、乳に住みついている。前世で、大金をかけて培養した菌の、もっと雑多で、もっと豊かな働きが、この村の空気には、ただで漂っていた。
わたしは、作ってみることにした。ほかに、することもなかった。
まず、生乳を、ゆっくり温めた。竈の弱い火にかけ、桶を湯にあてて、じわじわと上げていく。前世なら計器が数字で教えてくれた温度を、わたしは、指で探した。指を入れて、人肌より少し上、混ぜると一瞬だけぬるく感じるところで、火から離す。急いではいけない。乳は、急かすと、舌触りが粗くなる。
温めた乳に、ウルカにもらった、山羊の胃から作るという凝乳の素を、ほんの少し溶いて、加えた。そっと混ぜて、布をかけ、動かさずに置く。
しばらくして、桶の中を、指の腹で、そっと押した。乳が、ふるりと、ひとつの塊になって、指を押し返してきた。固まっていた。前世で何百回と確かめた、あの手応えだった。設備が違っても、菌が違っても、乳が固まる瞬間の手触りだけは、同じだった。
固まった乳を、ナイフで、賽の目に切った。切った面から、淡い緑がかった乳清が、にじみ出てくる。大きく切れば水が残り、小さく切れば締まる。わたしは、作りたいものを思い浮かべて、やや大きめに切った。そっと混ぜながら、また少し温める。手を入れていると、賽の目の粒が、だんだん締まって、弾力を持っていくのが分かった。
粒を、布を敷いた型に移した。乳清が、布の目から、ぽたぽたと垂れていく。それを、ティルという村の子が、面白そうに覗いていた。
「それ、なに作ってるの?」
「チーズ。乳を、長く食べられる形に変えるの」
「いつ食べられる?」
「すぐには無理。ずいぶん、待つことになる」
水の切れた塊に、塩をすり込んだ。表面に、まんべんなく、指で。塩は、味のためだけじゃない。表面を締めて、悪いものが入るのを防ぎ、いいものだけを、ゆっくり働かせる。前世で覚えた理屈が、設備のないこの小屋で、はじめて、素手の作業になった。
形を、木の型で整え、軽い石を載せて、ひと晩、圧した。
「涼しくて、湿ったところは、ないかしら」と、翌朝、わたしは聞いた。
ウルカは、村のはずれの、岩屋を教えてくれた。
───
洞窟は、夏でも、ひんやりと冷たかった。
奥に入ると、空気が湿って、土と石の匂いがした。年中、温度も湿りも、ほとんど変わらないのだという。ウルカが、冬の保存に使ってきた場所だった。わたしは、塩をすり込んだチーズを、板に載せて、その岩棚に置いた。
前世で、こういう庫を、会社は大金で作ろうとしていた。温度と湿りを機械で一定にした、熟成庫。それを、この村は、岩屋ひとつで、ただで持っていた。
あとは、待つしかなかった。けれど、待つ、というのも、ひとつの工程だった。
わたしは、何度も洞窟に通った。チーズの表面を、薄い塩水を含ませた布で、そっと拭く。持ち上げて、上下を返す。下になっていた面の湿りを、上に回してやる。返さなければ、片側だけが湿って、傷む。表面には、うっすらと、自然のカビが生え始めていた。前世なら、雑菌だと言って、捨てたかもしれない。けれど、その白い膜は、いい匂いがした。乳と、土と、時間の混じった匂いだった。
ある夜、洞窟の冷たさの中で、わたしは、ふと、前世の、若い頃のことを思い出した。
わたしは一度、一つの企画を、会社に出したことがあった。生乳を、自然の菌で固め、洞のような庫で、半年、一年とかけて熟成させる、昔ながらのチーズ。図面も、レシピも、何度も引き直した。理想の断面まで、絵に描いた。旨味の粒が、じゃりと音を立てる、深い飴色の断面を。
通らなかった。
生乳は、法で許されない。菌は、規格のものでないと安全が保証できない。半年も寝かせては、回転が悪い。上司は、悪い人ではなかった。ただ、現実的だった。お前の作りたいものは、分かる。だが、うちでは無理だ、と。
わたしは、その図面を、引き出しの奥にしまった。そして、規格品を作り続けて、前世を終えた。
岩棚のチーズを、わたしは、返してやった。冷たい皮が、手のひらに、ずっしりと重かった。
───
三月が過ぎ、半年が近づいた頃、わたしは、最初の一玉を、洞窟から出した。
ずっしりと、重くなっていた。表面は、灰色がかった自然の皮に覆われ、乾いて締まっていた。指で叩くと、低い、詰まった音がした。中身が、ちゃんと熟れている音だった。
小屋に戻って、ナイフを入れた。皮の下から、淡い飴色の断面が現れた。ところどころに、白い、小さな粒が見えた。指でなぞると、じゃり、と、かすかに音がした。長く熟成したチーズの中にだけできる、旨味の結晶だった。前世で、何度も憧れて、けれど自分の手では一度も作れなかった、あの粒だった。
ひとかけ、口に入れた。
わたしは、しばらく、動けなかった。
舌の上で、味が、幾重にもほどけた。生乳の甘みと、自然の菌が作った深い香りと、半年の時間が育てた旨味が、層になっていた。塩は角が取れ、後味に、土の冷たさと、乳の遠い甘さが残った。
わたしは、その味を、知っていた。
これは、前世で、わたしが作りたかったチーズだった。図面に描き、会社に却下され、引き出しの奥にしまった、あのチーズだった。断面の、旨味の粒の音まで、絵に描いた通りだった。
手が、震えた。
生乳。自然の菌。洞窟の庫。半年の時間。前世の会社が、危険だ、規格外だ、非効率だ、と言って、一つずつ却下していった条件。そのすべてが、この、遅れていると思っていた世界には、最初から、当たり前に、揃っていた。
わたしの知識は、遅れていたのではなかった。縛られていただけだった。設備と、規格と、回転率と、法律。前世の正しさが、そのまま、わたしの理想を禁じる檻になっていた。その檻が、ここには、なかった。それだけのことだった。
わたしは、何も新しいことをしていない。十六年の腕も、若い頃の図面も、全部、前世のものだ。ただ、この世界が、それを縛らなかった。それだけで、わたしの手は、ずっと作りたかったものを、作っていた。
───
「ハナ、できたの?」
ティルが、小屋を覗いていた。わたしは、涙を拭いて、ひとかけ、皿に載せて、差し出した。
ティルは、口に入れて、目を丸くした。
「なにこれ。……すごい。世界一、おいしい」
世界一、とティルは言った。
その言葉が、前世で却下された企画への、半生越しの答えのように、わたしには聞こえた。けれど、ティルは、何も知らない。これが、誰かの叶わなかった夢だったことも、別の世界の引き出しの奥で眠っていた図面のことも、知らない。ただ、おいしい、と言って、もうひとかけ、ねだった。
それで、よかった。夢は、誰かに分かってもらうために叶えるのではない。ただ、叶うべきものが、叶うべき場所で、叶う。それだけのことだった。
わたしは、ウルカに、明日の朝の乳を、少し多めに頼んだ。次の一玉を、仕込むためだった。あの図面には、まだ、試していない工程が、いくつも残っている。生乳を変え、塩を変え、熟成を延ばす。急ぐ理由は、もう、どこにもない。この世界には、わたしを急かすものが、何もないのだから。
洞窟の岩棚には、まだ、いくつものチーズが、静かに、時間をかけて、熟れていくところだった。
前世では、届かなかった。
でも、たぶん、来年の冬には、もう少し、いいものになっている。
(了)




