1-2
あのあと詩音と別れて、僕は家に戻ってきていた。
「ただいま」
玄関で靴を脱ぎながら家の中に声をかける。
「あ、拓海。おかえり」
リビングの方からちょこんと顔を出したのは、姉の七海だ。
後ろ髪をくくってエプロン姿だから、キッチンの方で料理でもしていたのかもしれない。
七海はすっと背が高くて、僕と同じくらいの身長がある。たぶん女子としては高い方だと思う。さっきまで会っていた詩音と比べると、同じ女性でもずいぶん身長差があるななんて考えていた。
特に七海は若干歳が離れていることもあって、余計に大人びて見える。どこか幼さを残した顔つきをしている詩音とは対照的だ。
「なに。じろじろみて。もしかしてお姉ちゃんに惚れちゃった?」
「ばかいわないで。姉に惚れるわけないよ」
溜め息と共に答えるけれど、七海は心底あり得ないという顔をして僕を見つめていた。
「え、でも拓海はシスコンだと思うんだよね。だって、こんなに綺麗なお姉ちゃんがいたら、他の女の子になんて目がいかないのが普通だと思うし」
「あのなぁ」
「でもお姉ちゃん、綺麗でしょ。拓海の好みストライクでしょ」
「あー、もう。綺麗綺麗。これでいいかな」
「だめ。感情こもってない。やりなおし」
にやけた顔で告げる七海に、僕は思わず溜め息をもらす。
僕がつい女の子に綺麗だの可愛いだの言ってしまうのは、七海のせいだ。七海が綺麗だと言うまで離してくれないから、つい女子は褒めるくせがついてしまった。
おかげで軽い男だと思われていて、あまり他の女子からは相手にはされていない。褒める言葉も言い過ぎは逆効果ということだろう。
「姉ちゃんは綺麗だよ。すごく可愛い。他とは比べものにならないくらい可愛い」
仕方なく褒めちぎると、やっと満足したのか七海はうなずく。
「そうそう。やっぱり拓海はお姉ちゃんに夢中だよね」
「はいはい。もうそれでいいよ。シスコンですよ」
呆れ顔で僕は七海の横を通り抜けていく。七海といると毎回こんなやりとりばかりで疲れる。まぁそうは言っても七海は姉だし、嫌いにはなれないのだけれど。いやそれどころか頭すら上がらないのが本音だ。
「……あれ、拓海。誰か女の子と一緒にいた?」
「え、なんで」
「知らない女の匂いがする」
動物かっ、と思わずつっこみそうになる。本当に犬か何かなんだろうか。
「だれだれ、誰なの。これ凪ちゃんの匂いじゃないし」
「凪の匂い覚えているのか……」
呆れて物も言えない。たぶん七海は大学を卒業したら警察になった方がいいと思う。警察犬として、きっと役に立ってくれるだろう。
「で、誰なの。どこの女の子と遊んできたの」
「人聞きの悪いこと言わないで。まぁ、確かに女子と会っていたのは確かだけど」
まったく七海がこういう感じだから、僕は軽い男のように見られているんだと思う。実際には女の子とつきあったことすらないっていうのに。
なんだ。自分で言っておいて、なんか目がやけに染みる。誰かタマネギでも切っているのか。辛い。
「七年前に一緒に遊んでいた女の子と偶然再会したんだ。それで少し話し込んでいただけだよ」
事実をありのままに告げる。まぁ、明日も会う約束をしていることは秘密にしておこう。七海に知られると、なんかうるさそうだ。もっとも七海は何も言わなくても、いろいろと突っ込んで訊いてきそうだけど。匂いに気が付くくらいだし。
「七年前……の女の子?」
しかし僕が思うのとは裏腹に、七海は急に何か考え込んでいるようだった。
「そうだけど、それがどうかしたの」
僕は七海に尋ね返すけども、七海は無言のまま何も答えない。
いつもの七海と違う、どこか神妙な顔に何となく不安を感じて、思わず七海の顔をのぞき込んでいた。
「なに? どうしたの?」
「ああ。ううん。何でも無いよ。七年前って言ったら、まだ拓海が小学生三年生だなって。あの頃の拓海は可愛かった。お姉ちゃんお姉ちゃんって、私の後をついて回っていた頃だよね」
「……黒歴史だ」
確かに少し歳の離れた姉は、僕にとって母親代わりのようなところもあった。幼い頃に母を亡くしてしまっているだけに、いつも姉である七海の後ろをついて回っていたと思う。
実際今でも七海には感謝している。僕がこうしてのんきにやっていけるのは、七海が家事全般を引き受けてくれていることもあるだろう。
大学に通いながら、留守しがちな父親を支えて、掃除洗濯食事の準備まで、全ての家事をまかなっている七海は僕にとって頭が上がらない相手でもある。
もちろん僕も出来ることはなるべく自分でやろうとは思っているのだけれど、基本家事に関してはポンコツな僕は、せいぜいチャーハンかカレーくらいしか作れない。掃除洗濯は何とかなるにせよ、食事の準備はほぼ完全に七海任せだ。掃除洗濯だって実際にはほとんど七海がおこなっている。それでは頭もあがらないのは当然だし、七海に可愛いと言えと言われたら、もう言う通りにするしか選択肢はない。
母を亡くしたのは僕がもう少し小さい頃、小学生にあがったばかりの頃だった。
当時まだ中学に上がったばかりの七海は、それからというもの母の代わりを務めてきていた。僕はもちろん父にとっても、感謝以外の言葉はないだろう。
つい七海相手にぶっきらぼうな言葉遣いになってしまうのは、そんな気持ちの裏返しなのかもしれない。まぁちょっとばかりうるさいところがあるせいもあるだろうけど、母親に反抗してしまうのと同じような気持ちなのかもしれない。
父は現役の警察官だ。父は警察という仕事には誇りをもっているし、僕もそんな父を誇りに思っている。だけど警察と言う仕事はとにかく忙しい。事件があれば非番でもかり出されるし、昼夜問わず仕事がある。だからこそ七海が僕達家族を支えていたと言ってもいい。
そんな相手に逆らえるものだろうか。いや、ありえない。
だからこそ僕はいろいろ言いながらも、七海に言われれば褒め称えるもするし、たぶん一生頭が上がらないだろう。
「七年前か」
再び七海がつぶやく。
「なんだかあっという間だったね」
年寄りめいたことを言うと思う。
七年前は僕にとっては相当昔のことだ。正直もうあの頃の記憶はほとんど残っていない。
でも七海にとっての七年は、本当に忙しい七年だったのかもしれない。
学校にも行きつつ、家事全般を担って、それでいてなんだかんだでそれなりの大学にも通っている。かなり大変な日々だったのかもしれない。それだけに時間の流れが速く感じているのかもしれなかった。
これからは七海に少しくらい恩返しをしなくちゃなとも思う。
「あ、いけないいけない。鍋に火をかけたままだった。今日の夕食はシチューだからね」
七海は慌ててキッチンの方へと戻っていった。
言われてみればキッチンから少しホワイトシチューの甘い匂いがしているような気がする。
「まさか、そんなことはないよね」
何があったのかキッチンの向こう側から、七海の小さな声が聞こえてきていた。
「どうしたの」
「何でも無いよ。シチューもうできるから、ご飯にしようね」
七海の言葉にお腹の音が鳴っていた。確かにお腹はかなり空いている。
言葉通りすぐに七海はシチューを運んできていた。
「拓海はシチュー好きだったよね」
白いとろりとしたルーの中に、橙色のにんじんと透き通るような玉ねぎが覗いている。じっくりと煮込んだ鶏肉が美味しそうに食べてくれと主張していた。
どこか懐かしい気がするのは、僕の気のせいだろうか。
「いただきます」
言葉にするが早いか、すぐにスプーンを口に運ぶ。温かなコクのあるルーの中から、ミルクとバターの風味が感じられる。まるで溶けそうなほどに柔らかい鶏肉のうまみが、口の中いっぱいに満たされていく。
たぶん別ゆでして色味を出さないようにしたほうれん草は、鮮やかな緑色で存在を主張していた。口にすると優しい甘みを引き出していて、他の具材たちのうまみも包み込んでいく。
だけど重なる甘みの中で、黒こしょうがぴりりと僕の口腔を刺激してアクセントになっている。
いつ食べても七海のシチューは美味しい。
シチューは夏に食べるものではない気もするけれど、冷房のきいた部屋の中で食べる熱々のシチューもまた粋な物かもしれない。
ただとても美味しいシチューだったけれど、食べていくうちに、何か忘れ物をしたような気持ちを思い起こさせていた。
だけど心の中に引っかかる何かは、すぐに優しいうまみにかき消されていった。